第6話 地下遺跡
アイリスが軽く指を鳴らすと、ランタンのような光が空中にふわりと現れた。
丸く小さな球体で、柔らかな琥珀色の光を放っている。どうやら自律的に彼女たちの数歩前を漂ってくれるようで、進むたびに地面を照らしてくれる。
灯りに照らされた石造りの壁は、風化しながらもどこか荘厳な佇まいを残していた。
苔と埃に覆われたレリーフのような文様が所々に刻まれているが、その意匠は見慣れないものばかりだ。
道の左右には古びた壺や、今や用途不明の木箱が積まれており、かつてここが単なる洞窟ではなく、「何かの拠点」だったことをほのめかしている。
「ねえ、この場所に眠ってるっていう……その、カラミッドって何なんです?」
真尋が尋ねると、アイリスの目がわずかに輝いた。
どうやらこの話題は、彼女の中で「話してもいいことリスト」の上位にランクインしていたらしい。
「カラミッド――それはね、煌玄龍カランシールの力を封じたとされる、古代魔道具よ」
その言いぶりは、まるで「ナポレオンがエジプト遠征で見つけた何か」ぐらいのテンションであり、本人にとっては常識とでも言わんばかりの熱量だった。
「それも、ただの魔道具じゃない。レア中のレア。伝説級どころか、神話級ね。カラミッドを求めて探しに行った人間は、誰一人として戻って来ないのだから」
言葉の端々に、軽い陶酔すら感じられる。
古地図と伝説と、そして未知の危険。彼女の中ではそれらすべてが「美しいロマン」のカテゴリに分類されているようだった。
ちょうど、猫好きの人が引っかかれた直後でも「でもかわいいから許す」と言うのと、たぶん同じ原理だ。
違うのは、こちらはひっかかれるどころか命を落とすリスクが常に横たわっているという点である。
真尋は、「煌玄龍カランシール」の実態については依然として一ミリも理解していなかった。だが、それがとんでもなく凄そうなものだということだけは、アイリスの饒舌ぶりとやたら語感の強い名前から察することができた。
カランシール。響きがもう、強キャラだ。
たぶん「角が七本あって眼が八つ、口からは輝く雷を吐く」と言われても驚かない準備はできている。
「ふふっ……もし、カラミッドを私のコレクションに加えることができたら――幾らか、恵んであげても――」
その台詞は最後まで言い終えられることはなかった。
なぜならその瞬間、真尋の足が、何か――そう、石畳の間に巧妙に隠された、いかにも「押してはいけません」と言わんばかりの小さな段差――を、軽やかに踏み抜いたからだ。
カチリ、という実に嫌な音がした。
直後、両側の壁が唸るような音を立てて開き、そこから無数の槍が飛び出してきた。しかも、ただの槍ではない。青白く淡い光をまとい、見るからに魔法でエンチャントされている。
「……最悪だ。典型的な、古代文明式の防衛装置か」
あの冷静な真尋であってもこれにはさすがに動揺を隠せなかった。しかし、彼はほとんど反射的に身を翻す。
空中で一回転する勢いで床に転がりながら、ギリギリで槍の雨を避ける。
アイリスも、驚愕の表情を一瞬だけ見せたが、すぐに華麗な身のこなしで後方に跳び退いた。
ランタンの光が槍に弾かれて揺れ、影が乱れる。
数秒の嵐が過ぎると、槍はすべて壁に吸い込まれるようにして引っ込み、仕掛けがまるで何事もなかったかのように元通りになった。
静寂が戻る。ランタンさえも、何もなかったかのようにふわふわと揺れていた。
「……危ないわねっ!」と、アイリスが烈火のごとく怒鳴った。
さっきまでの饒舌さが嘘のように鋭く、乾いた声だ。
真尋は尻餅をついたまま、その怒気に顔をしかめた。
「古代魔道具カラミッドを守る地に、何があるかわかったもんじゃないの。警戒ぐらいしなさいよ。魔法を使わずに魔物を倒した、あなたの力が役立つと思って連れてきたのに……まさか、お荷物だった? ええ? 今すぐ帰る? おうちでスープでも飲んでたら」
その物言いは、トゲのある絨毯のように丁寧にして容赦がない。
真尋は軽く手を上げて降参のポーズを取りつつ、床に視線を落とした。
――異世界の遺跡において、よく喋る女の機嫌と仕掛け床にだけは注意せよ。
そう書かれた標識でもあれば、もう少し慎重になったかもしれない。だが現実は厳しい。標識もなければマニュアルもない。ただ地雷の上を笑顔で歩くだけだ。
「いや、まぁ……あの、こればかりは本当にすみません……次から気をつけます……」
床の罠に土下座の勢いで謝る男と、槍に貫かれそうになっても一切顔色を変えず説教を続ける女。
誰かが見ていれば「そういうプレイなのかな」と思ったかもしれないが、あいにくここは地下遺跡。観客もいなければツッコミ役もいない。
ただ沈黙だけが、石造りの天井からぶら下がっている。
とはいえ、説教だけに何十分も付き合うほど暇ではなかった。
二人は再び足を踏み出し、カラミッドなる伝説の魔道具を目指して、遺跡の奥へと進んでいく。
地下遺跡というものは、基本的に「歓迎されざる者」への対応が過剰である。
花束もなければ案内係もおらず、その代わりにあるのは罠、罠、また罠。初手で槍、次は岩、ついでに毒ガス、最後にスパイク付き天井――このあたりの流れは、もはや伝統芸能に近い。
例に漏れず、この遺跡も例外ではなかった。
まず、大広間に入って数秒後、天井の高い穴から運動会で使われる玉転がし大の岩がごろごろと転がり落ちてきた。
設計者の仕事ぶりに敬意を表すべきか、あるいは精神状態を疑うべきか、判断は難しいところだ。
もっとも、岩を避けるという行為は、かくも原始的で、かつ本質的な営みである。すべての生物に共通する反射の祭典。人間という種も例外ではない。
さらに、ちょっとした回廊を通っただけで、突然壁が閉まり、部屋が暗転。
不穏な気配とともに、シュウウウ……と音を立てて、紫がかった煙が天井の隙間から噴き出してきた。
こうした部屋におけるポイントは、ガスの色味と香りの演出だ。
ここでは苦味の強いラベンダー臭に似た成分が選ばれており、なかなか趣味が悪い。目と鼻の奥を同時に攻めるあたり、製作者の執念が感じられる。芸術は爆発だというが、毒ガスはもっと爆発的である。
古代人たちはこの部屋に何の恨みを抱いていたのだろうか。
仕方なくアイリスが風の魔法でガスを跳ね返し、ようやく一息ついたと思った次の部屋では、今度は天井が急降下してきた。
もちろん、ただの石の板では芸がない。びっしりと生えそろったスパイクが、じわじわと距離を詰めてくる様子は、むしろ礼儀正しいと言えるだろう。
警告を与える余裕があるだけ、他の罠よりマシなのかもしれない。
たとえば、この部屋の前にあった落とし穴などは、説明もなく唐突だった。
そして極めつけは――モンスターたちの登場である。
床を這い、壁を這い、天井から降ってくる。昼行性もいれば夜行性もおり、捕食者もいれば分解者もいる。
地上に置き換えれば、森であり、沼であり、時に動物園でもある。
たとえば、動くキノコ――正式名称など誰も気にしていない――は、常にモソモソと地を這い、じりじりと二人の背後を追いかけてくる。
俊敏さは皆無だが、あまりにもしつこく、十五分後に振り返るとまだそこにいることもある。もはや呪いの一種と言っていい。
時折、何かの気まぐれで跳ねたりもするが、運動神経には期待しない方がよい。可愛げすらあるが、決して踏みつけてはいけない。爆発する。
また、小型犬ほどの大きさを持った蠍も存在している。
地面の窪みや骨の山からひょっこりと現れるその姿は、愛玩動物のように見えなくもない――が、尻尾の針に刺されると、それは悲惨だ。
即死性こそない毒であるが、刺された瞬間に激痛と高熱が走り、人によってはアナフィラキシーショックで倒れるか、気が動転しうっかりパンツまで脱ぐ羽目になる。
誰がこんな生物を設計したのか、ぜひ面談を申し込みたいところだ。
さらに、皆な大好きスライムもいる。
説明不要なほど定番の魔物であるが、ここに生息する個体はどうやら苔類と共生しているらしく、うっすらと緑色を帯びている。
しかも触れると妙に冷たい。無害かと思えば、たまに酸を吐いてくる。
理由は不明だが、きっと本人にも明確な理由はないのだろう。生き物とはそういうものだ。
このようにして、地下の光なき世界にも、実に多様な命が満ちている。
苔や蔓植物、発光性の菌類、天井から滴る地下水。そうした環境のなかで、奇妙な連鎖と淘汰が繰り返され、ひとつの“生態系”が生まれているのである。
実に興味深い。学者が見れば大はしゃぎだろうが、盗掘者が見ればげんなりする。
そして、その遺跡の奥へと、例の一行は歩みを進めていた。かつて誤って槍の罠を踏み抜いた男と、それを冷淡に叱責していた女。
そんな道中、真尋が何やら口を開いた。
「ねえ、魔法って、そもそもどういう仕組みなの? 何をどうやったら、あんな風に火が出たりするのですか?」
不意の質問だったが、アイリスは立ち止まることもなく、淡々と返した。
「魔法とは、魔力を用いて世界の理を一時的に書き換える行為よ。もっと砕いて言えば、自分の持つ“魔力”を使って、現象を強引に発生させる手段ってことね」
魔力。それは目に見えないが、確かに存在する力であり、個人の資質によって量も質も異なる。呼吸するように自然に魔力を扱う者もいれば、ろくに火花ひとつ起こせない者もいる。
それは努力だけでは覆せない、ある種の生得的才能でもあった。
「戦闘で使う魔法はもちろん多いわ。火球を飛ばしたり、盾を張ったり、身体を強化したり。でも、それだけじゃない。病気や怪我を治す魔法もあるし……お茶をちょっと美味しくする魔法とかもあるわよ」
「お茶……?」
「ええ。味を整えるとか、香りを引き立てるとか。日常生活の魔法は意外と幅広いのよ。洗濯物をすぐ乾かす魔法もあるし、鍵をなくさないための魔法なんかもあるわ」
アイリスの話を聞きながら、真尋は腕を組み、小さくうなずいた。
「鍵をなくさない魔法か……それ、昔の僕に教えてやりたかったな」とかなんとか言いながら。どうやら、過去に家の鍵かロッカールームの鍵か、それとも記憶の鍵でもなくした経験があるらしい。
ふたりの歩みは途切れることなく続いた。
キノコがもぞもぞと動き、苔に紛れて小型の蠍がカサカサと音を立て、スライムが遠慮なくぬるりと天井から垂れてきたりもしたが、もはやそれすら予定調和の風景だ。
誰に頼まれたわけでもなく、適度に襲ってきては、適度に蹴散らされる。
遺跡の自動ドアが開くときに鳴る「ピンポーン」くらいの役割しか果たしていなかった。
そんなふうに、騒がしくも賑やかに、ふたりは数々の仕掛けとモンスターの歓迎を乗り越え、とうとう遺跡の最奥部へとたどり着く。
そこは一変して異様な静寂に包まれていた。
先ほどまでの罠のカタログ展示場のような賑やかさは鳴りを潜め、今はただ、時間さえも息をひそめているかのような空気が漂っていた。
封印の間。
そう名づけたくなるような場所だった。
広大な空間に天井は高く、中心には奇妙な紋様が彫られた祭壇のような石台がぽつんと置かれていた。
周囲の壁には無数の呪文らしきものが彫り込まれ、それらは長い時を経てもなお、かすかな光を放ち続けている。
真尋は一歩踏み入れたところで、思わず息を呑んだ。
というより、正確には空気の重さで勝手に息が止まった。
重たく澱んだ空気は、肺に入ることすら拒絶する。まるでここは生きる者の居場所ではないとでも言うように。
遺跡の最深部というものは、えてしてそういう不親切な仕様で作られている。
誰が設計したのかは知らないが、来訪者に対するホスピタリティの概念は完全に欠落しているようだった。