第四章 友情
全国から集まった、書生でしかない学生達が意気投合し絆を深めます。各藩から選抜された貢進生ですが、裕福な藩は過度な学費を支給し、中にはそれが原因で放蕩し身を持ち崩す学生も出てきます。彦根藩の木村彰太郎もその一人で、ある日を境に消息を絶ちます。その彼を見かけたという情報がもたらされ、仲間たちは必死に後を追いますが…。
「宮崎さんが人質?」
彦六郎が豊太の部屋に来て、「一緒に来てくれぬか」と懇願された。日曜日なので英学部の連中が神田明神にある飯店に繰り出し大いに飲食したのだが、思いのほか金額がかかってしまい支払いが出来ず、宮崎が人質となってその飯店に残っているらしい。宮崎とは、葬式の悪戯で死体役をやったあの宮崎道正である。
「お主が人質になればよかろうに」
「いや、その人質の人質を頼まれたのだ。わしはその飯店には行っていないのだが、山岡さんが血相を変えてやって来て頼まれたのだ」
「人質の人質? 何だかよく分からぬが……で、山岡さんは?」
「それが、山岡さんも金を持っとらんから、とにかく宮崎さんに事情を話して人質を変わってもらえと」
「益々、よく分からぬなあ。その金の工面をしておいてくれという訳では無いのか?」
「わしも金は持ち合わせが無いと山岡さんには話したのだが、ほれ、例の如くのおっちょこちょいであろう、話の筋もよく分からぬままとにかく血相を変えて木村彰太郎を探しに行かなきゃならぬと、宮崎さんにもその話をして人質を変わってもらえと」
彦六郎の話を聞いていたのであろう、同室の古市公威が本を閉じて「木村彰太郎が見つかったのか?」と彦六郎に問い質す。
「はあ、確かそのように言ってましたが、どなたの事ですかの?」
それは道々話してやると、古市は立ち上って豊太と彦六郎を伴い寄宿舎を後にする。金は「僕が当座工面する」と軽く言う所は、流石に手当のある級長ではある。古市の話を聞きながら、豊太と彦六郎はやっと山岡の言わんとした筋が朧気ながら見えて来た。
木村彰太郎は、貢進生として大学南校に入学した。山岡や杉浦、飯店で人質になっている宮崎など一癖あるような十一号室の連中とは意気投合した仲で、古市もその一人であった。彦根藩出身で、多くの貢進生が学業優秀で選抜されて来たのとは違って、人物が奇抜であるという理由で選抜された。明治初年彼が長崎に遊学中のある日、井伊直弼暗殺の芝居看板を見かけて憤激し、興行主に「無礼者」と興行の中止を求めたが、当然聞き入れられず、役所に訴えたが相手にされなかったのであるが「もし中止しない場合には、予は覚悟がある」という脅しに、俳優たちが身の危険を感じて芝居は中止となった。これを聞いた藩では「少年ながら主君のためを思い東奔西走、遂に目的を達したる段奇特なり」と、貢進生に抜擢されたのである。元々学問に志を持っていたとは言い難いところもあり、また、大藩である彦根藩は彼に過分の学費を支給したため、学問に身の入らない分放蕩に身を崩して行ったのである。同じ釜の飯を食べ、また休みには共に向島などに遊ぶ気心の知れた間柄の仲間は、彼の放蕩ぶりを心配していたのだが、ある日行方を晦ましたのである。大学南校から問い合わせがあった藩はその消息を探ったが、突き止められず面目は丸潰れとなったのだが、廃藩置県でそのままうやむやになったのである。
「出奔した格好になり、当然藩の後ろ盾も失い、大学改革もあって身の置き所が無くなったのだ。藩との関係は立ち切れぬと思い彦根藩に問い合わせたが、却って消息が知れたなら知らせてほしいと頼まれる始末であった。当然故郷に戻っても居らぬそうだ。心映えの良き男ではあったのだが……」
と、古市が嘆息とともに話す。「意気投合」は若者の特権であろう、その仲間が一人欠ける喪失感は彼の持つ心映えの良さの大きさの穴でもあり、木村彰太郎の身を案じ書生という身で経済的な支援など出来る訳もないのではあるが、それでも放ってはおけない気持ちを持ち続けている。山岡の身悶えするようなトンチンカンな行動も分からぬでは無い。まさに自分一人ででも探し出したいが為に、しかし宮崎も想いは同じと断じて彼にもいち早く知らせたいという気持ちも一方では空回りして、元々は寄宿舎に皆で戻って金を持ち寄り宮崎を解放する段取りが、突然木村彰太郎を見かけ、恐らくはその木村彰太郎は皆に会わせる顔が無いと逃げたであろうその彼を皆で追いかける局面で、兎にも角にも山岡のみ金策の為に寄宿舎に戻る事になったのだが、たまたま彦六郎を見つけたので人質の人質を思いつき、そうすれば宮崎も木村の探索に加わる事が出来ると踏んだ行動のようである。
(何とも人騒がせな)
豊太は初めのうちはそう思わぬでも無かったのだが、こうして日頃は冷静な古市が熱く語る話を聞いているうち、仲間を思い遣る情の深さがそのまま伝染し、「古市さん、僕らも木村さんを探すのを手伝いますよ」と、意気に感じて宣言し、彦六郎も頷いたところも若さの特権というものであろう。
神田明神の飯店で支払いを済ませ、宮崎に事情を伝えると、予想通り彼も俄然「どっちに行った!」と彦六郎に迫るが、知る由も無い。豊太も彦六郎も木村彰太郎の顔も知らないので、豊太は古市と、彦六郎は宮崎とともに手分けして探すことになった。彼等は人混みを求めるようにして上野に向かった。
「神田明神のお導きですかね?」
宮崎と彦六郎の背を見ながら、豊太は古市に山岡達が木村と鉢合わせした事を、廃藩置県の日に山岡に偶然「天野屋」で会えた事を引き合いに話をした。
「そうかも知れぬなあ」と腕を組んで考えを巡らしていた古市が、思いついたように話を続ける。
「この辺りに来れば会いたくない開成学校の顔見知りに出くわす事は分かり切っている。しかし、山岡や杉浦の顔を見た途端逃げ出している……。結局は顔を合わせたく無かったのだ」
「では、何故神田明神に?」
「そう、けじめをつけに来たのではないかな?」
「けじめ、ですか」
「これは僕の推測なのだが、彦根藩貢進生となり大学南校に入学したものの、過分な手当てが仇となって身を持ち崩してしまい、何時しか大学南校から身を引いてしまった。貢進生に選ばれる者は多かれ少なかれ皆負けず嫌いなもので、彼もそうであった。何しろ藩を代表して来ておる訳だからそうならざるを得ないのだが、長崎での武勇伝が彼の生き方を狂わせたのだ。彦根藩は大藩だ、過分な手当ては藩の面目もあったであろうが、その分期待も大きかった筈だ、本来学問が最も出来る人材を選抜すべきところをそうしなかったのは藩の罪でもある。外国語での勉学は、それを理解出来ない者にとっては辛い、杉浦などもそうであったが、彼は必死に英語の習得に励んで克服したが、木村は挫折し放蕩に己を浸してしまった。そういった姿を我らのように気の合った仲間には見せたくは無かったのだと思う。そういった放蕩の自分を断ち切り大学南校への未練を捨て去るために、所縁ある神田の明神様に自然と足が向いたのでは無いかな。知っての通り江戸城鬼門の守護神は大学南校のある神田の総鎮守でもある」
「でも、古市さんとか仲間では無いですか。もっとこう相談するなり、何とかなったのでは無いですか」
「彼が逃げ出したのは、会えば同情を買い、施しを受けてしまう事に耐えられなかった。特に杉浦や山岡と云った連中に会ったのでは猶更、これまでの対等な友人関係を壊したくなければそのまま去るしか無かったように思う。彼の最後の強がりだ」
(筋立てはそれも有りかもしれぬ)
古市の考えに豊太は半分納得するのだが、どうも身贔屓のようにも思った。
「石藤よ、新橋に行ってみぬか?」
「新橋ですか、またどうしてです」
「カンだ、僕のカンは結構当たる。都落ちに陸蒸気は粋では無いか」
明治五年九月に新橋と横浜間約三十キロを結ぶ鉄道が開通し、蒸気機関車の事を陸蒸気と呼んだ。
豊太の返事を待つことなく、古市は足を南に向けたのだが、彼の中で木村彰太郎は本日新橋から陸蒸気を使って都落ちをする事になっているらしい。
筋違御門は明治五年に解体され、神田川に架かっていた筋違御門橋も撤去され、新たに昌平橋との間に萬世橋と橋名を変え筋違御門の石材を使った二連アーチ幅六間長さ十五間の石造り橋となった。人々はこれを珍しがり「めがね橋」と呼び、橋の南側の広場は八小路と呼ばれるほどの交通の要衝となって人が集まり、「めがね橋」の見物もあって賑わうようになっていた。この橋には古市も興味があるようで、欄干から身を乗り出して石組の様子を確認しながら渡った。八小路からは、高輪口に向かって馬車や人力車が昼夜間断なく往来する事から東京府は道路の中央三間から四間を馬車通行の所と定め、左右を歩道とする整備を進めつつあった。広場の中央には「松柏花木」が植えられ、新橋に向かって途中までは人道と馬車道を区別するように柳数百株が植えられていた。
「都落ちの費用は大丈夫なのでしょうか」
五銭あれば米一升が買えたのだが、身を持ち崩した身であれば陸蒸気の運賃が下等で三十七銭と高価ではあるまいかと心配もし、またどうも古市のカンは十中八九外れているようにも思って問いかけてみた。
「なあに、馬車を使えば七十五銭であるから半額では無いか。横浜まで徒歩で一日がかりであったのが五十二分で着く、近頃は皆陸蒸気を利用するものだから、馬車屋は商売上がったりと云うぞ」
自説を曲げそうにない古市に「なるほど」と相槌を打ちながら、馬車や人力車が我が物顔で往来している様子を眺めながら豊太も供に歩いた。あの人力車夫の中には旗本や御家人であった者も居ると聞く、世が世であれば木村彰太郎も藩への出仕で扶持を貰いそれなりに出世をしたかも知れない。藩が無くなった今、古市も豊太も旧藩の期待を背負っているとは云え、所詮は開成学校の書生でしかなく、まだ何者にもなってはいないのだが、官立の開成学校で学んだ先には官途への道筋も開けて来る。しかし、話を聞く限り彼が身を持ち崩し学業を捨てた先に、己の才覚でこの新しい世を渡ってゆける人物とも思えない。
「都落ちされても、元旗本が人力車夫に落ちぶれるようなこの新しい世を渡ってゆける才覚のある方なのでしょうか」
「負けん気、元気はある男だ」
特にこれといった才覚は持ち合わせていないらしい。古市も会えたとしても精々大人臭い説教を垂れるのが精々なのかも知れない。
「もし会える事が出来たら、何と声を掛けられるのですか?」
「会って顔を見たい、今はそれだけだな」
杉浦や山岡も、だぶん同じなのであろうと豊太は感じた。
「君は、鳥羽伏見の時は、何歳であった?」
古市は急に話題を変える。
「はい、十歳でした。福山城が官軍に囲まれた際には城外に避難しておりました」
「僕は、十五で江戸詰めであった。姫路藩酒井家は官軍に恭順したため、江戸屋敷は全て上地となったが下屋敷は下賜されたので、御先代藩主忠績様の警護に詰めておった。江戸も物騒であったから常に鎖帷子を身に着けていた。そんなある日、父がやって来て『お前は何を為している』といきなり聞かれたので、ただ漫然と警護に詰めていただけの僕は何をも為してはおりませぬと答えたのだが、大馬鹿者と叱責された」
「お殿様の警護は藩士として当然のお勤めでしょう? どうして怒られるのです」
「父は父なりに、時代の潮目というものを感じていたのかも知れぬ。また、僕も実は日々の警護にただ流されているようで鬱屈した思いも持っていたのでそういった気持ちを察したのか、父は命じられた」
「何と命じられたのです?」
「学問を励め、学問を励め。僕の肩に手をかけ涙ながらに命じられた」
ああ、と豊太は古市の父君の命が分かる気がした。当時十歳であったが、幼いなりに時代の空気を敏感に感じ、これからの世に生きて行く為にはまず学問、それも洋学を身に着ける事と誠之館で学び始めたのである。
「父の言葉に目の前が開かれた。さっそく師を求めて辻理之介先生に教えを乞う事にした。辻先生は仏語の先生であったこともあって大学南校では仏語を選択したのだ。ああ、要らぬ話をしてしまったな、石藤を見ていると僕に似ているようでつい昔話をしてしまった」
古市は頭を掻きながら「先を急ごう」と、新橋へ向かう足を少し早めた。しかし、二人が木村彰太郎に会う事は無かった、その頃にはすでに古市が推察した通り木村が乗り込んだ陸蒸気が煙を吐いて新橋駅を離れていたのである。
「お一人で神田明神にお参りして気は済みました?」
座席の傍らで木村に寄り添っている女が少し皮肉っぽく話しかける。
「ああ、大学南校の仲間に鉢合わせてしまった」
「あら、では上方に行くとお別れ出来まして?」
「いや、会えば積もる話で長くなる。お前との待ち合わせに遅れてしまうで、早々に別れて来た」
「うちなら、なんぼでも待ちましたのに」
「そうは行かぬ、小梅よお前独り残したままでは心配だ」
「嬉しいわあ」と人目を憚らず女は寄りかかる。
小梅は木村彰太郎が馴染みにした新吉原の遊女で、明治五年十月に発令された「芸娼妓解放令」で解放された。故郷は信州で、七歳の時に口減らしで上州にある宿場に売られ、十三歳の時に品川宿に十年季七十五両で転売、一年半勤め十五歳の時に深川の局遊女屋三国屋金五郎のもとに七十五両の身代金で売られ五年勤め、その後明治四年新吉原町武蔵屋新治郎によって年季五年八か月、身代金八十両で買い取られ、翌年十月解放令を迎える。解放令は「娼妓芸妓などの年季奉公人は全て解放し、金銭貸借の訴訟は受理しない」法令であったが、その結果本人の「真意」による売春のみを許可した。小梅は解放令により抱え主であった三国屋金五郎のもとに戻る事になったが、この時金五郎は遊女屋家業をやっておらず、戻された小梅に再び奉公に出よと迫ったので、深川の長屋に住んでいた木村の許に助けを求めたのである。羽振りの良かった頃は小梅の身請けを真剣に考え本人にも話していたのだが、大学南校への足も遠のく内に廃藩置県で軍資金が絶たれ、旧藩からはお尋ね者扱いとなって、自身も身の置き所が無くなったのであるが、小梅を匿いながら解放令を楯に金五郎に直談判を繰り返した。が、金五郎は解放令の後に小梅を養った半月の費用は二十両かかったので「二十両出さなければ渡さない」と理屈を捏ねる始末、近頃はやくざ者が木村の周りをうろついて小梅を取り返す気配を見せていた。すでに藩から支給されて貯め込んでいた金子もすでに底を尽き、二十両などという大金を用立てる事も出来ず、まだ多少の持ち合わせのあるうちに二人で都落ちをしようと決めたのである。
「そう言えば」と、木村が車窓から東京の海を眺め独り呟く。小梅は木村の顔を見て小首を傾げる。
「いや、そう言えば大学南校の連中には法律に詳しい奴も居たなあと今さら思っただけだ」
「うち、阿保やからよう分からんけど、お役所に願い出たらどうなったのですやろ。大学南校のお知り合いの手をお借りすれば」
「はは、何にでも一生懸命になる連中だからな。しかし私は大学南校から去ったのだ」
「でも、お仲間ですやろう?」
「何だか弱みを見せるようでなあ」
「うちには、よう分かりませんなあ」
「彼等の前では、大学南校の大言壮語ほら吹き木村彰太郎のままで居たかったのさ」
大学南校で育んだ友情は、僅か一年足らずの期間であったが、時が止まったかのように卒業後も変わる事は無かった。宮崎道正は後年仕事で関西を訪れた際、神戸に木村彰太郎らしき人物が居ると聞き込み探索した結果、倉庫の番人となっていた木村を見つけ出した。聞くと十四五歳になる男子が居ると知り、せめて息子を東京に連れ帰って教育するからと申し出て、この時は木村も息子の為ならばと首を縦に振ったので、急ぎ帰京して当時日本中学校長をしていた杉浦重剛とも相談して世話をする準備をして息子の上京を待っていたのだが、その後消息が途絶えてしまった。
書生時代に芽生えた友情と絆は卒業してからも大切にされていたようですね。次回は、ベースボールを熱心に行ったゆえに、ウイルソンが持ち込んだ、たった一個のボールが裂けてしまいます。




