第4話 初めての出会い
獣の咆哮が森の空気を震わせる。
その直後、真尋の両腕が黒い毛皮に食い込み、角の付け根を狙って絡みつく。
重力と質量に逆らうように、腰を回転させ、重心をひねる。
柔道もレスリングも未経験、だが奇妙なことに、力の使いどころは正確だった。
獣の身体が宙を舞う。
それは現実離れした光景だった。常識を忘れた巨体が、真尋の肩越しに大きく弧を描いて、地面に叩きつけられる。
角が土に突き刺さり、巨体がどさりと音を立てて沈む。
その動きは、即死ではなく、混乱と苦痛を伴う一時停止だった。
真尋は無言のまま、三歩後退し、肩で息を整える。
胸の奥に焼けるような熱がこもり、手足はしびれていたが、顔に浮かぶ感情は希薄だった。驚愕も歓喜もなかった。
ただ、荒く上下する呼吸の中でひとつ――まだ、生きている。それだけが確かな現実だった。
倒れた獣は、すでに動きを止めていた。
角は地面に深く突き刺さり、喉元から漏れる息は鈍く、そして浅い。完全に絶命してはいないようだが、少なくとも“今”は脅威ではない。
真尋は静かに、投げ飛ばした実感を自分の肩で確かめる。あの質量を、人間一人で。いや、一応は「自分」なのだが、まったく信用できない筋力だった。
と、そのときだ。
パチ、パチ、パチ――と、乾いた音が空から降ってきた。
見上げると、木の枝に誰かが腰掛けていた。太い幹の分かれ目に、軽く脚を組み、まるで公演を終えた舞台役者に送る拍手のように、優雅で、どこか芝居がかった拍手を贈っていた。
手には、見るからに重たそうな分厚い本が握られている。
表紙は深い藍色で、革のように見えるが、どこかしら金属的な鈍い艶もある。
中央には古代文字が銀糸で織り込まれており、まるでそれ自体が生き物のように脈動していた。
あの鈍器のような京極夏彦の書籍をさらに数百ページ足したようなボリュームで、それを片手で軽々と持つあたり、彼女も相当な“腕力”がある可能性が高かった。
その人物は女性だ。
陽の光をそのまま液体にしたような金髪が肩口で揺れ、瞳は宝石のように赤く、まるで緋色のルビーを真鍮のフレームに嵌め込んだような色合いをしていた。
顔立ちは整いすぎていて、むしろ現実感を欠いていた。
口元にはわずかな笑み――相手の技量を楽しんでいる者の、余裕のある表情が浮かんでいた。
身にまとうのは、ドレスと呼ぶには実用的すぎ、戦闘服と呼ぶには装飾過多な、いかにも“異世界”の衣装だった。
深紅と黒を基調にした細身のシルエット、裾には金の刺繍があしらわれ、背中には短いマントのような布が翻っている。
袖口や裾は軽くフリルが入っており、格好良さと可愛らしさがほどよく共存している。
――この森でコスプレ大会が開催されていないのであれば、日本人の感性であれば、少しは恥じらいを覚える服装だった。いや、むしろ文化的羞恥心を越えて“そういう宗派”と誤解されるレベルである。
「やるじゃん」
女はそう言うと、ひょい、と木から飛び降りた。
風を切る音がし、地面に着地したその足取りには、一切の衝撃が感じられなかった。
ドレスの裾がふわりと揺れ、そのまましなやかに立ち上がる。
笑みは崩さず、視線だけが鋭く真尋を見据えていた。
「自己紹介するわね。アイリスよ。はじめまして」
女はさらりと言って、微笑みとともにスカートの端を軽く摘んで頭を下げた。礼儀正しくはあるが、どこか芝居がかった仕草だ。
そう言うや否や、彼女は真尋には目もくれず、倒れた巨大な獣の方へと歩き出す。ドレスの裾が森の下草をかすめ、その足取りは舞台の上を歩くように優雅だった。
「うむっ……死んでないわね」
間近で獣の息を確かめたのか、そう呟くと、彼女は手にしていた本を開いた。
そして、軽く手をかざす。すると、獣の身体がふっと浮き上がった。
まるで水が渦を巻いて排水口に吸い込まれるように、獣の輪郭がゆらぎ、本の中へと引き寄せられていく。
骨格も筋肉も、あの重厚な角さえも、紙と文字の中へと飲み込まれ、やがて一枚のページの絵柄となって閉じ込められた。
真尋はその一部始終を眺めながら、軽く眉を上げた。驚きというより、困惑に近い表情だ。
彼の目には、あの本が法律の抜け道か何かに見えていた。物理法則が抗議すら間に合わず敗北したような、そんな感覚だ。
アイリスは本を軽くぱたんと閉じ、再び真尋の方を向く。
彼女の瞳が、今度はじっくりと彼を見つめていた。まるで標本にする前の虫を観察する学者のように、隅々まで視線で計測している。
「私の使役する魔物の中でも、あれはまあ……弱い方とは言え、お見事よ。どうやって倒したのかしら?」
口元に笑みを残したまま、だがその声色にはわずかな警戒と興味が混ざっていた。
「……あら? 変ねぇ。魔法を使った痕跡がないわ」
その言葉に、真尋はわずかに首をかしげた。
そして、丁寧ではあるが、妙に文法の整った、まるで社交辞令のような言い回しで、こう答えた。
「魔法、ですか。なるほど、この世界ではそういったものが存在するのですね。いやはや、それは実に興味深い。できれば最初に教えていただければ、もう少し心構えというものもできたかもしれません」
そこで一拍置き、真尋は淡く微笑んだ。目だけは笑っていなかった。
「それにしても……初対面の方にいきなり魔物をけしかけておきながら、その後で魔法がどうのと一方的に語り始めるご趣味――なんと申しますか、少々、独特ですね。えぇ、とても個性的です。たぶん、そういう方には、お友達もできやすいのでは、とつい老婆心ながら思ってしまいました」
口調は柔らかく、語彙も選び抜かれていた。だが、その丁寧さこそが皮肉の精密な刃となる。
まるで絹の手袋の内側に仕込まれたナイフのように、切れ味は鈍くなかった。
「可愛くない子ね」
アイリスは口元をつり上げ、まるで飴玉の代わりに棘のある言葉を差し出すような口調でそう言った。
美しい顔立ちに浮かんだその笑みは、皮肉とも余裕ともつかず、どこか“演技”にも近いものだ。
だが、真尋は微動だにしない。
「えぇ、よく言われます」
まるで天気の話をされているかのように平然と返すと、ほんのわずかに息を吐き、肩の力を抜く。
「それでも……言葉が通じてよかったよ」
安堵というよりも、状況が一段階だけマシになったという認識のもとに発せられた言葉だった。
――もっとも、それが“本当に”言葉が通じているのかどうか、彼にはすでに若干の疑念があった。
話している内容は確かに意味が通っている。日本語の単語も文法も、アクセントも違和感はない。しかし、微妙な“ズレ”があった。
アイリスの発する音と、彼女の口の動きが、ほんのコンマ数秒だけ一致していないのだ。例えるなら、テレビで見かける腹話術師・いっこく堂のパフォーマンスのように、口の動きと発音にわずかなタイムラグが生じていた。
もちろん、意識しなければ気づかない程度のものだった。だが、真尋のように些細な違和感に敏感な人間にとって、それは無視できない歪みだった。
つまり――これは、何らかの干渉を受けているということだ。
言語的な翻訳、あるいは認識の補正。もっとも自然な解釈としては、彼自身の思考や聴覚に、翻訳機能のようなものが介在していると見るのが妥当だった。
それはSF小説における“ユニバーサル・トランスレーター”に似た概念であり、魔法世界における“意思疎通の加護”と言い換えることもできるだろう。どちらにしても、彼の耳が“異世界に対応済み”であるという事実は否定しがたかった。
要するに、花園真尋は「何かに通訳されている」のだ――本人の意思とは無関係に。
「実はね、僕は島国の日本というところから来たんですよ」
真尋は、森の木陰を一つ選び、そこにそっと背を預けながら、落ち着いた声で口を開いた。
「ご存じありませんよね? ええ、まぁ……そうでしょうね」
まるで帰省土産の話でもするような口調だった。だが、その実、彼の中では水も食料もなく、言語はおそらく“意思疎通の加護”頼り、貨幣経済の基礎も分からぬ土地に、装備ゼロで放り込まれたという――それなりに差し迫った現実が横たわっている。
「それでですね、アイリスさん。一つ、お頼みしたいことがるのですよ」
そう前置きすると、彼は少し頭を下げた。謙虚さと、微量の図々しさを絶妙にブレンドした身のこなしだった。
「率直に申し上げますと――水と食料、そしてできれば金銭と、最寄りの人里の位置情報などを、頂けませんか? もしくは、交換でも構いません。さすがに今は何も差し出せませんが……この先、誠実に働いて、きっと利息もつけてお返しするつもりです」
「……何それ? 新手の追い剥ぎ?」
アイリスは思わず眉を上げた。手に持っていた本の角を、指先でとんとんと叩くようにしながら、疑わしげに真尋を見た。
「いいえ、そのようなつもりは一切ございません」
真尋はきっぱりと答えた。
「ただ、突然、この森に放り込まれ、しかも貴女の使役する魔物に襲われ、着の身着のまま、手ぶらで、体一つでここにいるわけです。これはもう、人生の中でもなかなかに上位の『散々な目』に分類されると思いまして。ですので、せめてこの“無一文の男”に、少しくらいの施しを――人道的観点からも、お願いできればと提案させていただいた次第です」
その語り口は、まるで高等弁論部の模範演説のように丁寧で、言い回しは無駄に美しく、そして……じわじわと皮肉が滲んでいた。
言葉尻をどれだけ磨いても、言っていることは端的に「金をくれ」である。
アイリスはしばらく、そんな真尋をじっと見つめていた。
金品はない。魔法も使えない。口ばかりが回る――そんな印象を受けたのか、彼女の表情には一瞬、うっすらとした失望の色が浮かんだ。
「見たところ、魔道具も身に着けていないし、魔法の気配も皆無……あなた、訳アリ?」
その声には、まるで質の悪いペットショップにうっかり迷い込んだ顧客のような戸惑いと、ほんの少しの好奇心が混ざっていた。
だが、次の瞬間、アイリスはふと何かを考えたように視線を宙に彷徨わせ――そして、ぱちん、と指を鳴らしそうな勢いで、表情を明るくした。
それはまさに、試験前の学生が「教科書に付箋を貼るだけで満足して、全部覚えた気になる!」という“謎の解決策”を発見したときの顔だった。
つまり、問題を根本的に解決していないにもかかわらず、解決した気になっている人間特有の、あの無垢な達成感である。
アイリスは手にしていた分厚い書物を、ひょいと放り投げるような仕草をした。すると、その書物は空中で淡く光りながら、そのまま霞のように溶け、現実から滑り落ちていった。
あれは魔法による収納、もしくは異空間転送といった類なのだろうが、真尋の目には「完全に手品」である。
そして彼女は今度は手のひらを、さらなる優雅さでひらりと翻す。するとそこに現れたのは、革でできた素朴な水筒と、布にくるまれた食料の包みだった。
水筒は、持ち上げた瞬間にちゃぷ、ちゃぷんと音を立て、中身が明らかに液体であることを、誤魔化しようもなく主張した。
布の包みからは、干した根菜や乾燥肉、それに硬い穀物パンの匂いがかすかに漂っている。
質素ながら、旅慣れた者なら喉を鳴らすような実用性を感じさせる組み合わせだった。
「これ、欲しい?」
声は甘く、妙に丁寧だった。だが、どこか“ねえ、君、キャンディ食べる?”と声をかける怪しい大人の空気も混ざっていた。
当然のことながら、真尋は即答した。
「もちろん、欲しいですよ」
ここで首を縦に振らなかったら、たぶんそれは人間として何かが欠落している。
だが――次の瞬間、アイリスはさも当然のように手を振り、その“救援物資”一式を、さっきの本と同じように、空間ごとぺろりと呑み込ませてしまった。
魔法というよりは、“見せびらかした上で取り上げる”という新種の嫌がらせに近かった。
「欲しかったら、ついておいで。そうしたら――アゲル」
振り返りざまに、片目を細めてそう言うと、アイリスは深い森の奥へと軽やかに歩き出した。金髪が風に揺れ、ドレスの裾がふわりと舞う。
赤いルビーの瞳は一度も後ろを振り返らない。
その背中から漂ってくるのは、高貴というより“余裕のある悪戯心”である。
真尋はしばしその背中を見つめていたが、やがて軽くため息をつくと、肩をすくめるようにして歩き出した。
ついて行かない理由を探すより、ついて行ったほうが水と飯にありつける――この世界のルールは、案外シンプルで残酷であるらしい。