第十話:機械の中の神
【プロローグ:案内人】
物語を始める前に、一つ、あなた方に問いましょう。「完璧な世界」とは、どのようなものでしょう? 飢えも、病も、争いもない。誰もが理性的に、効率的に、幸福に暮らす世界。実に素晴らしい響きですな。
ですがね、もし、その完璧さが、生命そのものの輝きを消し去ってしまうとしたら?
もし、バグのないプログラムが、ただ意味のないループを繰り返すだけの、空虚な機械だとしたら?
今宵の主役は、世界を「デバッグ」する力を手に入れた、一人の天才プログラマー。彼は、自らを救世主だと信じて疑いませんでした。彼が修正している「バグ」が、自由意志や情熱、そして愛そのものだとも知らずにね。
一人の男が神になろうとし、そして、空虚な機械の中に、永遠に閉じ込められる物語。とくと、ご覧あれ。
【本編】
1.完璧なる願い
神崎健斗は、世界をバグだらけのクソゲーだと思っていた。
非効率な社会システム。非合理的な感情の爆発。戦争、貧困、病気。その全てが、修正されるべき致命的なエラーコードに見えていた。彼は天才プログラマーだったが、現実世界ではただのコミュ障。モニターの向こうの、完璧に制御されたデジタルの世界だけが、彼の安息の地だった。
だから、過労で意識が途絶え、目の前に気まぐれそうな「神」を名乗る存在が現れた時も、彼は冷静だった。
「一つだけ、チートスキルをやろう。どんな願いでも構わんぞ?」
神の言葉に、健斗は一秒も迷わなかった。
「世界をデバッグする能力をください」
彼は、眼鏡の奥の瞳を輝かせて言った。
「現実というシステムのソースコードにアクセスし、バグを特定し、修正・最適化する権限。それだけあればいい」
神は、実に楽しそうに口の端を吊り上げた。
「ほう、面白い。実に面白い願いだ。よろしい、与えてやろう。お前が創り出す『完璧な世界』とやらを、高みから見物させてもらうとしようじゃないか」
それが、健斗の新たな人生の、始まりのコマンドだった。
2.救世主のデバッグ
健斗は、とある王国の貴族の子、ケントとして転生した。
そして、彼の視界には、世界のすべてがソースコードとして表示されていた。人々の感情は変数として流れ、自然現象は複雑な関数として記述されている。彼は、神になったのだと確信した。
彼は、まず手近な「バグ」から修正を始めた。
領地を襲った干ばつ。彼は天候システムのコードにアクセスし、降雨確率のパラメータを微調整した。恵みの雨が降り、民は彼を「聖童」と讃えた。
次に、都で流行った致死率の高い疫病。彼はウイルスのコードを解析し、自己増殖を停止させるパッチを書き込んだ。病は一夜にして終息し、彼は「生ける聖人」と呼ばれた。
彼の力は、やがて国王の知るところとなる。彼は王宮に招かれ、その比類なき知性で、国政のあらゆる「バグ」を修正していった。
非効率な税制を最適化し、汚職役人の不正な資金の流れを断ち切り、敵国との戦争では、相手の戦略思考ルーチンを読み切り、完璧なカウンターロジックを組んで完勝した。
数年のうちに、国はかつてないほどの平和と繁栄を謳歌した。飢えも、病も、争いもない。ケントは、救世主として、国民すべての尊敬と崇拝を集めていた。彼は、自分の成し遂げた完璧な世界に、心からの満足感を覚えていた。
3.灰色の理想郷
だが、完璧な世界は、どこか奇妙だった。
ケントは、ある時から、世界から「色」が失われつつあることに気づき始めた。
市場は、かつての喧騒が嘘のように静まり返っていた。人々は必要なものを、必要なだけ、無駄口一つ叩かずに交換していく。効率的だが、活気がない。
吟遊詩人の歌は、音程もリズムも完璧だったが、聴く者の心を揺さぶる「何か」が欠けていた。恋人たちは、愛を囁き合う代わりに、互いの生体データを交換し、最も合理的なパートナーシップを結んでいた。
世界は、穏やかで、平和で、そして、ひどく退屈だった。
人々は微笑んでいたが、それは幸福の表情ではなかった。ただ、何の不満もないというだけの、空虚な微笑みだった。
「何かがおかしい…新たなバグか?」
ケントは焦り、世界のソースコードを隅々まで検証した。だが、どこにもエラーはない。全てのシステムは、彼が意図した通り、完璧に、効率的に、稼働していた。
そして、彼は気づいてしまった。恐ろしい真実に。
彼が修正した「バグ」こそが、世界に彩りを与えていたのだ。
貧困というバグがあったからこそ、人々は豊かさを求めて努力し、革新が生まれた。
病というバグがあったからこそ、人々は互いを思いやり、医学が進歩した。
争いというバグがあったからこそ、人々は平和の価値を知り、情熱的に生きた。
彼が消し去ったのは、非効率や非合理ではなかった。
希望、絶望、愛、憎しみ、喜び、悲しみ――人間を人間たらしめていた、全ての感情の揺らぎそのものだったのだ。
4.機械の中の神
「やめろ…元に戻せ!」
ケントは絶叫し、世界のコードを書き換えようとした。非効率な、バグだらけの、あの活気に満ちた世界を取り戻すために。彼は、「ランダムな不幸」を発生させるコードを書き、「非合理的な恋愛感情」を再実装しようと試みた。
だが、できなかった。
彼に与えられた能力は、「デバッグ」する力。
バグを修正することはできても、意図的にバグを「発生」させることは、システムの根幹が許さなかった。彼は、この完璧な世界の、一方通行の修正者でしかなかったのだ。
彼は、自らが作り上げた、完璧で、静かで、灰色の牢獄に、永遠に閉じ込められた。
彼は、この世界の唯一の神となった。誰からも崇拝され、誰からも理解されることのない、孤独な神に。
彼は、信頼できない語り手だった。自分を英雄だと信じていたが、その実、世界の生命を奪った最悪のウイルスに他ならなかったのだ 。
彼の魂の叫びは、完璧に秩序だった世界に、何の波紋も起こさなかった。人々は、彼の苦悩をただの「情報」として認識するだけで、誰も心を痛めはしなかった。彼が、そうプログラムしたのだから。
【エピローグ:案内人】
お気に召しましたかな? 彼は、自らが望んだ通りの神になりました。バグのない、完璧な世界の支配者という、実に空虚な神にね。私が彼を選んだのは、彼ならば、きっとこういう面白い結末を見せてくれると、確信していたからですよ。
完璧とは、停滞です。欠陥とは、成長の余地。
人生という名のクソゲーは、バグだらけだからこそ、面白いのかもしれませんな。
回転木馬が、まだ止まりません。