36時間後の君へ
風に吹かれてやって来た青葉が、便箋の上に居座った。
「邪魔」
掃い落とし、文字を追う。
ポタリポタリ、ポタリ、ポタリ。降り始めの雨のような雫が頬を伝う。受け入れる為に、拭いはしなかった。
幾ばくもない寿命、足りなかった。もっと、もっと時間があれば……あまりにも突然のことに向き合う事など出来るはずもなかった。
異常数値が見つかり、ここらで一番大きな大学病院で検査入院をする事になった。だが、今すぐにというわけにもいかないようで、自由に病院内を散策する事を許可されていた。一日病室に引きこもって検査の時だけ動くのも嫌だったので、来る途中にチラリと見た中庭に行ってみることに。
道中スタバを見つけて、こっそりコーヒーでも飲もうかと思ったが、これでまた異常数値ではかり直しなんてことになっては困るので、真っ直ぐ中庭に向かった。
ついてみると、病院の中とは思えない程綺麗な景色が広がっていた。周りを囲む低木、その手前にはパンジーやらがびっしり植えられていて、奥にある空間を隠すように大きな桜の木が植わっている。
桜の木の下、まだ蕾だけの枝をじっと見つめる車椅子の少女がいた。
膝の上にある紙をクシャりと握り、横顔を濡らす姿がはっきりと見えた。
固唾をのみ、僕はポケットにハンカチが入ってるか確認をし、頬の熱を鎮めるように息を吐く。
なんて声をかければ……。
視線を右往左往させて話のタネを探す。どんな風に話せばいいのか、手をギュッと握っては開きを繰り返して、ドッドッと鳴る胸を無視し彼女の方へぎこちなく近づいていく。
「あと少しで咲きますかね。桜」
目を丸め、こちらを見る少女。ガラス細工のような涙が頬を伝ってポタリとスカートに落ち染みた。
「……」
彼女は何か返すでもなく、まるで何も聞こえていなかったかのように、そっと視線を蕾に戻した。
唇を巻きこんで、真一文字の口を作る。ハンカチを取り出して、今度は少女の隣を陣取った。早まる鼓動に静まれと命令を下しながら、しゃがみ彼女にハンカチを差し出す。
「あの、良かったら」
拭われる気配のない涙。きっと彼女は笑った顔の方が似合う。笑わなくたっていい、ただ、他の表情も見られたらなんて。
少女はまた、こちらを見てポカンと口を開けていた。
「わたし、ですか?」
潤んでいる瞳は疑問の色を映しながらジッと僕を捉えて離さなかった。
「はい、泣いているのは貴女だけですから」
突風が吹き、低木の青葉が巻き上げられていく。
宙を舞う葉にクシャクシャにされている紙が一枚、混じっていた。ゆらりゆらりと落ちてくるそれを、地面を蹴って掴み取る。
皺を丁寧に伸ばすと、FとHばかりで通常値が全くない検査結果が目に入った。
「ありがとうございます」
まるで、見ないでと言っているようだった。両手を目一杯広げて唇を噛み締めている。無理やり作られている笑顔はいくつも綻びがあった。
そんな顔、しないで。
「どうぞ」
紙が手の中に戻った途端、彼女から謝罪の言葉が飛んできた。
「ごめんなさい。さっき、無視してしまって。その、わたしに声をかけてきているだなんて思いもしなくて」
鼻を啜って、人差し指の第二関節で目尻を拭う少女。
「ハンカチ」
「大丈夫です。優しいんですね」
赤くなっている目と鼻頭。微笑むとくっきり浮かんでくる涙袋、程よく上がっている口角、突風の残滓で揺れる艶やかな黒髪。そこには儚さを纏った美しい人が佇んでいた。
「ただ、君があまりに綺麗で、知り合いになれたらって」
口にする筈じゃなかった邪な感情。勝手に口から出て行って、言葉になってしまった。
「あははははっはは、あっ、あぁ、あははははっ」
目尻に涙を浮かべるくらい、口元を手で隠すくらい、もう片方の手で腹を抑えるくらい。静かだった中庭に明るい声が響いた。
失態だったのに、君は笑ってくれた。
「わたし、正直な人って好きよ」
季節外れの向日葵が目の前に咲いた。徐々に落ち着きを取り戻していたはずの心臓がまた、冷静さを欠いた。
それから一時間、僕らは話しこんでいた。病室に戻る時間が近づいている事に気が付き、彼女に別れを告げる。
車椅子の車輪に手をかける少女の後ろ姿に何かが使える感覚がした。
「また! また明日も会えますか!」
車椅子はゆっくりと方向転換した。
「会いに来るわ、絶対ね」
顔に耳まで熱を感じながら、病室に戻る道順を辿っていく。足取りは何ら変わらない。違うのは弾んでいる心だけ。
翌日も、翌々日も、彼女と会って話をした。退院が決まっても、中庭に足を運び続けた。約束をしていなくとも彼女に会えるのではないかと希望を抱きながら。
「こんにちは」
彼女はずっと待っていた。この中庭で。
「こんにちは」
挨拶を返すと、少女は春の風みたく微笑んだ。会う度に顔色は良くなっていて、車椅子からも少しの間なら離れられるまでに回復していた。
練習といって、僕は彼女の手を取る。ゆっくりと歩く二人だけの時間が始まる。
「ふふ」
下を見て、嬉しそうに笑う姿をずっと見られたら。温かな気持ちに包まれる。
気が付けば、日常は彼女に色づけられていた。淡い桜色、明るい向日葵色、バラ色に。
幾度も逢瀬を重ねて、蕾だった桜はいつの間にか満開だった。
いつもと変わらず昼下がりの中庭で彼女を待つ。今日は珍しく本のおとも付き。
読むのは恋物語。ダンスシーンが印象的な洋書。頁を捲り、一文字一文字追っていく。日を浴びて褪せた色、独特の紙の香り、心地のいい音、五感が本の良さと物語への没入感を増させる。周りが気にならないくらい世界に浸かっていた。
「小説?」
見知った顔が覗き込んで来た。すっかり一人で歩けるようになった彼女はサラリと垂れる髪を抑え、首を傾げていた。
「そう、とても面白い小説」
本を閉じ表紙をなぞった。
「スマホで読めばいいのに。荷物になるし、文字、大きく出来ないから読みづらくない?」
「そんなことないよ、電子書籍は簡単に読めていいけど、僕はやっぱり紙の方が自分の中に沁み込んでいくような感覚がして好きなんだ。データだと消えてしまう事もあるし。その点、本なら手放さない限り残り続けるでしょう」
僕の隣に座り、身体を寄せる少女。
「桜と一緒の方が良いのに」
「え?」
「ん~、そっかぁ、わたしはスマホの方が良いなぁ。だって、別のものを読みたくなったらすぐに変えられるし、嫌なメッセージが来てもなかった事にできるもの。本とか手紙とかって、残るからこそ深く刻まれるでしょ? 楽しいとか嬉しいならいいけど、辛いものは嫌だもの」
俯く彼女の瞳は灰色を映していた。
陰りを見せる表情を変えたかった。
「この本、ダンスシーンが有名なんだ」
顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべる少女。
目の前に立って、彼女に手を差し伸べる。
「踊ろう」
灰から戸惑いに変わった瞳は一度揺れるが、この手を取った。
膝下まで伸びるスカートがふわりと舞う。
「踊るって、どうすればいいの?」
「適当に?」
「適当に、って、もう!」
微笑み、明るさを取り戻した少女。
大きな桜の木の裏にある、小さな空間。舞い散る花弁の中、手を重ねる。
子供が見様見真似で踊っているみたいな、出鱈目なステップ。
風が枝を揺らし、さきより幻想的な世界を演出する。
桜のベールに包まれ、互いを見つめる。まるで映画のワンシーンを体験している様だった。
永遠よりも長い時間だと錯覚する。
ずっと、ずっと続けばいいのに。
桜と同じ、満開の笑顔。だが、こちらは散る事が無い。
ベンチに座り、笑い合う。
「楽しかった!」
「それは良かった」
彼女に触れたい衝動を抑えながら微笑んで見せた。
それから間もなく、桜は散り切った。
季節が移り替わり、晴れ続きだったことが嘘だったように雨が降り続くようになった。
もちろん、あれからも僕らは会い続けている。
変わったことといえば、中庭には雨を凌げる場所がない為、院内のスタバでお茶をするようになったことくらいだ。
僕はコーヒー、彼女はフレーバーティー。
土砂降りの日は室内まで冷えるので、ホットを頼む。
熱々のコーヒーを一口含む。彼女と過ごす甘い時間には苦いコーヒーくらいが丁度いい。ゴクリと飲み込み、温かさを身体に伝える。
目の前に座る少女は、両手でカップを持つと一生懸命息を吹き、熱を冷まそうとしている。
会う度に知らない一面を知っていく僕ら。
恋人同士でもないのに何故だろう、ずっとこの関係が続けばいいと願ってしまう。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
梅雨が明け、じりじりと肌を焦がす夏がやって来た。花たちには低木やらの影があり涼しいが、人にとっては暑くて長居できる環境ではなかった。
「今日は中にしない?」
「わたし、出来れば外で花を見たいの。で、でもあなたが無理なら中で涼みながら話しましょ」
口元が語っている、外で花が見たかったと。彼女と接する時間が長くなって、癖が分かって、なんとなく気持ちが分かってきているからだろうか。気が付いてしまう。
たとえ自分が無理をしても彼女には想い出を刻んで欲しいと。
「じゃあ外で。でも、熱中症とか怖いからあんまり長い時間はよそうか」
「うん! ありがとう」
中庭に見える向日葵よりもずっと大きい大輪の向日葵が目の前で咲いた。
数日空けて会う事になった日、急に僕たちの関係は終わりを告げた。
中庭にあるアイスの自販機、僕はプリン、彼女はソーダ。頬張った後に一口欲しいと言われ、僕はアイスを差し出した。
だが彼女は、手に持つアイスには触れもしなかった。
冷たいはずの唇にあたたかな感触が伝う。
誰にも食まれなかったアイスは溶けて、指を伝って滴り落ちた。
動けない。動けない。目を瞑っている少女。僕は現実を直視出来ず、ただ目を丸める事しか出来なかった。
彼女が離れて、やっと口に残っていた糖液を飲みこんだ。
目の前にいる少女は口を真一文字に結び、右往左往目を泳がせて、手を後ろで組んだ。
「嫌、だった?」
紅葉する顔。まだ秋は先だというのに見ごろと全く同じ色だ。熱に浮かされたまま、真っ白な頭のまま、答える。
「嫌なわけがない」
夏祭りの金魚みたいに彼女は色付いた。
「また、ね」
最後は目を合わせる事もなく、にやけた顔のまま彼女は行ってしまった。
間もなくして、彼女から連絡が来た。
しばらくは会う事が出来ないのだという。
中庭の目の前まで来て、僕は大人しく帰る事にした。
次に会えるのはいつだろうか、待ち遠しかった。彼女の事が頭から離れない日々。
スマホでやり取りをしているはずなのに、写真を眺めてみてもどうにも全てが嘘だったように感じてしまう。
もう彼女とは……色を失っている最中だった、季節が実りある時期に変わる所でまた、会えるようになるという連絡がきた。
僕は急いで、中庭へ向かった。その途中で……。
「どうしたの⁉ その足」
彼女の目の前に立っている僕の脇には松葉杖。どうしてこうなったのか、当然理由は話せない。格好悪い男にはなりたくないから。
「ちょっとこけたら、折れちゃって」
「早く良くなるといいね」
「ありがとう」
彼女の手を借りながら、ベンチに腰掛ける。秋の冷たい風が吹くと、落ち葉が二人を邪魔しないようにと、はけていった。
余りに彼女がいつも通りで、僕は気が気ではなかった。唇を巻きこみ、唾をのむ。
「あの、さ。僕たちって、どんな関係なのかな」
少女は顔を赤くして、一度息を整える。
「恋人同士、かな」
熱い。先とは比べ物にならない程上がっている体温。煩く鼓動を打つ心臓。あまり早鐘を打ちすぎると……息の吸い方を忘れて、盛大に咽返った。
恋人に心配されつつ、彼女を見送る。
「次に会えるのは二日後だね」
「そうだね」
彼女に手を振ろうとすると顔が近づいてきて、頬に一つ、キスが落とされた。
「じゃあね」
幸せそうな表情のまま、彼女は行ってしまった。
あぁ、夢みたいだ。浮足立ちながら帰路に就く。
いつもと変わらず、エレベータに乗って廊下を進む。
ついたのは一号室。一人部屋だ。もう、末期の患者は同じ部屋に出来る人が居ないらしい。
「うぅ」
慌てて口元を抑える。
「カハッ」
喉の異物感、手には何かがべっとりとついている感触。血だ。
またか、と部屋の洗面台で洗い流す。
いつ、枯れるだろうか。
彼女と出会って、彼女の退院が決まって、いつも外から会いに来てくれていた。僕は花だ、枯れていつの間にか死んでゆく。彼女は木だ、きっとあの美しい桜。
彼女は桜は散ったら何も残らないなんて思っていたのかもしれないけれど、それは違う。
桜は一度散っても、また葉をつけて蕾になって、花を咲かせる。ずっと、残り続ける。
その瞬間、また邪な思いが顔を出した。
別のものを読みたくなってもすぐには変えられない、嫌な言葉が書かれていても消す事は出来ない、残るからこそ深く刻まれるもの、手紙。
もしかしたら、便箋で指を切ってしまうかもしれない。君への言葉が酷いものになってしまうかもしれない。君を傷つけて、もう戻れないところまで引きずりおろしてしまうかもしれない。
でも、それでも、操作ミスで簡単に消えてしまう様な、直ぐに忘れられてしまうようなそんな僕にはなりたくない。
たとえ傷つけようとも、君の中に深く、深く、僕という存在を焼き付けて残したいんだ。
便箋にペンに封筒を出して、彼女へ向かって一文字一文字書き連ねていく。
震える手、もうタイムリミットは迫っている。幾度も出そうになる喀血を堪える。
愛しい想いと泥の底から湧いたような呪いの言葉を紡いでいく。
最初で最後、君だけを愛している。
くくりの言葉をやっと書き終え、封筒を取る。彼女の名前を書き、別添えのメモに彼女に渡るようにと書き残す。
「グハッ」
止められなかった喀血がサイドテーブルを染める。何とか守り切った便箋を封筒に入れた。
何かが、足りない気がする。咳の音で部屋が埋まった刹那、思い出す。
君に会う約束をしているのは、二日後の昼下がり。
『36時間後の君へ』
もう僕には時間が残っていないから、来年の桜は見られないけれど。
君が見上げた桜になれば、きっと永久に君の心に残れるだろう。
感想お待ちしてます。