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第一章 廃藩置県

「ベースボール事始め、神田より」の第一章です。

明治三年、明治政府は有意の人材を東京に集める目的で各藩に貢進生を選出させ大学南校に十五歳以上二十二歳以下の若者を集めます。飫肥藩からは若き日の小村寿太郎も選抜され入学しています。洋学校である大学南校には英・仏・独の各学部があり教師は外国人が雇われ、この時アメリカからホーレス・ウイルソンがバットとボールを持って来日し、放課後生徒に教えた事が日本にベースボールが始まるキッカケとなります。

明治四年福山藩の留学生に選抜された十三歳の石藤豊太は、僚友五名と共に勇躍上京しますが、廃藩置県となり藩は消滅、貢進生制度も廃止されます。さてさて、如何なります事やら…。

「どうしたもんかのう豊太、こりゃ福山に帰れ云う事なんかのう」

 『藩邸』といってもその『藩』が無くなってしまったらしいのだが、石藤豊太は明治四年福山藩の留学生として選ばれ僚友五名と勇躍上京、ここ本郷にある福山藩邸に旅装を解いてやっと落ち着いたばかりの七月十四日、此処に起居している者や在京の藩士達が急遽集められて家令から廃藩置県を知らされた。藩知事の阿部正恒は福山で政務をとっていて不在で、家令以下邸内は混乱している。今後の身の振り方を聞いてもはっきりとした答えが返ってこない。

「藩あっての留学生じゃけ、藩が無くなったらわしらはお役御免いう事じゃろう?」

部屋に戻ってから吉田彦六郎が、悲観的に話しかける。父親は家老も務める家柄の三男坊であるが、福山から上京する横浜までの船中では船室に閉じこもって泣いてばかりいた。どうも本人は福山を離れたくなかったようであるのだが、父親に尻を叩かれるようにして一行に加わった、豊太と同い歳で藩校誠之館の学友である。

「いや、帰らん」

 十三歳の豊太は、声変わりしていない甲高い声で答える。今さら帰ってたまるかと云う気持ちが正直なところでもある。

「帰らん言うてもどうするんか? 廃藩置県を潮にもう留学生は帰れということじゃ無いのかのう」

 反対に彦六郎の気持ちはもう福山に帰るよう傾きかけているようである。

 豊太は彦六郎と違って、上京する船上でははしゃいでばかり居た。初めて乗る外輪船、船とともに新しき世に向かう興奮、「やるぞ」という決意はもはや盛んになる事はあっても衰える事は無く、頭の中は「さてどうするか」で目まぐるしく回り始める。

「そうだ! 彦六郎、今日来ておらんかった山岡さんの処へ行こう」

 山岡とは、豊太とは四歳年上の藩校誠之館の先輩である山岡義五郎の事である。後輩の面倒見も良く剽軽な人柄で二人共に親しくしていたのだが、昨年貢進生として大学南校に入学した。どういう手違いなのだか今日は来ていなかった。

貢進生については少し説明がいる。

明治政府は幕府時代からの昌平坂学問所、蕃書調所(のち開成所)、医学所を明治元年復興し、明治二年大学南校を創設して医学所以外の学生を収容した(医学所は別に大学東校と改める)。明治三年には、有意の人材を東京に集めるという飫肥藩小倉処平と米沢藩平田東助の建議を採用して日本中の各藩から貢進生を選出させて大学南校に入れた。この制度は十万石以上の大藩三人、十万石以下五万石以上の中藩二人、五万石以下の小藩一人、十五歳以上二十二歳以下で学力品行共に優秀なるものと定め、各藩から選抜された若者が大いなる意気と抱負を双肩に上京した。福山藩からは山岡義五郎と武田安之助の二名が大学南校に入学している。当時大学南校には正則と変則があったが、貢進生はすべて外国人教師中心の正則に入れられ、また全員が寄宿生とされた。クラス編成は主に語学能力別に分けられ、月末の試験で進級する事が出来た。こうして政府は薩長土肥といった藩閥ではなく、広く優秀な人材を日本中から東京の、ここ大学南校に集める事にしたのである。

「山岡さんに会うと云う事は、大学南校へこれから行くのか?」

「そうじゃ。山岡さんは寄宿舎で生活しておるらしいから、とにかく大学南校へ行けば会えるだろう。善は急げだ!」

「大学南校はわしらも受験するつもりじゃが、また着いたばかりで行った事が無いぞ、豊太は存じておるのか?」

「わしも知らぬが、藩邸の誰か知っておろう」

 豊太と彦六郎はさっそく、藩邸で大学南校を知る用人から藩邸からの道のりを聞き、簡単な所在の書付を貰って懐にねじ込んだ。

「彦六郎、聞いたであろう、神田というお城に近い場所だ。とにかく中山道を上って筋違御門に向かえばそこが神田と云う処だそうだ。ほら、船を降りて横浜から馬車で藩邸に来た時通ったので覚えておろう、何しろこの藩邸は江戸のうちじゃ!」

 この「江戸のうち」と云うのは、「いざ鎌倉」という時に、武士が徒歩で本丸に駆けつけるその距離と時間の事で、江戸城から一里半の限界。何より気持ちをそのいざ鎌倉に乗せて彦六郎を鼓舞したのだが、「大丈夫か? 不安じゃのう」と、彦六郎には豊太の気分は伝わらなかった。しかし、とにかく学問を続けたい豊太は、貢進生である山岡の処に行けば、大学南校の情報も入るであろうし、ともに学問を続ける方策も聞けるかもしれないと「藁をもつかむ」思いでもあった。

藩邸脇門から中山道に出た。彦六郎を先導するように右にいつもの癖でくるっと直角に曲がった。

「待て待て豊太。何でお主はいつもそう、カクっと曲がるんじゃ」

 歩き方は幼き頃からの癖で、しかも早歩きである。後を付いてゆく者はどうしても遅れ気味になる。豊太は立ち止まって彦六郎を待つ。

「ほれ、中山道をこう南に向かえば江戸城じゃ。とにかく筋違御門を目指す」

散切り頭、小倉袴を穿ち下駄ばきで颯爽と白い道を歩き出し、その背を門番が見送った。ジージーと夏を惜しむように藩邸の屋敷林から蝉の声が賑やかであった。

この辺りは田園風景が広がる武蔵野台地の東端に位置し、周りは政府が桑茶令で奨励して始められた桑や茶畑が多い。藩邸でもこの秋から養蚕を始める準備を進め、信州松本から養蚕職人を雇い入れている。しかしこの辺りの桑は栽培に失敗したものか、土地に合わないのか、枯れてしまった畑も目立ち「大丈夫かな?」と豊太が独り言を言うと、「ほれ見てみい」と勘違いした返答を彦六郎が寄越すが、歩く事で少しは前向きになった様子でもある。やがて前田家百万石は加賀藩の赤い御門が見えてきた。この辺りは日除け地のようで道幅も広がり、この赤い御門が江戸っ子を呼び寄せた名所でもあった。十一代将軍家斉の娘溶姫の輿入れに際して建てられた奥方御守殿に構えた表門で、将軍の娘が輿入れすると、慣習として赤く塗られるのである。

「良徳院様もこの赤門を見られたのであろうのう」

 彦六郎がしみじみとした様子で話す。良徳院とは、福山藩七代藩主阿部伊勢守正弘の事で、ペリー来航により始まった動乱の時期に幕府筆頭老中に就任し、国の舵取りをした名君であり藩士の誇りでもあった。

「しかし、百万石の面影も無いな」と豊太が立ち止まって、屋敷の中の様子を伺う。

 御一新となって間もなく、本郷春木町の火事により御殿は全焼、赤門だけが焼け残ったのである。東京府は加賀藩にこの本郷邸の上地を命じ、今では広大な草地となっている。ガサガサと叢から音がしたが、「あれは狐じゃ!」と動物好きの彦六郎が叢から覗く尻尾を見て断定した。

「あの広い土地は、どうなるんかのう」と再び歩き出して、豊太は呟きながら、目まぐるしく変わる世に翻弄され始めた自分達の将来を、百万石を誇った加賀藩邸の変わり果てた姿に重ねた。東京大学がここに開校され、二人の学び舎になるのはこの後、明治十年の事である。

 武士の世が遠くに霞んでゆく。馬上天下を獲った徳川将軍が治めた世は平和であった。それが黒船四隻のペリー来航により世が尊王攘夷で沸騰し、主君阿部正弘はその苦悩の中で命を縮め、第九代藩主正方は第二次長州征伐の後、将軍家茂の後を追うようにして慶応三年十一月に逝去され、藩主不在のまま福山藩は官軍に包囲された。豊太八歳の頃で、城外に避難しているうちに藩は降伏し、降伏の証のようにして広島藩主の実弟である正桓を養子として迎え第十代藩主とした。藩士は官軍として出征し、最後は函館まで従軍していった。豊太は福山藩士の三男として生まれ、兄二人、姉二人、妹二人、父親は会計係を勤めていた。十歳になって藩校誠之館で漢学と仏学を学んだ。寒中でも火の気なしの氷のような畳の上で熱心に素読をする姿は、どの藩でも見られた光景であったであろう。豊太は懸命に学んで留学生に選ばれ、文明開化の東京府へと旅立ったのである。

 参道賑やかな神田明神を横目に進むと、筋違御門が見えて来る。「去年、ここで仇討ちがあったそうじゃ」と、彦六郎が呟くが、藩邸の誰かから仕入れたのであろう、こういった世上の話題にはやたらと詳しい。この事件も「残っていた瓦版を見せてもろうた」と彦六郎が語る仇討ちとは、水戸藩士住谷寅之助が、京都鴨川で惨殺された事件が慶応三年にあり、長男七之允が弟忠次郎とともに父の遺恨を晴らすべく辛苦の末、やっと目指す土佐藩士山本旗郎を探し当て筋違見附で仇討ちを果した。

「そうか、で兄弟はその後どうなったのだ」

「見附の番士に自主して取り調べを受けたが、仇討ちとわかり無罪放免となったそうだ」

 御一新とは云え、まだ江戸の掟が生きている。

 筋違御門は、江戸三十六見附に数えられ、将軍が上野寛永寺に参詣する御成街道と中山道が見附門内で交錯することから名付けられた。神田川に架かる筋違橋の上で立止り、正面の筋違御門を見上げて、「さて」と豊太が書付を懐から取り出した。

「どれ、わしに見せてみろ」と、いかにも土地勘があるといった風で彦六郎がその書付を取り上げたのだが、不運にもその時河口から一陣の風が吹き抜けて書付を空高く巻き上げて行き、「あー」と叫び声を上げて手を伸ばしてみても後の祭り、呆然とその行方を追う二人の遥か彼方、ヒラヒラヒラと小舟がひしめく水面に落ちて行った。

欄干を両手で掴んだ彦六郎の横に立って豊太は親切に書付をくれた用人には心で詫びながら、「まあ、ここまで来れば何とかなるだろう」と落ち込んだ様子の彦六郎を励ました。

泣きそうな顔をしていた彦六郎も、名誉挽回とばかりに強く頷き、それまでの後ろ向きな気持ちはどこへやらと、積極的に道行く人に声をかけては大学南校への道のりを先導して行った。

 大学南校は護持院ヶ原にある。ここは享保二年(一七一七)の大火で護持院の七伽藍が焼失した五万坪に及ぶ広大な土地を日除け地とした後そう呼ばれるようになった。鬱蒼とした樹林の中に大学南校の校舎を見つけたのだが、玄関先で箒を使っていた小使いの話では夏休みとの事で学生は誰も居ないとの事であった。寄宿舎を教えてもらって行ってみたが、多くの学生は帰省しているらしく、山岡は帰省していないが、運悪く学友と連れ立って出かけてしまって今晩戻って来るかどうかは分からないとの事であった。

「ま、出直すか。大学南校の場所も分かったし」と、二人して今日は諦めたのだが、無限にあるかのような若さの時間はむしろ東京見物の好奇心に取って代わった。さっそく筋違御門まで戻り、人出で賑わう八百屋場やっちゃばに向かい、「まずは、腹ごしらえじゃ」と彦六郎は食い物屋を目聡く見つけて丼物を二個ペロリと平らげ、「せっかくじゃ、お城を見に行こうぞ」と北桔橋門から吹上の景色を鑑賞し、近くの水茶屋で団子を三皿平らげた。落ち着いた店先の長椅子でお茶を飲みながら西の空を眺めると、富士山が見えた。

権現様(徳川家康)も同じようにこの富士の山を眺めていたのだろうなと思うと豊太には不思議な感じがした、福山藩阿部家は御譜代でもある。遠くには平将門が駆け回り、新田義貞が鎌倉攻めの際に、そうそう北条早雲も、この山を馬上で眺めていたであろう。坂東で繰り広げられた栄華盛衰はこの山が全て見届け、徳川の世が変わっても、この山は変わる事なくただ見守るのであろう。こうして富士山を見ているだけで何だか自分たちの明日の来し方などちっぽけに感じて可笑しみが込み上げ少し笑った。

「何が可笑しいんじゃ」と言いながら、「遠くへ来たもんじゃのう」と彦六郎も同じ事を思ったのかも知れなかった。いつの間にか赤とんぼの一群がやって来て、その内の一匹が彦六郎の散切り頭に止まった。それが、丁髷を乗せているようにも見えてまた笑った。

 さて、暗くなる前に帰ろうと、筋違御門橋を渡り、せっかくなので神田明神にお参りしようと参道を歩くと、またしても「腹が減った」と彦六郎が言うので、手を合わせてから「天野屋」という店の暖簾を割った。何しろ育ちざかりの胃袋は底無しなのである、しかも留学の手当も支給されたばかりで当面懐は温かかった。

しかし店に入って驚いた。目の前に目当ての山岡義五郎が甘酒を飲んでいたのを発見したのである。

「山岡さん!」二人は同時に声を上げた。これぞ神田明神の御利益でなくて何であろう。

「何だ、吉田に石藤では無いか」と声を掛けられた山岡も驚いて二人を見る。

「探したのですよ」と、豊太はここまでの道中での出来事を話した。

「それは、災難であったな。まあ、大塚のやりそうな事だ」と言いながら二人を席に促して「膳所藩の杉浦重剛、大学南校の学友だ」と山岡と差し向かいで甘酒を飲んでいた男を紹介した。二人とも和装の袖を肩までたくし上げて威勢が良さそうである。

「これは初めまして、拙者、福山藩吉田彦六郎でござる」と、鯱張って彦六郎が頭を下げる。「同じく、石藤豊太です」と挨拶して座った。

 注文を取りに来た女中に「この二人にも甘酒を」と山岡が勝手に注文し、二人に向き合ってから、「で、藩邸で何かあったのか」と聞く。

「ご存知ですか、廃藩置県の事。藩邸はこの事で混乱しておりまして、殿も福山で政務を取っておられますし……」

「わしらぁ、どうなりますのか?」と彦六郎の悲観がぶり返す。

「廃藩置県? 君、詳しく聞かせてくれないか」と、細身で貴公子然とした杉浦が身を乗り出す。

(君……)新鮮な響きと感じながら豊太が答える。

「はい、殿は藩知事を解任されて福山藩は福山県になって、県知事はお上が決められるとの事で、殿は東京在住を命じられたそうです」

「藩邸に知らせたのは誰か?」と山岡が聞く。

「小林さんです」

 小林義直、藩校誠之館の大先輩で、文久三年二十一歳の時に江戸に留学して幕府の開成所や医学所に学び、明治二年に医学所が大学東高に改組されるに伴い、大学准小教授に招かれて医学教授を務めていた。

「小林さんなら、太政官の動きに詳しいから間違いないな」

「廃藩置県という事は、貢進生の制度も一年で終いという事だな。もう藩が留学生を選抜する事は無くなる。噂では聞いていたが、ついにやったか」

 杉浦が、甘酒を飲み干して続けた。

「ご存知だったのですか?」

「ああ、大学南校の改革を訴えていた中で、そういった話があるという事は耳にしていた」

 山岡が、豊太の問いに答える。

「大学南校の改革? ……ですか」

「そう、同じ貢進生仲間の斎藤修一郎を中心にした連中が、建白書を政府に提出したのだ」

 山岡の説明に豊太も彦六郎も戸惑っていると、杉浦が補足するように吟じ始める。

「校則が不規律極まる校規基に生活せしめ、誘惑感染し易き青年を汚濁甚だしき東京の真ん中に放って置くと云うことは前途極めて憂ふべきことである。此れ濁り学生自身の学術の進歩品性の向上を阻害するのみならず……だったか。大学南校は番所調所開所以来の生徒も居て、東京で遊び暮らして身を持ち崩す輩も多いし、藩で選抜された筈の貢進生の中にも留学費を放蕩に使って行方知れずになった者も居て風紀も乱れておる。要は玉石混合で、天下国家の為に学問を志した斎藤修一郎たち有志には我慢ならなかったようだ」

「それで建白書ですか」

「命がけだったそうだ。企みが露見すれば、淘汰される側の連中に殺されるかも知れん。何しろ藩の名誉を背負って貢進生となっておるのにクビになってみろ、本人もだが藩の面目も丸潰れだ、学校には未だ刀を腰に携えとる連中が沢山居るし、実際些細な事で抜刀騒ぎも多い」

 山岡に「殺される」と言われ、豊太は仇討ちの事を思い出し、彦六郎は顔から血の気が引いた、物騒な事この上ない。

「秘密の建白書なのでしょう? 我らに教えてもよろしいのですか」

 秘密の筈の建白書の一文を諳んじるのが不思議でもあり、目の前の二人がその建白書提出の一味なのかと疑問に思って豊太が聞く。

「秘密というのは、バレるものだ。我らは建白書には預かっておらぬが、『これは秘密だ』と耳打ちされながら寄宿舎じゅうの者が知る所となった。まあ、改革の必要は感じていたし、望むところでもある。ま、我らも淘汰される側かもしれぬがな」

 がははは、と山岡は豪快に笑い飛ばしながら続ける。

「学生の学力差が著しく、同一標準のもとに教授するという事に無理があったのだ」

「わが校には大学という文字を冠しているが、その授けるところは、窮理学の素読、簡単な綴り字、会話の類に過ぎない。これを欧米諸国の大学に比較すれば、程度の差は非常に大きい。欧米の大学の場合には、法科、文科、医科、工科など諸科を設け、それぞれ一世の大家が深淵な学理を講じているにもかかわらず、わが校の場合はかの地の小学校にも多く勝らない程度の学科を授けて、これを大学というのは物笑いの種である。刻下の急務は、わが校をして大学の実質を備えしめることである。それ故学力の低い者は淘汰すべきである……、っとまあ、この建白書がお上を動かしたのだ」

「お待ちどうさま」

 杉浦が建白書を諳んじるうちに女中が甘酒を運んで来た。と同時に立ち昇る湯気が鼻孔に甘い香りを運び込む。

「冷めないうちに飲め」

 勘定は山岡が払って促されると、二人とも思わず手に取り「頂きます」と口元に運ぶ。

「美味い!」

 先ほどまで血の気の引いた顔をしていた彦六郎にも生気が戻る。

「そうであろう、神田明神の甘酒は天下一だ、のう杉浦説明してやってくれ」

 と、山岡が杉浦に促すと、待ってましたとばかりに話始める。

「セイロで蒸した米を冷まして麹菌を植え付けよくかき混ぜて地下のムロへ落とす。麹の発酵に地熱を利用している訳だ。この室で三日間寝かせるのだが、その間温度の上昇を抑えたり、酸素の吸収をよくする為に真夜中や明け方の作業が繰り返されておる」

 聞いていてもよく分からなかったのだが、有難さはしっかり伝わって来た。山岡がさも自分の手柄のように自慢する甘酒が胃の腑に流れ込むと、豊太も気持ちにゆとりが出て来たものか、彦六郎の云う「わしらぁ」よりも、目の前の二人がよくもまあ泰然としているのは、何か理由でもあるのであろうかと問い質す。

「山岡さんも、杉浦さんも、淘汰される心配は無いのですか?」

「わしも、杉浦も英語がからっきし駄目で、建白書の斎藤も語学では同じ最下級の十四の組におった。しかし皆負けず嫌いだから、猛勉強の甲斐あって毎月ある試験毎に上級に進級し、杉浦はこの夏三の組に、わしは四の組に進級したところだ。上級に入っているから、まあ淘汰される事は無いであろうよ」

「や、山岡さんが四の組なのですか」

 藩校誠之館で、貢進生に選ばれるほどの山岡をして四の組という事に彦六郎は驚きの声を上げる。

「君たちは、安政の生まれか?」

 杉浦が唐突に問いかけ、「はい、安政六年の生まれです」と豊太が答え、彦六郎も頷く。

「僕は、安政の大獄で頼三樹三郎が、軍鶏籠で江戸に運ばれて行くのを見た。五歳の時だ」

 頼三樹三郎は、幕末思想に大きな影響を与えた「日本外史」の著者頼山陽の三男で、家族を捨てて尊王攘夷に奔走した志士である。父親である山陽は、福山藩の藩儒である管茶山の弟子でもあり、頼家は福山藩と関係が深い。頼三樹三郎が安政の大獄で捕らえられ、杉浦が軍鶏籠で運ばれたのを見たのは、江戸へ送られる時に近江膳所藩の街道を通ったのであろう。江戸では福山藩の藩邸に幽閉されるが、藩は彼を優遇し藩主侍講であり頼山陽の弟子でもあった石川和助は、幕府に助命嘆願を行ったが、伝馬町牢屋敷で斬首された。安政六年の事であり、杉浦は豊太たちより五歳年上と云う事になる。

「頼三樹三郎をよくご存知なのですか」

「膳所藩本多家は、福山藩と同じ徳川譜代藩だ。しかし京に近い、ゆえに勤王佐幕で藩論は二分された。脱藩して蛤御門の変で討死した者もおる。僕は十一歳の時に高橋坦堂先生の門下生となったのだが、勤王家であったために慶応元年に藩は坦堂先生と同志十一人を獄に入れて斬られてしまった。僅か半年であったが、僕は坦堂先生に精神を鍛えられ、今でも尊敬しているし、先生のようになりたいと日々精進している。坦堂先生に学んだ者の中には、京で頼三樹三郎に学んだ者も一人居て、彼も刑死となった」

 この時代、学統という事が非常に重んじられた。つまり自分は誰の弟子であるという事が学統の継承を語るもので、全人格を仰ぎ尊んで常にこれを私淑する心を持っていた。特に杉浦の中では坦堂の影響は大きかったようである。

「ゆえに」と杉浦は続ける。

「僕にとっての学問は、戦と同じ事である。ゆえに命がけなのである。君たちも、大学南校に入学をした暁には、僕とともに学問に励もうではないか!」

 杉浦の学ぶ覚悟の披歴、特に「命がけ」の言葉に彦六郎の顔からまた血の気が引いた。話し出すと、言葉に酔うのか、話にも熱がこもって来る。

「坦堂先生は、藤樹先生と、熊沢蕃山とを抱き合わせた如くである人物であった」

藤樹先生こと中江藤樹は近江聖人と呼ばれる杉浦の地元の儒学者である。しかし、洋学を学ぶ大学南校で坦堂先生のような「儒学者」になりたいというのは、少し目指す方向が違うようにも思えるのだが、しかし恐らく坦堂先生の話を聞かされるのだろうと覚悟を決めながら黙って頷くと、話が長くなる気配を察した山岡が割って入った。

「まあまあ杉浦、今日はこの辺にしておけ」

 恐らく何度か聞かされてきた様子でもあり、話を打ち切った。

「ところで、廃藩となると留学費はどうなるのですかの?」

 ボソッと彦太郎が呟くと、「あっ!」と山岡と杉浦がお互いを見合った。

「そうだ! 留学費だ。廃藩となって留学費が無くなれば、兵糧攻めと云う事か? こうしては居られぬ、藩邸に問い質さなくては。山岡、とにかく藩邸に行って参る」

 言うやいなや、杉浦は立ち上って慌てて店を出て行った。

「おい、わしも藩邸に戻るぞ」

 急かされた二人は、慌てて残った甘酒を飲み干す。山岡が、下駄を懐にねじ込んで裸足で店を出たのには、(相変わらずだな)と二人で顔を見合わせ、おっちょこちょいで憎めないこの先輩の背を追いかけた。

 藩邸に向かう上り坂から西の空を見ると、遠く富士の山の端に、橙色の夕陽が沈むところであった。ふと、今日は結局何をしに出掛けたのだろうと少々徒労感を覚えながら、藁をもつかむと云うが、結局その藁をつかんでしまっただけの長い一日だったと豊太は思った。

 貢進生選挙心得には、「藩は学費一か月十両を下ってはならないこと、ほか書籍代として一か年五十両ほどを見込んでおくべきこと」としているが、裕福な藩は別として、廃藩により多くの貧乏藩では学費の仕送りが途絶える事になったようで、杉浦も膳所藩からの仕送りが途絶えたため、滋賀県の県費生になったが、それも明治五年で止まったため、本多家の家扶の田中有年から学費を借り、更に後学校で給費生を設けたので貧窮願を出して給費生となって学問を続ける事になる。

 廃藩置県の後、七月十八日に文部省が設置され、同月二十一日に大学南校は文部省所管となって、名称も大学の二字を削り「南校」に改称された。九月になって「南校」は一時閉鎖となり、山岡や杉浦が予想した通り貢進生制度も廃止されてすべての生徒は退学を命じられた。翌十月には新たに南校入学規則が発布され、優秀なる者が選抜されて南校は再開された。生徒数四百四十余人で、山岡も杉浦も無事選抜された。学科は地理、歴史、数学、理学、文学、修身学等で、外国語に関しては英、仏、独の三科のうち一つを選択させた。

 豊太と彦六郎は、東京に留まり藩邸や先輩の寄宿先で厄介になりながら勉学に励み、翌年の明治五年八月に南校に入学を果す。この時文部省は新たに学区制を公布し、南校は「第一大学区第一番中学」と名前を変えた。大学と呼ぶには設備が足らず、中学とするには程度は高いのではあるが、このような曖昧な名称で落ち着いたようである。今で云えば中学から大学までの年齢の若者がこの一番中学で、年齢ではなく成績順でクラス毎に分かれて学んだ。しかし、官立の最高学府である事に変わりはなく、やっと大学設置のスタートラインに立ったのである。

教師にしても、大学南校が西洋の一流学者を揃えていたかと云えばそうでは無い。例えばホーレス・ウイルソンは教師になる事が彼の夢ではあったのだが、進学せず南北戦争に従軍したので母国アメリカの大学すら出ていない。夢を諦めかけていた時、日本で教員を募集していると知り応募し来日した。恐らく日本側も教員資格などを求めずゆるやかな採用条件であったろう、ともかく明治十年まで英語と普通学(歴史など一般教養)を教える教師として月給二百円で契約し、彼がボールとバットを持って明治四年に来日した事が日本に初めてベースボールを持ち込んだとされる由縁となった。

豊太と彦六郎は無事に留学目的でもあった南校(第一大学区第一番中学」に入学を果たし、第二章はいよいよ学生生活が始まります。

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