相愛
1章 秋風
窓にかかった大きな蜘蛛の巣に、黄色い蝶々が羽根をバタつかせていた。
規則正しく張られた白い糸は、昨日の夢の続きを止めるように大きくキレイに拡がっている。
少しずつ力が尽きていく蝶々を、離れた所から狙っている大きな蜘蛛。
少し雨が降ってきた。
夏川紗和は、窓にかかったカーテンを外すと、ゴミ袋に捨てた。
一人でも生きていける女、か。
朝から少しずつ食べ続けてジャムパンは、半分まで食べたところで、口の中が痛くなった。
冷凍庫に残っていたコーラを立ったまま飲むと、涙混じりのため息が出てくる。
秋本健一と別れて3ヶ月。
同じ職場で顔を合わせるのが嫌だった紗和は、勤めていた職場を゙退職することに決めた。
健一、新しい女との間に、子供ができてたなんて。
5年間の恋が、同じ職場の新人に奪われて、あっけなく終演した自分は、旗から見たら不幸のどん底の女なのか……。
今更思い出にすがるつもりなどないし、一緒過ごしてきた時間の中に、忘れたくない欠片を集めるような、未練たらしい真似もしたくない。
住み慣れたアパートから、最後の荷物が引っ越しのトラックに積み込まれると、少しだけ出そうになった涙と、隠している淋しさを、全部捨てた。
もう、誰かを好きになんかならない。
思い出のゴミが増えるくらいなら、ずっと1人で生きていく。
自分を裏切った男が、不幸になるその日を想像しながら、今より少し、いい暮らしをするんだ。
会社に残っている荷物を取りに行くと、
「紗和、本当に辞めるの?」
同僚の西川咲良がやってきた。
「紗和がいなくなったら、また仕事をする人間がいなくなる。すぐに泣く新人と、おしゃべりな管理職しかいないなんて、最悪の環境だよ。ねぇ、考え直してよ。秋本くんと一緒が嫌なら、部所を変えてもらえばいいじゃない。」
「咲良、もう決めた事なの。」
紗和は咲良にそう言うと、荷物の入った紙袋を持った。
「夏川さん、最後にみんなに挨拶して。」
部長が紗和を呼びに来た。
「私はこれで、帰ります。」
「長い事、勤めてくれただろう。ほら、みんなも集まっているから。」
紗和は、部長が案内した場所に立つと、当たり障りのない言葉を並べた。
花束を持った健一が、紗和の前にやってくる。
健一の新しい女が、制服の上に薄いピンクのカーディガンを羽織り、紗和に拍手を送っていた。
最低だ。
自分についている導火線が、心の爆弾に辿り着く前に、一刻も早くここを去ろう。
紗和は時計を見て、すみませんと言って玄関に向かった。
「紗和!」
健一が紗和を呼び止めた。
「ほら、電話がなってるよ。早く戻れば?」
何かを言おうとした健一を見ようとせず、紗和は職場を後にした。
駅のベンチに座り、会社から持ってきた荷物と、もらった花束を捨ててしまおうと、ゴミ箱に向った。
こんな場所に捨てられるなんて、花束を作った人も想像してなかっただろう。
ちょうど、清掃業者の中年女性が通ったので、これもお願いします、と彼女に渡した。
「あら、もったいない。」
「いいんです。持っていくわけにはいかないし。」
「じゃあ、私がもらってもいいかしら?」
「どうぞ。」
「何があったのか知らないけど、若い女性が、もらったお花を捨てるなんて、悲しい世の中になったわね。」
女性はそう言った。
新しい会場を紹介してくれた人材会社に、連絡を入れる。
「もしもし。夏川です。」
「夏川さん、この度はこちらを選んでいただいて、本当にありがとうございます。早速ですが、今日、向こうに挨拶に行かれると聞きましたが、予定は変わりないですか?」
「はい。13時には着くと思います。」
「今の職場より、環境もいい、働きやすい会社だと思います。」
「転職の事、いろいろありがとうございました。」
「いえいえ。夏川さんのお友達で転職を考えている人がいましたら、ぜひご紹介ください。」
紗和は、これから住む街へ向う列車に乗った。
冷たいお茶をおでこに当てると、本当はまだ、健一の事が忘れられない自分がいた。
引っ越した先のアパートに、荷物が運ばれる。
これからは、自分だけの時間がたっぷりある。
大きな物だけ業者に運んでもらうと、紗和はリビングに無造作に積まれた、段ボールの横に、腰を降ろした。
ひとつため息をつくと、段ボールに貼られたガムテープを剥がした。
5年前、就職してすぐに、いくつかの仕事を任された。紗和を指導していた2つ上の女性の先輩は、急に親の介護があると、入社して1ヶ月後、休みを取ったと思ったら、そのまま辞めていってしまった。
書類に書かれた言葉の意味もわからず、忙しい先輩に聞くこともできない。時間に追われ、上司の顔色を伺う張り詰めた毎日が続いた。
いつも、22時を過ぎたあたりから、紗和の上にだけがポツンと明かりがついている。
「夏川さん、もう帰って寝たら?」
パソコンに向かい、考え事をしていた紗和の所に、違う部所にいるはずの健一がやってきた。
「すみません。もう、すぐ帰りますから。」
打ち込んでいた書類を、印刷しようとマウスを動かすと、印刷されたものが流れてくるはずのプリンターが、ピーピーと鳴り始めた。
「紙、切れたな。」
健一はコピー用事を探したが、いつもの置いてある場所には、今日はひとつも残っていなかった。
「取ってくるしかないか。」
倉庫に向かおうとする健一に、
「私が行ってきます。」
紗和はそう言った。
「夏川さん、今日はもう帰ろうよ。」
暗い廊下を歩いている紗和を、健一は止めた。
「終わらせないと、明日、困るし。」
紗和はそう言うと、健一の体を避けて、倉庫へ向かった。
「意地っ張りだなぁ。それに、もうとっくに明日になっているっていうのに。」
健一はそう言って笑った。
「新人さん?」
「そうです。」
「こんなに遅くまで残って、家族は何も言わないの?」
「私は、一人暮らしだし。」
「ちゃんと、自分のキャパを考えて仕事しなきゃダメだよ。ハイハイって聞いてたら、どんどん仕事が増えていくから。」
「……。」
断る事ができたらどんなにいいか。
誰かに陰口を叩かれるくらいなら、自分がやればいい事だし。
「困ったね。そうやって仕事を抱えると、時間がいくらあっても足りないよ。」
2つ上の健一は、その日から時々、残業している紗和の所へやってきた。
初めは違う部所にいたので、紗和と顔を合わせるのは残業の時だけだったが、去年からは、紗和の直属の上司になった。
2人が付き合っているのは、あまり知られていない。会社では、必要最低限の会話しかしないし、たまに取れた休日に、少しだけ長くいるくらいの付き合いだった。
恋人と呼べる関係になって5年目。
新人の川島彩花と健一が、2人で歩いているところを見掛けた。
せっかくの休みだから、一緒に映画でも見ようと約束をしてたのに、急に仕事が入ったからと、その日の朝に、健一から電話がきた。
早く起きて出掛ける準備をしていた紗和は、仕方なく1人で、映画館へ向かった。2人を見掛けたのは、その帰りの出来事だった。
健一と彩花が、道沿いにある、病院の玄関の前に立っていた。彩花は、反対側の歩道で立ち尽くす紗和に気がついて、少し笑っているように見えた。そして、健一の肩を叩き、紗和を見るように合図している。
紗和は2人に背中を向けて、健一がわからないように、今来た道を急いで走って戻っていった。途中、物陰に隠れて、さっきの病院の方を見た。吸い込まれるように2人が入って行った病院の看板には、小さなコウノトリが描かれている。
そういうこと、か。
次の日、彩花とその友人の堀田梨香は紗和を呼び出した。
「夏川先輩、秋本主任と別れてください。」
梨香が、彩花に変わって紗和に話しを切り出す。
「急に何?」
「彩花、秋本主任の子を妊娠したみたいなんです。」
紗和は彩花の方を見た。
「昨日、見たでしょう?」
梨香がそう言うと、彩花の口角が少し上に上がった。
「夏川先輩は、仕事の鬼ですよ。」
梨香は彩花と目を合わせた後、紗和を見た。
「一人でも生きていける女だって、秋本主任が言ってました。」
梨香の言葉に、表情をひとつも変えない紗和を、彩花は睨みつけた。
「夏川先輩って、本当に冷めた人ですね。秋本主任が逃げ出したくなる気持ちがわかります。」
梨香はそう言うと、彩花はかばうように、健一と別れるよう、もう一度、紗和に迫った。
「川島さん、どうぞ、お幸せに。」
紗和は、その場を去った。
その日も残業をしていると、健一が紗和の所へやってきた。
「紗和、帰るぞ。」
「勝手に帰れば。」
「昨日の事、怒ってるのか?」
「怒ってるも何も、健一の事、もう信じられない。」
「何言ってるんだよ。ぜんぜんわからないよ。」
「さっき、堀田さんと川島さんが、私の所へきたよ。」
「なんで、あいつらが紗和の所へ行くんだよ。」
「だから、聞きたいのはこっち。原因を作ったのは健一のほうでしょう?」
健一は不思議そうな顔をしていた。
「昨日どこにいたんだよ?」
「ずっと家にいたよ。」
「夕方行ったけど、いなかったから。」
「ちょうどコンビニへ行った時だったんじゃない?」
「そんな嘘つくなよ。本当は家にいたのに、出てこなかったんだろう。」
紗和はパソコンを閉じて席を立った。
「帰るのか?」
「倉庫に行ってくる。」
「もう遅いし、明日にしようよ。」
「健一、さっさと帰ったら? 彼女が待ってるよ。」
「ふざけるなよ。」
「私、こんな事でモメるのって、本当に嫌なの。堀田さんまで出てきて、子供ができただの、別れろって言われるわ、なんなの本当に。」
「子供?」
「そういう話しは、ちゃんと自分で説明してよ。わざわざ人を使って話しにくるなんて、最低。」
紗和は倉庫に向って歩いていくと、倉庫の鍵を締めた。
健一が倉庫のドアの前にいるのがわかる。何度もドアを叩いているけれど、紗和は出ていかなかった。
紗和の意地っ張りな性格を知ってる健一は、倉庫の前から離れると、紗和の机にメモを残して家に帰った。
話しがしたいから、何時でもいいから連絡してほしい。
紗和は、健一がいなくなったのを確かめて、倉庫を出た。本当はどこかで待ってるかもって、少しは期待したのに……。
自分の席に戻ると、何事もなかったように仕事を再開した。
健一が紗和に残したメモは、2人の様子を隠れて見ていた彩花が、シュレッダーに掛けていた。
「秋本主任!」
彩花が健一に声を掛ける。
「川島も残業か?」
「そうです。」
「なあ、川島、夏川に何か言ったのか?」
「何も言ってないですよ。それより、お腹空きました。何か食べに行きましょう。」
彩花は健一と腕を組んだ。
その日、遅くまで待っていたけれど、紗和からの連絡はなかった。
本当に、どこまで意地っ張りなんだよ。
そのうち何かのきっかけで、また元通りになれる。
健一はそう思っていた。
健一と職場で話さなくなってから1週間。
紗和は大学時代の友人に頼んで、転職サービスの会社に登録した。
少しでも条件が良くて、何よりも、健一から離れた遠くの会社へ行きたい。
住み慣れた町から電車で3時間。
今の会社よりも大きな会社へ、転職する事を決めた。
来月いっぱいでここを退職する。
その事を伝えた上司との面談では、けっこうひどい事も言われたけれど、紗和はいろんな思いを飲み込んで、退職する意志に変わりはない事だけを伝えた。
紗和は上司の健一に、仕事の引継書を提出した。
「辞めるってどういう事だよ。」
健一は紗和に聞いた。
「いろいろお世話になりました。」
「きちんと話しをしようよ。」
健一が紗和を見つめると、彩花がやって来た。
「主任、これを見てほしいんですけど。」
彩花が健一に書類を渡した。
「悪い、後で見るから。」
健一が彩花にそう言うと、
「課長から、早めに提出するように言われているんです。」
彩花が言った。
紗和は健一の机に書類置くと、席に戻って仕事を始めた。
「夏川、おい!」
次の日。
健一は紗和が来るのを待っていたが、月末までの2週間。紗和は有給消化を取りたいと言って、会社には来なかった。
2章 空っ風
新しい会社へ出社した日。
ずいぶんと若い職員も、ミーティングの時には、正々堂々と意見を言っている。
席は決まっているようで、決まっていない。
制服もなく、スーツを着ている人もいれば、普段とあまり変わらない格好の人もいる。
今まで、決められた毎日に慣れてきたせいか、自分で選べる環境に、紗和は少し戸惑った。
「夏川さん。」
お昼近くになり、紗和は上司に呼ばれた。
「この書類を作ったのは、夏川さん?」
課長は、たった今、紗和が作った書類を持っていた。見本の通りにやればいいからと言われたが、文字の並びが不規則だったので、それを直して提出した。
「はい。」
「そっか。官公庁にでもいたことある?」
「いいえ。」
「すごく細かい仕事だね。前の職場は相当厳しかった?」
「……まっ、いえ。」
紗和は言葉を濁した。
「ここは、もう少し端的に仕事をしてもいいから。」
それは、どういう意味だろう?
紗和はやり直すのか、このままでいいのかわからない上司の言葉に、少しイライラした。
「わかりました。」
最近、ずっと頭痛が治まらない。苛立ちが募り、全てを否定したくなる。
昼食をとらないで仕事を続けようとした紗和に、近くにいた女性が声を掛けた。
「お昼だよ。」
女性は紗和の肩を叩いた。
「これを片付けてしまいたくて。」
なかなか手を止めない紗和に、
「食堂に行こう。みんなに紹介するから。」
そう言って、女性は紗和を食堂へ連れて行った。
「私、冴木真衣、よろしくね。」
慣れた様子で、食堂での注文の仕方を、紗和に教える真衣の横へ、1人の男性が来た。
「真衣、この人が新しく入った人?」
「そう。夏川紗和さん。」
「俺、藤原航大、よろしく。」
「よろしくお願いします。」
「真衣、この人は?」
「あっ、湊。今日からきた夏川さん。」
紗和と真衣の周りに、数人が集まってくる。
こういうの、ちょっと苦手だなあ。明日からお弁当を持ってきて、外に行こうかな、紗和はそう思っていた。
お昼休みが終わり掛けた頃。
咲良からラインがきた。
「紗和、新しい職場はどう?」
「すごく自由な所。」
「やっていけそう?」
「うん。大丈夫。」
「堀田さん、今月いっぱいで辞めるって。」
「そうなの?」
「まさか、紗和が辞めると思ってなかったみたいだね。川島さんが堀田さんを使って、紗和の所へきたでしょう?」
「2人で来たね。」
「川島さんの嘘を知って、紗和が辞める事になって、すごくショックだったみたい。」
「もう、どうでもいい事。」
「秋本くんが、堀田さんから話しを聞いてわかったみたいだよ。」
「そっか。」
「戻ってこない? 」
「戻らない。」
「そうだよね。私も辞めたい。」
「仕事、大変?」
「大変なんてもんじゃない。田沼さんも結局、メンタルで休職したし。」
「眠れないって言ってたからね。」
「そのうち、紗和に会いに行く。」
「会いたいね。咲良も無理しないで。」
「友達?」
自席でラインをしていた紗和の所に、航大がきた。
「そうです。」
「今日、夏川さんの歓迎会をする事に決めたから。」
「えっ?」
仕事を定時で終え、近くの居酒屋にやってきた。
こんなに早い時間だと、お店はけっこう開いてるし、人がたくさん歩いてるんだ。
本当は、あと少しでも会社にいたら、書類のひとつでも片付けられたのに、紗和はそう思っていた。
「夏川さん、疲れた?」
歓迎会の事を言い出した航大が、紗和の隣りに座った。
「ところでさ、食堂のカレー、どう思う?」
唐突な航大の質問に、紗和は呆気に取られた。
「美味しかったです。」
「本当? うちの食堂、他はまあまあだけど、カレーだけはどうかなって。」
「どんなふうにですか?」
「あれは、甘いんだよ。」
「そういう事ですか。」
紗和は少しバカバカしくて笑った。
「前の職場はなんで辞めたの?」
「忙しい所だったから。」
無難な答えを、紗和は航大に伝えた。
「さっき、仕事が細かくて、丁寧だって、課長が夏川さんの書類を見せてくれたよ。」
真衣がみんなにそう言った。
「もっと端的に、って言われました。」
「課長は注意したんじゃないよ、褒めてたんだから。ここには、ここのやり方があるんだから、合わせればいいよ。」
真衣は紗和の肩を叩いた。
「うん……。」
腑に落ちない顔をしている紗和に、
「そのうち、慣れるって。伸び伸びやりなよ。」
航大はそう言った。
その伸び伸びが素直にできたら、どんなにいいか。
「夏川さん、この人知ってる?」
真衣が、1人の女性を連れてきた。
紗和は思い出そうと、記憶を辿ったが、思い出す事ができない。
「ごめんなさい、思い出せません。」
紗和が考えていると、
「5年前、夏川さんの指導を頼まれた、石山優佳よ。忘れても仕方ないよね。1ヶ月しか話しをしなかったから。」
5年前の記憶なんて、もしかしたら、数ヶ月前の記憶さえも、自分は消してしまおうとしているのかもしれない。
「親の介護は嘘よ。会社はあの後すぐに辞めたの。それで、ここに転職。先週課長から、あの会社からやってくる人がいるって聞いて、どんな人かなって気になってたのよ。大変だったでしょう、あの場所。」
優佳の声を聞いて、紗和は思い出した。
「そうだ、石山先輩!」
紗和はそう言った。
「思い出した?」
「はい、急にいなくなって、すごく淋しかったです。みんな忙しいから、誰にも聞けなかったし。」
「ごめんね、紗和ちゃん。」
「ねえ、優佳、そこってブラックなの?」
真衣が優佳に聞いた。
「ブラックではないよ。ある程度、残業の保証はあるし。だけどね、昔のやり方のまま、無駄も多いの。仕事の偏りもあるし、それっておかしいなって思っても、言ったら自分の首が締まるし、毎日が辛くて苦しくなる職場。そうよね?」
優佳は紗和の方を見た。
「紗和ちゃんの書類見たでしょう?」
真衣に優佳が言った。
「見た。キレイに文字が揃ってて、びっくりした。」
「文書はあれが当たり前。」
優佳がそう言うと、
「そんな、職場なら、長く働けないよね。」
真衣は同情するように、紗和の方を見た。
「秋本は、まだあの会社にいるの?」
優佳が紗和に聞いた。
「えっ?」
「彼とは同期なの。」
「そうだったんですか。いい先輩でした。時々、助けてもらったし。」
航大が紗和の方を見ていた。
「そっか。」
本当はいい先輩なんて言わず、幸せにやっていますよ、と言おうとして、紗和はいくつかの言葉を飲み込んだ。
「紗和ちゃんは、いくつ?」
優佳がそう言った。
「27です。」
「じゃあ、2つ下だね。航大と私は同じ年。」
「そうなんですか。」
「さっきから、テンション低いよね、紗和ちゃん。」
航大はそう言った。
「二次会行くでしょう? 今日は歓迎会なんだし。」
「明日も仕事だし、帰ります。」
「帰らなきゃならない理由でもあるの?」
真衣がそう言った。
ちょうど、隣りのテーブルにお刺身が運ばれてきた。皿に乗った魚と目がこちらを見ている様な気がして、紗和はそれを目で追った。
「そんなに、魚が気になる?」
真衣がそう言って笑っているのを、一緒にきた男性が振り返って見ていた。
「魚と目があった気がして。」
紗和はそう言った。
「魚は死んでるんだよ。おかしな事、言う人だなぁ。」
航大が笑っている。
「ねえ、今日がダメなら、今度の金曜日に、今日の続きをやろうよ。」
真衣はそう言うと、航大も優佳も賛成と言った。
「橋田はどうする?」
その男性には、知り合いがいたようで、別の席に呼ばれて飲んでいた。
「賛成に決まってるだろう。」
そう言った。
「あいつ、橋田湊。俺達と同じ年。」
航大はそう言って紗和に紹介した。
居酒屋を出ると、真衣と優佳はもう1件行くと、2人で別の店に歩いて行った。湊も一緒に飲んでいた友人と、次の店に行くみたいだった。
平日の最中なのに、どうしてこんな事が出来るんだろう。前の職場では、日付が変わるまで残業するのが当たり前だった。休日でさえも、仕事が終わらず出勤する事が多かったし、職場の人同志が、仕事の終わりにこうして集まって話しをするなんて、考えられない事だった。
元々、人付き合いの苦手な紗和には、それはそれでも良かったのだけれど。
残業代は、それなりには出ていた。だけど、本当は申告以上に、みんな残業をしていた。タイムカードの導入を何度も検討されたが、上層部はそれを嫌がった。
紗和と健一は、いつも最後に電気を消して、セキュリティの設定をして退社していた。
22時30分。
せっかく早く帰れるんだ、今日はゆっくり眠ろう。
紗和は、航大にお礼を言うと、足早に家に向かった。
「送っていくよ。」
航大が紗和の後をついて来た。
「いいですから。」
紗和は足早に歩いていく。
「紗和ちゃん、そうやってずっと行きてきたの?」
「どういう意味ですか?」
「人を寄せ付けない感じがするからさ。」
「そうですか?」
「そうだよ。」
一人でも生きていける女だ、そう言った彩花の声が聞こえた。
健一と彩花が、自分を笑っている光景が浮かんだ。
また、少し頭が痛くなる。
「大丈夫?」
航大が紗和の顔を覗き込む。
「大丈夫です。」
紗和が小学2年の頃、両親は離婚した。新しい彼氏が出来た母は、5歳の妹と連れて家を出て行った。
父と2人の生活が始まった時、一緒に暮してきた妹は、実は違う父親の子供だった事を知った。
いろんなに人に裏切られ、あまり話さなくなった父との暮らしは、声をかけようと思えば思うほど、息苦しくて辛くなった。
「急に寒くなったね。」
航大が言った。
「そうですね。」
「手袋、あげようか?」
「私、持ってますから。」
「いいよ、これ使って。」
航大はそう言って紗和の手を自分のポケットに入れた。
「なにそれ。」
「温かいだろう。」
航大は笑った。
「私の家、すぐそこだから。」
紗和は、航大のポケットから無理矢理手を取り出すと、そのまま走って家へ向かった。
3章 つむじ風
健一からの着信が並んでいる。
一人でも生きていける女だと言っておきながら、ずいぶんと未練たらしい男だ。
紗和は健一の携帯番号を携帯から消した。
少しだけ後悔していた心も、これで前に進んでいけるはず。
「今日はお弁当なの?」
昼休み、航大が紗和の前に来た。
「今度、美味しいカレーを奢ってあげようか?」
「行かないです。」
食べ掛けていたお弁当をしまうと、仕事へ戻った。
「冷たいなあ。紗和ちゃん。」
紗和はパソコンを打つ手を止めた。
「気にした?」
「いいえ。」
お茶を飲もうと、ポットのある場所へ向かった。
「何か飲みますか?」
紗和は航大に聞いた。
「俺の分も入れてくれるの?」
「はい。」
まだ明るい時間に家に帰るのが慣れず、紗和は近くのスーパーに、寄り道をした。
照明に照らされている色とりどりの野菜が、紗和の目を明るく色付ける。
どうせ、作っても一人だし、何を作っても同じ味しかしない。
紗和は並んでいる魚と目が合った気がして、足を止めた。半分開いた口から、今にも悲観した言葉が出てきそうだった。
「店員さん、これ、どうやって食べるの?」
「煮付けにしたらいいよ。できる?」
「調べてみる。」
「夏川さん。」
湊が紗和に声を掛けた。
「うち、この近く?」
「そうです。」
「夏川さん、魚が好きなんだね。」
「あっ、これ? 」
「この魚、どうするの?」
「さっき、店員さんにいろいろ聞いた。魚の名前も。」
「名前も?」
紗和は笑って、
「これからこの子とお話しするの。」
そう言った。
「やっぱり、そうか。じゃあ、早く家に帰らないとダメだね。」
紗和は湊が何かを勘違いしたと思っていたけれど、また明日と手を振った。
家に帰り、煮付けて箸を入れた魚の身は、ほんのり茶色く染まっていた。魚と口をちょっと突いても、何も言葉は出てこなかった。
1人で食べる食事が当たり前になっていた。元々父と暮していた時も、美味しいとか、何が食べたいとか、食事中に話す事はなかった。
学生の時、時々友達とご飯を食べに行く機会があると、話しながら食べるという事が、自分にはできない事がわかった。なんとかみんなと食事をしようと、テレビと会話しながら、食べる練習もしたけれど、バカバカしくてやめた。
新しい職場に来てから3ヶ月。
ある日の金曜日。
真衣の家に集まり、真衣の彼氏の栗原陵矢も交えて、6人で鍋を囲んでいた。
「真衣、やっぱりキムチ鍋にしようよ。」
「ダメだよ。紗和は辛いのダメだから。」
真衣が陵矢にそう言った
「私、辛いの嫌いじゃないよ。」
紗和がそう言うと、
「だって、航大が言ってたよ、紗和は辛いの苦手だって。」
真衣が航大の方を向く。
「紗和ちゃん、食堂のあの甘いカレーを食べてたから、てっきり辛いのは苦手だと思ってた。」
「なんだ。航大が勝手に思い込んでたんだ。今からキムチにしたら?」
優佳が言った。
「2人でキムチ、買ってこいよ。飲み物だってもう少しほしいし。」
湊が紗和と航大を指差した。
「紗和、うどんも買ってきて。」
真衣が、買ってきてほしいものをメモして紗和に渡した。
「ほら、航大と早く行ってきて。」
紗和と航大は、一緒に買い物に向かった。
「藤原くんが勝手に勘違いしたせいだからね。」
紗和は航大に言った。
「良かったじゃん。一緒に俺と買い物に行けたんだから。」
「本当、いつも前向きな人だね。」
「荷物はちゃんと持ってあげるし、帰り道にソフトクリームでも食べていこうよ。」
「何言ってるの、罰ゲームみたいなもんだよ、これ。」
「罰ゲームじゃないって、大当たりだよ。」
紗和はため息をついた。
「明日は休みだし、紗和ちゃん、今日は家に泊まりなよ。」
「何言ってるの。」
「すっごいいい映画、一緒に見ようよ。」
「見ません。」
「冷たいな。俺、一人で見たら、悲しくてショックで倒れるかもしれないのに。」
「そんな事、絶対ないから。」
「じゃあさ、すっごい美味しいケーキ一緒に食べようか。」
「さんざん鍋食べた後に?」
「そう。」
「藤原くん、本当にしつこいね。」
スーパーに着くと、航大がキムチを選んだ。
「これがいいよ。」
「そうかな、こっちのほうが辛そうだけど。」
「あんまり辛くするとさ、2人っきりになった時、困るよ。」
「何言ってんの?」
「陵矢達の事だよ。」
「辛くしたいって言ったのは、陵矢さんでしょう?」
「少しは気を利かせてやらないと。」
航大は自分が選んだキムチをカゴに入れた。
「ちょっと!」
「優佳さん、エビって言ってたよね。あと、飲み物か。」
「違うよ、うどんって言ってたんだよ。」
航大は紗和の持っているカゴを引っ張る。
何を買うのも、一つ一つ航大が注文をつけるので、時間がかかった。
「藤原くん、お菓子なんて選んでないで、早く帰ろう。」
会計を済ませた紗和が藤原を呼ぶと、
「じゃあ、お菓子は後で買って、家で映画見ながら食べようか。」
そう言った。
「私、藤原くんの家になんて行かないから。」
航大が紗和の隣りに並んだ。
「荷物、俺が持つよ。」
「大丈夫。」
「2つに分けてもらえば良かったのに。」
「いいから早く戻ろう。」
航大は紗和が持っている荷物を持つと、紗和の手を繋いだ。
「ふざけすぎだよ。」
紗和は手を離そうと引っ張った。
「ダメ。」
航大は手を離さなかった。
「藤原くんって、何を考えてるかぜんぜんわかんない。」
「紗和ちゃんのほうが、何を考えてるかぜんぜんわかんないよ。」
「困ったね、わからないもの同士で買い物に来ちゃったら、いくら時間があっても足りないよ。」
紗和はそう言った。
「だからさ、今日はもう少し、一緒にいようよ。」
「私、そういう誘い嫌いだから。」
「前から思ってたんだけど、なんでそんなに人を避けようとするの?」
「避けてる?」
「避けてるよ。」
紗和は、
「苦手かな、人付き合い。」
そう言った。
「そっか。俺と一緒だ。」
「嘘。藤原くんみたいな人が、人付き合い苦手なわけないよ。」
「そんな紗和ちゃんのために、いい映画があるから、家においでよ。」
「絶対行かない。」
真衣のアパートに着くと、
「遅いよ。2人で消えたかと思った。」
陵矢がそう言った。
「キムチは?」
真衣はそう言って、航大から買い物袋を受け取った。
「紗和、こんな辛くないやつ選んできたの?」
「本当だ。やっぱり、紗和ちゃんに選ばせたのは間違いだったよ。」
陵矢がそう言った。
「お前らが2人きりになってもいいように、わざわざこれを選んだのに。」
航大はそう言って笑った。
「仕方ない。キムチの素、出すか。」
真衣はそう言った。
「あるなら最初から出せば良かっただろう。」
湊は言う。
「航大が、買い物行くって張り切ってたから、言い出しにくくって。」
「紗和、うどんは?」
「あるよ。」
優佳はそう言うと、
「真衣、早くキムチ入れて食べよ。」
みんなは鍋の前に集まった。
「秋本、元気にしてた?」
優佳が紗和に聞いた。
「元気なんじゃないですか?」
「あの上司の中で、よくやってたよね。」
「そうですね。」
「新人の頃、全部仕事押し付けられて、いつも夜中まで残業しててね。体壊して倒れてから、少し残業もセーブしたけど、元々断れない性格なのかな、全部自分で抱え込むから、何度も転職を勧めたのよ。」
「そうだったんですか。」
「秋本がなんであの会社にこだわってたのか、よくわからない。好きな子でもいたのかな。安定した会社だったけど、いろんな人の犠牲の上にある場所だったのよね。」
「優佳さんは、何年あの会社にいたんですか?」
「私は3年。紗和は?」
「5年です。」
「そっか、よく頑張ったね。」
「ありがとうございます。」
「優佳さん、紗和ちゃんって、前の会社には彼氏とかいたの?」
航大が聞いた。
「紗和とは、1ヶ月しか一緒に働いてなかったし、その後の事はわからないよ。そういう人、いた?」
「いませんよ。」
紗和が答える。
「じゃあ、うちの会社に来たのは、本当に仕事の内容で選んだんだ。変わった時期に入ったから、失恋でもして、前の会社に居づらくなったのかと思った。」
「航大、今どき恋とか愛とかで、生活を変える女なんていないよ。それにあの会社は、恋愛する余裕なんてぜんぜんないし。」
優佳は航大の方を見た。
「それより航大はどうなの? あの年上の人。」
「それ優佳さん、幻を見てるんだよ。」
「何よ、ごまかして。あのよく来る取り引き先の年上の人とたまに話してるって、みんなの噂だよ。」
紗和はチラッと航大を見た。航大は紗和と目が合うと、
「俺が誰と話してるか、みんな気になるんだね。」
そう言って笑った。
鍋を食べ終え、真衣の家の玄関に出ると、
「私達、こっちだから。」
優佳と湊が、紗和と航大に手を振る。
紗和と航大は駅に着くと、
「今日は家においでよ。」
航大が言った。
「行かない。」
「約束したじゃん。」
「してない。」
「紗和ちゃん、冷たいね。」
「その、紗和ちゃんとか名前で言わないで。」
笑って紗和の手を握った航大に、
「なんで、そんなに適当に生きていられるの?」
そう言って紗和は手を離した。
「紗和ちゃんこそ、どうしてそんなに淋しそうにしてるの?」
「淋しそう?」
「そう。淋しくて、悲しそう。」
「さっきは人を避けてるとか言うし、もう、藤原くんと話してるとおかしくなりそう。」
「ねぇ、絶対、紗和ちゃんを泣かせるから、映画見に来てよ。その強がりな性格を改心させてあげるから。」
「行かないし、私を泣かせるなんて絶対無理だし。」
「ねえ、最後に泣いたのはいつ?」
紗和は健一の事を思って、一瞬固まった。
「もう、10年以上前かな。」
死んだ魚から出てきたような濁った嘘。
「嘘ばっかり。きっと、ついこの間泣いたでしょう? 失恋とかしちゃってさ。」
図星の言葉に少し動揺したけれど、
「ハズレです。」
紗和はそう言って改札へ向かった。
「じゃあ。月曜日に。」
4章 偏西風
自分の顔を見なくなったのは、いつの頃からだろう。電車の窓に映る自分は、髪の毛が中途半端に伸びていて、あまり笑う事のなくなった唇は、申し訳なく付いているだけ。
元々、オシャレにも興味がなかったし、化粧をしたところで、どのくらい塗れば完成なのかも、本当はよくわからない。
世の中の女の人は、自分の顔を見て、どんな風に変われば、今日はこれでいいと思うんだろう。
1つ目の駅で、席が開いた。たいして疲れていなかったけれど、紗和は座ってカバンを膝の上に置いた。ほとんどの人が、無言で携帯を見ている。
こんなにいろんな人がいるのに、自分の空間は、きちんと守られている。
人との距離を考えると、やっぱりこの世の中って、自分にはちょっと生きにくい。
紗和はカバンの中から、ミントを取り出すと、手に飛び出した粒をいっぺんに口の中に放り込んだ。
航大は、電車の端の席に座り、カバンを抱えている紗和を見ていた。
あいつは、俺がここにいるのに、ぜんぜん気が付かないんだ。
会った時からずいぶん影のある子だと感じたけど、1人で考え事をしている紗和は、誰も周りに寄せ付けない壁がある。
前に健一が見せてくれた笑顔の写真の彼女とは、少し雰囲気が違っていた。
健一とは、別れたんだろう。
失恋してすぐの女は、一番キレイだって言うし。たいして化粧なんかしなくても、声を掛けくれっていうような顔をしてるよ。
2つ目の駅に着いた時、紗和は不意に手を掴まれてホームへ出た。
電車のドアが閉まるのを見送ると、手を握る先を、ゆっくり見上げた。
「藤原くん!」
「俺の家、ここから、歩いて5分だから。」
紗和の手を掴んで離さない航大。
「どうしても、映画を見せたいってわけね。」
「そうだよ。」
「わかったから、手を離して。」
航大は手を離し、紗和の肩を掴んだ。
「泣いたら、俺の勝ちだからね。」
「なんの勝負よ。」
紗和と航大は歩き始める。
「紗和ちゃんはどんな話しが好き?」
近すぎる航大との距離に、紗和は苦しくなった。
「私ね、戦争映画、よく見るの。」
デマカセを言って、航大との距離を離したい。
「本当に?」
「悲惨な光景を見ると、人間ってどこまででも残酷になれるんだなって、そう思う。」
「じゃあ、映画見て感動して泣いた事って、ないの?」
「そうだね。あんまり泣かないかな。腹が立って眠れない事の方が多いかも。」
そう言えば、健一と一緒に見に行こうと約束していた映画も、結局泣くことはなかった。
昔からそうだった。作り話しだってシーンが少しでもあると、気持ちが急に冷めてしまう。
最後まで見る前に、何度も寝てしまい、気がつくとエンドロールが流れている事がよくあった。
健一と2人で映画を見に行った後
「2時間、退屈だっただろう?」
よくそう言われた。
「そんな事ない。」
「だって、紗和、寝てただろう?」
いつもは、会社で交わす短い会話。
やっととれた休みの日に2人で過ごすと、少し手が触れただけで、気持ちが高まる。
健一と会うのが嬉しくて、前の日からたくさん出ていたアドレナリンは、映画館の中で、枯渇してしまう。
暗い空気の中、溜まっていた疲れが一気に開放されて、紗和はつい、眠ってしまった。
本当は、退屈な映画でも、隣りにいる健一が少しでも近づくと、このまま終わらないでいてほしいとさえ、思ったりするのに。
「どうだった?」
眠ってしまった紗和は、健一が映画の感想を聞いてきても、何も答える事ができない。
「やっぱり寝てたのか?」
「違うよ。」
あの日から、彩花と入っていった病院の看板が、映画の宣伝のように、何度も心に流れてきた。
もう、たくさん!
どうか作り話しであってほしいと、どんなに願ったか。
「誰かと一緒にいるのも、いいもんだよ。」
航大が言った。
「一緒になりたいって者同士が、勝手に寄り添って生きていけばいいじゃない。」
「紗和ちゃんは、1人でも、淋しいと思わないの?」
「1人で生きてる方が、楽ちんだよ。」
「悲しいな。そんな風に思ってしまう事でもあった?」
「どうかな。」
「紗和ちゃんの昔の男は、最悪だったんだろうね。」
「……。」
「着いたよ。」
結局、航大の家に来てしまった。
男の人と2人きりになるのは、本当に面倒くさい。適当にごまかして、終電で帰ろう。
「こっちにきて。」
航大はテレビの前に紗和を案内した。
「なんの映画?」
「ほら、始まるよ。」
航大はリモコンをテレビに向けた。
「南極物語?」
「知ってる?」
「名前だけ。ずいぶん、古い映画だね。」
「この前、偶然入ってて、録画したんだ。どうしても、紗和ちゃんと見たくって。」
航大は紗和にコーヒーを出した。
意外な選択に紗和は驚いた。
「女子と見るような映画じゃないないよ、これ。」
「この映画の主人公は、助けられなかった犬の飼い主みんなに謝り続けるんだ。」
航大はそう言った。
「想像してた話しと、少し違う。」
エンドロールが流れると、
「これで終わり?」
紗和が言った。
目を真っ赤にしている航大に、
「藤原くんの負けです。」
紗和はそう言って立ち上がろうとした。
「紗和ちゃんの負けだよ。さっき、泣いてたでしょう。」
「泣いてないよ。」
紗和はそう言った。
「泣いてたよ。」
「泣いてない。」
航大は紗和の頬を触った。
ちょっと、距離が近くなり過ぎた。
「藤原くん、すごくいい映画だった。ありがとう。」
紗和はそう言うと、航大から離れた。
「本当に良かったでしょう。」
「うん。こういう話しで来られると思わなかった。」
紗和は航大の顔を見て、微笑んだ。
「私、帰るね。ギリギリ終点に間に合いそうだし。」
航大は紗和の手を掴んだ。
「紗和ちゃんの負けだって言ったでしょう。」
手を振りほどこうとする紗和を、航大はベッドに連れていき、押し倒した。
「なんで?」
「負けたら、一緒に寝てくれるっていう約束だよ。」
健一の顔が浮かんでくる。
あの子さえいなければ、健一じゃない人と、こんな風にベッドに誘われる事もなかったのに。
紗和は、航大の体を何度も押し返そうとした。
「そんな約束、してないよ。」
航大は、紗和の手をきつく掴んだ。
「ずっと好きだったんだ。」
そう言うと、紗和を抱きしめた。
1人で生きていこうと決めてから、いろんな人を自分の周りから遠ざけた。
健一の影を見るだけでも、涙が出そうになっていたどん底の時には、こんな風に自分の事を、好きだという言葉がまた聞けるなんて、思ってもみなかった。
自分を離さない航大に、どんな言葉で答えようかと考えても、喉の奥に引っかかった気持ちを、うまく吐き出す事ができずにいた。
「紗和ちゃん、そんなに俺の事が嫌い?」
紗和は首を振った。
「信じてよ。俺は絶対に紗和ちゃんを裏切らないから。」
航大の唇が紗和の唇を求めてきた。
紗和はその唇を受け入れるように、かたく目を閉じた。
なにやってんだろう、私。
明け方。
航大は、隣りで眠る紗和の髪を撫でた。
気持ちが満たされないのは、なぜだろう。
紗和が健一と付き合っていた事は、2年前の高校の同窓会で、健一本人から聞いた。
照れくさそうに彼女の写真を見せる健一が、ただ羨ましかった。
サッカー部のキャプテンだった健一は、控え選手の自分にも優しかった。思うようにサッカーができなかった自分は、健一が声を掛けてくれる度に、なぜか悔しくてたまらなくなる。
勉強ができて、みんなから信頼されている健一への嫉妬は、日に日に強くなっていった。
いつか、チャンスがあるならば、健一の一番大切な物を奪ってやろう、自分はそう思い、ずっと生きてきた。
3ヶ月前。
偶然、自分の所へ、紗和が転職してきた。写真で見た健一の彼女だと、すぐにわかった。紗和の様子を見ていると、健一とは既に別れていることを察した。あいつが手放した紗和は、一体どんな子なんだろう、そう思って紗和に近づいた。
「藤原くん、起きてたの?」
紗和が目を覚ました。
「起こしちゃったね。」
「大丈夫。」
紗和は航大に背中をむけると、再び眠りにつこうとした。
「紗和ちゃん、ごめん。」
紗和の背中を抱きしめた航大は、そう言った。
「私こそ、ごめん。」
紗和が言った。
「2人で謝って、なんかおかしいね。」
航大はそう言うと、紗和の冷たい肩に手を置いた。
「本当だね。」
紗和が言った。
「ねえ、寒いだろう?」
「うん。少し、寒くなった。」
紗和は体を小さくした。
「ほら。」
航大は紗和の肩に毛布を掛けた。
「ありがとう。」
毛布を引っ張りさらに小さくなった紗和の背中。
「ごめんね。始発の時間には、ちゃんと帰るから。」
「休みなんだし、もう少し一緒にいようよ。」
「ううん。ちゃんと帰るから。」
「紗和。」
航大は紗和の背中に顔を近づけた。
「ごめん。これ以上いたら、自分がわからなくなる。」
薄暗い空気の中で、丸くなっている紗和を見ていると、健一への嫉妬がまた強くなった。
どうして、こっちを見てくれないんだ。
帰るなんて、そんなに悲しい事を、平気で言うなよ。
健一への嫉妬がなければ、もっと違う出会いも会ったかもしれないのに。
ごめんな。
本当の事を言ったら、嫌われてしまうだろうな。
「紗和。」
「何?」
「やっぱり俺の事、嫌いか?」
「嫌いじゃないよ。」
背中を越しで、答える紗和の眠そうな声。
いろんな気持ちが溢れてきた航大は、半分眠っていた紗和を正面にむかせると、長いキスをした。
6章 木枯らし
なんとなく航大との距離が近くなった頃。
前の職場で一緒だった咲良から電車が掛かってきた。
「紗和! 秋本くんが倒れたの! 最近ずっと残業が続いてて、今、医療センターにいるはずだから、行ってあげて。」
「健一には川島さんがいるでしょう? 子供だって生まれるんだろうし。」
「秋本くんが、あんな子を相手にすると思う? 子供なんて生まれないし、全部、彩花の嘘だったのよ。堀田さんだって、彩花の言っていた事が嘘だってわかったら、彩花と会社で喧嘩したんだから。」
「私、ずっと健一が浮気したと思ってた。浮気じゃないってわかっても、もう遅いの。」
「紗和は意地っ張りの勘違い。秋本くんに会ってちゃんと謝りなよ。このまま、秋本くんが、死んでしまってもいいの?」
「そんなに悪いの?」
「心配なら、自分の目で確かめてよ。秋本くんが倒れたのは、紗和のせいだよ。」
紗和は家族が倒れたと言って休みを取り、病院に向かっていた。
会社に嘘をついた事よりも、健一の様子が気になって、胸に何かがつかえているようだった。
「紗和、どこにいくの?」
廊下ですれ違った航大が、紗和に聞いてきた。
「病院に。父が倒れたみたいなの。」
「それなら、俺も行くよ。」
「藤原くん、父は難しい人なの。」
目が泳いでいる紗和の様子を見て、もしかしたら、本当は健一の事なのかもしれないと、航大は思った。
「どこの病院なの?」
「医療センター。」
「わかった。じゃあ、気を付けて行っておいで。」
「じゃあ。」
ここから健一の住む町まで行くには、3時間もかかるのか。今更だけど、どうしてこんな遠くに離れてしまったんだろう。
私の勘違いだって言われても、梨香と彩花に言われた事を、健一は何も否定しなかった。
それに、産婦人科に入っていった2人は、他にどんな理由があるっていうの?
駅について、切符を買うと清掃業者の人がゴミ箱からゴミを集めていた。
あの日、もらった花束をここで捨てたっけ。
列車の窓を見ていると、健一と始めた話した日の事が浮かんできた。
真っ暗な倉庫に付き添ってくれた健一は、暗闇の中、パッと灯りをつけると、コピー用紙に入っている箱をヒョイと持った。
「そんなにいらないですよ。」
紗和が言うと
「他の人も使うだろうし。」
「違う部所なのに、ごめんなさい。」
「石山が気にしてたよ。指導の途中だったんだって。」
「頑張って早く仕事、覚えます。」
「夏川さん、これを印刷したら、なんか食べて帰ろう。もう、こんな時間だし、開いてる店は少ないけど。」
紗和は目を閉じる。本当は、思い出の欠片を集めても、健一を嫌いになる理由なんてひとつもなかった。
だけど、好きだという気持ち以上に、健一を疑う感情の方が、溢れ出してしまった。
勝手に勘違いして去った自分の事を、謝って許してもらおうとは思わない。
健一に会ったら、きちんと話しをして、2人で過ごして来た時間を、いい思い出として閉じ込めよう。
私には、航大が待っているんだから……。
病院へ着き、健一の事を聞くと、とっくに家に帰っていると言うので、紗和は咲良から教えてもらった新しい健一のアパートに向かった。
やっぱり、咲良にまんまと騙されたのか。
玄関のチャイムを押すのにためらっていると、中から彩花が出てきた。
紗和は彩花のお腹に目をやった。
「夏川先輩、どうしてここに?」
彩花の声を聞いて、健一が玄関に出てきた。
「ごめん、お邪魔だったね。」
紗和はそのまま健一の前から去った。
追いかけようとした健一を、彩花は止めた。
「みんな夏川先輩ばっかり。」
彩花はそう言って泣いた。
「夏川先輩には敵わないとか、夏川先輩にしかできないとか、みんなそうやって先輩を褒めて、仕事でほしい物がみんな手に入ってるくせに。」
「川島、あいつだって、仕事のためにいろんな事を捨ててきたんだ。」
健一は彩花にそう言った。
「先輩は、何かを失くしても捨てても、秋本主任がそれを埋めてくれるじゃないですか。」
「そんな事ないよ。仕事の事は、自分でなんとかしできたんだ。」
「そうやって、どこまでもかばうんですね。」
健一は、泣きじゃくる彩花を家に入れた。
「川島だって、頑張ってるじゃないか。」
健一は、彩花の肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「そんな言葉なんていらない。」
「夏川はもういないんだ。これからは川島がみんなに頼りにされるようになるから。」
「秋本主任、夏川先輩の事はきっぱり忘れて。」
「川島、それはできない。できない事だってあるんだよ。」
「どうして? 夏川先輩のどこがいいの? 仕事の鬼だし、ぜんぜん女らしくないのに。」
「どうしてだろうな。」
健一は彩花の肩から手を離した。
「ほら、課長が待ってるよ。この書類、持っていってくれ。」
「夏川先輩も秋本主任もバカみたい。」
彩花は出ていった。
紗和が会社を辞めた日。
健一は梨香に話しを聞いた。
「夏川となんか話したのか?」
「彩花から、主任との間に子供ができたって相談されて。夏川先輩が、なかなか別れてくれないから、籍を入れられなくて困ってるみたいだったから。」
「それで、夏川に俺と別れてほしいって言ったのか。」
「主任と夏川先輩って付き合ってたんですか? 彩花は、夏川先輩がちょっかいを出してるだけだって言ってたけど。」
「俺と川島とは、仕事だけの付き合いだよ。夏川とは、付き合って5年になるんだ。」
「知らなかった。夏川先輩、会社を辞めるって聞きましたけど。」
「そうだ。勘違いしたまま、何も話しができない。」
「私のせいだ。」
「それは違うよ。あいつの性格をわかってるつもりだった俺が悪いんだ。堀田、嫌な事聞いて、ごめんな。」
梨香はその後、給湯室にいた彩花の頬を叩いた。
「嘘つき、最低。」
2人がモメている様子は、会社の中で噂になった。喧嘩の原因を聞かれても、梨香も彩花も何も言わなかった。
梨香は、紗和と仲が良かった咲良の所へきて、これまでの事を全部話した。
「夏川先輩に、戻ってきてほしいって、言ってくれませんか?」
「梨香ちゃん、それは無理だよ。」
「秋本主任と別れる事になって、会社も辞めるなんて、夏川先輩の人生を私が狂わせてしまったみたいで。」
「紗和はそんなに弱くないから大丈夫。それに、あの2人はきっとまた一緒になるから。」
「そうですかね。」
「梨香ちゃん、見て。主任の机。面倒な仕事を全部引き受けて、きっとそのうちパンクしてしまうから。紗和も本当は、いろんな事が限界だったの。新しい所で、もっと楽しく仕事をすれば、気持ちに余裕だってできると思う。」
咲良はそう言った。
「梨香ちゃんが、本当の事教えてくれたって、紗和に言っておくから。」
健一のアパートから走ってきた紗和は、追いかけて来るはずもないのに、何度も後ろを振り返った。
健一の足音が近づいてくるようで、自分の影さえも健一がきたのかと期待してしまう。
振り返って、自分の短い影だと気がつくと、とてつもなく、切なくなった。
駅までの道が、ひどく長く感じて、紗和は途中にあった公園のベンチに、引き寄せられるように座りこんだ。
咲良に連絡をしようと携帯を出した時、
航大からラインがきた。
「大丈夫だった?」
「大丈夫。」
「それは良かった。こっちに着いたら、連絡して。駅まで迎えに行くから。」
「1人で帰るからいい。」
「ダメだよ。ちゃんと話しを聞かせて。」
航大からのラインに、
溜めていたものが溢れてくる。
健一には、あの子がいたんだった。
もしかしたらと思ってここまできた自分は、餌をもらえると思って、ヨダレを垂れている犬みたいだ。
ねぇ、藤原くん。
南極で、鎖に繋がれ凍えていた犬達は、どれくらいで人間が置き去りにした事に気がついたんだろうね。
目を開けたら、また会えると思って眠りについて、そのまま死んでしまったのだろうか。それとも、迎えに来ない事を理解して、気力を失くして死んでいったのだろうか。
見えないものを信じ続けるのって、本当に勇気がいる。
見えてるものだって、ちょっとした事で疑ってしまうけど。
信じる事よりも、疑う事のほうが、実はすごく簡単なんだろうね。
紗和はカバンから痛み止めを出すと、水も飲まずに口に入れた。
頭が痛むのは、もうずっと治らない。
目を閉じて、まぶたに手を置くと、少しホッとする。
「紗和。」
誰かが自分を呼んでいる。
ゆっくり目を開けると、自分の顔を覗き込んでいる健一がいた。
「健一。」
「探したよ。」
「川島さんは?」
「川島は、課長から急ぎの書類を頼まれて、届けにきたんだよ。目を通したから、会社に持って帰ってもらったんだ。またそうやって、勝手に勘違いするな。」
健一は、最後に会った時よりも、腕も顔の線も細くなっている。
「ちゃんと食べてたの?」
紗和はそう聞いた。
「食べてるよ。」
「嘘ばっかり。」
紗和は健一の腕を触った。
「もう、帰るのか?」
「……。」
このまま帰ると言ったら、健一はなんて言うだろう。
健一の部屋に行きたいと言ったら、どんな反応をするだろう。
どんな答えが出ても、辛い事ばかり。
航大は、遅くてもいいから、連絡を待っていると言っている。
紗和は少し考えて、
「何か作ろうか。」
自分が言える精一杯の言葉を、健一に伝えた。
「帰り、遅くなってもいいのか?」
「少しなら。」
健一は少し笑った。
「冷蔵庫の中、きっと空っぽでしょう?」
「そうだね。」
「買い物してから家に行くから、先に帰ってて。」
「俺も一緒に行くよ。」
「病院から帰ってきたばっかりなんだから、少し横になってたら?」
「大丈夫だよ。」
健一の家に着くと、部屋の中は以前よりも殺風景になっていた。
「ずいぶん、物が減ったんだね。」
「引っ越したばかりだからね。」
「ふ~ん。」
「紗和は、新しい会社はどう?」
「仕事しやすいよ。残業もないし。」
「良かったな。ここにいた時は、休みもなかなかとれなかったからな。」
「私達、それでもよく付き合っていられたね。会社で少し話しをして、それで5年間も。」
「時々は2人で会っただろう。その時は、たくさん話したよ。」
「健一、このままじゃ会社に殺されちゃうよ。」
「俺もそう思う。」
健一は笑った。
「何を作ってるの?」
紗和の隣りに健一が並んだ。
「オムライス。笑った顔、書いてあげるから。」
紗和が握っている包丁を、健一はまな板に置いた。
健一の顔を見つめた紗和を抱きしめて、そしてキスをした。紗和が健一から少し離れると、また紗和を抱きしめてキスをした。
「ここであった事、みんな忘れて。」
紗和は何もなかったように、包丁を握った。
「座ってて。もう少しかかるから。」
ソファに座った健一は、
「紗和。俺と川島は何もないよ。」
そう言った。
「もう、遅いよ。」
「ずっと誤解してるようだけど、俺は紗和しかいないんだ。」
「ごめん。炒める音で、聞こえなかった。」
涙が溜まってきた紗和は、振り返る事ができなかった。
「ほら、健一の笑ってるでしょう。」
健一にオムライス出し、紗和は洗い物をしようと、またキッチンへ向かった。なかなか、食べようとしない健一に、
「食べないの?」
紗和は聞いた。
「これ食べたら、帰るのか?」
紗和は少し固まった。
「俺、今までわがままなんて、紗和に言った事なかっただろう。」
「そうだね。」
「紗和のオムライスはどれだよ。」
健一は、キッチンに残るもう一つのオムライスを見つけた。
「紗和、ケチャップとって。」
「そこにあるよ。」
健一はケチャップで、ダメ、と書いた。
「こんなわがままってある?」
紗和は笑った。
「せっかくだから、写メしよう。」
カバンの中から携帯を取り出すと、オムライスを写真に収めた。
「俺の携帯番号、消しただろう。」
「……。」
「俺、そんなにひどい事したか?」
「2人が産婦人科に入って行くの、見てたよ。」
「一緒に映画に行こうと約束してた日の事か。」
「あの日、健一は仕事だって言ってたよね?」
「仕事だったよ。仕事してたら、川島が来て、体調が悪いから病院についてきてっていうから……。」
「産婦人科なんて、普通、男の人は行かないよ。」
「俺だって初めてだよ。なんかあいつ、よく行くようで、その日も薬だけもらってたけど。」
「一緒に見るはずだった映画を1人で見て、2人を見掛けたのはその帰り。なんか、今でも思い出すの、川島さんがこっちを見た時の顔。」
「好きでもないのに、なんで子供ができるんだよ。」
「今はそういう関係だって、よくあるんだし。」
「俺がそんな男に見えるか?」
「健一、モテるんだよ。」
「紗和と、もう少し早くと話しをすれば良かったな。」
健一は紗和から目を逸らさず、ずっと見ている。
「ねえ、ケチャップが溶けて泣きそうになってる。早く食べよう。」
テーブルに座った2人は、少し前に戻ったように、笑って食事をした。
ずっと続くと思っていた時間が、どうして急に終わってしまったんだろう。
洗い物を終えると、健一が紗和を呼んだ。
「ごめん、もう、行かないと。」
紗和は時計を見た。
「やり直さないか、こんな言葉しか出てこないけど。」
「もうね、元には戻れないよ。」
「好きな人、できたのか?」
紗和は下を向いた。
「せめて、紗和と話せるようにしてくれよ。」
健一は携帯を出した。
「そうだね。」
紗和も携帯を取り出す。
「ラインも。」
「ちょっと待って。」
ラインを開くと、健一は見覚えのあるアイコンを見つける。
「この航大って、藤原か?」
「同じ会社の人。知ってるの、健一。」
「高校の同級生だった。紗和、よく話すの?」
「そうだね。」
一度だけ、紗和の事を航大に教えた事があった。
ふざけていたのかどうなのか、航大は、
「そのうち俺がもらう。」
そう言って笑った。
「紗和。」
「何?」
「なんでもない。」
「何よそれ。」
健一は、航大の事が気になった。
別れてしまった女が、誰と付き合おうと、自分が何かを言える立場にはないけれど、航大が昔言った言葉が、健一には引っ掛かった。
俺の事で、紗和に近づいてきたのなら、紗和の事は、絶対渡さない。
「明日、休みとれるか?」
「無理だよ急に。私、入ったばっかりで、お休みはあまりないし。」
「俺が紗和の家に行きたい。」
「健一、どうしたの?」
「このまま、誤解して別れるのって、やっぱり嫌だからさ。ちゃんと話そうよ。」
7章 向かい風
昨日、紗和は遅くに帰っていった。
家に着く頃には、日付が変わっていた事だろう。
昨朝、会社の倉庫で気を失って病院へ行ったのを理由に、健一は、今日も体調が悪いと会社を休んだ。
入社した時から無理をし続け、紗和がいなくなった今の会社など、自分にとってストレスでしかなくなっていた。
先日、大学時代の友人が勤めている会社へ、転職する事を決めた。
勤めて7年になる会社を辞めることは、両親はよく思っていないけれど、生きる事に余裕がなくなっていく毎日は、もううんざりだった。
紗和が会社を去ったのは、仕事の事もそうだろうが、俺と川島の事を誤解していたからだったのか。
新人の頃、どんなに残業が続いても、上司から無茶な事を頼まれても、黙って仕事をしていた紗和が、5年目になって、少しだけ余裕が出てきたのに、会社を辞めるなんておかしいと思った。
あの時、ちゃんと話して誤解を解いていたら。
紗和と付き合ってから、何度も結婚という言葉が浮かんだ。
たまの休みに2人で長い時間一緒にいると、離れるのが辛くなり、結婚しようと言い掛けては、その言葉を飲み込んだ。
好きだという気持ちだけで一緒になったら、忙しい毎日の中では、2人共、余計なものを抱えてしまう。
こんな事になってしまうのなら、もう少し早く、紗和が離れない方法を選んでおけば良かった。それが、結婚という手段でも。
健一は、水を一口飲んだ。
あと、3時間か。
ずいぶん、遠くへ行ってしまったんだな。
航大は紗和と同じ会社にいたのか。
健一は航大にラインをした。
「元気か?」
航大からすぐに返事がきた。
「元気だよ。」
健一からの突然のラインに、航大は、昨日紗和が会っていたのは、健一だったのだろうと感じた。
遅くに帰ってきたのか、紗和は、結局昨日、連絡をしてこなかった。
今朝、眠そうな紗和を問い詰めると、うまく話しをはぐらかされた。
「彼女、できたのか?」
健一が聞いてきた。
「できたよ。」
航大が返信する。
「そっか。よかったな。」
「健一はあの彼女とうまくやってるのか?」
「別れたよ。」
やっぱりそうか。
「今度、俺の彼女を紹介するよ。」
「楽しみにしてる。」
冬なのに、雷がなった。
「雪おこしだね。」
優佳がそう言った。
「これから雪が降るよ。今日は早く帰ろう。」
「紗和。」
航大が紗和を呼び出した。
人が通らない場所に紗和を連れて行くと、
「今日は紗和の家に泊まりに行ってもいい?」
航大はそう言った。
「ダメ。それにね、この前は、藤原くんの家に泊まったりして、本当にごめん。」
紗和は航大に謝った。
「それって、俺の気持ちもなかった事にしようっていうの?」
「最低だね、私。」
「俺は何があっても紗和の事は、嫌いにならないよ。」
航大は紗和の髪を撫でた。
「会社でそんな事したらダメだよ。」
紗和は航大の手を振り払った。
航大は紗和が逃げられないように壁に押し付けると、キスしようと近づいた。
清掃業者の人の影が見える。
航大は紗和を残してその場を去った。
「あら、あなた。あの花束の?」
中年の女性がそう言った。
「今日はここなんですか?」
「元々は、ここ。駅はあの日だけ頼まれたの。なんか似てる子だなって思ったけど、やっぱりあの時の。」
城田と名札に書いてあるその女性は
「もっと自分を大事にしなさい。」
そう言ってポケットから、キャラメルを出して紗和に渡した。
席に戻ると、課長が紗和を呼んだ。
「夏川さん、契約書を作成したいんだけど、やってくれるかい?」
「はい。」
「頼んでた松井くんが、不幸があったって、実家に帰ってしまったんだよ。とっくに終わってると思ったのに、まだ手をつけていなかったみたいで。」
課長は書類の束を紗和に渡した。
「堅い相手に渡す書類なんだよ。これ、参考に作って。」
「わかりました。いつまでですか?」
「夕方まで、できるかい?」
「はい。」
紗和はチラッと時計を見た。
14時か。今からやったら、18時には終わるだろう。健一を駅まで迎えに行くのも、きっと間に合う。
明日は休みだし、今日中になんとかしてしまおう。
17時。
「課長、出来上がったので、メールで送りました。」
「よし、確認するから。問題なかったから、相手に送って欲しい。送り先のデータは、夏川さんにメールするから。」
航大が紗和にコーヒーを入れて持ってきた。
「大変だな。お疲れ様。」
「ありがとう。」
コーヒーをひとくち飲もうすると、紗和は課長から呼ばれた。
「ここの1行を直したら、あとは大丈夫。悪いけど、今日はこのあと、支社の方で会議があるから、あとは頼んだよ。」
「お疲れ様でした。」
紗和は言われた1行を直して、念の為、課長にメールを送った。
コピー用紙がなくなりそうだったので、物品庫に取りに行った。
「夏川さん、持つよ。」
湊が段ボールを持ってくれた。
「段ボールごと持ってこなくても、1冊で良かったのに。」
「みんなも使うでしょう? すぐになくなるし。」
「たくさんコピーあるの?」
「そうなの。」
「それなら別のプリンターの方が速いよ。USBに入れて持ってきて。」
「橋田さん、ありがとう。」
席に戻ると、真衣と優佳が待っていた。
「紗和。飲み物、置きっぱなしにしたらダメだよ。パソコン、壊れちゃったよ。」
真衣がそう言った。
航大が、コーヒーがかかった紗和のパソコンを布巾で拭いていた。
「えっ! うそ。」
「これ、ダメだね。新しいのに取り替えかないと。」
航大がそう言った。
「OA担当はまだいるかな?」
優佳が電話を掛けた。
「もう、いないみたい。」
「どうした?」
湊が来た。
「紗和のパソコン、コーヒー飲んじゃった。」
真衣がそう言った。
「2階に予備のパソコンの在庫あるだろう。俺から電話してやるよ。」
そう言うと、携帯で連絡を取った。
「そのパソコンは修理に出して、それまで代替えを使っていいってさ。航大、2階に取りに行くぞ。」
「湊、紗和が作ってた契約書、どうしよう。」
真衣が言った。
「夏川さん、それって、どこに保管してた?」
「この中。」
紗和は壊れたパソコンを指差した。
「紗和、課長と出来たからメールで送るとか、話ししてたでしょう。」
真衣がそう言った。
「良かった。そのメールを印刷すれば大丈夫だから。」
「湊、そんな事言っても課長のパソコンのパスワード知ってるの?」
優佳が言った。
「前に頼まれて開けた事があるから。」
湊は課長のパソコンを開くと、紗和からのメールを見つけた。
「送り先のデータも取り出してほしい。」
紗和が課長のパソコンを覗き込む。
「わかった。」
「優佳、USBに入れたから、印刷してきてよ。」
「何部?」
「送り先は5社か。じゃあ15部か。」
湊が言った。
「じゃあ、私は封筒を用意する。紗和は帰りにそれを持って郵便局に寄ってね。」
真衣が言った。
「わかった。」
みんなで作業を進めて、湊と航大が代替えのパソコンを設定していた。
19時半になろうとしていた。
「早く、郵便局に行かないと。」
航大がそう言った。
「大丈夫、終わったよ。」
優佳が立ち上がった。
「私の不注意で迷惑かけて、本当にごめんなさい。」
紗和は頭を下げた。
「そういう時は、お礼をいうんだよ。」
優佳が紗和の肩を掴んだ。
「そうだね。どうもありがとう。本当に助かった。」
「紗和。私、帰るわ。彼、待ってるから。」
真衣がそう言った。
「湊、私達も帰ろう。」
優佳が言った。
みんなを見送ると、紗和は郵便局へ向かおうと、机を片付けた。
「電気、消すぞ。」
航大が社内の電気を消した。
「間に合うか?」
「大丈夫。」
郵便局に着くと、契約書の入った封筒と、修理に出すパソコンの伝票を書いて、窓口に出した。
外に出ると、雪が降ってきた。
「積もるかもな。」
航大はそう言った。
「今日はありがとう。私、あっちだから、もう行くね。」
「家は違う方角だろう。」
「これから、駅に人を迎えに行くの。」
「誰?」
「……。」
「紗和。俺達、もうお互いを知る関係だろう。隠し事するなよ。待ってる相手が男だったら、許さないからな。」
「ごめんなさい。どうしても、会いたい人なの。ひどい事してるのも、わかってる。」
航大は紗和の頬をつねった。
「今、紗和がしようとしている事は裏切りだからね。」
紗和は何も言えず、走って駅まで向かった。
駅の時計を見ると20時を回っていた。
「健一、遅くなって、ごめんなさい。」
「仕事?」
「そう。」
健一は冷たい紗和の手を握った。
「雪が降ってるんだね。」
「そう。」
2人は少し混み合っている電車に乗った。
紗和のアパートに着いた。
「急いで作るから。」
キッチンに向かう紗和。
「シャワー借りてもいいか。」
「こっち。」
健一を浴室に案内する。
食事を終えて、紗和が浴室へ行っている間。
何度も携帯がなっていた。
きっと航大からの電話だろう。
どんな感情に振り回されようとも、自分の気持ちさえ揺るがなければ、紗和ともう離れることなんかない。
浴室から出てきた紗和を、健一はベッドに呼んだ。
「髪、ちゃんと乾かせよ。」
「途中で、ドライヤーを掛けるの嫌になっちゃって。」
紗和の携帯がなっている。
「出たら?」
「うん。」
携帯を見ると航大からの着信が並んでいる。
「もしもし。」
「紗和。心配したんだ、電話に出ないから。」
「藤原くん、あのね、」
「わかってるよ。昔の男と会ってるんだろう。俺の事は、通りすがりで終わらせようとしてる。」
「私が悪いから……。」
「そいつにちゃんと別れるって、伝えろよ。俺は待ってるから。」
帰り際に航大が、裏切っていると言った言葉が、何度も耳に木霊した。
明るい陽の光りを待っていたのに、目の前にある温かいものを出されたら、つい手をその湯気に誘われた。暗闇の中で、それを飲もうとして、かじかんだ手が開かずに、カップを落とす事を知っているのに。
8章 北風
航大からの電話を切った後、健一が横になっているベッドには入らず、ベッドの下の床に座っていた。
心は罪悪感でいっぱいだった。
出ていった母の背中を思い出し、紗和は苦しくなった。
父を不幸にした母を、許せなかった。自分がしている事は、母と同じように、誰からも許してもらえないよ。
健一の顔をまっすぐに見ることができない。
思い出のゴミも、誰かに寄り添いたい気持ちもみんな捨ててきたはずなのに。
仕事も辞めて、住む場所も変えて、それなのに健一への思いは、何一つ消えていなかった。
それなのに、航大が優しい言葉を掛けてくれると、自分はそれに甘えた。
心がモヤモヤして、息を吸っても吸っても、苦しくなる。
紗和は、胸に拳を押し付けた。
「どうした?」
「ごめん。私、もう少し起きてるから、先に寝てて。」
紗和はカバンからパソコンを取り出した。
「仕事するのか?」
「今日ね、パソコンが壊れて、これは代替え品なの。中身、整理しようと思って。」
「今、やらないとダメか?」
「うん。今やらないと、ずっとやらないから。」
健一は紗和の隣りに座った。
「寝ててよ。昨日は倒れたっていうし、今日も駅でずっと待ってたでしょう。体、休めないと。」
「いいよ。終わるまで待ってる。」
健一は紗和の机に置いてある本を手にとって読み始める。
私が残業している時、いつもそうやって隣りで待っていてくれたよね。
健一は眠くなったのか、紗和の隣りでウトウトしていた。
「もう、横になったら?」
「じゃあ、一緒にきてよ。」
「ううん。先に寝てて。」
健一は紗和の手を引っ張る。
「さっきの電話、」
「……。」
「航大からだったの?」
「健一の同級生だっけ。」
「そうだよ。」
「……。」
「航大、彼女ができたって、もしかして、紗和の事かなって思ったんだ。」
「……。」
「俺とは別れていたんだし。」
紗和は首を振った。
「紗和?」
「健一、もう眠ってよ。」
紗和は健一を遠ざけた。
「眠れるわけ、ないだろう。」
健一はそう言うと、紗和をベッドまで持ち上げた。
「紗和、もう寝よう。」
紗和を包んだ健一は、目を閉じた。
こんなに近くにいるのに、どうして素直に、好きだという言葉が言えないんだろう。
眠りについた健一に布団を掛けると、紗和は床に寝そべり、いつの間にか眠ってしまった。
朝起きると、積もった雪の上に、さらに雪が降っていた。風が出てきたので、辺りは真っ白になり、何もかも見えない光景が窓に広がった。
「風邪、引かなかったか?」
健一が言った。
「大丈夫。ご飯にするね。」
「待ってる。」
キッチンにいた紗和は、背中越しに健一に話し掛ける。
「健一、何時に帰るの?」
「この雪の中、俺を帰らせるつもりか?」
「だって仕事は?」
「今日は土曜日だし、休み。」
「仕事、溜まってないの?」
「たくさん、溜まってる。」
「じゃあ、帰ってやらなきゃ。」
「昨日も今日もこっちへ泊まるつもりだったし。」
健一は紗和の隣りにきて、にっこりと笑った。
やっとまっすぐに見た、健一の顔。
「そんな顔しないでよ。」
紗和は、健一から目を逸らして、トマトを切った。
「じゃあ、どんなに顔すればいいんだよ。」
「いいから、あっちに座っててよ。」
「俺、トマト嫌い。」
「そうだった?」
健一はさっきと同じように、ニコニコ笑っている。
「小さいのは食べれるけど、大きいのは嫌いなんだ」
「ケチャップは大丈夫なのに?」
紗和の携帯がなった。
「なってるよ。」
「いいの。」
朝ご飯を食べ終えて、食器を洗っていた。少し経てば、お昼ご飯の時間がきて、少し経てば夜ご飯の時間がくる。
こんなに長い時間、健一といた事なんてなかった。
父と過ごす休日は、苦痛で仕方なかったけど、時間になると食事が準備され、父が仕事に行く休日も、テーブルの上に食事が置かれていた。不器用な父の生き方が、あの頃の自分は理解できなかった。静かな食卓で、父はどんな言葉を、持っていたのだろう。
いつも適当な時間に、口入れるだけの食事を摂るようになったのは、大学を出て、一人暮らしを始めるようになってからだ。最近は、空腹なんて感じた事もない。
紗和は本を読む健一を見た。
「何?」
「こんなに一緒にいた事、あったかな?」
紗和の言葉に健一は考えていた。
「そう言えば、ないよね。」
「時間がないって、いつも思ってたけど、こんな風な時間ができると、困るね。」
紗和がそう言った。
「そんな事ないよ。このままずっと一緒にいたいと思ってる。」
健一は紗和を見て微笑んだ。
「健一、その本、面白い?」
「あんまり頭に入ってこない。」
食器をしまい終えると、行き場のない心がウロウロしている。
「今日は仕事、しないんだろう?」
「どうしようかな。」
「座ったら?」
健一は立ち上がり、紗和を自分の隣りに座らせた。
「さっきから言いたいことがあるんだろう?」
健一は紗和を見ている。
「何を?」
紗和は少し笑ってごまかした。
「航大の事、ちゃんと話して。」
「健一。」
「何?」
「なんでそんなに優しくできるの?」
「優しくなんかできないよ。俺、すごく腹が立ってる。」
紗和は下を向いた。
「嫌われるのが怖いんだろう? 航大、いいやつだから。」
紗和は健一を見た。
「航大とは高校の時に同じサッカー部でさ。あいつは入ってきた時からすごく上手くてさ。一目置かれる存在だったんだよ。それが、1年の秋に怪我をして、思うようにサッカーが出来なくなったんだ。そのうち後輩が入ってくると、すっかり気持ちがついてこなくなって、それでも3年間一緒にサッカーをやってきて、俺は航大とは、いい思い出しか残ってない。」
「藤原くんから、サッカーの話しなんて聞いたことなかった。」
「航大にとっては、嫌な思い出なんだろう。」
「そうなんだ。」
紗和は肩を触っていた。
「昨日、床に寝てたから、体が痛いんだろう?」
「そんな事ない。」
「意地っ張りだな。本当に。」
好きだという気持ちが溢れ出した紗和は、健一に寄りかかった。
「だから、昨日、一緒に寝ようって言ったのに。」
健一は紗和を抱き寄せてキスをしようとした。
「ごめんなさい。」
紗和は俯いて、健一の唇を避けた。
「もう、戻れない。」
「どうして?」
「健一の読んでる本。誰も来ない寒い冬の中にいるとね、目の前に出されたものに、手を伸ばしてしまうの。暗い中で、1番先に名前を呼んでくれた人の胸に、飛び込みたくなる。」
健一の目に、少しずつ涙が溜まってきた。
「ごめん、寄り掛かって。」
紗和は健一と距離をとった。
「こんなに好きなのに、なんで別れなきゃならないんだよ。」
健一は紗和を抱きしめた。
「これで、いい思い出のまま、閉じ込める事ができる。」
「軽く言うな。忘れる事なんてできないよ。」
紗和の携帯がなる。
健一が紗和の手を掴んだ。
「ダメだよ。」
紗和が携帯を手に取る。
携帯には、航大から何度も着信があった。
「もしもし。」
「紗和、今日は何時に会える?」
「会えないよ。」
「雪なら、もうすぐ晴れると思うよ。」
「藤原くん、今ね、前の彼氏が来てたの。いろいろ誤解があって別れたけど、」
「また、元に戻りたいって、そんな事言うの?」
「違う。」
「勝手だよ。俺は、許さないから。」
「許さなくてもいいよ。」
「明日は会える?」
「ごめん。」
「どうしたの?」
「もう、2人で会うのはやめよう。」
「やっぱり健一の所へ戻るのか……。」
「戻らない。」
「じゃあ、なんで会えないの?」
「藤原くんは、健一とは、知り合いだったんでしょう?」
「そうだよ。だけど、それは紗和を好きになった事とは関係ない。」
「そっか。私ね、好きとか嫌いとか、そういう面倒くさい事が元々苦手なの。1人で生きていく方が、うんと気が楽。せっかく新しい職場へ来たのに、そういう事で振り回されるのって、なんだかとってもバカにみたい。」
「なんだよ、それ。」
「藤原くん、ごめんね。大嫌いになってもいいから。」
航大は、紗和の言葉に驚いた。
自分が紗和にした事は、ただ追い詰めてしまっただけの事だったのか。
そんな答えを出すなんて、思ってもみなかった。
黙って、どちらかに寄り掛かればってしまえはいいだろう。
だって、そこに健一がいるんだよな。
それに、俺の方がいつも紗和の近くにいてやれるのに。
わざわざ、嫌われるような事を言って、1人になりますなんて、なんて女なんだよ。
「月曜日、橋田くんやみんなに、ちゃんとお礼をするから。じゃあね。」
航大は電話を切った後、無理に笑っている紗和の顔が浮かんだ。
俺は健一の落ち込む顔が見たかっただけで、紗和を傷つけようとなんて思ってなかった。
一体どういうつもりだよ。
飾り気がなく、ひたすら仕事に打ち込んでいる紗和は、大きな声で笑う事もなければ、誰かを頼る事もない。
紗和のパソコンに俺がコーヒーをこぼした時、普通の女なら泣言を言って誰かに頼るのに、紗和は淡々と仕事をしていた。
健一は、どうしてこんなつまらない女を選んだのだろう。お前なら、たくさんいい女だって集まってくるだろうに。
結局、俺は2人を引き離して、紗和を1人にしただけなんだな。
最初からこんな女の事なんてどうでも良かったのに、強がっている紗和の事を、なんでだろう。今すぐに抱きしめたいと思えてくるんだ。
健一、お前の前で、紗和は心から笑うのか?
本心を話す事があったのか?
紗和、俺にもそうやって笑ってくれよ。
本当の気持ちを聞かせてくれよ。
航大は、紗和が包まっていた毛布を頭から被った。
航大との電話を少し離れた所で聞いていた健一は、
「どういう事?」
紗和に聞いた。
「1人になれて、スッとした。」
紗和は笑った。
「紗和、それは本当の気持ちなのか?」
「そう。煩わしいのは嫌だったし。でも、健一、この雪なら外に行けないから、今日は泊まってもいいよ。ほら、洗濯するから、着替えてよ。」
紗和はいつの間にか着替えていた。
「納得いかないよ。航大だって、きっとそう思ってる。」
「勝手に思ってればいいでしょう。」
「どこまで、意地っ張りなんだよ。」
健一は脱いだ服を紗和の顔に投げた。
紗和が健一のシャツを拾おうとしゃがむと、涙が床に落ちた。
「紗和、ごめん。」
「寒いから、早く服を着たほうがいいよ。」
健一は紗和をベッドへ押し倒した。
紗和の目から溢れた涙を手で拭くと、静かにキスをした。さっき拭いたばかりなのに、紗和の頬がまた涙で濡れている。
「健一、ごめん。」
「謝るなよ。」
健一は紗和の服を脱がせた。
「俺はずっと好きでいるからな。」
健一は紗和をきつく抱きしめた。
9章 寒風
雪が少し止んだ朝早くに、健一は帰っていった。
見送りされると辛くなるからと言って、玄関先でそのまま別れた。
健一が残していった温もりがあれば、これからずっと、1人でも生きていける。
月曜日。
課長が紗和を呼び出した。
「夏川さん、契約書、どうもありがとう。橋田から、パソコンが壊れたって聞いたよ。」
「すみません、私の不注意で。」
「それでも、よく間に合わせる事ができてな。」
「みんながいろいろやってくれたので、本当に助かりました。」
「よし、そのみんなで飲みに行こうか。藤原、ちょっとこい。」
航大が課長の前にくる。
「金曜日、ありがとうな。」
「はい。」
健一に会わせないために、紗和のパソコンにコーヒーを掛けたの航大は、課長の言葉を素直に喜ぶ事ができない。
「飲みに行くから、その時のメンバーに声を掛けてほしい。店と時間は任せるから。大丈夫、俺の奢りだ。」
「わかりました。」
「夏川さん、これを頼む。」
紗和は書類の束を渡される。
「これと同じタイトルのものを、探してまとめておいてくれ。同じファイルが書庫にもたくさんあるから、それも全部。」
「わかりました。」
書庫にファイルを取りに来た紗和は、高い所に置いてあるファイルを取ろうと台を探していた。
「ほら。」
航大がファイルをとって紗和に渡す。
「どうもありがとう。」
「ごめん、隣りのファイルもとって。」
「そんなに一度に持っていけないだろう。」
「大丈夫。」
航大は棚から取ったファイルを静かに紗和の持っているファイルの上に重ねる。
「やっぱり、俺が持つよ。」
「ありがとう。」
「書庫の電気消せるか?」
「うん。」
紗和が電気を消すと、航大とぶつかった。
「前に進んでよ。」
紗和はそう言ったが、航大は動かなかった。
「ここに1人で閉じ込められたら、紗和は泣くのか?」
「泣かないよ。早く前に行って。」
「もう少し、可愛げがないと、彼氏なんてできないぞ。」
「彼氏なんて、いらない。」
「健一だったから、紗和の様な子と付き合ってくれたんだろうな。」
「ねぇ、早く前に行って。手が痛くなるから。」
航大は紗和の持っているファイルも自分が持った。
「俺は諦めないからな。」
両手が空き、出口に向かった紗和は、航大が持っている2つのファイルを自分が持つと、席に向かって歩き始めた。
「本当に意地っ張りだな。」
航大はファイルを奪おうとした。
「いいよ、私が頼まれたんだし。」
二人でファイルを引っ張っているうちに、ひとつが床に落ちて中の書類がバラバラになった。
黙々と拾い集めてる紗和に、航大が言った。
「俺、邪魔ばっかりしてるな。」
「そんな事ないよ。」
「なあ、紗和、」
「この書類、どうせ、バラバラにしなきゃならないんだし。」
紗和は書類を拾い集めると、ファイルに挟み、自分の席に戻って行った。
「なんか飲む?」
真衣がきた。
「ありがとう。私が入れる。紅茶で良かった?」
「うん。ねえ、航大となんかあった?」
「何もないよ。」
「今日、課長の奢りだってね。」
「そうみたいだね。」
「課長、紗和の事、けっこう気に入ってるみたいだからさ。」
「仕事、もっと頑張るわ。はい、真衣の分。」
「ありがとう。席で飲んだら、またこぼすよ。紗和の机、書類の山。」
「今、分けてたからね。」
「課長は、パソコン使わなくていい仕事をくれたんだよ。ねえ、食堂に行って少し休もうよ。」
「いいの? こんな時間に。」
「いいんだって、休憩にみんな使ってるよ。」
食堂に真衣ときた。
「お菓子食べる?」
真衣はカバンからクッキーを出した。
「これ、懐かしい。昔、もっと大きい箱に入ってたよね。」
「今は小さな袋のもあるんだよ。ほら。」
「ありがとう。」
紗和はクッキーを口に入れた。
今朝からできた口内炎が少し痛んだ。
「この前入ったのに、すっかりベテランみたいだね。」
真衣が言った。
「もっと、可愛らしい若い子が入れば良かったのに、ごめんね。」
「紗和にしたら、この会社は遊んでるみたいなもん?」
「違うよ。自分で考えなきゃならない事が多くて、困る事が多い。」
「前の会社は違ったの?」
「すごく決まりが多くてね……。ここにきて、伸び伸びって言われても、どうしていいかわからなかった。」
「私はさ、ここしか知らないから、それが当たり前だと思ってるけど、世の中って、広いんだよね。」
「真衣の彼はどこで働いてるの?」
「陵矢は教育委員会よ。少し前まで、鬱で休んでたの。」
「そうなの?」
「1年くらい休んだかな。」
「そんな風に見えないから、びっくりした。」
「今はね、誰が鬱の地雷を踏むかわからないの。ここだってそうよ。」
「そっか。」
「紗和は大丈夫?」
「大丈夫だよ。私、仕事しかする事ないもん。」
「今日、楽しみだね。」
「うん。」
課長を含めた5人は、会社の近くの小さな居酒屋に来ていた。
「藤原、せっかくだから、別の店でも良かったのに。」
「ここが1番落ち着くんですよ。それに夏川さんは、ここに来るの初めてだし、紹介したかったんですよ。」
お酒が運ばれ、課長のお疲れ様の言葉に合わせ、5人は乾杯をした。
「お前たち、いつも一緒にいるのか?」
課長はそう言った。
「そうですね。夏川さんが入ってから、よく集まる様になりました。」
湊はそう言った。
「会社って、だいたい人生の最後の集団になるからな。人付き合いを大切にしろよ。」
「優佳さん、何にします?」
紗和はグラスが空になった優佳に聞いた。
「私、もういいかな。」
優佳は言った。
「そんな事言わないで、もっと飲めよ。課長と同じものでいいか?」
湊はちょうど注文を取りに来た店員に追加で頼んだ。
「夏川さん、もう1軒行くだろう?」
すっかり上機嫌になっている課長が言った。
「課長、夏川さんは絶対2次会には行きませんよ。」
「どうしてだよ、夏川さん。」
課長が紗和の方を見た。
「なんか難しい魚を飼ってるみたいで、家を空けられないらしいですよ。」
航大は湊の嘘がおかしくて笑った。
「藤原なんで、そんなに笑うんだ?」
課長はそう言った。
「夏川さんなら、大きく育てて食べそうだなって思って。」
航大は笑いながらそう言った。
「夏川さん、まさかだろう。」
課長はそう言った。
駅まで向かっている途中で、また雪が降ってきた。
この町って、雪ばっかり。
まだ、誰もつけていない雪に自分の足跡がついていく。
「紗和。」
航大が追いかけてきた。
「1人で帰るなよ。」
「藤原くん、いろいろごめん。」
紗和は俯いた。
「ちゃんと付き合おうって、言いたくて。」
「それはできないよ。」
「健一とは別れたのか?」
「うん。」
「それなら、何も迷う事なんてないじゃん。」
「魚のお世話が大変なの。新しい環境にきて、ちょっと元気ないし。」
「バレる嘘つくなよ。」
「ごめん。」
「健一の事が好きなら、戻れば良かったのに。」
「……。」
航大は紗和の手を握った。
紗和は首を振ると、航大の手を離した。
次の日。
「紗和。お昼、ちょっと外に出ない?」
優佳が呼びにきた。
紗和と優佳は、会社の近くの公園にあるベンチに座り、買ってきたサンドイッチを食べていた。
「ファイル整理、まだまだかかりそう?」
「もう、終わりそう。パソコンも明日には直ってくるみたいだし。」
「そう、良かったね。」
「みんなが良くしてくれたから。」
「紗和が前の会社に入って来た時、ずいぶん気の毒な子だなぁって思ったのよ。長続きしない部所で有名だったし、紗和は弱音を吐かない分、どんどん仕事を押し付けられて。私が会社を辞める時、秋本にそれを伝えたんだ。なんだか昔の秋本を見てるみたいでね、そのうち潰れるよって。だけど、紗和は、そんな心配は必要なかったね。ここで仕事をしているのを見て、すごく努力をしたんだなって、わかった。」
「働かないと生活できないし、私は実家なんて頼れないから。」
「父親と2人で暮してたって言ってたっけ?」
「そう。」
「家族って、憧れない?」
「1人でいるほうが楽。」
「課長、奥さんと先月から別居してるの。」
「そうなの、優佳さん、詳しいですね。」
「そうよ、私の事、奥さんにバレたのが原因だから。」
「……?」
「こっちの会社に来る前に、少しだけ、秋本と付き合ってた事があってね。別れてけっこう経ってたのに、時々、秋本の事を思い出して。そんな時に、課長に少し褒められたら、嬉しくなって、そういう関係になるのに、時間はかからなかった。」
紗和は黙って優佳の横顔を見ていた。
「家庭を壊すつもりなんてなかったの。時々、会って、私の事を認めてくれれば満足だったのに。紗和が入ってきて、課長が紗和にばっかり仕事を頼むから、ちょっと焦ってね。夜に電話したせいで、奥さんにバレたゃった。」
紗和は俯いた。
「紗和のせいじゃないよ。全部、自分のせい。」
「課長とは、続いてるの?」
「昨日ね、課長と少し話しをして、奥さんとお子さん、戻ってくるみたいよ。」
「優佳さんは、まだ好きなんでしょう?」
「ううん。私ね、来月から別の会社に行くの。健一と同じ大学だった友人が、立ち上げた所に誘われてね。健一もあの会社、辞めるんだよ。」
「そうだったんですか。」
「紗和、健一が辞めるって知らなかったの?」
「知りませんでした。」
「2人は付き合ってたんでしょう? 健一は、紗和を迎えにくるために、転職したんだろうと思ってたけど。」
紗和は首を振った。
湊が2人を迎えにきた。
「課長が呼んでるよ。」
「なんで?」
「2人で会議の資料、作ってほしいって。優佳、昨日の事覚えてないのか?」
「何?」
「酔っ払いを家まで送るの大変だったんだからな。」
「私、ぜんぜん記憶にない。」
「夏川さん、優佳の送別会は、魚に餌やってから来てよ。2次会まで、ちゃんと参加して。」
湊がそう言った。
「わかった。」
課長が紗和を呼んだ。
「ファイルの整理は終わったかい?」
「もう少しです。」
「石山さんが、来月で退職するんだ。彼女の仕事は、他には頼めない。君が引き継いでくれるかい?」
「わかりました。」
「ところでさ、夏川さんの魚、今度見せてほしいんだけど。」
「あっ、そうでした。今度、お見せします。」
「餌の時間替えたらどうだ? 石山さんの送別会には、最後まで参加するんだぞ。」
9章 春一番
長かった冬が、だんだんと春の色になっていく。
まだ少し道路に残る汚れた雪は、誰にも気付かれなくなった冬の忘れ物のようだ。
3月の終わり。
人事異動があり、紗和は航大や真衣と離れ、秘書課へ異動となった。
想像とできない場所へ異動となった紗和は、真衣に初めて、仕事の事で愚痴をこぼした。
「秘書課なんて、絶対嫌。」
「紗和、これからスーツで職場にこなきゃね。」
「もう、考えるだけで嫌。」
「行きたくても行けない場所なんだから、大抜擢よ。会社の女子職員の中でもエリート集団なんだから。」
「真衣が行ってよ。」
「2人で何揉めてるの?」
航大がきた。
「紗和が異動したくないって。」
「紗和には、1番似合わない場所だからな。」
航大はそう言った。
「もしかして、みんなでここから私を追い出したの?」
「そんなわけないだろう。」
航大と真衣は笑った。
「紗和、いなくなったら困るんだよ。」
真衣は紗和の肩を掴んだ。
「じゃあ、課長に頼んでここに置いてもらう。」
航大は、初めて自分の気持ちを出している紗和は、本当に異動が嫌なんだろう、そう感じた。こんな風に人に話せるようになるなんて、この会社に入った頃の紗和には、想像ができなかった。
「往生際が悪いな。諦めて、化粧の練習したらどうだ。」
航大が言った。
「髪もね、少し明るくした方がいいかも。」
真衣が紗和の髪を触る。
「嫌だよ。」
「紗和がそう言ってても、秘書課の女課長にしっかり指導されるから。」
5月。
秘書課に異動した紗和は、航大と駅で会った。
「紗和、久しぶりだな。すっかり変わってわからなかったよ。」
「そう。」
紗和は硬い表情をしていた。
「藤原くんは、忙しい?」
「忙しいよ。紗和の仕事、みんなで分担してやってるから。」
「そっか。」
紗和は目が泳いでいた。
「そんな浮かない顔をして、どうした?」
航大は、紗和の肩を掴んだ。
紗和は少し、体を強張らせた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ちょっとお腹減っただけ。」
「なんか、食べていくか? せっかく久しぶりに会えたんだし。」
「ううん。帰る。」
紗和は改札を通っていった。
1人で生きていくって決めた時は、もっと肩が意地を張っているように見えたけど。それにあの頃は、小さな背中なのに、誰も寄せ付けない厚い壁があったよな。
あっという間に消えていく紗和の後ろ姿は、人混みの中で、今にも砕けてしまいそうだった。
次の日。
航大がエレベーターに乗ろうとすると、秘書課の課長と紗和が一緒に乗ってきた。
紗和が航大に気がついて目をやると、
「夏川さん、今から言う事、メモをして。」
秘書課の女課長は、今日の予定を、紗和に早口で言った。
ドアが開いて、課長はコツコツとヒールの音を立てて、遅れがちの紗和を振り返る事なく歩いて行った。
「うちの会社は、秘書課だけは未だに封建的なんだんだよ。」
廊下を通りかかった課長がそう言った。
「課長、夏川には無理なんじゃないですか?」
「こればっかりはね。あの女課長が、夏川さんを是非にって指名したんだよ。自分がこれから育てたいってさ。夏川さんって、浮いた噂もないだろう。結婚して辞めていかれないよう、あの課長は、そんな女性ばかりを集めてるって噂がある。それでも、うちの秘書達はみんな優秀だし、あの課長が教育した賜物だっていう人もいるよ。夏川さんは弱音を吐かないからね。数ヶ月後にはぜんぜん違う人になって、バリバリ仕事してるかもしれないって、思うしかないだろう。」
「このまま潰れる可能性だってありますよ。そうなる前に、また課長の下で働けるようにしてくださいよ。」
「それはダメだよ、藤原くん。秘書課には、誰も口を出せない。それに、秘書課を去る時は、会社を辞める時だって言われてる。あの場所に行ったら、別の部所に異動する事なんかほとんどなくて、いつの間にか、職員の入れ替わりが行われている。そういう意味では、夏川さんはちょっと可哀想だな。そうだ、藤原くんが結婚してやればいいだろう。扶養の範囲で働くからって、半日勤務の臨時職員で、うちに戻ってきてくれたら、助かるんだけどな。
「男と女って、まだまだ差別があるんですね。」
「急に男女平等とか言われても、それに慣れてない幹部達には、どうする事もできないよ。」
昼休み。
「紗和。」
航大は、公園で足を擦っている紗和に、声を掛けた。
「藤原くんに恥ずかしい所、見られちゃったね。」
「仕事、大変そうだな。」
「私が落ちこぼれだから。」
「何、言ってるんだよ。あの課長、ずいぶん厳しそうだな。」
「すごく仕事ができる人だよ。」
紗和は心がここに無いようだった。
「今日、何時に終わる?」
「何時だろう、21時頃になるかな。」
「俺も残ってるから、終わったら一緒に帰るぞ。」
紗和は首を振った。
「もう、行くね。」
紗和が行った後に、冷たい強い風が吹いた。
夕方、秘書課に紗和を迎えに行くと、そこにいた女性が、どなたにご用事ですか? と聞いてきた。
「夏川さん、います?」
笑顔だけど、不思議と目が笑っていない女性は、
「夏川なら、部長について取引先を回っております。」
そう言った。
「帰りは何時になりますか?」
「もうそろそろこちらに戻ってくるとは思いますが、このあと、学習会があるんです。個人的な連絡なら、別の方法にしてください。」
女性は扉を閉めた。
そこにいる女性のほとんどが、丁寧に化粧を直してる姿を見て、航大はゾッとした。
女って、あんなふうに作られるのかよ。
6月の終わり。
紗和が休みを取っているという様だと、真衣が言った。
少し前から、風邪を引いたと言っていたのは知っていたが、もう2週間も、会社に来ていないらしい。
「航大、紗和が地雷を踏んでしまったよ。」
真衣はそう言った。
仕事が終わった後、航大は紗和の家に向かっていた。
湊と真衣も来ると言ったが、2人だけで話しがしたいと航大は1人で行くと言って聞かなかった。
真衣は昨夜、優佳に連絡していた。
心配した優佳が、健一に紗和の話しをして、紗和の家に行くように伝えていた。
「紗和、大丈夫か?」
先に紗和の家に着いたのは、健一だった。
Tシャツに短パンで玄関に出てきた紗和は、
「どうぞ。」
と健一を中に入れた。
すんなり中に入れる事も驚いたが、人が住んでいるとは思えない、薄暗く殺風景な部屋に、健一は言葉が出なかった。
テーブルも何もない床には、鏡と化粧品がキレイに横に並んで置かれている。
「いつから、こんな生活してるんだよ。」
「前からだよ。」
紗和はうっすら笑っている。
「紗和、どうしたんだよ?」
健一が紗和の肩を揺すると、紗和はバランスを崩し、その場に座り込んだ。
「俺と別れた時だって、こんなならなかっただろう。」
「そうだね。」
「紗和。もう、会社を辞めよう。」
「明日は行けるようになるから、大丈夫。」
「ダメだ。これ以上会社に行ったら、壊れてしまうよ。明日、一緒に病院に行こう。」
「大丈夫だって。」
紗和は立ち上がった。
「藤原くん、何か飲む?」
「俺は健一だよ。」
「嘘ばっかり。」
「コンタクト入ってないんだろう、見えなくても仕方ないか。」
健一は紗和の隣りに並んだ。
「健一が、ここに来るわけないじゃん。」
「紗和、良く見てみろ。」
健一は紗和に顔を近づけた。
「なあ、家に行こう。一人でここにいたら、何するかわからないだろう。」
「私はどこへも行かないよ。」
紗和は言った。
「ダメだよ。このまま消えてしまいそうで、すごく不安なんだ。」
「本当、このまま、消えられたら楽なのにね。」
カップが見つからず、床にしゃがみ込んだ紗和を、健一はベッドに寝かせた。
枕元には、前に紗和の家に来た時に、手に取った本が、置いてあった。
「このタロとジロの本、ずっとあるんだな。」
「藤原くん、この本くれたじゃない。時々、読むの。どんなに考えたって、ひどい事をしたのは人間なのに、なんで生き延びたか、そればっかり書かれてる。」
健一は紗和の髪を撫でる。
「そっか。」
「私ね、どうやって笑ったらいいかわからなくなった。」
健一は紗和の頬を触った。
「あんなに強かったはずなのに、誰かと会うのが怖くなって。」
紗和は健一の手を握った。
「わかったよ、紗和。」
「藤原くん、本当は健一に会いたいの。」
健一は紗和の横に並ぶと、紗和を優しく抱きしめた。
紗和は健一の胸の中で目を閉じた。
「ごめんなさい。私の体、汚いよ。」
「何言ってるんだよ。」
風邪を引いていたせいなのか、紗和の皮膚はカサカサに乾いて、所々引っ掻いた痕がある。
「何か飲まないと。」
「いらない。」
どれくらい眠ってなかったんだろう。紗和の目の下にできたクマは、青白い顔に張り付いている様だった。
紗和。
あれから、何人かの女の子と、話してみたんだよ。遊びに行った事だってある。
だけど、強がりな紗和と過ごした時間が忘れられない俺には、女の子の言う事が、みんな嘘の言葉に聞こえるんだ。
本当の気持ちは、誰にも言わないから真実になる様な感じがして、嬉しいとか、楽しいとか当たり前に言える女の子が、なんだか信じられなくなった。
何も言わなくても、隣りで笑ったり、考えたりしている紗和に、慣れすぎてしまったんだね。
健一は、一度だけ話しを聞いたことのある、紗和の父親に連絡しようとした。
紗和の携帯を探し、紗和の誕生日を入力すると、ロックが解除できた。
「ごめんな、お父さんに連絡するから。」
眠っている紗和に断ると、健一は紗和の父親に電話を掛けた。
「今から、そこに迎えに行くから。」
父親は、そう言って電話を切った。
眠っている紗和に布団を掛けると、航大がやってきた。
「健一。」
「航大。」
「健一が、なんでここにいるんだよ。」
「優佳から連絡をもらってね。」
「お前にはもう、関係ないだろう。会社で起きた事なんだし。」
「航大、これは会社の事ばかりが原因じゃないよ。これから、親父さんが迎えにきてくれる事になってるから。」
「紗和を連れて行くのか?」
「大丈夫、少し寝たら、元気になる女だよ。また、会社に行けるようになるから。」
「簡単に言うなよ、紗和が今いる場所は、大変な所なんだって。」
「どういう事だ?」
「良くない噂があるんだよ。今、調べてもらってる。」
「噂があったって、航大やみんなが味方してくれるから、紗和は大丈夫だよ。」
「違うんだって、秘書課は俺達には近寄れない場所なんだって。」
「そんな部所があるなんて、やっぱり大きな会社は違うよな。紗和が本気で仕事したら、そんなやつら、尻尾巻いて逃げていくよ。」
「こんな状態で、そんな風に戻れるのかな。」
航大は布団に包まる紗和に近づいた。
「航大、どうして紗和と付き合わなかったんだよ。いつも近くにいただろう。」
「何度も付き合おうとしたさ。だけど、紗和の心の中にはやっぱり、健一がいるんだよ。」
「さっきから俺の事を、航大だと思ってる。紗和を支えていたのはおまえだよ。」
航大は紗和の顔を見つめた。
「もう少し、早く気づいていたらな。」
そう言うと、航大は静かに紗和の髪を撫でた。
「元気になったら、また1人で生きていけるって言い出すよ。」
健一が言った。
「そうしたら、お前と喧嘩してでも俺のものにするよ。」
航大は笑った。
紗和の父親が迎えにきた。
「紗和は?」
父の《良樹》が紗和の元へ行った。
「お父さん。」
紗和が目を覚ました。
「ごめんなさい。お父さん。」
「何、言ってるんだ。謝る事なんて何もないよ。紗和、家に帰ろう。」
「明日は会社に行くから、家になんて帰れないよ。」
紗和はそう言った。
「帰らなきゃダメだ。さっ、着替えなさい。」
良樹は健一と航大の顔を見ると
「電話をくれたのは、どっちだい?」
そう言った。
「こっちですよ。」
航大がそう言って健一を指差した。
「健一、いつからいたの?」
紗和がそう言った。
「けっこう前からいたよ。」
健一が答えた。
「さっきから、俺と航大の事、間違えてるだろう。」
健一は、紗和の顔を覗いた。
「みんなで私の事、笑ってるでしょう。」
紗和は急に耳を塞いだ。
「紗和。大丈夫だから。」
良樹が紗和の肩を掴むと、紗和の震えが止まらなくなった。
「どうした?」
良樹が驚いて紗和から離れると、航大が近づいた。
「紗和のパソコン、ちゃんと直ったよ。コーヒーをこぼしたのは、俺なんだ。悪かった。」
航大は紗和に謝った。
紗和は航大の顔を見ると、
「もう、いいの。みんなが助けてくれたから。」
そう言った。
「許してくれるかい?」
「当たり前だよ。」
紗和は航大を見て、昔のように微笑んだ。
「うちの課長がまた仕事頼みたいって。」
「本当に?」
「風邪が治ったら、戻っておいで。待ってるから。」
紗和は少し落ち着いた。
「ほら、健一が迎えにきてる。お父さんもいる。俺は会社で待ってるから。」
実家に着くと、父が料理を始めた。
「健一くんは、兄弟いるのかい?」
「兄が1人と妹が1人。」
「そうか、家の中は賑やかだっただろう。」
「そうですね。父もおしゃべりな方だったし、妹と兄はいつも喧嘩してました。」
食器がぶつかる音がする度に、紗和は耳を塞いでいる。
健一は紗和を自分の胸に抱き寄せた。
「君は真ん中になるのか。」
「そうです。扱いにくいって、よく母が言ってます。」
「上と下のいいところを見て育ってきたから、人としてもできてるんだろうな。」
「そんな事ないですよ。」
健一は震えている紗和を、そのまま胸に包んでいる。
「紗和、いつかこんな風になる様な感じがして、心配してたんだ。いつも本当の気持ちなんか何も言わないだろう。」
「そうですね。」
「健一くんが近くにいてくれて良かったよ。」
「俺は近くにいませんよ。あの会社で仲間がいつも支えてくれていたんです。それを選んだのは、紗和本人ですし、今はちょっと、難しい所に来てしまったみたいですけど、ちゃんと自分の意志の通りに、生きてますよ。」
「そうなのか。それなら良かった。紗和が小学生の時だよ。母親が出て行ってね。あんまり自分の気持ちを話さなくなって、就職した後は、ぜんぜん連絡をよこさなくなって、ずいぶん心配してたんだよ。」
「紗和。」
健一の胸で固く目を閉じている紗和に、良樹が話しかける。
「オムライス作るから、紗和が卵を包んでくれ。」
紗和はゆっくり目を開けて
「いいよ。」
そう言って立ち上がった。
「お父さん、卵、何個使っていい?」
「今日は2つ使ってもいいぞ。卵って、2つぶつけても1つしか割れないって知ってたか?」
良樹が紗和に言った。
「知ってるよ。お父さんから何回も聞いた。」
紗和は卵を2つ持ち、軽くぶつけた。
失われた時間が巻き戻っていく。
あんな風に無邪気に笑ってたら、もっと違う生き方があったのかもな。
健一はそう思った。
10章 夏風邪
紗和と初めて会ったのは、誰もいなくなった会社の廊下を歩いている時だった。
ポットのお湯を捨てにきたのか、暗い廊下を静かに歩き、給湯室に入っていく紗和を見掛けた。
次の日。
同期の優佳が会社を辞めると言いにきたので、同じ部所にいる紗和の事を聞いた。
「あの子は女だけど、新人の頃の健一と似てる。」
優佳はそう言った。
その夜、1人で残っている紗和に声を掛けると、ずいぶん気の強そうな新人だった。体を壊して休んだ事のある自分とは違い、けして弱さを見せない紗和は、なかなか心を開いてくれなかった。
ある休日のお昼。
私服で仕事をしていて、机に伏せたまま眠っていた紗和に声を掛けた。
私服で仕事をする事は禁止されていたのに、すぐに終わらせて帰ろうと思いながら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
この事は誰にも言わないでと頼まれ、その代わりに、一緒に付き合ってほしい所があると、紗和を映画に誘った。
結局、映画館でも、2時間ウトウトしていたくせに、それを隠そうとする紗和に、健一は交際を申し込んだ。
紗和はなかなか返事をくれなかった。
何度も上手くはぐらかされた。
ある日。
紗和が残業している隣りで、帰りを待つ間に本を読んでいたら、いつの間にか紗和も、その本を一緒に読んでいた。
勝手に次のページを捲ろうとする紗和を、健一は家に誘った。
それから何度か紗和が家に来るようになり、最後のページを読み終えた時、健一はもう一度、紗和に交際を申し込んだ。
「健一くん、今日は泊まって行くだろう。」
良樹がそう言った。
「はい。そうさせてもらいます。」
「明日、紗和を病院へ連れて行こうと思うんだ。」
「そうですね。俺も一緒に行きます。」
「仕事は大丈夫なのか?」
「2、3日休むって言ってますから。」
「そうか。すまないね。」
「病院は、どこに行くかもう決めているんですか?」
「紗和がよく通っていた小児科の先生に頼んでみようと思ってね。診てもらえるかわからないけど。」
紗和はベッドで横になっていた。背中を丸めている紗和に、健一が声を掛ける。
「紗和。」
「何?」
「眠れそうか?」
「わかんない。」
紗和は健一の方を向くと、健一の頬を触った。
「本当に健一なの?」
「そうだよ。」
「藤原くんかと思った。」
「航大は、いつも紗和を助けてくれたんだろう?」
「そう。」
健一は紗和の手を握った。
「健一、もう少し一緒にいてくれる?」
「ずっと一緒にいるから、もう眠りなよ。」
「うん。」
健一は紗和の隣りに体並べた。
震える紗和を優しく包み込むと、静かに唇を重ねた。
少しだけ覚えていた健一の温もりが、紗和の記憶を呼び起こす。
「好きだったの。」
「ん?」
「好きだったのに。」
紗和は健一の胸に顔を押し付けた。
「俺もだよ。紗和。たくさん泣けよ。」
健一は、気持ちのコントロールが効かなくなっている紗和の背中を、何度もさすった。
次の日。
良樹は、紗和がよく行っていた、近所の小児科へ紗和を受診させた。
診察室に入ると、少し年を取った医者が、
「懐かしいな、紗和ちゃん。」
そう言って紗和の頭を撫でた。
「先生、すみません、無理言って。」
良樹が頭を下げた。
「話しは看護師長から聞いたよ。紗和ちゃん、少し会社をお休みした方がいいね。診断書を出すから。」
医者はそう言った。
良樹は仕事に戻って行った。
「健一くん、診断書ができたら、紗和の会社に届けてくれるかい?」
「わかりました。」
紗和が待合で待っていると、女の子がきて、
「お姉ちゃんも風邪を引いたの?」
そう聞いてきた。
「そうだよ。」
「大人だから、注射はこわくない?」
「怖いよ。でも、もう泣かないよ。」
「どうやったら、泣かないでいられるの?」
「注射をする看護師さんの顔を、ずっと見てるといいよ。」
「わかった。」
女の子は紗和に手を振って処置室に母と入っていった。
「紗和。」
「何?」
健一が言った。
「俺、紗和の会社に行ってくるけど、1人でいても平気かい?」
「うん。待ってる。」
健一は航大に連絡をすると、診断書は航大が会社に届けるからと、紗和の実家にそれを取りに来た。
「紗和は?」
「そこにいるよ。」
航大はテレビを見ている紗和の所にきた。
「紗和。」
「藤原くん。」
みんなが心配しているとも言えず、航大は言葉を飲み込んだ。
「何か飲む?」
紗和は台所へ行った。
「診断書が出たよ。2ヵ月。」
健一がそう言った。
「そんなに?」
「簡単に治るもんじゃないだろう。」
「紗和はその間、ずっとこっちにいるのか?」
「俺は来週から仕事をするよ。紗和を家に連れて行って、リモートで仕事をするつもりだ。」
「どうぞ。」
紗和が2人の前にそっとコーヒーを出す。
「ありがとう。紗和も座って。」
健一がそう言うと、紗和は健一の隣りに座った。
「少し前まで、小さな音にも怯えてたみたいなんだ。家の中、何もなかっただろう。」
健一はそう言って紗和の髪を触ると、紗和は震えた。
「何も言わないからわからないけど、時々、こうしてすごく怯えるんだ。」
震えが落ち着くと、紗和は健一の隣りで眠った。
「薬が効いてきたんだろう。ちょっと毛布取ってくる。」
健一は2階に行った。
少し顔色が戻った紗和の寝顔を、航大は見ていた。
自分の隣りで寝ていた夜の事を思い出す。
航大は紗和の髪を撫でた。
健一が戻ってきた。
「航大、紗和の事、好きなのか?」
毛布を取ってきた健一は、紗和の足をソファに乗せると、毛布をゆっくり掛けた。
「そうだよ。昨日、健一に連れて行かれた時は、久しぶりに落ちこんだ。」
「先に着いた俺は、卑怯だな。」
「紗和を元に戻れせるのは、健一だけだよ。」
健一は紗和の背中に手を置いた。
「なあ、健一。」
航大は健一に話し始めた。
「去年のちょうど今くらいの時期に、秘書課の新人の女の子が自殺をしたんだ。その子の両親が、会社を訴えるって言ってるらしくって、どうやら秘書課だけの問題じゃなくなりそうなんだ。」
「パワハラがあったのか?」
「秘書課の課長は厳しいのは有名だし、それがあってこそのエリート達だよ。誰もパワハラだとは思ってはいない。」
「じゃあ、何が原因で、その子は自殺したんだよ。」
「夜の相手だよ。幹部が飲みに行くときは同伴してたみたいだし。」
「今どき、そんな事あるのかよ。」
「あるんだよ、それが。彼氏のいない口の硬い女子職員が秘書課に配属されるのは、そのせいなんだって。亡くなった子も、誰にも言えなかったんだろうな。両親が日記を見つけて、それでわかったみたいだよ。」
「会社は見て見ぬふりなのか?」
「一部の幹部がやってた事だし、本当にみんな、わからなかったんだ。秘書課は会社の中でも特別な場所だから。」
「紗和も同じ様な事があったのか?」
「たぶんな。あんまり触れるなよ。お前に知られるのが一番辛いんだから。」
「航大。お前が紗和と付き合っていたままだったら、こんなに事にならなかったのにな。」
「紗和は1人を選んだんだ。それは仕方ないだろう。それに、健一の事を、ずっと忘れられなかったんだしさ。」
紗和は健一の隣りで眠っていた。
「健一は紗和のどこが好きだったんだよ。こんな勝ち気な女なんて、どこにもいないぞ。」
「どこだろうな、やっぱり気が強いところかな。」
「俺は、高校の時から、健一が羨ましくってさ。健一が大切にしてるものを奪ってやりたくって、紗和に近づいたんだ。結局、2人の邪魔をしただけだったな。だけど、少し違う出会い方をしても、紗和の事は好きになったと思うよ。」
「紗和は、航大の事をすごく大切に思っている。1番いい時にやってきてくれるヒーローだからな。俺にはそれができない分、航大が羨ましいよ。」
「健一、これから大変だぞ。心が戻っていくにつれて、思い出したくない事も、少しずつ思い出してくるぞ。」
「俺はもう、紗和から離れたりしない。勝ち気な紗和に戻ったら、また会社に行って、航大とも、いろんな話しができるようになるから。少し、時間がかかるけど、待っててくれ。」
航大が会社に帰った頃。
紗和が目を覚ました。
「寝ても寝ても、まだ眠たいの。」
「薬が効いているんだろう。」
「杉のおっちゃん先生の薬は苦くて、いつもお母さんにバレないようにゴミ箱に捨ててた。」
「紗和らしいな。」
「藤原くんは?」
「帰ったよ。」
紗和は起き上がった。
「健一、藤原くんに言って。あの場所に行ったら、絶対ダメだって。」
「航大は紗和がお世話になった課長の所へ診断書を持って行くって言ってたよ。」
「そっか。それなら良かった。」
「紗和。明日から家においで。ずっと一緒にいよう。」
「仕事は?」
「リモートでできるから。紗和が元気になるまで、離れないよ。時々、ここにもくればいいし、俺の家族にもちゃんと紹介するから。」
紗和は俯いていた。
「ごめん。一度にいろんな事を言い過ぎたね。」
紗和は首を振った。
「どうしたの?」
「健一、私ね、」
紗和は自分の腕に爪を立てている。
「言いたくない事は、言わなくてもいい。」
健一は紗和を抱きしめる。
「紗和が辛くなる度に、何度でもこうしてあげるから。」
「私の体、汚いよ。」
「昔の紗和のままだよ。」
紗和はいつまでも涙が止まらなかった。
良樹が帰ってきた。
「あっ、すまん。」
抱き合っている2人を見て、良樹は玄関に戻ろうとした。
「お父さん、違いますよ。」
「紗和、お父さん帰ってきたよ。ご飯作らなきゃ。」
健一の言葉に、良樹は居間に戻ってきた。
「お父さん。」
「紗和、どうした?」
良樹は泣いている紗和の顔を覗き込む。
「ゴミ箱に捨てた杉のおっちゃん先生の薬、見つけたのはお父さんでしょう? お母さんにすごく怒られた。」
「だって、飲まなきゃダメな薬だろう。」
「あれ飲むとね、嫌な夢ばっかり見るの。苦くてやっと飲んだら、今度は眠るのがすごく怖くなる。今日もらってきた薬も、昔と同じ、悪い夢ばっかり見るの。」
「どんな夢だった?」
「蝶々になった自分がね、蜘蛛の巣にかかった夢。違う、私が蜘蛛なのかな、お腹が減ってね、死んでいく蝶々を食べようとしてる。」
「紗和、先生に言って甘い薬にしてもらおうか。」
良樹は紗和の頭を撫でた。
紗和が食器を洗っている間、健一は航大から聞いた事を、良樹に話した。
「紗和が?」
「時々、思い出すんでしょうね。」
「ひどい事、するやつもいるんだな。」
「そうですね。」
「お父さん、明日、紗和を俺の家に連れていきます。1人にしておくわけにはいかないし、俺はリモートで仕事をするんで、いつも紗和と、一緒にいられますから。」
11章 緑風
健一の家に、紗和が来てから1ヵ月。
優佳が真衣を連れて健一の家にやってきた。航大も湊も陵矢もいる。
「紗和の彼氏、見に来たよ。」
真衣が言った。
「航大、これじゃあ、諦めて正解だわ。」
陵矢が健一を見てそう言った。
「暑くなる前に、鍋しようと思って。」
優佳が鍋を袋から出した。
「今日は人数が多いから、味の違う鍋を2つにしようと話してたの。」
真衣はもう一つを取り出した。
「健一、台所ちょっと借りるよ。」
航大が台所に真衣と優佳を呼んだ。
「紗和もおいで。」
真衣がそう言うと、
「夏川さんが作ると、甘くなるよ。」
湊がそう言って、立ち上がろうとする紗和の手を掴んだ。紗和は一瞬、ビクッとしたが、
「紗和は湊と、出汁を取ってて。」
優佳が言った。
「飲み物足りないから、紗和ちゃんと航大と買いに行ってくればいいよ。紗和ちゃん、俺が代わりに出汁を取るから。」
陵矢はそう言って、紗和の隣りに座った。
「健一さんは、あの2人をあっちで見張ってて。」
「健一、こっち。」
優佳が健一を呼んだ。
陵矢は航大にメモを渡すと、
「寄り道するなよ。」
そう言って、紗和と航大を買い物に送り出した。
「近くにスーパーがあったと思うけど……。」
紗和は人が通る度に、航大の後ろに隠れた。
「あんまりくっつくなよ。まだ好きなのかなって勘違いするだろう。」
「ごめん。」
紗和は航大から離れると少しずつ遅れ出した。
「大丈夫か?」
スーツ姿の男性が携帯で話しながら、紗和の前を横切ると、紗和は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
「紗和。」
航大が紗和をゆっくり立ち上がらせる。
「やっぱり帰ろうか?」
「早く買ってしまおう。みんなが待ってるから。」
「みんなは紗和に何があったのかは知らないんだ。今日集まったのは、紗和の気持ちが晴れるようにしたくての事だよ。だけど紗和は、本当は辛いんだろう? 会社に来れなくなったのは、もっと他に理由があるんだろう?」
「誰にも話してないの。藤原くん、秘書課に関わったらダメ。会社にいられなくなっちゃうよ。」
「わかってる。もうすぐ秘書課はなくなるよ。いつまでもそんな悪い事を続けられる訳がない。」
「そうかな……。」
「健一には話したの?」
紗和は首を振った。
「話すのは辛い?」
「きっと嫌いになるでしょう。仕事のために、そんな事をしたなんて。」
「健一は、紗和の事を嫌いになったりはしないよ。」
航大は紗和の手を繋いだ。
紗和は少し肩をすくめた。
「ごめん、大丈夫か?」
「うん。早く買って帰ろう。」
航大の言葉に、紗和は手を繋いだまま、黙って後を歩いた。
「何を買うの?」
紗和が紙を覗き込む。航大が持っていた紙は白紙だった。
「なにも書いてないよ、これ。」
「好きな物を買って来いって事だろう。」
「じゃあさ、氷買おうか。」
紗和が言った。
「氷?」
「健一の家にあるの、かき氷を作るやつ。」
「鍋にかき氷なら、お腹壊すぞ。」
「なんだかね、頭が痛くなるくらい冷たいもの、ずっと食べたかった。」
走って帰ってきた2人の買物袋を見て、真衣が唖然とした。
「これ、かき氷作れって事?」
「紗和が食べたいって言ったんだ。」
航大が言った。
「だからさ、この2人に行かせたらダメなんだって。」
湊が言った。
「せっかくだから、後で食べようよ。」
優佳は氷を冷凍庫にしまった。
「ほら、野菜入れていいよ。」
陵矢が台所にいる3人を呼んだ。
「夏川さん、こっちに座って。」
湊が紗和を呼んだ。
「お前、ずいぶん度胸がいいな。紗和の彼氏の家で、紗和の隣りに座るなんて。」
航大がそう言った。
「私、健一さんの隣りに座る。」
真衣が健一を呼んだ。
「おい! 真衣。」
「何よ。別にいいじゃない。」
「仕方ない、航大、一緒に座るか。」
「陵矢、私を呼ばないの?」
優佳が言った。
「なんだよ、もうぐちゃぐちゃだな。」
陵矢はそう言うと、
「湊、乾杯しろよ。」
「俺?」
湊はグラスを持った。みんなも湊に合わせてグラスを持った。
「じゃあ。ところで何に乾杯するの?」
湊の言葉に、7人は大笑いした。
「夏川さん、課長が魚を見たいってずっと言ってるよ。」
「そんな事もあったね。」
「また、夏川さんと働きたいんだね。」
「橋田くんには、すごく助けられた。」
「俺もそんなふうに、みんなに助けられてきたから。」
「橋田くん、お友達多いよね。人柄なんだろうな。羨ましい。」
「夏川さんだって、みんながいるからね。また、一緒に仕事しよう。」
少し涙が出そうになっている紗和の肩を、航大が叩いた。
「かき氷作ろうか。」
「夏川さんのは、俺が作るよ。イチゴがいい?」
湊がそう言った。
「湊はずっと紗和を独り占めだね。」
真衣が言った。
「真衣も健一を独り占め。湊、私のもお願い。」
優佳が言った。
「優佳さんは、メロンでいい?」
湊はそう言った。
「私もイチゴにしてよ。」
「じゃあ、自分でやって。はい、夏川さん。いろんな色、つけておいたから。」
湊は紗和に4色のかき氷を渡した。
「ありがとう。」
「夏川さんの家の魚もこんな模様なの?」
「似てるかも。」
紗和は笑った。
「湊、紗和ちゃんの事、好きなのか?」
凌矢が聞いた。
「好きだよ。こんなおもしろい人、あんまりいないから。」
湊はそう言った。
「なんだよ、それ。」
凌矢は言った。
「夏川さん、歓迎会の時、お刺身についていた魚の顔を、ずっと見てたでしょう? スーパーで見掛けた時も、魚の顔をずっと見てたし、きっとこの人、魚と話せるんだろうなって思ってさ。」
「湊、だから、魚の話しよくするんだ。この前も、紗和が実家に帰ったって聞いて、魚の餌の事、ずいぶんと気にしてたよね。」
優佳がそう言うと、みんなは一斉に笑った。
「湊もさ、時々、パソコンと話してる。」
真衣が言った。
「やべーやつじゃん、それ。」
凌矢が言うと
「頑張れって言うとさ、パソコンって頑張ってくれるんだね。」
湊は言った。
「もしかして、紗和は自分と同じだと思ったの?」
真衣がそう言うと、湊は大きく頷いた。
頭を押さえてる紗和を凌矢が心配した。
「大丈夫か?」
「キーンってなってて。」
「何だよ。びっくりしたわ。」
航大はそう言った。
「健一、少し食べてやれよ。」
「せっかく作ってもらったんだから、残さず食べな。」
健一はそう言った。
「冷たい彼氏だね。」
優佳は笑って言った。
「ねぇ、橋田さん。これ、溶けたらどんな色になるんだろう。」
紗和は湊に聞いている。
「紫になるんじゃない?」
「そうかな?」
紗和と湊の会話を聞いていた航大は、
「平和な会話だよな。本当のヒーローは、湊なのかもしれないな。」
そう言った。
みんなが帰り、静まり返った部屋で、紗和は窓を眺めていた。
「疲れた?」
健一が隣りにきた。
「ううん。楽しかった。久しぶりに風にもあたったし。」
紗和が言った。
「航大が外へ連れ出してくれて良かったな。」
「うん。」
紗和はうっすら窓に映る自分を見て話し始めた。
「健一、私ね、ずっと言えなかったんだけど、」
「どうした?」
健一は紗和を方を向いた。
「秘書課に入って、課長から、身だしなみとか、接遇の事で毎日毎日、注意されたの。爪もね、キレイに磨いてね。それが女性としての品格だって。最初は、自分が今までだらしなかったから、怒られるんだろうなって思ってたけど、よく見ると、仕事中でも、みんな鏡を見てるし、パソコンは開いていても、打ってる音なんて、ぜんぜん聞こえないの。私が仕事をしようとキーボードを打つと、みんなジロジロ見るのよ。なんだか居場所がなくってね。それから、課長と2人で、重役の人達のスケジュールを管理するようになって、ある日ね、課長と数人の秘書と、その人達の接待ゴルフについて行く事になったの。他の会社の人もたくさん来ていて、ゴルフが終わって、汗をかいたからって、シャワーを浴びたいっていう人が何人かいてね。近くのホテルまで、一緒に行くように言われたの。大切な人達だから、絶対に機嫌を損ねたらダメだからって。その後の事は、もうよく覚えていない。それから、何回かそう言う事がある度に、厳しかった課長はすごく優しくなって、夏川さんは会社の女になったんだから、普通に結婚とか考えたらダメだよって。」
健一に話した紗和は、膝の上の手をギュッと握った。
「紗和。よく話してくれたね。」
健一は紗和の体を優しく包んだ。
「洗っても洗っても、汚いの。健一が最後に残していったこの手の感じもね、少しずつ忘れて、思い出すのは、嫌な感触ばかり。」
紗和の涙が健一の肩を濡らした。
「辛かったね。時間はかかるけど、きっと元の勝ち気な紗和に戻れるから。」
紗和は落ち着きを取り戻し、ソファで眠っていた。
航大から電話がきた。
「健一、紗和は大丈夫か?」
「ああ。疲れたのか、寝てるよ。」
「まだ、1日に何度も思い出すのか?」
「そうだな。日によって違うけどな。」
「紗和、何があったか話したか?」
「聞いたよ。」
「お前は受け止めてやれるのか?」
「好きになってしまったんだから、受け止めるしかないだろう。」
「そっか。大変だぞ、何年もかかるかもしれないし。」
「俺はずっとそばにいるよ。」
「手放したら、俺が迎えにいくからな。」
「何言ってんだよ。」
健一は笑った。
「なあ、航大。勝手な事をしたのは、男だろう。会社のためにコツコツ積み上げてきた努力だって、一瞬で奪ってしまってさ。」
「役がつくと、勘違いするんだよ。部下の女には何でもしてもいいってさ。女だって、そんな上司にチヤホヤされたいって思ってるやつもいるだろう。変なプライドとか、妬みや嫉妬のせいで、どんどん歪んでいくんだよ。」
「航大、早く彼女作れよ。」
「なんだ急に。」
「お前、ずいぶん丸くなったな。航大が紗和の近くにいると、なんだか心配になるだろう。」
「健一、俺より湊の方が心配だぞ。」
「本当だな。あんなふうに隣りで笑わせてくれたら、紗和はすぐに心を開くだろうな。」
「秘書課の件も湊が調べてくれたんだ。上に言って、そろそろ秘書課は解散するよ。」
「そっか。紗和は会社に戻れるのか?」
「そう言わずに、そのまま結婚してしまえばいいだろう。」
「紗和はみんなが好きなんだよ。会社の事も。元気になったら、きっとまた働きたいって言い出すから。」
「そんな女もいるんだな。」
「仕事は男だけがやってるんじゃないだ。」
「そっか、そうだったな。」
「今日はありがとうな。紗和、喜んでたよ。」
次の週。
健一は紗和を自分の実家に連れてきた。
「お兄ちゃん、おかえり。」
大学生の妹直美が、台所にいる健一の母を呼びに行った。
「健一、おかえり。こちらは?」
母のより子が紗和を指して、健一に聞いた。
「彼女だよ。」
健一の後ろで紗和は小さくこんにちは、と言った。
「こんにちは、どうぞ上がって。」
居間に行くと健一の父昭一と、会社が休みで帰ってきていた兄幸一が、健一と紗和を迎えた。
「お兄ちゃん、やっぱり、先を越されたね。」
「うるさいやつだな、お前の方が一生結婚できないぞ。」
「いいもん。思い出のゴミが増えるくらいなら、ずっと1人の方がいい。」
紗和が少し笑った。
「恥ずかしいぞ。そんな事、これなら結婚しようとする人の前で言うなよ。」
「お兄ちゃんが悪いでしょう。」
健一は紗和の顔を見つめた。
「座って。」
より子が、2人に麦茶を持ってきた。
「名前はなんでいうの?」
より子が紗和に聞いた。
「夏川紗和です。」
「いくつ?」
直美が聞いた。
「28になります。」
「健一はいくつになった?」
昭一が聞いた。
「もうすぐ、30だよ。」
「そんなになったのか。」
昭一はそう言った。
「紗和さん、兄弟はいるの?」
「離れた所に、父親の違う妹がいます。」
「それは?」
「両親は離婚しました。私は父と暮して、母は妹と暮していました。」
「仕事はしているの?」
より子は続けて聞いた。
「していましたけど、今は休んでいます。」
「まぁ。」
紗和は膝の上で手をぎゅっと握った。健一が握っている紗和の右手の上に、自分の左手を重ねた。
「そんな事、どうでもいいじゃん。それ以外に聞くことないから聞くんでしょう。」
直美がそう言った。
「家なんて、3人の男が全部に一がついて、変な家だよ。お父さんも本当は三男だし、本当の長兄はこんなだし、健康第一の次男は打たれ弱いし、おまけに両親は変なパン作るのにハマってるし。」
「変なパンはないだろう?」
幸一がそう言った。
「パン屋をやってる同級生に教えてもらってるんだ。」
昭一がそう言うと
「私もお父さんも、パン屋の夫婦も同級生なの。今朝、焼いたものがあるから、食べてみて。」
より子は台所にパンを取りに行った。
「はい。健一も食べてみて。紗和さんもほら。」
より子はパンを皆の前に置いた。
「コーヒーでも入れようか?」
より子は昭一に聞いた。
「健一も飲むだろう?」
「ああ。」
「じゃあ、母さん、みんなの分を入れてくれよ。」
「私、コーヒーはいらない。紅茶にして。」
直美が言った。
「わがままだな。自分でやれよ。」
幸一がそう言うと、
「お兄ちゃん、だから彼女ができないんだよ。」
「うるさいなぁ。」
「一緒にやります。」
紗和がより子について行った。
「そこにカップがあるから、出して。」
「はい。」
「紅茶はそこにあるでしょう。」
「ありました。」
「紗和さんも紅茶にする?」
「そうします。」
静かにカップを並べている紗和を見て、
「紗和さん、ずいぶん丁寧に並べるのね。」
「少し前、食器がぶつかる音を立てると、怒られた事があって。」
「うちはぜんぜん平気よ。あの通り、いつもガチャガチャうるさいし。」
「楽しそうですね。」
紗和はより子から、ポットを受け取った。
「一番、健一が静かかな。真ん中って難しいのよ。何を考えてるかわからない。」
透明なポットに、紅茶の葉から出る琥珀色が溶け出すのを見ていた紗和は、
「ごめんなさい。もっと普通の子が、ここにくれば良かったですよね。」
より子に謝った。
「紗和さんは普通の子よ。健一はどんな子を連れてくるのかなって思ってたら、以外に普通の子でびっくりしてる。だけど、気が強そうなのは、私に似てるかもね。」
より子はそう言った。
「うちに家族が増えるのは初めて。紗和さんこそ、お父さんは、健一でいいって言ってるの?」
「はい。」
「私も、両親を早く亡くして、祖父母の家で育ったの。仕事もうまく行かなくて転々としてて、そんな時、今の夫と出会って結婚したの。こう見えて私の導火線って短いから、職場の人とよくケンカしたのよ。女のくせにとか、いろいろ言われてね。ほら、コーヒーも出来たらか、持っていこう。」
紗和は直美の前に紅茶を置いた。
「本当にいれてくれたの?」
「私も同じの飲みますから。お母さんも。」
「そっか。紗和さん、なんのパンがいい?」
紗和は直美の隣りに座った。
「この、オレンジの。」
「はい。どうぞ。気をつけて、思ってる以上に硬いから。私はこれにする。」
「どう? 美味しいだろう?」
昭一が紗和に聞いた。
「お父さん、紗和さん、まだ飲み込んでないよ。やっぱり、硬いのよ、お父さんのパン。」
「言われた通りに作ったんだけどな。」
「お前、もう少し言い方気をつけないと、どこも雇ってくれないぞ。」
幸一が直美に言った。
「お母さんだって、きついじゃん。」
パンを飲み込んだ紗和が昭一の顔を見た。
「どう?」
「口の中がパンの味でいっぱいです。」
「それは良かった。そういうパンを作りたかったから。」
「健一、それ食べたら紗和さんと一緒に、おばさんの畑からトマトもらってきて。」
「俺、トマト嫌い。」
「じゃあ、きゅうりでもいいから。」
「おばさん、絶対トマト持っていけって言うだろう。兄ちゃんが行ってくればいいだろう。」
「俺はきゅうり嫌いだし。紗和さんと行ってこいよ。」
健一と紗和はおばさんの家まで歩いて行った。
時々、人が通ると、紗和は健一の後ろに隠れた。
「外に出るの、まだ早かったかもな。」
「大丈夫。」
紗和は健一の後ろを歩いて行った。
おばさんの家につくと、
「畑にいるからおいでー!」
と声がした。
ぐんぐん伸びた豆の蔓に隠れていた女性は、紗和にキャラメルをくれた清掃会社の女性だった。
「あら、最近全然見ないと思ったら、結婚してたの?」
伯母の麻巳子はそう言った。
「紗和、知り合い?」
「うん。」
「駅で花束を捨てた時は、きつい顔してたけど、結婚したら、穏やかになったのね。幸せになって良かった。」
「おばさん、俺達まだ結婚はしてないよ。」
「そうなの? まあ、してもしてなくても、今は幸せそうに見えるよ。」
「紗和、おばさんとどこで会ったの?」
「会社で。」
「私、時々その子の会社に掃除に行くの。」
「そっか。」
「健ちゃん、トマト持っていって。」
「おばさん、この豆のもらっていい?」
「いいよ。トマトは?」
「キュウリも。」
「いいよ。トマトは?」
「もう、トマトはいらないよ。」
「お嫁さんは食べるでしょう? トマト。」
健一は紗和を見て首を振っている。
「食べます。」
「じゃあ、一番甘いやつ、教えるから、こっち。」
「すごい畑ですね。」
「そうでしょう。手をかければ手をかけるだけ、美味しくなるから。」
「これは?」
「イチゴよ。直美ちゃんに持っていって。」
イチゴの赤もトマトの赤も、太陽に照らされると、宝石みたいにキラキラと輝いた。
「紗和、帰るぞ。」
「健ちゃん、キュウリ取った?」
「たくさんもらいました。」
「ちょっと、お茶飲んで行かない?」
「紗和、どうする?」
健一が紗和の顔を覗き込む。
「少し休んでいく。」
麻巳子は紗和と健一にお茶を持ってきた。
「私はね、健ちゃんのお父さんの姉。」
麻巳子はそう言った。
「ほら、あの朝顔、健ちゃんが学校で育てた種が始まりで、それからどんどん増えて、毎年花をつけるの。」
「おばさん、嘘言うなよ。」
「健ちゃん、おばさんにくれたじゃない。忘れたの? なかなか芽が出なくて、おばさんがちょっと肥料をあげたら、直ぐに芽が出て、今度は伸び過ぎたからどうしようって相談にきて、たくさん花をつけたでしょう。そうだ、お嫁さんに、隣りになってるニガウリあげようか。体にいいんだよ。」
「おばさん、そんなのいらないよ。」
健一はそう言ったが、麻巳子は庭になっているニガウリを2つ取ってきた。
「ほら、こういうの食べないと、体の中がキレイにならないから。」
麻巳子は紗和の持っているトマトの袋の中に入れた。
「お嫁さん、いつから会社にくるの?」
「まだ決めてないよ。」
健一が紗和の代わりに答える。
「この前、いつも一緒にいる男の子と何人かで、机を運んでたから、誰かくるのかなあって思ってたけど。お嫁さん、あなた、魚飼ってるの?」
「飼ってません。だけど、私が難しい魚を飼ってるって噂があるんです。」
紗和はそう言って笑った。
袋にあったニガウリを手に取ると、
「これ食べると本当にキレイになります?」
麻巳子に聞いた。
「キレイになるよ、血も内蔵もみんなキレイになるから。」
「おばさん、ずいぶんたくさんくれたのね。」
より子はそう言った。
「紗和がニガウリまでもらって来ちゃった。」
健一が苦い顔をすると、
「炒めて食べようか。紗和さん、これ食べると、血がきれいになるって言われてるよ。」
「そうですか。」
「紗和さんには、必要ないか。直美に食べさせないと。」
「私が食べます。苦くても我慢しますから。」
紗和が言うと、
「その苦みが美味しいっていうのよ。」
より子はそう言った。
晩ごはんに並んだニガウリを食べると、
「何これ、人間が食べてもいいもの?」
直美はそう言った。
「紗和さんは、平気なの?」
「苦いです、少し。」
「少しじゃないでしょ、これ。あ~、もう何を食べても苦く感じる。」
直美はそう言って水を飲んだ。
健一のベッドに横になっていた紗和は、自分の腕に爪を立てていた。
「紗和。」
健一は紗和の手をそっと握った。
「麻巳子さんに言って、もう少し野菜をもらおうか。」
健一がそう言うと、紗和は頷いた。
「今日は疲れたんだろう。」
「大丈夫。」
「おいで。」
健一は紗和の体を包んだ。
「もう、1人で、寝られるよ。」
「俺のほうが、1人で眠れないんだよ。また、1人になるとか言い出すんじゃないかと思って。」
「健一。」
「何?」
紗和は俯いた。健一は紗和の頬を包むと、紗和に優しくキスをした。
触れたいと思えば思う程、紗和を傷つけてしまうようでそれ以上何もできなかった。
悪い夢は、みんな蜘蛛の巣に引っかかってくれたら、俺が全部食べてやるのにな。
健一は、眠ってしまった紗和をきつく抱きしめた。
12章 南風
1人で診察室に入ってきた紗和。
「今日は1人?」
「1人で来ました。」
「どう、少し眠れるようになった?」
「だいぶ。」
「ご飯は食べている?」
「食べてます。」
「時々、嫌な気分になる事は減った?」
「まだ少しありますけど、減りました。」
「紗和ちゃん、もう少し、休もうか。薬も出すから。」
「先生、もう薬はいりません。薬を飲まなくても自分で治せます。」
「どうやって?」
「知り合いに、ニガウリをもらったんです。薬より苦いけど、それを食べたら、悪い夢を見なくなりました。」
「そっか。ゴーヤは体にいいからね。」
「良かった。」
「お休みはどうする?」
「来週から少しずつ、仕事に行きたいです。」
「無理してもいい事なんてないよ。」
「大丈夫です。今はすごく、仕事がしたいって思うんです。」
「絶対、無理をしないって約束できる?」
「わかりました。」
紗和は病院からまっすぐ帰らず、少し前まで紗和の住んでいたアパートに寄った。アパートは、父の良樹がすでに引き払っていた。
別の誰かの引っ越しのトラックが、部屋の前に停まっている。
紗和は中から人が出てくると振り返り、今来た道を走って戻った。
近くの公園のベンチに座り、会社に電話をした。人事担当と話しをした後、前の課長が電話を代わった。
「夏川さん、さっき来週から来れるって聞いたけど。」
「はい。また、お世話になります。」
「体調はいいの?」
「大丈夫です。私の仕事、ありますか?」
「秘書課はね、もうないんだよ。」
「そうですか。」
「うちの課で、また働く事になったから。」
「ありがとうございます。」
「魚は元気にしてるかい?」
「元気です。育てるの、ちょっと難しいけど。」
「そっか。ちゃんと餌やってから会社に来るんだよ。」
「わかりました。」
健一が紗和を迎えにきた。
「病院に行ったら、もう帰ったって言うから、探したよ。」
「ごめん。仕事の途中なのに抜けてきたんだね。」
「帰ろう。」
「うん。」
「本当に仕事に行けるのか?」
「うん。」
「職場が近いから、毎日送って行くからね。」
「本当に?」
「紗和。明日、買い物に行こうか。」
「うん。何を買うの?」
「お弁当箱。」
「どこか行くの?」
「会社に持って行くのが必要だろう。」
「健一が?」
「紗和も。」
「私は食堂があるから……。そっか、やっぱり、お弁当にする。」
「俺の分も作ってよ。」
「起きられるかな?」
「寝坊したら、買っていけばいいんだし。」
「そうだね。」
「紗和。今日はどこか食べに行こうか。」
「ううん。うちにいる。明日、出掛けるんだし。」
晩ごはんを食べた後、紗和はパソコンを開いていた。
久しぶりに画面の文字を追うと、少し目が霞んだ。
しばらく、コンタクトもいれていない目は、ぼんやりした日常にすっかり慣れている。
メガネを掛けると、文字がスッキリして見えた。
お風呂から上がってきた健一が、紗和の隣に座る。
「メガネ、久しぶりだね。」
「健一の顔もよく見える。」
紗和はそう言って笑った。
「薬は昨日でなくなったんだろう。」
「うん。」
「今日は眠れそう?」
「わからない。」
「お風呂、入っておいで。」
「そうだね。」
お風呂から上がってきた紗和が冷凍庫から水を出して飲んでいる。
「直美がね、一緒に美容室に行こうだって。」
「直美ちゃんが?」
「ああ見えて、初めての場所は苦手なんだよ。」
「いつ?」
「明日。買い物はその後でいいから、行っておいで。」
「うん。」
健一は紗和の手を握った。
「悪い夢はもう見ないといいね。」
「最近は、朝になると忘れているから。」
「そっか。もう、寝ようか。」
「うん。」
ベッドに横になると、健一は紗和をいつものように優しく包んだ。
「健一、ごめんなさい。落ち着いたら、ちゃんと住む場所を探すから。」
「どうして?」
「ずっと甘えていられないよ。」
「紗和。ずいぶん元気になったんだな。その強がりが戻ってきたら、もう大丈夫だ。」
「勝手な解釈だね。」
「なんとでも言えよ。」
健一は紗和の手を握った。紗和の体の上になると、
「平気か?」
そう言った。
「私、汚れてるよ。」
「あれだけ、ニガウリ食べのに、まだ汚れてるのか?」
紗和の目に涙が浮かんでくる。
「初めて会った時の紗和のままだよ。」
健一は紗和に近づくと、何度もキスをした。そして、紗和が傷つかないように、少しずつ紗和の体に触れた。
「大丈夫か?」
紗和は頷いた。
腕の中で眠る紗和の頬を触ると、
「もう、寝ようよ。」
紗和がそう言った。
「起きてるなら、目、開けてよ。」
健一は言った。
「やだよ。」
紗和は背中を向けた。
「やっぱり、辛かったか?」
健一は紗和の肩を触った。
「大丈夫。」
「それなら、俺を置き去りにするなよ。」
健一は紗和を背中から抱きしめた。
「苦しいよ、健一。」
「ごめん。」
健一が手を離すと
「おやすみ。」
紗和はそう言った。
健一が眠ろうと目を閉じると、紗和が健一の体に自分の体をピッタリとくっつけた。
「最初から、そうすれば良かっただろう。」
「明日から、そうするから。」
健一は紗和にもう一度、キスをした。
「変な夢を見たら、ちゃんと起こせよ。」
「うん。」
紗和が会社へ行くと同時に、健一もリモートから会社へ出社して仕事をする事にしていた。
ずっと一緒いた時間は、慌ただしい朝の支度で、実は少し長い夢を見ていたかの様に感じた。
「健一、お弁当。」
「作ってくれたんだ。」
会社の前では航大が待っていた。
「久しぶりだな。」
「そうだね。」
「ちゃんと化粧してきたのか?」
「仕事と化粧って何か関係あるの?」
「冷めてるなぁ、相変わらず。」
「紗和!」
真衣が待っていた。
「ここだよ。紗和の席。しばらく湊が隣りに座ってくれるから。」
「橋田くん、別の部所じゃなかった?」
「ここになったの。私、知らなかったけど、湊のおじいちゃんって、ここの会長だったんだって。紗和が入れてくれたお茶が美味しかったから、ずっと休んでるって聞いて気にしてたみたいだよ。またここで働けるようにしてくれたのも、湊のおじいちゃん。時々、くるよ。ここに。」
真衣の話しを聞いて、紗和の顔が強張った。
「大丈夫だよ。湊のおじいちゃんは本当に知らなかったんだ。怒って秘書課を解散させたくらいだから。」
航大が言った。
「ああ、あの幹部達なら、出向して、もうここにはいないよ。社長と湊のおじいちゃんで、みんな後始末したから。」
「夏川さん!」
湊がやってきた。
「早く座って。課長から、仕事頼まれてるから。」
「これ、夏川さんの分。橋田と手分けして、入力して。」
湊が書類の束を半分紗和に渡した。
「これ、全部?」
紗和が分厚い書類を見ていると、課長が隣りで立っていた。
「あっ、課長。また働けて嬉しいです。」
紗和は慌てて立ち上がって頭を下げた。
「なんだよ、文句言うのかと思ったら。夕方まで、やってしまえよ。明日の会議で使うから。夏川、これからは仕事の鬼になれ。」
課長は紗和にそう言った。
「課長こそ鬼だね。初日でこれってないよね。」
「冴木、聞こえてるぞ。」
課長は真衣に言った。
「夏川さん、入力するところはね、ここ。」
湊が紗和のパソコンの画面を指差した。
「湊。」
「ん?」
「お前、本当にすごいな。」
「何が?」
「その平常心を分けてほしいわ。」
航大はそう言った。
お昼休み。
紗和がお弁当を食べていると、会長が来た。
見覚えのあるその顔は、会社で一度だけお茶を入れた事があった。
「お昼だったかな。」
「すみません。」
紗和はお弁当を閉まった。
「いやいや、こっちこそ、時間を考えないで悪かった。」
「お茶、入れますね。」
「頼むよ。」
紗和がお茶を出すと、会長は一口飲んで頷いた。
「自分が入れたお茶の味って、想像できるかい?」
「……。」
「君は相手がどんな顔をするか想像して、お茶を入れたんだろう。俺は思ってた顔をしたかい?」
「思っていた通りの顔をされました。」
「会社は君に、ずいぶんひどい事をしたね。」
「いえ、また働かせてもらえて、嬉しいです。」
「湊から君の話しをよく聞くよ。難しい魚を飼ってるんだってね。」
「会長、それは。」
「今度、見せてくれ。お詫びにどんな餌でも手に入れてあげるから。」
会長はお茶を飲んだ。
「あの掃除の奥さんとは、知り合いか?」
「はい。先日畑に行きました。」
「あれは俺の同級生だ。何回も振られて、こうして再会しても、冷たい態度だ。どうして、あんなに冷たい女から、キレイな野菜ができるのか不思議だよ。」
会社は残りのお茶を飲むと、また来ると言って席を立った。
お弁当の残りを食べていると、航大がやってきた。
「健一の分も作ってるのか?」
「そう。」
「たまには、食堂のカレーも食べなよ。」
「藤原くん、カレーはおすすめしないって言ったでしょう?」
「会長が好きなんだって、甘いカレー。ここの食堂は一生あの味だよ。」
「藤原くん、かき氷で何が好き?」
「俺はメロンかな。紗和は?」
「かき氷のシロップって同じ味なんだよ。色でメロンになったり、イチゴになったり、錯覚するの。」
「なんだよ、それ。ずっと騙されてたのか。」
仕事を終えて帰ろうと玄関に向かう。
健一が迎えにきた。
「お疲れ様。」
「健一も、疲れたでしょう。」
「なんか食べて帰る?」
「ううん。家に帰る。」
「紗和、あんまり外食したがらないよね。」
「待ってる時間がね、苦手なの。」
「せっかちだもんね。」
「健一もそう。」
「急に暑くなったな。」
「本当。それに、この頃あんまり明るいから、夜にならないのかもって思ってしまう。」
「今度、映画見に行かない?」
「せっかくのお昼に、暗いところに行くの?」
「そっか。紗和、また寝ちゃうかもしれないか。」
「私、寝たことなんてないよ。」
「嘘つけ。いつもウトウトして、寄り掛かってくるだろう。」
「2時間、全部見る必要なんてないの。本当に大事なところだけ見たら、それで大丈夫だから。」
「都合の良い言い訳だな。一つ一つ、どこを切り取ってもいいように作ってるから、ちゃんと全部見なきゃダメだよ。」
「じゃあ、健一が一人で見たら?」
「2人で見たいって言ってるだろう。」
「なんで?」
「一緒に笑ったり、泣いたりしたいだろう。」
「健一は、ずっと泣いてるくせに。」
「よく言えるね、そういう事。自分だって、どれだけ泣いたんだよ。」
「私、めったに泣かないよ。」
2人は笑った。
「ねえ、夕焼け、真っ赤だよ。」
家に着いた2人は、車を降りて空を見ていた。
「明日また、あの色で昇ってくるのかなぁ。」
紗和が言った。
「明日はぼんやりした色で昇ってくるだろう。」
「そっか。」
あの日、蜘蛛の巣に引っ掛かって力尽きた蝶は、どこを通って、ここまできたんだろう。
自由に空を飛ぶ事の出来ない蜘蛛は、いつ来るかわからない獲物をただ黙って待っているだけ。
孤独に生きているもの同士が、最後に出会ったの蜘蛛の糸の上。
一度甘い蜜の味を知った蝶は、最後にどんなに花を思い浮かべているのだろう。
蝶を見つめている蜘蛛は、どんな味を思い浮かべて、蝶の最後を待っているのだろう。
一人で飛んでいた私を、導いてくれた少し強い風は、大きな太陽が出ると、少し恥ずかしいそうに、姿を隠くした。
風は、雲の流れに乗ってやって来ると、みんなの肩を通り抜け、心地よい気持ちにさせる。
だから、風が迎えに来るまで、もう少し、この花の上で休んでいよう。
「健一。」
「何?」
「どんな映画を見ようとしてたの?」
「後で一緒に選らぼうよ。」
「そうだね。」
終