命の天秤に揺れる笑顔
朝日が部屋の隅を淡く照らし、透真は静かに目を開けた。
隣を見ると、柚月はまだ穏やかな寝息を立てている。
昨夜の発作が嘘のように、今は落ち着いた顔をしていた。
(……少しでも、長くこの時間が続けばいいのに。)
そんな儚い願いを胸に抱きながら、透真はそっとベッドを抜け出し、静かに着替えを済ませた。
「買い物に行ってくる。何か欲しいものある?」
まだ眠そうな柚月にそう声をかけると、彼女は小さく首を振った。
「……ううん、大丈夫。でも、気をつけてね。」
「分かってるよ。」
そう言って微笑み、透真は玄関のドアを閉めた。
しかし、彼の足はすぐにスーパーには向かわなかった。
代わりに、真っ直ぐ病院へと向かっていた。
透真は病院の廊下を歩いていた。
冷たい蛍光灯の光が、白い壁に反射して妙に眩しく感じる。
いつもなら、柚月と一緒に来るこの場所。しかし、今日は一人だった。
胸の奥がざわついて、足が重く感じる。それでも、行かなければならなかった。
「先生、少しお話がしたいんです。」
診察室のドアをノックすると、担当医の先生が顔を上げた。
「透真くんか。どうした?」
「昨日、柚月が喘息の発作を起こしました。」
そう告げると、先生の表情が一瞬険しくなった。
「……やはり、か。柚月さんの肺の状態は、正直かなり厳しい。これからどんどん悪化していくだろう。」
「どれくらい持つんですか?」
透真の声がかすかに震えた。
「……長くて半年。持って1年だろうな。」
その言葉が耳に届いた瞬間、透真の頭の中が真っ白になった。
半年。
1年。
たったそれだけ。
柚月と笑い合っていた日々が、突如としてカウントダウンを始めた。
楽しくゆったり過ごせる時間が、もうそんなに残っていないのか。
「……それでも、移植は成功したんじゃないんですか?」
透真は必死に食い下がった。
「ああ、確かに手術自体は成功した。だが、二人とも肺が一つずつしかない状態で、これ以上病状が進めば……おそらく二人とも持たない。」
先生の声は重かった。
「つまり、俺たちにはもう……希望がないってことですか?」
「……希望がないわけじゃない。ただし……」
先生は言い淀んだ。
「ただし?」
「もう一度、肺の移植を考えなければならないかもしれない。」
透真は息をのんだ。
移植。
その言葉が、まるで自分の胸を刃で抉るように突き刺さる。
「……俺の肺を柚月に移植してください。」
言葉が勝手に口から出た。
「何を言っている、透真くん。君だって片肺しかないんだぞ。」
「それでもいいんです。」
透真は拳を握りしめた。
先生は深いため息をつき、頭を振った。
「駄目だ、そんなことは許可できない。」
「……柚月が、言ってたんです。」
透真は小さく呟いた。
「命のバトンを、って。」
先生は黙って透真を見つめた。
「……あいつは、生きたいんです。でも、体がそれを許さないだけなんです。だったら、俺が……俺の肺を、もう一度柚月に……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
けれど、心の奥ではもう決まっていた。
柚月が生きるためなら、自分の肺くらい、どうなってもいい。
「先生、お願いです。俺の肺を柚月に……」
先生は目を閉じ、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「……考えておく。」
その言葉は、希望なのか、拒絶なのか。
それでも透真は深く頭を下げ、診察室を後にした。
外に出ると、蒸し暑い夏の風が吹きつけた。
病院の扉が背後で閉まる音が、やけに重く感じる。
(また、俺は勝手に約束をしてしまった。)
柚月と生きる未来を望みながらも、自らの命を差し出す覚悟を決めている。
矛盾だらけの決意。
だが、それ以外に選択肢などなかった。
自分だけが生き残る未来など、ありえない。
柚月はこのことを知ったら怒るだろう。
「勝手に決めないで!」
そう言って、泣くだろう。
けれど、それでもいい。
(お前が生きられるなら、それでいい。)
透真は深く息を吸い、コンビニへと向かった。
(柚月には……いつも通りの顔で帰らなきゃ。)
家に帰ると、柚月はソファに座ってテレビを見ていた。
「おかえり!」
いつもと変わらない笑顔。
「ただいま。ほら、アイス買ってきたぞ。」
「え、ほんと!?やった!」
何も知らない柚月。
この笑顔が続くならば、どんな嘘だってついてやる。
透真は胸の奥のもやもやを押し殺し、精一杯の笑顔を作った。
この刹那が、永遠のように思えた。