第9話 煌玄の大剣
破壊された床の向こう――瓦礫の霧の中で、あのゴーレムの巨体がゆっくりと立ち上がっていた。
動きは鈍重で、どこか昔の蒸気機関のような不器用さがあったが、それでも確実に、脅威としての風格を醸し出している。
真尋が混乱したまま身じろぎをした、そのときだった。
「きゃっ……!」
甲高い声が跳ねる。
アイリスが――あの尊大で、冷笑と共に階段を下りる女性が、ゴーレムの腕に掴み上げられていた。
まるでキャンディ袋の取っ手を持ち上げるかのように、軽々と。
一瞬、彼女の顔に「あ、やば」と書いてあるのが見えたような気がした。
真尋の幻覚ではないと思いたい。
だが、その顔はすぐに「ふぅ……」と、気怠げな息に変わった。
「ちょっと、余裕出しすぎちゃったかしら。うーん……やっぱり、もっと上級の子を呼ぶべきだったかなぁ」
どうやら、捕まっているという状況そのものより、選んだ召喚獣のグレードを反省しているらしい。
現実から一ミリだけズレてる感じが、彼女には妙に似合っていた。
ゴーレムはアイリスをぶら下げたまま、赤い魔力の目をぎょろりと動かした。
そして、床に膝をついたままの真尋を見つけると、重たい音を立てて歩き出す。
ひとつ、ふたつ、床を打つ足音は地響きのようだった。あきらかに、次の獲物をロックオンしている。
アイリスは宙ぶらりんの体勢で、真尋の方を見下ろすように声をかけた。
「君、もう逃げてもいいわよ」
まるで「雨が降ってきたから帰ってもいいわよ」とでも言うかのような、飄々とした言い方だった。
真尋は、立ち上がりながら、少しだけ笑う。呆れと、苦笑と、それでもどこかあたたかい感情が混じった笑いだった。
「……いきなり魔物をけしかけるし、高飛車だけどさ……女の子だろ。置いていけるわけないじゃん」
それは、誰かに見せるための決意ではなかった。
かっこつけでも、自己陶酔でもない。ただ、当たり前にそう思ったから、口に出しただけのことだった。
その言葉に、アイリスはわずかに目を見開いた。
助けられる立場に立ったことがほとんどないらしく、少しばかり調子を狂わせたようだ。反論する余裕も、今はなかった。
「それに……まだ、水と食料、もらってないしね」
まるで夕飯前に親の機嫌を取るみたいな口調で、皮肉を落とす。
「サンクコストってやつさ。ここまで付き合って、手ぶらで帰るのも馬鹿みたいだろ?」
サンクコスト――ここまで来て、何も得ずに撤退するのは、いささか投資効率が悪すぎる。
そんな皮肉を最後に落としながら、彼は正面からゴーレムを見据えた。
目の前の怪物がどれほど巨大であろうと、いま逃げる理由にはならない。
とはいえ、啖呵を切ったところで、問題は山積みである。
真尋の怪力がこのゴーレムに通じないことは、先ほどの激突で身をもって確認済みだ。拳が効かないどころか、向こうの装甲には埃一つ付かなかった。
どうしたものかと考える間にも、敵は迫ってくる。
無慈悲な機構音を立てながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくるそのさまは、まるで借金取りのようだった。
――返せる当てのない金を、返せと迫るような執念深さがある。
「さて、何かいい手は……ああ、ないよな、知ってる。そりゃそうだ」
脳裏をよぎるあらゆる手はすでに潰れていた。しかも今の彼には武器すらない。
あるのは、埃まみれの服と、口だけ達者な言葉、それから――ふと、彼の視線が指輪へと落ちた。
カラミッド。伝説の魔導具。その名は大仰だが、今のところ、ただの古びた金属の輪に過ぎない。
「おい、カラミッド。お前、伝説の魔道具なんだろ? まさか名前負けってことはないよな? 無反応系魔導具なら、せめて説明書くらい添えて出てこいよ」
ゴーレムの足音が近づいてくる。
床が小刻みに震え、空気が重くなる。まるで死神が興じるステップに合わせて、世界の終わりが踊っているかのようだった。
「……いいか、別にあのゴーレムを一撃で粉砕しろなんて無茶は言わない。だが、せめてだ、跳ねろ。飛べ。煙の一つも吹いてくれ。君もこんなところで僕と心中したくないだろ?」
彼の中では、それはもはや祈りなのか皮肉なのか、自分でも判別がつかなかった。ただ切羽詰まった男が、無力な指輪にすがるという、滑稽な構図だけがそこにある。
しかしそのときだった。
唐突に、空気が変わったのだ。
指輪――カラミッドが、鈍く脈打つように紫の光を放った。
それは明らかに、生き物の鼓動に似た律動だった。熱を帯び、彼の指に焼きつくような感覚が走る。
「……おいおい、冗談だろ?」
真尋が小さくつぶやいたときには、もう遅かった。
指輪の中央が裂け、空間がねじれた。
まるでこの世界の法則が一部だけ書き換えられたかのように、ねじくれた闇が一条、虚空から溢れ出し――そこから、一本の剣が現れた。
それは大剣だった。
だが、同時にそれは、天より墜ちた呪詛であり、地の底に忘れ去られた雷霆の結晶でもあった。
刃は黒曜石のように黒く、鈍く光を湛えていた。
その闇を裂くように、紫の雷が走る。稲妻は刃の中に封じられているかのようでありながら、ときおり実体を得て、空気を震わせる。
柄は古代語で刻まれた呪紋に覆われ、見るだけで人の理性を侵しかねない禍々しさを放っていた。
大きい。あまりにも大きすぎた。
それはただの大剣ではない。
剣として作られたというより、災厄の形を無理やり剣に押し込めたような、重厚で暴力的な存在だった。
「……なんだよ、やればできるじゃん」
呆れたような声を出しながらも、真尋はその柄に手を伸ばす。
普通なら人の腕力で持てる重さではないはずだった。
実際、視覚的にも常識的にも、それは小型の車のような質量に見えた。
だが――意外なほど、それはすんなりと彼の手に馴染んだ。
重さは確かにあった。間違いなくあった。だがそれは、腕が折れるとか、膝が砕けるとか、そういう類の致命的な質量ではない。
むしろ、ずっしりとしたその重みは、彼の掌に確かな実感を与える。
砂に埋もれかけていた足元が、ひとつの軸を得て、世界との繋がりを明確に思い出すかのようだだった。
異世界の空気、焼け焦げた魔力の匂い、あらゆる感覚が一気に研ぎ澄まされていく。彼の中に、ようやく「戦う」という回路が接続されたのかもしれない。
そして、その様子を見ていたアイリスは――と言えば。
「へぇ?」という短い音を、呆れと驚きの半々で漏らしていた。
つい先ほどまで「役立たずのお荷物枠」として雑に扱っていた青年が、伝説級の古代魔道具を使いこなしているのだ。しかも目がマジだ。
その光景は、いわば料理研究家の前で、野良猫が絶妙な火加減でフレンチトーストを焼いているようなものである。
事態の深刻さよりも、混乱と「なんでそうなるの?」が先に来る。
だが、真尋はそんな彼女の戸惑いなど露とも気にせず、大剣を握り直すと、地を蹴った。
あくまで跳び方は我流――かつて体育の授業で「君、跳躍力は平均だね」と言われた青年が、己のリミッターを全解除して空へ舞う。
ゴーレムの正面、鈍重な巨体。その胴体めがけて、真尋はその大剣を――振り下ろした。
ドォンッという音が、世界を歪める。
それは斬撃ではなく、もはや質量の暴力だった。
塊ともいうべき大剣が、加速度とともにゴーレムの胴を殴り飛ばした。
鉄と魔力の構成体が、そのまま後ろに吹っ飛び、石柱をへし折って地面に巨体を横たえる。
その衝撃で、拘束されていたアイリスも空中に投げ出された。
綺麗な放物線を描きながら、「うわぁ!?」という短い悲鳴とともに地面に向かって落下していく。
彼女のドレスがぱふっと広がり、まるでお姫様の人形が投げ捨てられたかのような絵面だった。
もしこの場に絵描きでもいれば、躊躇なく「堕落の姫君」とでもタイトルをつけて売り出しただろう。
真尋はその一幕を横目に、大剣を持つ手を見下ろした。 指先に痺れが残る。 だがそれは痛みではない。 おそらく、昂揚。 あるいは戦意の震え。
……というような気がしたが、ぶっちゃけると「おいおい、これ本当に僕がやったのか?」という気持ちが強かった。
さっきまで、自分の身長よりデカいゴーレムに追いかけ回されていた人間が、今ではそいつをワンパンで吹っ飛ばしているのだから、驚くなというほうが無理な話だ。
真尋は半歩下がり、大剣を肩にかつぎながら、「これ、楽に持ち運べる方法はないのかな。こんなものを持ち歩いたら邪魔でしょうがない」とか余計なことを考えていると、轟音が耳をつんざく。
ゴーレムの左腕、そこに仕込まれていた魔導砲――重厚な魔力の粒子が圧縮され、深紅の閃光となって彼に向かって放たれる。しかし、真尋は逃げよう、と思わなかった。というより、「これ、斬れるかも」という根拠のない直感が彼を支配していたのだ。
常識的に考えれば、熱光を斬るなど不可能だ。 炎や雷を刀で断つなど、物理法則に対する挑戦である。 だが、そのときの真尋は、理屈を必要としなかった。
頭のどこかにある『主人公補正』のようなものが、臆面もなく自己肯定を後押ししていた。
実際のところ、「おいおい、本当に大丈夫か?」と若干の心配と懐疑の精神はあったが、無謀ともとれる勇気に引っ張られ、彼の足は勝手に前へと出ていた。
そして、閃光が目前に迫ったその瞬間。
雷鳴のような音と共に、真尋の大剣が魔導砲の閃光を捉えた。
刹那、全身に稲妻のような衝撃が走る。だが彼は怯まなかった。
ただ一歩、また一歩と、モーセが紅海を割って進んだように剣を押し出して歩む。
魔力の奔流は大剣に吸い込まれ、刃の上で炸裂し、霧散していった。
まるで神話の中の勇者が竜の吐く火炎を切り裂いたような、そんな光景だった。
魔力の奔流を切り裂いた後、真尋は再び走り出す。いや、跳んだ。
それはもはや跳躍というより、「跳躍力を誤認した人間が重力のルールを無視した場合の一例」とでもいうべきムーブだった。
十数メートルはあるゴーレムの頭部へと一直線に飛翔している。人生、どこに地雷が埋まってるかわからない。
空を切り裂いて、黒く禍々しい大剣が振り下ろされる。
ありったけの力を込めたその一撃が、ゴーレムの頭部に叩き込まれた瞬間、空気がビリビリと震えた。
鈍い衝撃音が遅れて耳に届く。それは破壊音というよりも、「目覚まし時計をハンマーで叩き割った」ような、最終的な終了の音だった。
巨体が揺らぐ。膝を折る。
そして、スローモーションのように、ゴーレムは仰向けに倒れた。
地面に崩れ落ちるその巨体の衝撃は、地鳴りとなって辺り一帯に轟いた。
――戦いは、終わったのだ。