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第8話 パンドラの箱

「――キマイラ、あなたに決めたわ」


 静かに名が呼ばれ、空気が裂ける。

 魔術式が空間に浮かび上がり、無数の文字が宙に舞う。

 風が旋回し、重たく粘ついた魔力が、周囲の温度を一段階引き下げるように感じられた。

 召喚陣の中心に、ひとつの影が凝縮されるようにして浮かび上がる。


 獅子の頭部は、太古の戦士のような風格を湛えていた。金色のたてがみが風に散り、喉奥からは雷鳴にも似た咆哮が響く。

 背中には山羊の角を持つ頭部が、静かに口を開いていた。その瞳には理知の光があり、血の通った知恵が眠っているかのようだった。

 そして尾――それは一匹の巨大な蛇となって、全身をくねらせながら地面を舐めるように動いていた。その鱗は夜の川のように冷たく光り、何かを待ち構えていた。


 三つの意志が、一つの獣に宿る。

 それは肉体ではなく、概念として編まれた怪物だった。

 “力”、“知”、“本能”――それぞれが他を否定せず、ただ戦うために融け合っていた。


 キマイラが一歩を踏み出す。

 そしてもう一歩。土がはじけ、石が割れる。

 すぐさまゴーレムが迎撃に転じた。

 岩塊のような腕が振り上げられ、質量そのものを叩きつけるような拳がキマイラの肩をかすめた。雷のような衝撃が空を切る。


 しかし、キマイラは止まらない。

 獅子の爪が弧を描き、ゴーレムの胸に斬りかかる――が、その刃先は鉄にすら及ばなかった。


 硬い、という言葉では足りなかった。

 それは“侵せない”という次元の硬度だった。

 まるで、この世のどこにも柔らかな部分などないかのように、ゴーレムの全身は絶対的な防壁と化していた。


 山羊の口が魔力の詠唱を開始する。紫の光がその喉元に集まり、小さな星のような粒子が生まれる。

 蛇の尾が低く身をかがめ、脚を狙って噛みついた――が、その牙さえも通じない。

 次の瞬間、ゴーレムの拳が唸りを上げて振り下ろされる。蛇の尾が無残に地へと叩きつけられ、苦悶のような呻きが風に混じった。


 獅子が咆哮し、山羊が魔弾を放つ。蛇が飛びかかる。

 三つの本能が一斉に燃え上がる――だが。

 それでもなお、ゴーレムは崩れない。

 まるで、歴史のように重く、地層のように深く、凍てついた神話のように動じない。


「……押されてる」


 真尋が静かに呟いた。

 目の前で巻き起こる光と衝撃の応酬に、思わず唾を飲み込む。

 キマイラは全力で抗っていたが、ゴーレムの質量と破壊力は、まるで物理法則そのものがこちらに敵意を抱いているかのようだった。


「そう思うなら、少しは協力してくれないかな」


 アイリスは呆れたように言った。

 口調は静かだが、その中に微かに棘が混じっている。


「例えば、私が命がけで時間を稼いでる間に、カラミッドを取りに行くとかね。あなたの脚は飾りじゃないでしょう?」


「今のは君なりの激励だと思って聞いておくよ」


 真尋は肩をすくめたが、次の瞬間には走り出していた。

 爆ぜる火花、唸る咆哮、振り下ろされる重金属の拳。

 キマイラとゴーレムの間を縫うようにして、真尋は滑り込み、跳ね、転がり、埃まみれになりながら前へと進む。

 命知らずというよりは、単に運動神経が良いだけなのかもしれない。


 そして辿り着いた先――それは、祭壇のような高台の上に置かれた、重厚な宝箱だった。


 箱は一見して目を惹いた。

 真紅の大理石のような外装には金細工が絡み、ところどころに不可解な紋章が埋め込まれている。

 蝶番には黒曜石が使われており、蓋の縁には古代語めいた文様が刻まれていた。

 それは宝箱でありながら、何かの封印装置にも見える。美しく、そしてどこか禍々しい。

 これが「パンドラの箱」だと誰かに言われれば、真尋はたぶん納得してしまうだろう。


 実のところ、「パンドラの箱」というネーミング自体、かなりの誤訳である。

 ギリシャ語の pithos は「壺」であって、箱ではない。壺だ。

 フタの付いた、あの、漬物とか入れるような――いや、入れないかもしれないが――あれだ。

 とはいえ、「パンドラの壺」ではいまいち緊張感がない。

 致命的な災厄が壺から飛び出す様子は、どうしてもシュールコメディの絵面になってしまう。だから、箱でよかったのだ。たぶん。

 箱の底に残された希望については、色々解釈はあるがそれを幾つか紹介しよう。


 解釈その①。

 災いが飛び出し、世界に病と死と争いが満ちた後、ただ一つだけ箱に残されたものがあった――希望だ。

 つまり、世界がどれほど悲惨に崩れようとも、人間は希望だけは手放さなかった。まるで、それが最後の灯火であるかのように。

 いかにも道徳の教科書が喜びそうな、美しい物語である。


 だが、そこに冷や水を浴びせるのが解釈その②。

 希望もまた、最初から箱に詰め込まれていた災厄の一つだった。しかも、災厄のくせに箱から出ることすら許されず、底に閉じ込められたままだった。

 つまり、人間は最後まで「希望という幻想」に縋って、いつまでも立ち止まり、苦しみ続ける。

 希望とは、あらゆる悪の中で最も恐ろしい。なぜならそれは、苦しみを延長させる機能を持つからだ。


 そして、ここからが真尋の番だ。

 彼の考える、解釈その③。

 開けなければ、希望すら存在しなかった。


 確かに、箱を開けなければ世界に災厄は広がらなかっただろう。

 だが同時に、希望が残ることもなかった。

 希望とは、災いがあって初めて、その先にかすかに見えてくる灯のようなものであり、痛みや喪失と引き換えにしか、その輪郭を掴むことはできない。

 それはまるで、通過儀礼のようなものだ。苦しみの淵を踏み越えて初めて、人は何かを得る。失うことによってしか、見つからないものがある。


 ……とまあ、いかにも哲学好き大学生が考えそうな屁理屈ではあるが、今の真尋にとってはそれが唯一の拠り所だった。

 少なくとも彼は、こう解釈していたからこそ、躊躇しながらもこの禍々しい箱を開けるという選択を取ることができたのだ。

 つまり、彼の物語が始まったのだ。


「よし、開けるぞ」


 真尋は息を整え、両手を箱の蓋にかける。

 祈りのような動作で。

 それが地獄の扉であろうと、もしくは、ほんのわずかでも救いの兆しが潜んでいようと――彼は、確かにその蓋を押し上げた。


 箱の蓋は、拍子抜けするほど静かに開く。

 内側には何の仕掛けもなく、光も音もなかった。神話的な閃光も、呪詛めいた呻き声も、厳かな啓示も、何も。まるでただの――古びた木箱だ。


 中に入っていたのは、指輪がひとつだけだった。

 それは、思わず目を細めてしまうほどに、あまりにも粗末なものだった。

 縁の欠けた黒い金属。というより、金属なのかどうかも怪しい。鉄とも銀とも鉛ともつかない、不吉なほどに光を吸い込むような質感。

 装飾の中心に嵌められているのは、白っぽい紫色の宝石。

 曇りガラスのように輝きのない、不安定な色彩が宿っている。それもまた、時折かすかに瞬くように脈打ち、こちらの存在に応答しているかのようだった。


 もしこれが伝説に語られる「古代魔導具カラミッド」だと言われたなら――いや、言われたのだが――どうにも、納得がいかないらしい。


 その姿には神秘も壮麗さもなく、せいぜい骨董市の隅で埃を被っている雑品といった風情だった。

 何かしらの凄まじい魔力を内包しているのかもしれない。だが、今目の前にある現実としてのそれは、ただのボロい指輪にしか見えなかった。


「……これが?」


 真尋はそう呟いて、それ以上言葉を続けることができなかった。

 考えていたような劇的さがどこにもなかった。

 拍子抜けというよりは、何か見てはいけないものを覗いてしまったような、そんなざらついた不安だけが喉元に引っかかっていた。


「どうしたの!?」


 アイリスの声が飛んできた。

 彼女は今もなお、召喚したキマイラを盾にしながら、ゴーレムの進行を必死に食い止めている。

 巨体の一撃を半身で受け流し、咆哮とともに火花を散らす戦場の只中から、彼女は振り返った。


「カラミッド、あったの!?」


「……いや。あったけど……」


 どんな表情をしているか、彼自身でも分からなかったことだろう。

 感情が追いついてこない。

 期待と不安と徒労が混じり合って、何とも言えない沈黙が真尋の口元を曖昧に濁らせた。


「だったら――早く逃げるよ! このゴーレム、手に負えないわ! もう限界!」


 アイリスの怒声が、戦場の轟音に混じって響いた。

 キマイラが再び吠え、ゴーレムの拳が空を割る。どこかの天井が砕け、粉塵が宙に舞う。

 そこで真尋はようやく我に返ったように、箱の中に残されたたった一つの指輪に手を伸す――そして、触れた。


 その瞬間、彼の手にぴたりと吸いつくような、妙な心地よさが走ったのだ。

 フィットする、という言葉では追いつかない。

 馴染む。まるで、最初から自分のためにあったかのように。


 それは、たとえば梅とうぐいすのような相性だった。

 あるいは、トマトとチーズ。バジルを添えれば完璧だ。

 あるいは、ジーパンと白シャツ。いや、猫とコタツ。


 もしくは、カフェインと午前四時。

 ゾンビと薄明かりの地下室。

 あるいは、遺言と密室殺人。

 ……なんだか後半に行くほど無理やり感が出てきたが、まぁ、とにかく合っているのだ。


 そう地の底から言い訳のような感想を抱いたところで、真尋はふと、我を忘れていたことに気づいた。

 いや、厳密に言えば「思い出した」わけではない。

 思考の重力が、急に消えてしまったようだった。

 まるで、真昼の通学路で目を閉じたまま立ち止まり、蝉の声だけが世界を満たしていくような、そんな茫漠とした感覚。


 叫び声や爆音は、彼の耳をかすめるだけだった。

 砂塵の匂いも、瓦礫のきしみも、どこか遠くに追いやられていく。

 焦りや危機感といった人間的な感情の層が、何かに剥ぎ取られたような、そんな異常な静けさがそこにはあった。


 ――何かが、呼吸を合わせている。

 そんな錯覚。

 これは……この指輪の力なのか?


 思考の中にひそやかに波が立つ。

 理解ではない。推測でもない。ただ、圧倒的な確信だけが芽吹いていく。

 見えない力が、真尋の思考をやさしく、だが確かに握りしめていた。

 手綱のように。それとも、絞首縄のように。


 世界の音が遠のいてゆく。

 崩れゆく塔の中で、ただ一人だけ別の時を歩いているようだった。


 ――そのときだ。

 乾いた、しかし重い衝撃音が空間を貫いた。

 ゴーレムの巨腕が、キマイラの胴を真正面から叩きつけたのだ。


 鈍い音とともに、身体が地面にめり込む。

 すかさず、ゴーレムの左腕が回転し、魔導砲が淡く紫に光を帯びる。

 その砲口から、魔力が飽和した熱光が――爆ぜた。

 刹那、キマイラの姿は燃える影となり、そして焼け焦げた塵へと還っていった。


「キマイラァッ!」


 アイリスの声が、鋭い金属のように真尋の耳を貫く。

 その声が、彼の意識を現実へとひき戻したのだ。

 張り詰めていた世界が、割れるように戻ってくる。

 喧騒が、煙が、魔力の焼ける匂いが、一気に襲ってきた。

 その圧力に、真尋の膝が自然と折れた。

 床に手をついたとき、指先に冷たい石の感触があり、遅れて鼓膜が悲鳴を上げる。

 頭の中がぐらりと揺れて、しばらくは何が起きたのか、何が目の前にあるのか、判断がつかなかった。

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