第六章 東京開成学校
開成学校は東京開成学校と名称を変え、仏学部に在籍する石藤豊太は英学部への転籍を余儀なくされ、英語を一から学ぶ日々を過ごします。ある日英学部の俊才小村寿太郎が体格が似ているからかベースボールで豊太と親交が深まります。のち外務大臣となり日露戦争講和交渉の全権を担う小村寿太郎の若き日のエピソードです。
明治七年五月、開成学校は名称に東京が加わり『東京開成学校』となった。学生達はこれまで通り変わらずに開成学校と呼んだのだが、しかし、豊太にとっては学校の名称変更どころでは無かった。学科の再編も同時に行われ、仏学部は物理学科と天文学科のみとなり、豊太の専修は化学の為、英学部へ転じなくてはならなくなった。この年は佐賀で江藤新平が乱を起こし、また台湾出兵など世の中が戊辰の戦から十年も経たないうちに再び騒然とした空気が流れると、血気盛んな面々を中心に政治談議を盛んに行っていたが、豊太はそういった議論に加わる事は苦手でもあり、兎にも角にも英語の履修に余念が無かった。
政治談議好きの連中は、小村寿太郎の部屋によく集まった。日向飫肥藩出身で、更進生制度を建白した同藩の小倉処平が強く推薦して更進生として十六歳の時上京して来た俊才である。大学南校英之部に入学してからは常に成績上位で仏之部の古市同様級長でもあった。同じ学部で成績優秀という点では三浦和夫(後に鳩山和夫)に一歩譲っていたが、人物が堂々としていてすでに老成家の風があって人望も厚く、杉浦重剛とは頻繁に交わりを持つ仲でもある。前年の明治六年は征韓論が盛んになって西郷隆盛が下野した時、「思うに内乱の起こる遠きにあらざらん。而して内乱の結果は多くの兵丁を殺し、糧食兵器を失はざるざるべからず。若かず、此の兵丁と糧食兵器を以て一挙して朝鮮を討伐せんには」と、この時すでに後の西南戦争を予期していたと後年杉浦は述懐している。学校と生徒との間に何か問題が起こると彼は常に選ばれて生徒側の代表者となり問題解決の交渉に当たった。
英語を一から学び直す豊太からすれば、そのような小村は自分とはあまり縁の無い存在のように思っていたのであるが、杉浦が声掛けしたものらしく、学校で流行り始めたベースボールにも顔を出して一緒に楽しむようになった。
「君、ちょっとアドバイスしてくれないか?」
豊太はよく小村に声を掛けられた。どうやら、同じ小柄な体系である豊太に親近感を持ったらしく、しかもよく打ちよく守る様子に「自分も出来る」と思われたようでもある。この日も試合を始める前に「小柄な君が、大柄な連中に劣らない打球を打てるコツ」について聞いて来た。
「恐らくですが」と前置きし「速くバットを振るには、力で劣る分短く持てば、大柄な者に負けない速さで振れるようです」と、バットの柄の部分から掌一つ分短く持って打つように心がけているとアドバイスした。小村はそれを聞いて自分でも拳一つ分短く持って素振りをしたところ、「ブン」っと、これまでと違った音を立てたので、さっそく試合で試したところ、快音を残して打球が遠くに飛んで、打った回数分走り回った。試合が終わってからもベースボールの話をしたかったのか、豊太は杉浦と共に小村の部屋に招かれ「リンカーンの気持ちが分ったよ」とまるで自分が大統領になったつもりなのか胸を張った。豊太が差し出された煎餅を齧りながら、小村の机にある写真に目を止めた。
「誰だか分るか」と、杉浦がその写真を手に取り「裏が傑作なのだ」と、豊太に渡した。
「友人小村寿太郎君に呈す、大隈重信……。ええ!」と、驚きの声を上げると、期待通りと云う表情で杉浦がニヤリとする。「大隈重信と云うと、あの大隈参議の友人なのですか? 小村さんは」と問いかけるのも予想通りであるらしい。
「小村が自分で書いただけだよ」と、杉浦が種明かしをする。この当時、政治家の写真がブロマイドのように売られていて、小村がそれを購入し机に飾っているらしい。「参議の小村という綽名はこの写真からなのだ」とも付け加えた。
大学南校は各藩の俊才を東京に集めて最高の洋学教育を施し、日本の将来を担う人材を育てる事を目的として開設されたのであるが、当初は強烈な藩意識がお互い気を許さない風が支配し反目し合ってもいた。しかし同じ学び舎でしかも同じ釜の飯を食べ過ごすうちに気心知れた者同士が飯屋に繰り出し、旅行に出かけて見聞を広め、カルタ遊びや相撲などに講じて行くうち藩を超えた連帯感が程なく生まれた。気を許す者同士が繋がりを持ち、議論しその中から斎藤修一郎を中心とした学校改革もその表れである。開成学校となり海外留学から帰国した濱尾新が学校監事に就任すると米国の学校自治制度を持ち込み学生にその運営を任せると、学校の諸問題解決には学生が討議して決めるようにもなり、もともと「やかましき」学生達の議論に拍車がかかった。小村はその「やかましき」中でも中心的な存在であった。
「小村さんは、将来参議を目指しておられるのですか?」
大隈の写真を膝に豊太は聞いた。明治の世に生きて行く自分の将来を展望する上でも先輩の考えは聞いておきたいところでもある。
「大隈位のことは自分でも出来る」と、小村は臆することなく答えた。
官軍となった薩長土肥のうち肥後国佐賀藩の出身で、英国公使パークスと対等に交渉し、明治元年外国官副知事を皮切りに翌年には大蔵大輔、更に翌年には参議となった。政府内でも急進派で、近代化政策を次々打ち出し、電信の敷設、灯台の設置、富岡製糸場を設立するなどインフラ整備を推し進め、新橋と横浜を結ぶ鉄道を開通させたのは彼の力に依るところが大きい。その大隈をまるで格下のように扱う自信はいったいどこから来るのか分からないが、小村の口から出てくると、確かに将来は大隈以上の政治家になるようにも思えるから不思議である。一介の書生という身分では同じなのだが、その気宇の壮大さは年の差も手伝って豊太も愉快な気持ちになる。が、正直小村のように参議になりたいとは思ってもいない、住む世界の違いも感じるのである。しかし、その気概は伝染する、何だか分からないけれども「よし自分も」と負けん気に火が付く。
「大隈位とは良かったな」と、杉浦が手を叩く。
「事実、そうなのだから仕方なかろう」と小村の鼻が天井に向けられたのだが、「ところで、上級生と下級生との交わりの会を計画していたが、賛同者する者はどうだ?」と、杉浦の前では大隈ネタは出し尽くしているのか話を変える。杉浦が率先して上級生と下級生の交流を図ろうとしている計画を小村は問い質した。
大学南校から二年が経ったこの頃、学生間の融和は徐々に図られてはいたのであるが、それは同級生間に限られ、上級生と下級生の間はお互い反目し合っていた。上級生は横柄尊大に下級生に対し、下級生はそんな威張る上級生にわざわざ頭を下げて交際を求める必要は無いと超然主義を掲げていた。杉浦は、そのような風潮は嘆かわしい、学校とは本来上級生下級生お互いが切磋琢磨すべきであるとして、これを打破する為にはお互いが交際を深める場が必要であると有志を募っていたのである。
「君にも動いてもらったおかげで、賛同してくれる者が思っていたより多いのだ。心強い限りだ」
「いや、そこは声を上げたのが杉浦というのが大きいのだ。君の言うところを思いつく者は少ないし、例えば僕が中心になって声を掛けたところで胡散臭いと賛同しくれるものなど居ないだろう」
小村の話に豊太は思わず口を固く引き結び笑いを堪えた。小村の高言は確かに胡散臭さが付きまとっている。杉浦の計画は豊太も賛同する古市から聞いていたし、ベースボールで集まった時に直接杉浦からも話を聞いていた。今は仏学部から英学部に移ったばかりもあって英語の履修に精一杯の自分にとって、杉浦も大学南校入学当時の苦労話は聞いていたのだが、上級になり御前講義に選抜される程の学力を身に着けると次には学校全体のあるべき姿を考えているという行動力には感心するしか無かった。小村の言う「声を上げたのが杉浦というのが大きいのだ」との評価に杉浦という人物の不思議さも思った。上級生と下級生が反目し合う現状への杉浦の憂いは、たちまち周囲に感染して行くのである。もともと父親が膳所藩藩学の教授でもあり家塾も開いていて、杉浦は年少ながらも塾頭のようにして学生に教えていた。教育とは何ぞやと、自ら問い続けながら達した「大学のあるべき姿」の理想を掲げ私心無く周囲に説いて賛同者を広げている。
「君の意見も聞きたい」と、小村が聞いて来たので、口を引き結んだままの豊太は慌てた。
「ベースボールは、上級生も下級生も無く交わってますよね」
慌てた分、すこし的外れな答えになってしまった。
「ああ、その通りだ。あの一つのボールを皆が一心不乱に追う競技は大いに役立っていると思う。しかし参加者はベースボールに興味のある連中に限られているし、私が目指しているのはもっと、出来れば全ての学生が交わり切磋琢磨する姿なのだ」
「その切磋琢磨する場を、上級生下級生の区別なくベースボール以外で設けようというのですよね」
「その通り!」と膝を打つ杉浦の表情を見た時、以前ベースボールが終わった時に皆に向けた演説をまた聞かされる予感がしたのだが、はたしてその通りであった。
「私や小村が大学南校に入学した時、我らは藩の代表でもあった。大学南校で成績優秀となって故郷に錦を飾るのみならず、藩に戻ってその得た西洋の知識を藩政に活かす事が、藩の名誉を守り僕を選んでくれた恩に報いる事になる筈であった。しかしその藩が無くなり、仕える主君も無くなってしまってから僕は考えたのだ、これからの世を、そして我らの役割を。東京開成学校となった今でも我らに期待されている役割は変わる事は無い、それは日本で唯一の大学であり、そこで学ぶ我らは日本を代表するに相応しい大学生であるべきであり、日本人として模範にならなくてはならないのである。であるからして学生である今から品行を正しくし、思想を高潔に、意志を堅固にしておかなくてはならない。我らの役割はこれからの世の気風を形作って行かなくてはならないのだ」
杉浦が音頭を取り、初めのうちは月に一回程度であるが、各級の有志が集まり親睦を深める事から始めた。茶を啜り、煎餅を齧りながら杉浦得意の古来の英雄豪傑譚を披歴すると、刺激を受けた学生が各々得意とする知識を披露するようになり、負けじと杉浦が得意の詩歌を朗読する。小村は集まった連中に議論を吹きかけると、負けん気の強い斎藤修一郎や古市公威が加わり、これに下級生も巻き込んで議論を戦わすなど、学生間で切磋琢磨してゆくようになり、徐々に上級生と下級生の融和が進んで行った。豊太もこの会には度々参加もしたのだが、議論においては杉浦などの上級生には敵わないとも感じるし、それは彦六郎や他の同級生なども同じようで悔しくもある。ある時その事を杉浦に話してみたら、それは当然という面持ちで「僕達もそうであったのだ」と答えた。杉浦の時代は、少し上の先輩は尊王攘夷で自らの進むべき道は命がけでもあり実際その思想に殉じた者も多く、「実に手本となる生き様を示してくれた」となり、「君たちに手本となる人物になるべく努力している」のである。元々、貢進生という藩を背負うエリート達である、藩が消滅した後、そのエネルギーは藩の殻を突き抜け国家に向かう。杉浦が音頭を取り、小村や古市、斎藤などが賛同した活動は、彼らが志向した「世界情勢から日本国を世界に併立する国家に高める為」の役割を我々は担うべきであるという気分が自然と広がり、書生達にとっては志を育む器となって行った。それは錯覚にしろ、実に愉快な揺りかごであり、学生生活を謳歌する土壌を育んで行った。この年には国会開設を要求して自由民権運動が盛んになるのだが、当然学生達の思想にも大きな影響を与え、流行病のように「末は博士か大臣か」といった気分も横溢し、天下国家の為に学問をし、自らの経綸を社会に行おうというのは維新草創期の彼等にとっては自然な事でもあった。
護持院ヶ原から枯葉が大量に校内に舞い降り、小使いが忙しくそれを箒でかき集める季節となったある日、「杉浦の母上が危篤なのだそうだ」と、山岡が豊太の部屋に入って来た。
「え! そうなのですか。では早く帰省されないと」
「そうなのだが、大蔵省に出仕されている兄上と二人で帰省するのに二十円かかるのだが二人とも当座の金が無いのだそうだ」
山岡の話に「それは」、そうですよねと次の言葉を飲み込んだ。杉浦の貧書生ぶりは有名で、着物は唯一枚、夏は単衣にし、冬は綿入れにして着ていた。学校から支給された洋服もこの頃には破れていて金が無いので修繕も出来ず、チョッキの横が擦り切れて上着を着たままチョッキを引き抜く事ができたので「杉浦のチョッキ」と知らぬ者は居なかった。当然、夏冬の長期休暇も旅費の工面が付かないので寄宿舎に残って過ごし、親友である山岡もこれに付き合った。
「何とか工面出来ないものですかね」
「それが小村の級長手当を当てに聞いてみたのだが、先日飯屋に繰り出して使い果たして当座の金を持ち合わせて居なかったのだ。そこで古市はどうかと思ってな」
「ああ、すまぬなあ僕も一緒だ。級長手当は支給されれば皆と外に繰り出して使い果たしてしまうからなあ」
どの級長も、自分の懐に入れる事なく仲間と飲食で使い果たすのが習慣となっていて、ご相伴に与った豊太も気まずそうに相槌を打った。
「そうだよな。まあ、毎度の日曜日に二十五銭の小遣いが支給されるや寄宿舎に群がる借金取りから如何に身を躱すかに皆汲々としておるからなあ」
と、山岡も諦め口調である。藩から潤沢な給費が支給されていた貢進生時代とは打って変わってこの時期の学生は学校から毎週二十五銭の小遣い支給されるに過ぎず、支給されればたちまちそれは、焼芋、大福、煎餅などに変って彼らの胃袋に収まる。借金取りが押し寄せると斎藤修一郎など声のデカイ二三人が玄関で「払いをするから来い」と叫び、借金取りが玄関に集まったところを見届けて勝手口に控えていた他の学生が「それ今だ」と外に出て借金取りから逃れるといった事もやった。とにかく学生は金を持ち合わせて居ないのである。結局、杉浦はアメリカ帰りの学校長補で寄宿舎監であった濱尾新を訪ね事情を話すと快く貸してくれたのでさっそく旅支度を整えて大蔵省の兄の許に向かった。
「膳所は、どのようにして行くのかな」
彦六郎が豊太の部屋を訪ねて煎餅を齧りながら呟く。
「船で行ける福山とは違うからなあ。膳所藩は琵琶湖の辺であるから、中山道を陸路だろうか」
「母上危篤の知らせなのであろう、悠長な事は言っておれぬぞ。確か貢進生に選ばれた時には品川から大学南校に来たと聞いた事がある、蒸気船で大坂に向かえば早かろう、文明開化の世ぞ」
二人して顔を見合わせ、危篤の知らせに間に合うのか少し心配にもなってとりあえず山岡に聞いてみる事にした。「山岡さん」と部屋に入ると、宮崎や久原など同室の者に囲まれた中に杉浦が居た。
「す、杉浦さん!」と、二人して驚きの声を上げる。膳所に向かわれたのでは無かったのですかと当然聞いてみたのだが、あれから杉浦は兄の所に行くと、父親から手紙が丁度届いたところで、母が亡くなったと伝えてあった。そこで兄と相談して、兄一人で膳所に帰り葬儀の事など後事を託し自分は残る事にした。
「良いのか? 大学南校以来膳所には帰っておらぬでは無いか」
山岡の言葉に、「君こそ」と苦笑いを浮かべ、「それが母上の遺言のようなものだ」と答えた。
「遺言?」
「ああ、この世は生きているものの為にある。自分の身に何かあったとしても決して学業を疎かにするなと」
「そうは言っても、母上を見送る事は大切な事であるぞ」
「ああ、見送りは兄に託した。弔いはここでも出来るし、母上もそれを望まれていると思う」と、杉浦は笑みを浮かべた。
「大塚、石藤、この煎餅を食べろ。食う事は供養に通じるのだ」と山岡に進められ、彦六郎と豊太は山岡達とともに杉浦の母親を弔った。
小村寿太郎の学生時代のエピソードは如何でした?次回は、その小村たちが東京開成学校に飽き足らず海外留学へとその志を向けてゆきます。




