第1話 ときどき自販機にもなりたくなる
神隠しという現象は、古今東西、多くの人々を魅了し、そして困惑させてきた。
ときにそれは悲劇であり、ときに謎解きの出発点であり、あるいはただの風評被害だった。だが共通しているのは、誰かが「ふいにいなくなる」という、単純きわまりない事実だけである。
日本で言えば、たとえば『遠野物語』などには、山の神に連れ去られた者の話がいくつも出てくるし、ヨーロッパでは妖精に誘拐された人々が、何十年後かに老人となって帰還するという話がごろごろ転がっている。
もちろん、現代的な目で見れば、ほとんどが遭難か失踪か、あるいは「ちょっと疲れて電波の届かない所で寝てました」案件なのだが、それでは話がつまらない。
人類はいつだって、説明のつかないことに物語を与えるのが好きなのだ。そして今、この物語性のバトンを受け取ったのが、「異世界転生」或いは、「異世界転移」である。
昔は山に入ったまま帰らぬ人が「神隠しに遭った」とされたが、今ではスマホ片手に通学していた高校生が、気づけば魔法王国の空中都市にいたりする。
行き先が山奥から異世界に変わっただけで、やっていることは大差ない。
突然消え、どこかへ行き、そして……まあ、帰ってこない。なぜなら向こうで魔王を倒さねばならないからだ。
もちろん、これを真剣に信じている人は少ない。
多くの人は、異世界転生・転移なる現象を、ライトノベルか深夜アニメの中にだけ存在する、ちょっと風変わりなファンタジー設定だと思っている。
それは正しい見方だ。だが、それでもなお我々は信じたいのかもしれない――どこかに、自分の知らない世界が広がっていて、今この瞬間も誰かがそこに飛ばされ、勇者として、魔法使いとして、あるいは便利スキルを駆使して自販機に転生しているのだと。
神隠しとは、つまりそういうものなのだ。
合理性よりも、夢と不合理を優先する、非常に人間的な現象。
失踪の現場にはいつも謎が残る。
足跡の途中でぷつりと消えたとか、部屋には温かい紅茶が残っていたとか、最後のLINEが「今、青い鳥が――」で途切れていたとか。だが、すべては説明できる。人は疲れるし、逃げたくなるし、ときどき自販機にもなりたくなるのだ。
さて、あなたの隣にいたはずの人がいなくなっていたら、どうするだろう?
警察に通報する? それとも、そっと「おめでとう」とつぶやいて、掲示板で「ついに俺の知り合いが異世界転移したか」と報告するだろうか。
冗談のような話だが、神隠しとはもともと冗談と神話のはざまで揺れる現象だった。たぶん、今もそうだろう。
しかし、我々がそれを「ありえない」と笑い飛ばすとき、世界のどこかでは誰かが、その「ありえない」の只中に足を踏み入れている。
そういうものだ。世界は理屈でできているように見えて、実のところ、予告も前触れもなく、ふいに誰かを飲み込む程度には気まぐれである。
たとえば――。
それは、夏の朝だった。
信じられないほどよく晴れた日で、空はただの青ではなく、どこか人工的なまでに透明度の高い、まるで Photoshop のレイヤーを一枚取り違えたかのような、そんな青だった。
太陽は既に空の高みで主張しており、蝉たちは早朝から議論でも始めたように鳴きまくっていた。
その風景の中、ひとりの青年が、ゆっくりと鳥居をくぐった。
花園真尋――二十歳。地方都市にある国立大学に通う、ひとことで言えば「やや扱いづらい学生」だった。
授業にはそこそこ真面目に出るが、発言はどこか含みがあって、無駄に懐疑的で皮肉めいている。
そんな彼の性格を、友人がうまく言い表していた。
曰く「倒錯的というか、反時代的というか、うーん……なんか、文明への反抗期なのかもしれない」。
真尋本人はそれを聞いて「それは、違うよ。僕はただ反近代合理主義者なだけだよ」と笑った。だが彼が本当に笑ったのか、それとも笑いを演じたのかは、たぶん誰にも分からない。
真尋は、ときどき、何か考えごとをするようにして、こうして歩き出す。
あてもなく、目的もなく、ただ「歩きたいから」という理由で、路地裏や郊外の小道を歩き続ける。
まるで何かから逃げているようでもあり、何かを探しているようでもある。
本人に聞いても「いや、ただ幽霊のように徘徊したいだけだよ」と言うだけで、たぶんそれは八割くらい本当だ。
神社は、そんな彼の散歩コースのひとつだった。
特に信心深いわけではないし、願い事があるわけでもない。ただ、神社という場所には「時間が止まっている感じ」があって、それが真尋には都合がよかった。
誰にも干渉されず、スマホの電波も入りづらく、そして何より、蝉の声にかき消される程度には世界がうるさい。
真尋にとって、それは理想的な環境だった。
人類が発明したものの中で一番偉大なのは「耳栓」だと信じている彼にとって、蝉時雨というのはある種、天然の耳栓だった。
思考は騒音のなかでこそ深まる。たぶん。おそらく。理論上は。
境内を抜けて、石畳の上をのそのそと歩いていると、突然、空気がぴたりと変わった。言語にしにくい、だが誰にでも通じる変化。
たとえば、喫茶店で読んでいた文庫本のページをめくったとたん、後ろから誰かにじっと見られているような、そんな気配だった。
そして、次の瞬間。
「みーつけましたよ」
声がした。男の声とも、女の声ともつかない、まるでカセットテープが少し伸びたような、妙にあやふやなトーンだ。
高くも低くもなく、冷たくも温かくもなく、ただ確実に「誰かがこちらを見ている」ということだけが伝わってくる。
真尋は足を止める。
そして、すぐに気がついたのだ。あれ、暗い。妙に暗い。いや、正確には、"暗すぎる"と。
まるで太陽が急に有給休暇を取り、地球がそれを止める術もなくただ了承した、みたいな暗さだった。
あるいは、急に目の前がぐるりと反転し、迷走神経反射でも起こしたのかと錯覚するレベルの、ブラックアウト感。
だが足元はしっかりしているし、意識も明瞭だった。体調のせいではないだろう。
「やれやれ……」と、彼がぼやく間もなく、さらに事態は進行した。
鳥居の向こう。いや、正確には、鳥居の柱と柱のあいだ――その空間に、すうっと影が浮かび上がったのだ。
紅いローブをまとい、白い仮面をかぶっている。
仮面は道化師のようにも、仏像のようにも、駅前のオブジェのようにも見えた。
感情というものがすっぽり抜け落ちているくせに、どこかこちらをあざ笑っているようでもある。
死神が仮装パーティに出るならたぶんこんな格好だろうという、妙にチープで、妙に禍々しいセンスだった。
そいつは、どこからどう見ても“何か”だった。人かどうかも怪しい。“何者か”と書いて「何か」と読むのが正解だ。
そして、その「何か」が、なにごともなかったかのように言った。
「トンネル、開通しましたー」
その軽快な宣言の直後、空気がびりびりと震えた。
夏の境内に不釣り合いな青白い光が、まるで空間の継ぎ目から漏れ出すように現れ、地面すれすれに魔法陣のようなものが浮かび上がる。
幾何学模様と不可解な文字列が、時計仕掛けのように回転しながら輝きを増してゆく。
そして、その中心――まさに世界の裂け目のような場所から、巨大な門が立ち現れた。
それは石造りのように見えながらも、物質感の輪郭が曖昧で、あらゆる存在を拒絶しながらも、同時にすべてを受け入れてしまいそうな、不安定な威容を持っていた。門には蔦のような文様が刻まれ、全体が淡く発光している。
青と白の光は、逆にこの闇においては鮮やかに映え、美しささえ感じさせた。
紅のローブをまとう「何か」は、まるで天気の話でもするかのように平然とたずねる。
「見えていますでしょ?」
真尋は、ほんの少し間を置いてうなずいた。
うなずき方に慣れていない人間のように、ぎこちない動きだ。
世界の常識が一枚めくれたような状況にもかかわらず、彼の顔にはあいかわらず奇妙な平静さが宿っている。
冷静というよりは、むしろ現実との間にクッションを一枚噛ませているような態度だ。そして、彼ら返す返事は、妙に丁寧で、そしてどこか諦観を滲ませていた。
「えぇ、見えていますとも」
その口調には、自分が何かを見誤ったとか、理性が崩れたとか、そういう類の驚きはない。むしろ、世の理不尽がまた一つ増えたことを確認しただけといった風情だった。
人は世界の限界に触れたとき、悲鳴を上げる者と、ため息をつく者に分かれる。花園真尋は、どうやら後者だった。
「この門が見えた、即ちあなたが今の世から逃げ出したかった、もしくは異世界の存在を信じていたのでしょう。だから、あなたのそばに“トンネル”が現れたのです」
どこか芝居がかった語り口だ。
宗教の勧誘にも、演劇の台詞にも似ていた。だが、そこには確かに力があった。
言葉というよりは、構造そのものの説明――世界の法則を述べるような響きがある。
「さぁ、お入りください」
だが真尋は、即座に首を横に振る。
拒否の仕方に特別な感情は込められておらず、まるでスーパーの試食販売を断るような気軽さだった。
彼にとってこの門は、どうやら“魅力的な逃避先”というより、“だいたい想像のつく災難”だったようだ。
そもそも、花園真尋にとって「逃避」はそれほど魅力的な言葉ではなかった。
この社会はたしかに息苦しく、鬱陶しく、ときに見るに堪えないほどの不条理に満ちている。
通りを歩けば理不尽が落ちており、ニュースを開けば不愉快が溢れている。
手のひらには常に通知と義務が鳴り続け、個人はコンテンツとして圧縮され、人格はアルゴリズムによって切り刻まれる。
「――とかくに今の世は住みにくい。そう思わない日はない。でもね、僕はこの『今の世』を愛しているんだよ」
うんざりするような喧騒も、すれ違う他人の無関心も、時折だけれど心から笑ってくれる誰かの存在も――それらが一続きの共同体のかたちを成していることを、彼は不器用ながら理解している。
真尋にとって共同体とは、なにか崇高な理念でも、歴史的遺産でもなかった。
ただ、盆暮れに顔を合わせる親戚や、近所のコンビニのやたら丁寧な大学生バイト、駅前の花屋で週に一度だけ会う無口な老婦人――そういった名もなき人々の、不器用で真面目な営みのことだった。
「もちろん、僕の目から見ても、愛する共同体はほとんど破綻寸前だよ。"括弧つきのエリート"と呼ばれる人々――その能力、その努力、その財力を惜しみなく動員して、どうにかして社会を「最適化」しようとしている人々――彼らは、気づかぬうちに、共同体という曖昧で非効率なものを一生懸命、削り取っている」
AIによる迅速な意思決定、効率重視の行政、オンラインで完結する人間関係、すべてが「人間であること」をそぎ落としていく。
甘やかされた子供の心理をそのまま持ち越したまま大人になったエリートたち――『大衆の反逆』が言うところの、特権を当然とし、他者への配慮を「コスパが悪い」と切り捨てる類の人間――そういう人々によって、共同体は今や、乾いた雑巾のように捻じり尽くされている。
「そういう意味でいれば、僕はここにいる理由が消えつつあるのかもしれない。だけどね、それでもこの国を、町を、家族を、嫌いになれないんだよ。ほんのわずかに残った、ひとのぬくもりのような部分――すれ違いざまに交わす小さな会釈、路肩に並ぶ盆踊りの提灯、スーパーの入口で流れる謎の演歌――そういうものが、どうしようもなく僕の胸に残っているんだ」
だからこそ、真尋は異世界に行きたいとは思わなかった。
異世界が嫌いなのではない。ただ、今の世のこの煩わしさこそが、自分が生きているという実感の輪郭を成しているような気がしていたのだ。