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第七章 第一回海外留学生派遣

明治八年、海外留学生を派遣する事になります。派遣は十名と決まりますが、海外留学派遣に向けて最も運動をしていた斎藤修一郎が選に漏れる事がわかると、彼は選抜されている三浦和夫(後の鳩山和夫)より自分は人物が上だと運動を始めるのですが…すったもんだの末の結末は?

 年が明けて明治八年となった。東京開成学校の冬季休暇は十二月二十六日から一月七日である。来月二月十六日には九月十一日に始まった第一学期が終わるのであるが、期末試験が待っている。正月気分もそこそこに学生達は勉学に忙しい。豊太も机に噛り付いてノートを広げていると、古市が「石藤君、励んでおるな」と声をかけて機嫌良さそうに部屋に戻って来た。この先輩、試験があると言って特別勉強するという姿を見た事が無い。どころか、普段の勉強においても講義を終えて寄宿舎に帰ってから豊太などに限った事では無いが、学生達は講義ノートを整理するだけでも二三時間を費やすのが普通で、また級友間で講義ノートの貸し借りをしてやっとその日の講義を理解するのであるが、古市はせいぜい一時間を超える事は無くいつの間にか趣味である謡曲の練習に励んでいるのである。それでいて常に成績は一番なのであるが、それに満足しているような事は無く、むしろ最高学府として東京開成学校と名称は変わっても大学とは程遠い外国の模倣に過ぎない現状を憂い改革を身悶えするように意識し学校にも訴えていた。その志は法学科の斎藤修一郎と小村寿太郎、化学科の長谷川芳之助、鉱山学科の安東清人とともに五人組を組織して極秘にある運動を進めていた。その古市達の極秘運動は豊太も知ってはいるのであるが、極秘という事で知らないフリをしていた。

「嬉しそうですね、何か良い事があったのですか?」

「ああ、やっと目途がついたのだ。実は内々秘かに運動していたのであるがもう君達にも話して良いだろう、君たちの将来の為にもきっと役立つ事なのだ」

 古市達にとっての極秘の運動が実を結ぼうとしているらしい。それは豊太も大いに関心があって「出掛けておられたのは、小村さん達のところだったのですか?」と、つい口が滑った。

「あ、ああ。察しが良いな」と、訝しそうな表情ではあったが、もう我慢が出来ない様子で「実はな、開成学校で海外留学生を派遣する事になりそうなのだ」と胸を張った。

「それはおめでとうございます! すると古市さんは当然留学生に選抜されるのですよね」

「いや、まだそうと決まった訳では無いのだが……。石藤君、どうも我々五人の運動を知っておったのか?」

 知らないふりなど出来る豊太でもなく、「ハイ」と答えるしか無かった。古市自身が運動を始めた当初、隣室の安東清人のところで「これは秘密だからな」と前置きして密談をしている内容を同室の橋爪源太郎が聞いていて、あっという間に噂が広まったのである。ただ、本人達の悲壮な決意を慮って皆が「知らぬフリ」をしていただけであり、留学の事は学生共通の願いでもあったので、秘かに共感していたのである。

「なんだ、そうだったのか」と古市は少し拍子抜けした様子であった。

「しかし、聞くところによると寄宿舎長の濱尾さんや九鬼さんが反対だったのでしょう?」

「そうだ。廃藩置県以降も藩の留学生費用を政府が引き継いだのであるが、大学南校当時と同じように玉石混合、堕落者も多く政府は九鬼隆一を欧米諸国に派遣して調査した結果、日本人の評判を貶めている連中も多く、ついに留学生に学資を送る事を廃止したからな」

「よく説得できましたね」

「学資を止めれば留学生は戻って来ると踏んでいたのだが、そうはならなかったようだ。学費を止められても彼らは遣り繰りして彼の地に留まったのだ。そのような状況が続いておった所に我々五人の留学運動が始まった訳だ」

「ははあ、風向きが悪かったのですね」

「そうなのだ。九鬼隆一も我々五人の留学運動に理解を示すようにはなったのだが、本丸である文部省は留学生淘汰の基本方針は変えてはおらなかったので中々難儀した」

「土曜日と日曜日、古市さんが外出されていたのはこの運動の為だったのですね」

「ああ、濱尾も九鬼も文部省の役人だから、彼等から本省に進言させ、我々五人組も直接乗り込んで談判を続けたのだ」

「その結果、遂に留学の目途が立ったという事なのですね」

「ああ、『本科卒業生生徒中最モ高弟ノ者は海外ニ留学セシムルアルベシ』となり、留学生の人数も決まった」

「では、成績優秀な者という事であれば、古市さんは諸芸学部本科成績一番ですから選抜されるのは間違い無いですね。いや、諸芸学部後輩としても嬉しいですし、私も将来海外留学が出来るのであれば励みにもなりますよ」

「選抜はこれからなのだが、内々では都合十名を派遣する事になりそうだ。法学部三名、理化学部三名、工業学部二名、鉱山学部一名に諸芸学部一名となりそうだ」

「運動をされた五人の方は皆さん選抜されそうですね」

「いや、それがな……」と、古市が言い淀む。

「選抜から漏れる方が居られるのですか?」

「法学部の成績順三名と云えば、三浦和夫、小村寿太郎、菊池武夫の順番なので、斎藤修一郎が選抜から漏れる」

「え、あの斎藤修一郎さんが……」と豊太も絶句し、斎藤修一郎の気性を考えると唯では済まない予感が湧いて来た。何しろ越前武生藩時代、武田耕雲斎事変と呼ばれ天狗党が京都に向けて進軍する途次、武生藩にこれを阻止するよう幕命が下った際に十四歳であった斎藤修一郎は自ら従軍を志願し、実際には丁年に満たぬ理由で従軍は許されなかったがいざとなったら城を枕に討死の覚悟を決め殿中の警護を固めた熱血漢であり、それは大学南校に入学してからも変わらず、敵を作る事を覚悟のうえで学生淘汰の大学改革を率先して進め、また御前講義にも選抜される程の俊英であり、その堂々たる英語の講義は豊太の記憶にも新しい。体中から発せられる強烈な自負心は豊太など下級生にとっては近寄り難い存在でもあり、とにかく自分が一番でなければ気が済まない気質なのであろう事は容易に想像出来た。

「でも、まだ決まった訳では無いのですよね」

「ああ、二月の試験が終わってから最終的には決まるようだが、斎藤にとっては厳しいだろう。困った男だ」

 古市の話では、三浦和夫は留学生として相応しくないと運動を始めたらしい。

 美作勝山藩の江戸屋敷で生まれた三浦和夫は、在京のまま貢進生に選抜され大学南校に入学した。記憶力抜群に加えて勉強家であった彼は常に法学部の主席を占め、皆から一目置かれる存在ではあった。が、その事が例えば小村寿太郎のように人から頼られ、また学校と生徒の間で問題があると生徒側の代表者となって問題解決の折衝に当たるといった人物ではなく、向う気の強い猪武者の多い法学部の中では珍しく上品で、外出する際は柔らかな絹の着物を着込み銘仙の羽織を引っ掛けて出掛けた。斎藤修一郎などは、常々これを苦々しく思っていたらしく、自分とは正反対の軟弱者と決めつけていた。彼に言わせれば「国家の大事を背負って立つべき器ではない」となるのであった。舎監の濱尾や九鬼を始め、文部省の要路者に「学力のみを標準として留学生は選ばれるべきでは無く、その人物を考慮に入れるべし」と働きかけ三浦和夫の排斥に動いたのである。

「それは確かに」と言って、古市の話に「困ったものですね」と豊太は二の句を飲み込んだ。 

古市に言わせると、三浦には斎藤の言う「国家の大事を背負う」気概があると断言する。その少年期すでに「国民を護るものは国家である。国家は法律である」と感じ英語を独習し法学を志したそうで、大学南校時代の茶話会で彼が「ローマの元老院制」についての見解を披歴したのだが、西欧諸国の政治体制の研究と洞察には聞いていた連中は皆舌を巻いたそうで、古市もその一人である。三浦は群れる事が苦手で超然としていたが為に、大方の者は彼に積極的に近寄ろうとはせず勉強が出来る分妬ましく思う者が大半で、彼の上品さを軟弱者と決めつけ留飲を下げていただけで、当の本人はそういった周りの目など頓着するような性格では無かった。ただ斎藤は何としても留学生に選抜されたいが為にそういった三浦に対する周囲の評価を、声を大にして訴え、自らの硬骨こそ国を代表する留学生として相応しいと運動しているのである。

 斎藤の行動を支持する気持ちは皆無であったのだが、将来自分も海外留学生として選抜されたいという一つの目標が定まった気がした。「海外」という響きは日本と言う島国の若者が持つ憧れでもあった。「人物を考慮すべし」と言う斎藤の下心は別としてもそれはその通りと思ったので、古市を始め、選抜されるであろう諸先輩に積極的に接し見習う所は吸収して糧にしようとも思った。年の差、例えば安政二年生まれの杉浦や小村などは安政六年生まれの豊太より四歳年長であるが、十代のこの年齢差は途方も無く大きな差として感じていたし、年齢差以上に人物の大きさは将来自分があの年齢に達した時を想像してみてもとても及ばないと感じていた。

 二月の試験が終わると、学校は三日間の休暇となる。試験から解放され、夕食後に豊太は寄宿舎の玄関先で笛を吹いていた。開成学校でも「笛吹きの名手」と言われていて、彼の趣味でもあり素人離れの腕を持って居た。日が暮れると流石にまだ寒く、そろそろ部屋に戻ろうかと思っていたら小村寿太郎ら法学部の連中数人が外出から帰って来て「石藤君、大福でもどうだ」と小村に声を掛けられたので一緒に中に入って行った。留学候補生の小村の普段の人格に接する好い機会とも思ったので否は無い。

「寒いから、大福が冷えてしまった」

 小村はそう言いながら、食堂のストーブに陣取りその上に小遣い銭でしこたま買い込んだらしい大福を載せて焼き始めた。「中山、お前も手伝え」と、同輩の中山寛六郎を指名して二人で焼き役を勤め「ほら、まずは石藤君」と、最初に焼き上がった大福を豊太に手渡した。

「ありがとうございます」と、年少でもあり集まった連中の中では客分のような感じでもあったので豊太は遠慮なく受け取った。その後も、甲斐甲斐しく中山と二人で、大福をストーブの上で焼いては周りの連中に配るのを見て、(成程、流石は小村さんだ。見習わなくては)と自分を二の次にして焼き役を務める小村を感心しながら眺めた。しかし皆育ちざかりの胃袋である、我先にと手を出し、そのうち通りかかった者数人も仲間に入れろとばかり集まって来て、しこたまあった筈の大福も小村の手元に残り三個となってしまった。この三個がストーブに載せられた時にはストーブを取り囲む餓狼のような連中も残りは小村と中山の大福だと遠慮するような雰囲気となった。豊太は、三個あるのだから、きっと小村は二個ほど中山に渡すのでは無いか、そういった気遣いをさり気なく見せる姿を想像した。が、次の瞬間その期待は見事に裏切られた。じっと焼ける様子を凝視していた小村がいきなり自分の唾を三個の大福餅の上にベタベタと塗りたくった。

「どうだ中山! この大福餅には俺の唾液が付いている、貴様はそれを食べる事は出来まい」

(高潔な人格者……)という小村に対する評価が豊太の頭の中で音を立てて崩れて行った。同時に斎藤修一郎と五十歩百歩では無いかとこの瞬間思った。哀れなのは中山であろう、一緒に甲斐甲斐しく小村と大福餅を焼いていたのであるのにご相伴に与れないのだ。が、流石に全国の精鋭を集めた天下の東京開成学校である、当の中山はそれに怯む事無く、すぐさま一計を案じたたらしく涼しい顔でその唾のついた大福餅をむんずと掴み、唾のついていない裏面からパクリと餡子ごと三個とも平らげ、残った唾のついた餡子の無い大福餅の皮を小村に突き出し、「これは、貴様が唾をつけた部分だから、小村、貴様食え」とやり返した。

 小村に返す言葉は無く、周りの連中も顔を見合わせて笑いを堪えていた。豊太も、小村の人格は見習うまいと心に誓った。

 結局、留学生派遣は斎藤修一郎の強烈な運動に文部省も折れたのであろうか、法学部からは四名の派遣に変更となり斎藤が選出された。ここに東京開成学校海外留学生十一名のうち古市はフランスに、安東はドイツに、他の九人はアメリカに向けて八月末勇躍海外に向けて派遣の途に就いたのである。

 古市公威はフランスの中央工科大学エコール・サントラルに入学、工学士の学位を取得し、パリ大学理学部で理学士を取得して明治十三年に帰国。明治十九年帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)初代学長、明治二十七年には内務省初代技術技官となるなど近代日本の土木技術の発展に八面六臂の活躍をする。余談ながら、三島由紀夫の本名「公威」は、内務官僚であった祖父の平岡定太郎が薫陶を受けた古市にあやかり名付けたそうである。

 三浦和夫はコロンビア大学、斎藤修一郎は小村寿太郎と供にハーバード大学に入学した。斎藤が三浦和夫を敵視していたかと云うと全く反対で実は三浦を一番評価していたのは斎藤かも知れない。斎藤は明治十三年に帰国すると外務省に入り長州閥である外務卿井上肇の知遇を経て出世を重ね不平等条約の改正に二人三脚で心血を注ぐ事になるのだが、同じ頃帰国した三浦は東京大学の講師となったが間もなく辞めて弁護士として糊口を凌いでいた。ある日井上が斎藤を呼んで「鳩山を使って見ようと思うがどうか?」と問い質すと斎藤は「それは至極よろしうございましょう」と一も二も無く賛成したところ、「では明日にでも彼を連れて来てくれ」と話が進んだ。そこで斎藤はここぞとばかり「前もってお断りしておきますが、三浦は大学南校以来常に成績は法学部一番であり、到底私以下の地位では承諾いたしますまい。一体いかなる地位に御使い下さる御所存にや」と問うた。斎藤は僅か二年の間に権少書記官から権大書記官に昇進していた。そして井上から「よし、それでは彼を君と同様権大書記官にしてやろう」と言質を取り、さっそく二人を会見させ、取調局長の地位に就けた。後の第六代衆議院議長鳩山和夫であり、長男一郎は昭和二十九年第五十二代内閣総理大臣となる。

 小村寿太郎は明治三十四年、四十七歳で第一次桂内閣の外務大臣に就任し、日露戦争終結に向けて全権大使としてポーツマスでロシア全権ウイッテと交渉し条約を締結し終戦に導いた事はよく知られている。明治十三年に帰国したが、父親が事業の失敗で負債を抱えて家は没落、残された負債は長男である寿太郎が背負った、その額二千円余であった。司法省に勤めていたが役所にも借金取りが押し寄せる状況で、家財は勿論、衣類も質屋に売り飛ばされ傘も無いので雨の日は濡れて歩くほど貧しく、おまけに結婚した妻は家庭を一切顧みず不仲であった。それでも明治二十五年に翻訳局長に昇進し昇給もするのだが、借家を家賃滞納で追い立てられ、引っ越し先は庇も傾いた廃屋と見間違える借家で、ボロボロに着古した一張羅のフロックコートに長靴で通勤する有様であった。当時小村の月給が百五十円で負債額は一万六千円、月給を全て返済に充てても利息に追いつかない状況で、見かねた杉浦重剛や菊池武夫ら七人が連帯保証人になって奔走し債務を弁済したのだが、これほどの借金を小村の為に懸命になって奔走する姿は、自分達の前から姿を消した木村彰太郎を心配し続け、卒業してなお消息を訪ねて彼の為に何かしてやりたいという想いと同じくその絆は色褪せる事は無かったのである。

さすがに旧藩選抜の貢進生連中は癖が強いですね♪次回は、第一回海外留学生を見送った杉浦たちが今度は自分たちもと運動を始めます。

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