表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

第二章 九段下の雪合戦

第一大学区第一番中学(大学南高から名称変更)に入学を果たした石藤豊太の学生生活が始まります。全寮制で今にも通じている事かも知れませんが、生徒の自治が醸成され時には若者特有の羽目を外します。第二章では、そういった微笑ましいエピソードを紹介したいと思います。

 立冬が過ぎ、校庭では落ち葉を小使いが頻りに掃いているのだが、護持院ヶ原からも木枯しが大量の枯葉を運んで来るので追いつかないとこぼしている。

豊太は仏語を選択したので、化学がマイヨ、文学がフォンテーヌ、数学がレビシエ、語学がビジョンとブランの五人のフランス人教師に学んでいるのだが、面食らったのは、それこそが標準的な文明であるかの如く教科書は全て仏語原書で翻訳されておらず、講義も仏語で通訳など居ないという事である。豊太は誠之館で三年ほど仏語を学んでいたので何とか講義についてゆく事が出来たが、なるほど漢学しか学んでいなかった山岡が出遅れる訳である。講義ノートをお互い貸し借りして、寄宿舎に戻ってからそれを書き写し、夜十時の消灯時間を回ってからも、見回りに来る監事の目を盗んでは後れを取り戻すというのが日課であった。

 貢進生時代、大学南校は全国六十四州、三百藩から集まった生徒に手を焼いた。何しろ言葉が通じず、習慣も違い喧嘩も絶えず、抜刀騒ぎも多かった。そこで学校側では成績優秀な生徒を選んで級長と決め、その級長に学生の監督を委ねた。そういった事が学生の自治精神を養い、藩校時代には無かったバンカラな気質を生み出し、世間では彼らを書生と呼んだ。着物の袖をたくし上げて肩を怒らせる振舞いなどは、そうしなければ軟弱者とそしりを受ける事もあるが、自分たちが新しい明治の世を担って行くのだという気概に溢れていた。

 寄宿舎は一部屋に十人程度が押し込まれ寝起きを共にしている。選択した語学毎に学生の部屋割りが決められていて、仏之部の豊太と英之部の彦六郎とは別部屋である。豊太が夕食後、部屋で借りたノートを書き写していると袖をたくし上げ肩を怒らせた彦六郎がやって来た。

「どうした彦六郎、また誰か亡くなったのか?」

 すっかり声変わりした豊太が、からかい半分問いかける。

「それを言うな、宮崎さんはピンピンしておる」

 先日起こった悪戯事件を思い出して二人は笑った。

 上級生連中は、学生生活に慣れるのに必死な豊太たちとは違って休日などは閑を持て余していた。ある日、十一号室の連中の一人が「死人の出た真似をしよう」と言い出し、それは面白いと話が纏まり宮崎道正が死人の役、久原弓玄がどこかで袈裟を設え坊主となり、二見昇が受付となり、宮崎の枕頭には白布を掛けて他の者は皆愁然と枕頭に侍り、その中には杉浦重剛も居た。山岡義五郎が「宮崎死す」と触れ回り、彦六郎にも伝え、彦六郎は豊太に伝えた。二人とも宮崎道正とは面識も無かったが、山岡から云われた事もあって二人して多少の香典を包んで十一号室に弔問に行った。はたして久原の玄人芸による読経の中、机の前で二見が広げた帳面に記帳していたまさにその時、「コツコツ」と聞き慣れた監事の靴音を聞いた途端、そこに居た十一号室の連中は死人役の宮崎をうっちゃったまま、蜘蛛の子を散らすように皆逃げてしまった何とも大仕掛けの悪戯であった。

「そう云えば古市さん、あれは狂言と気付いていたのですか?」と、豊太が同室の古市公威に話しかける。

 古市公威、嘉永七年生まれなので豊太より五歳年長の十八歳、江戸生まれの姫路藩士で山岡や杉浦と同じく貢進生として大学南校に入った。第一番中学となってからは豊太と同じ仏之部で、最高位の上等中学二級成績トップの逸材で、ゆえに級長を命ぜられていて仏之部のリーダーでもあった。がっしりした体躯に穏やかな風貌を宿してはいるが、斎藤修一郎らの大学南校改革建白書にはこの古市も一枚噛んでいたという熱血漢でもある。ちなみに豊太は上等中学第四級、吉田彦六郎は下等中学第四級英之部である。

「あの日は早朝、厠で宮崎を見かけていたからな。まあ、十一号室と聞いて胡散臭いと思ったのだ。曲者揃いだからな」

「成程、我らより真っ先に駆けつけてもと思いましたが、そうでしたか」

「大学南校時代は、六畳一間に二人であったが、第一番中学になってからは大部屋に十人も押し込められておるから仕掛けも大掛かりになるのだ」

「それはそうと彦六郎、何か用事でもあるのか?」と豊太が聞く。

「そうそう、その十一号室の杉浦さんが憤慨して志同じくするものは食堂に集まれと声をかけられた」

「志?」

「ほれ、例の改暦の事だ」

「改暦と、志とどういう関係があるのだ」

 廃藩置県以降も改革が目まぐるしく断行されている。十一月九日には太陰暦を廃止して太陽暦とする改暦の詔が出され、明治五年は十二月二日が大晦日で、翌十二月三日が明治六年元旦となるのである。

「十二月十四日が今年無くなってしまっては、洋化が益々進んで赤穂浪士義挙の心まで日本人は忘れてしまうでは無いかと憤慨しておるのだ」

 杉浦であればそうであろうと豊太は妙に納得したのだが、部屋を見回して他の連中の様子は皆あまり興味なさそうである。もともと英之部と仏之部は交流という事が無く、彦六郎もまたぞろ山岡あたりに人集めを頼まれたのであろうが、そうは云っても豊太もこれから杉浦の長くなりそうな演説を聞きに行く気にも正直なれないのが本音でもあった。

「あははは、杉浦らしいな。どうだ石藤行ってみては、今度は悪戯の仕掛けもなかろう」

 古市が笑う。彼も杉浦の演説を聞きに行く気は無い様子であるが、彦六郎の肩を持つように言う。

「しかし古市さん、改暦は西洋化の基本でしょう、洋学を学ぶ第一番中学の学生は、率先して改暦を受け入れ世に範を示すべきでしょう。どうも、杉浦さんは……」洋学を学んで居る癖にと云う言葉を飲み込み「彦六郎、そうは思わんか」と少し意地になって水を向ける。が、幼馴染の彦六郎は軽く受け流す。

「理屈を言うな、山岡さんも集まれと声をかけているのだ。義理じゃ義理。それに、西洋化と云っても我らは日本人ぞ、杉浦さんの云われる事はわしもよく分かるがのう」

 やはり、山岡が人集めに一肌脱いでいたのだ。外堀を埋められたようで、渋々と豊太は立ち上がり、「それはそうだが」と、今晩中に借りたノートを書き写せるかなと後ろ髪を引かれる思いで彦六郎と部屋を出た。

 十二月三日が正月と云われても、どうやら世間ではこの日に餅をついて祝うという事は無かったようである。大安や仏滅、三隣亡など運勢の吉凶や迷信的行事は人知の開発を妨げると建議された太陽暦であったが、庶民にとって暦の切り替えは表向きだけであったようで、日和の習慣はそのまま残り、杉浦も当然のように旧暦の十二月十四日に仲間内で集まり赤穂義士の遺徳を偲びながら四十七士全員の名前をその場で書いて見せて皆を驚かせた。やはり杉浦の赤穂義士を尊敬する想いは半端では無かったのだが、彼にとっての義士祭は旧暦でありそれは終生変わらなかった。

太陽暦が政府の思惑通りに浸透するにはまだ時間がかかる様子であるが、旧暦十二月二十五日の孝明天皇祭(孝明天皇命日)は新暦の一月三十一日と決められ、この日は祝日で学校は休みである。

 前日からの雪が降り積もり、吉良邸討入のような景色が広がったこの日、寄宿舎では朝から学生達が討入よろしく準備に余念が無い。二番中学と雪合戦を行う事になったのである。二番中学とは、一ツ橋御門外の洋学第一校が改称され、前身は大学南校内に設けられていた独逸学仮教場で、後年東京外国語学校となる。一番中学とは兄弟校のようなもので、二つ返事で申し出を受けたらしい。

 雪合戦といっても、ルールを決めて勝負するというものでも無く、お互い集める人数にも決まりは無いので多く集めた方が有利ではあるのだが、有り余ったエネルギーを発散させるのが目的と云えば目的である。場所は九段下となったのだが、住民にとっては迷惑半分、面白半分のようで、集まった学生達を遠巻きに眺めていた。

「ここは天下の大道じゃ」と勝手な理屈で決めた合戦場に、一番中学は百名近くが集まった、豊太は例の如く山岡から彦六郎とセットのような感じで動員されていたが、豊太も雪合戦は嫌いでは無い。九段下の合戦場で二番中学と対峙すると、すでに待ち構えて準備万端のようであったが、人数は一番中学よりも少なく見えた。

「これは勝ったな、力で押し込むまでじゃ」と、彦六郎は相手の様子を観察する。

「よーし、掛かれ!」と、雪合戦を仕組んだ独之部安東清人の掛け声で投雪が始まった。

ところが、人数の多い一番中学の方が押され始める。人数を頼んで足下の雪を丸めて投げつけているが、要は各自バラバラで纏まりが無い。相手は雪玉を事前に準備していた様子で、飛び交う雪玉の数は二番中学の方が多く、命中弾も多い。

「雪玉を準備していたとは、卑怯なり!」と、叫びながら敵弾を顔面に受けたのであろう、雪まみれの顔で後退って来る。

「彦六郎、これはまずいぞ! 我らは人数も多い、わしらでまずは雪玉を作るのが先じゃ、泥縄だが仕方がない」と、豊太が押し止め、周囲の者も即座に賛同して雪玉を作るチームが出来た、このあたり理屈を飲み込むのは早く、まだ冷静である。

「権現様も、幼少の頃子供の石礫合戦を眺めて人数の少ない方が勝つと云ったそうだ」

「へえ、どうして?」

「人数の少ない方が、皆必死に戦い、人数を頼んでいた方が油断していたからじゃ。実際、権現様の云う通りになったそうじゃ」

 遠巻きに眺めていた住民が、面白がって家康の故事を引き合いに出してこの様子の評論を始める親子連れ、「おいおい、これでは通れないでは無いか、道を開けろ!」と、叫ぶ通行人の声は「負けるな!」「頑張れ!」と、声援を送る声にかき消されたりして、沿道も混乱し始めて来た。

 押されて旗色が悪かったが、やがて雪玉の供給が追い付き始めると、人数に優勢な一番中学が反攻を始める。命中弾も徐々に増えて来てジリジリと敵陣に迫り、二番中学が後退を始めた。

「よし、敵は崩れ始めたぞ! 豊太、わしらも攻め込もう」と、彦六郎は雪玉作りを止めて前線で雪球を投げ始め、豊太も負けじと投げる。彼の雪球はスピードも速く、しかも的確に命中弾となった。

「お! 君は左利きか」と、隣で雪球を投げていた男が声をかけて来て、豊太は笑顔で頷きながら敵陣目がけて投げ続けた。その男も笑顔を返して、向こう見ずにも敵陣目がけて走り「うおー、一番乗りじゃ!」と踊り込んで叫び声を上げる。それを潮に、他の連中も敵陣目がけて一斉に走り出した。

「これで勝ちだ」と、思った豊太は甘かった。敵も去る者引っ掻くものである。あらかじめこうなる事を想定していたのであろう、後方で隠し持っていた消防用の消火器である竜吐水を前線に持ち出して、横木を上下させて水を吐き出し、敵陣目がけて走り込んで来た一番中学の連中を怯ませた。

「おのれ、卑怯なり!」

 水を浴びせかけられた連中は怒り心頭である。豊太に声をかけたあの男が、竜吐水に踊り込むようにして横木を上下させていた一人の胸倉を掴むが、元々小柄なこともあって逆に組み伏せられた。が、その後を続くようにして竜吐水の周りで取っ組み合いが始まった。

「吉田! 石藤! お前達、学校に戻って竜土水を持って来い」

 山岡の指示が飛んだその時、「おーいコラコラ! 往来の邪魔では無いか!」と、三尺棒をかかえた邏卒が二人割って入って来た。「邏卒」とは、ポリスの訳語であり、後には「巡査」と呼ばれるようになる。廃藩置県の後、府下の警備に邏卒三千名を備えたが、そのうち二千人は鹿児島県士族が当てられた。

邏卒の「薩摩言葉」を聞いて、あの男が組み伏せられた手を振りほどいて立ち上がり、足元の雪を固めてその邏卒に投げつけた。

「薩摩っぽが、邪魔をするな!」

 それを見ていた周りの連中も、その邏卒に向けて雪玉を投げつける。日頃から、気分だけは天下を獲った気分の学生達である、邏卒を馬鹿にしていたこともあり遠慮が無かった。二人の邏卒は、多勢に無勢と応援を求めるようにその場を逃げ出した。

「今のうちじゃ、豊太!」と彦六郎に声をかけられ、数人で学校に戻った豊太達であったが、竜吐水を運び込んだ時にはすでに雪合戦が終わっていた。最後は掴み合い、殴り合いとなって雪合戦どころでは無くなり怪我人も出て両軍ともに皆蹲り放心状態であった。有り余るエネルギーを放出するという目的は達成したのだが、この騒動それで終わりとはならなかった。

「何と云う事をしでかしてくれたのだ。晩飯は抜きじゃ、皆反省せい!」

 学校監事の伊澤修二が、雪合戦に参加した連中を寄宿舎の食堂に集めて雷を落とした。高遠藩出身で、嘉永四年生まれなのでこの時二十二歳、元々貢進生として大学南校に入学したのだが、品行方正、人物もしっかりしていた所を見込まれ、程なく大学南校の監事に任じられ文部省の役人となっていた。品行方正に努めてはいるが、議論となれば弁も立ち、負けず嫌いは学生当時から折り紙付きで、将棋など勝負事は勝つまで止まず執拗であった。要は皆根負けするのである。そんな伊澤の説教を受ければ、血気盛んな学生達は皆殊勝な顔をするしかやりようが無かった。この日は、それで終わったのだが、数日後、騒ぎはもっと大きくなった、雪玉を投げつけられた邏卒が憤慨して裁判に訴えたのである。そして、伊澤が学校を代表して法廷に立つ事になった。

 伊澤はさっそく当事者から当日の状況を聞き取り、豊太や彦六郎も竜吐水を学校から持ち出した事を話すと「勝手に持ち出すとはけしからん!」と雷を食らった。

 裁判が近づくある日の夜、伊澤は寄宿舎の一室で作戦会議を開いた。彼が相談相手として呼んだのは、貢進生の時代から仲間として信頼の厚い、斎藤修一郎、古市公威、杉浦重剛である。彼等はかねてより生徒間の融和を図るべく率先して金曜会なるものを提唱して、有志を集めて煎餅を齧り茶をすすりながら演説や講和をする活動をしていたが、伊澤はそれを監事となってからも支援していた。彼らは雪合戦には参加していなかったので、杉浦が山岡に声をかけ、古市は豊太に声をかけて部屋に集まった。豊太が部屋に入ると邏卒に最初に雪を投げつけたあの男が居た。名を河原勝治、斗南藩出身で下等中学第三級英之部、安政四年生まれなので豊太より二歳上の十六歳であった。

「伊澤監事、第一番中学が負けるわけには行かぬぞ」

 負ける事が誰よりも嫌いな斎藤修一郎が口火を切る。

「当たり前だ、私が代表として出廷するのだ、負ける訳にはゆかぬ。その為にも君たちに集まってもらったのだ、裁判のツボを押さえておきたい。特に斎藤は西洋の法律に詳しい、勝つための意見を聞いておきたい」

 負けず嫌いでは、人後に落ちない伊澤が切り返すが、ここは意地を張り合っている場合では無い、斎藤は答える。

「御一新の後、我が国の裁判制度は過渡期にある。訴えは奉行所から東京府に移管されたが、西洋に習って司法省を作ったのが明治四年であるが、昨年の四月に司法卿が江藤新平になってからやっと近代化の改革が進み始め、この一月から裁判権は東京府から裁判所に移管されたばかりだ。とにかく西洋に合わせようと法令も出て来ておる。『芸娼妓解放令』などはそうだが、雪合戦に当てはめるとなると『違式詿違条例』になるだろう」

「違式詿違条例か。確か往来に関してもあったな。立小便を禁ずるとか」と伊澤が聞く。

「主に西洋の法に習って、民衆を取り締まる為に出された条例のようだ。喧嘩・口論、裸体、男女混浴などだ。西洋に侮れない文明国であると見せたいためらしい」

「雪合戦は、その違式詿違条例に禁止されているのか?」と山岡が問い質す。

「雪合戦そのものは禁止されてはいないが、車場留めの道路を犯す者、車馬等を馳駆して人を触倒する者、それと荷車等往来の節人に迷惑を掛ける者というのがあるな」。

「そこを衝かれると、不利になるかな?」と杉浦が唸る。

「おお、そう云えば江藤新平とは、文部大輔の時に君が大学改革を直接訴えたあの江藤新平か?」と山岡が問いを重ねる。

「そうだ、会うと分かるが切れ者だ。大学南校改革も、私の訴えを聞くや即座に文部省を設置して改革の荒行時を断行したのは諸君も知っての通りだ。だが、この一番中学が大学の体を成していないのと同様、司法改革もやっと法律を作り始めたばかりで、決まっておるのは方針だけだ。例えば、男が女の恰好をしたりする事を禁じておるが、歌舞伎を禁止はしていない、例外とか解釈はその都度であろう」

豊太は会話を聞いていて途方に暮れる思いである。太政官の殿上人を近所の知り合いのように扱う、この先輩たちはいったい……。

「まあ、相手の出方次第だな、違式詿違条例はよく読み込んで望まねばならぬな」と伊澤。

「雪合戦の後始末程度の事であるから、江藤司法卿の耳にも入らぬであろう。裁判官の頭の中は奉行所の頃とそう変らぬであろうよ。勿論条例は重んじられるが」

 そう云えば、筋違御門の仇討ちが無罪放免となった事を豊太は思い出す。

「雪合戦というのが肝だな」と古市が呟く。

「雪合戦など、雪が積もれば子供がそこら中でやっておる。それを条例は禁止してはおらぬ筈だ。問題は、往来を妨げたという事であろうから、そのせめぎ合いになる可能性は大いにあるであろうな」と伊澤。

「邏卒が止めに入ったのであろう? 山岡」と古市。

「ああ、往来の邪魔になるからと言ってなあ。しかし、見物人も多くいて皆楽しんでおったぞ。まあ、少し大掛かりになってしもうたが、邏卒に咎められる事はしょっちゅうだから慣れたものぞ、何を今さら」

「牛鍋をつついて大いに飲んで、夜中大声で詩を吟じて帰るものだから邏卒に咎められて喧嘩沙汰になるのだ。蝙蝠傘で邏卒を殴ったという者も居たと聞いておる」と古市。

「まあ、派手に雪合戦をやって往来を止めてしまったので『何とかしてくれ』と通行人が邏卒に駆け込んだ事が騒ぎを大きくした。しかし、邏卒は制止を無視された事よりも、雪玉を寄ってたかって投げつけられた事に憤慨しておるらしい。まあ、第一番中学にこの祭お灸をすえてやれという日頃の鬱憤晴らしも手伝っておるのであろうな」と伊澤が一旦ため息をついて続ける。

「まあ、江藤司法卿が相手では無いので何とでもなるであろう……。ただ、気になる事が一つあるのだ」

「気になる事?」と斎藤が問い返す。

「実はな、裁判沙汰になる前、雪球を邏卒に投げつけた者、特に『薩摩っぽ』と邏卒を馬鹿にしたような学生を差し出せと云って来たのだ」

「そんな事は、以前にもあっただろう」と古市。

「ああ、君の話した蝙蝠傘で邏卒を殴った件も邏卒がねじ込んで来たのだが、当方でお灸を据える事で追い返したのでそれ以上の騒ぎにはしなかった。だからこの度も突っぱねた、我が学生を邏卒の世話にはさせぬ。学生に問題があるのであれば学校で処分するとな」

 豊太は、自分への説教を思い出しながら続きを聞く。

「そうしているうち、諦め切れぬのか、裁判沙汰になったという事だ。この一月に裁判所が出来たという事もあるのかも知れぬ」

「裁判所が出来たので、この祭訴えてやれという魂胆か、小賢しい奴らだ」と斎藤が憤慨する。

「そこで、河原君に聞いておきたかったのだが……」

 伊澤に声をかけられ、河原勝治は無言のまま顔を向ける。

「邏卒に最初に雪を投げつけたのは君と聞いておる。しかも邏卒に向かって『薩摩っぽ』と言ったそうだが」

「はい」と答えるが、悪びれた様子は微塵も無い。

「君は確か斗南藩であったな。薩摩、長州、土佐を恨んでおるのか?」

 斗南藩は戊辰戦争時の会津藩である。賊軍とされ会津戦争に敗れ二十三万石は没収となり本州最北端である陸奥国斗南三万石へ移され藩士とその家族一万七千名は寒冷の地で困窮を極めた。しかし、それを同情するとか憐れむとかいった感情は学生の間でも無かったであろう、敗者としての報いであり、生き残った者は全てを失った敗者として這い上って行くしか無かった。彼はその斗南藩唯一の貢進生として大学南校に入った。

「……」

 河原は無言で、何と答えたら良いのか戸惑っている様子でもあった。伊澤は少し問い方を変える。

「君は大学南校の頃は、薩摩、長州、土佐の連中とよく喧嘩をしていたが、直ぐに打ち解け学校一の乱暴者である千頭とは昵懇の間になっていると聞く。会津戦争の大将は土佐の板垣退助ではないか」

 千頭清臣、土佐藩出身で安政三年生まれなので、河原より一歳年上である。彼なりの第一番中学のあるべき姿というものがあるらしく、軟弱を極端に嫌った。そういった連中を見かけると制裁を加える乱暴者として知られていた。後年の事であるが、土佐の大先達である「龍馬伝」を執筆し、また内務官僚となって宮城県知事時代に知り合った白瀬矗が、南極探検の資金難に陥った際には相談に与り大隈重信を紹介するなど支援を惜しまなかった。そして伊澤が言う通り、河原は入学当初は薩長土の連中には敵愾心を宿していて、また少しでも会津の悪口を聞こうものなら誰彼なく取っ組み合いの喧嘩をする事が常であった。しかし小柄な事もあり組み伏せられる事も常であったのだが、決して負けを認める事は無く、喧嘩にも常に死を覚悟して望んでいたので、その心映えを感じた乱暴者の千頭も彼には一目置くようになって行く。学問もそう出来る方では無く、不器用であったが性格は竹を割ったように爽やかで、嫌みというものが無く誰からも好かれ、彼も名物男の一人であった。

「生活に必死でしたから人を憎んでいる暇などありません。入学してからです、初めて他藩の連中と話をするようになったのは。会津は賊軍と馬鹿にする連中は許せませんでしたから会津の名誉に賭けて喧嘩もしました。藩公が京都守護職を辞して会津城下に謹慎していたにも関わらず、狼藉を働いたのは薩摩、長州、土佐です」

「その通りだ」

間髪入れず山岡が口を挟む。豊太も福山藩に置き換えて河原の訴えは尤もだと思った。当時城外に疎開しているうち藩は恭順し城下は戦火を免れたのだが、恭順している者に対して戦火を開いた官軍は正に狼藉者であろう。同じ徳川の親藩として、会津藩と福山藩との現在の境遇は紙一重であったろうと感じた。

「山岡さん、私もそう思います」と豊太も賛同する。

「しかし」と河原は続ける。

「敵愾心はありました。しかしこうして同じ釜の飯を食べ、千頭達と親しく交わるにつれ彼らが戦をした訳では無いと思うようになり、彼等に抱いていた敵愾心は次第に薄らいで行きました、不思議なものです」

「いや、すまぬな。邏卒が言うには、『薩摩っぽ』と馬鹿にしたのは、会津人に違いない、怪しからんとねじ込んで来たのでな。薩摩を馬鹿にする事は、政府を馬鹿にすることだなどと息巻いておった。邏卒の大将は薩摩人の川路利良だからな」

「会津人に違いないという言い草は怪しからんな」

 腕を組み会話を聞いていた杉浦が憤慨する。そして斎藤に向かって問う。

「法律とは誰の為にあるのだ」

「人民を保護し、その安全を得せしめる事が要諦であり一日たりとも欠くべからさるものだ」

「邏卒はその人民を保護する為にあるのであろう。雪玉をぶつけられたくらいで裁判沙汰などとは笑止千万では無いか」

「それが、騒ぎを大きくしようとしているのは、雪玉をぶつけられた薩人では無く、薩摩閥に阿る輩のようで、会津人に違いないと言っておるのはそ奴らのようだ」と伊澤。

「伊澤監事、この裁判負けない! では生温い、完膚なきまでに叩きのめすべきだ」

 杉浦が語気を強めると、皆が頷いた。

「すみません、薩摩言葉を聞いた途端、あの邏卒が会津に攻め寄せた一人のような気がしてつい」

「あははは、薩摩っぽに雪玉を食らわせたのはわしも同じだ。気持ちよかったぞ」

 山岡が瓢げた様子で場を和ませ、河原にも笑顔が戻った。

 その後も伊澤は意見を求めて議論を暫く続け、やがて戦略も成った様子で彼等は部屋を出て行ったが豊太は居残った。十一号室の連中は談合中暫く他室へ行ってもらったので部屋は三人だけとなり、豊太は杉浦から貰った煎餅を齧っている。ふと豊太は、杉浦と山岡に河原勝治の生立ちを聞いてみた。

「ああ、大学南校の頃は抜刀騒ぎも起こしてなあ」

 と、山岡が杉浦と顔を合わせて話す。

「抜刀ですか、それはまた何故に」

「会津の事を悪く言った輩が居ってな、『斬る』と抜刀してそ奴を追い回し、舎長の内村良蔵の仲裁でやっと鎮まった」

 杉浦が、話を引き取り、更に続ける。

「初めの頃は円満には行かなかった。当然であろうよ、会津戦争では薩長土連合軍に一家親族を殴殺され孤児として生き残ったのだ」

「石藤よ、福山藩も戦えば会津と同じ事になったであろうよ。城外に避難しておったお主も河原と同じ境遇になっておったかも知れぬ」

「それは、先ほど話を聞いていてその通りと思いました」

「廃藩置県で藩は無くなったと言っても、皆背負っているものから解放される訳では無いしそれは一生続く。しかし、最近やっと河原が薩長土の連中とも親しく交わっておる様子を見るにつけ、学校とは良き処だとつくづく感じている。彼は会津藩の家老であった山川大蔵の推薦で斗南藩の貢進生として大学南校に入ったのだが、全国津々浦々から藩の俊才を集めるこの貢進生の制度を僅か一年とは言え作ったのは先見の明であったと思うぞ。会津も土佐も戊辰の戦で敵同士ではあったが、ここでは河原も千頭も同じ釜の飯を食べる仲間だ。初めの頃は皆が藩の代表であるがゆえにお互い敵愾心を抱えておったし、何しろ言葉が通じなかったのだが、一年もすればどうにかお互い同士が理解出来るまでになった。僕が金曜会を立ち上げて学校内の融和を図ろうとしたのは、何と言うのか……そう、一人一人に才能を僕は感じるし、お互いが交わる事で切磋琢磨する事が、これからの日本には絶対必要という信念を持つに至ったからなのだ」

(いかん、杉浦さんが自分の言葉に酔い始めた)話が長くなりそうだ、と豊太の心配を察した訳では無かろうが、そこは山岡が心得ている。

「杉浦、話の途中すまぬが、談合の間部屋を開けてくれた連中を呼んで来る」

 そう言って、部屋を出るのに合わせて「私も失礼します」と豊太も立ち上り、何か話し足りない顔をして煎餅を齧った杉浦を残して部屋を後にした。

 肝心の裁判はどうなったかと云うと……。

「経験世古に長けたる幾多の半官を相手取って、応対駆引き少しも引けを取らず、暢達の辨、明晰の論、以て彼らを片っ端から説破した華々しき武者ぶりは、今に同学の賛嘆措かざる處である」と、『大学々生遡源』に記されている。

 裁判が学生の勝ちになったかと云うと、後日司法卿江藤新平に呼びつけられ、その舌鋒に流石の伊澤修二も論破されたようである。この事件が切っ掛けで程なく職を辞するのであるが後年、愛知師範学校校長に任じられてからは教育畑を歩み、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)校長など歴任、「小学唱歌集」を編纂し童謡「蝶々」は彼が米国留学中にルーサー・メイソンから教わった曲を紹介したと伝わっている。吃音矯正の社会事業にも足跡を残した。



癖の強い先輩に囲まれた豊太の学生生活が始まり、いよいよ第三章ではベースボールと出会います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ