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贄柵

作者: 圓堂


 「…全て失われてしまった」

 北上川を見下ろす小山の中腹に立ち、青年が呟く。

 辺りは既に雪に覆われ始め、白くなった平原のなかを灰色の川が横たわっている。

「残ったのはこの景色だけだ」

「愚痴はそれくらいにしておけ」

 背後に立つ留為が厳しい声音で言った。

「真に重要なのはこれからだ。戦が終わったからと言って全てが終わったわけじゃない」

 黙っている青年の背中に一瞬懇願するような視線を向けてから、やはり強い口調で留為は言った。

「死んだ者たちの命を無駄にするな」




 

 北の秋は短い。

 晴れる日は初めの数日で、後はひたすら雨が降る。雨は徐々に激しさと冷たさを増し、色づいたばかりの木の葉をむしるように叩きつける。

 板葺きの屋根から落ちる雨だれと拍子を合わせ扇子を開き閉じしながら、くすんだ赤い紅葉の向こうで鈍い光を放っている金色堂を眺めていた。

「殿」

 灯芯を庇いつつ畠山重忠が駆けてきた。

「ここは冷えます!それに、どこに残党が潜んでいるか…」

 皆まで言わず重忠がくしゃみをする。その盛大な音がしんとした辺りに響き渡った。

 膝に片肘をついた頼朝は面白そうに

「いまので残党は逃げ出しただろう。あんなくしゃみをするのはとんでもない武士に違いない、とな」

 そう言い自分の隣を示した。重忠は恐縮しつつ経蔵の石段を上る。腰を下ろすと板敷きの冷たさがぞわりと背中を這い上がった。

「ああ」改めて金色堂を眺めた重忠は

「あの金をはがして、鎌倉に持ち帰ろうかと義盛殿と話していました」

「持ち帰ってどうする」

「屋敷を金色にします」

 大真面目に答える重忠の額をぽん、と扇子が叩いた。

「金はいらんよ、金は」

 実際何の抵抗もなく平泉に入ってからというもの、想像すらしていなかったその都市の豊かさに多くの御家人たちは浮足立った。京のそれにも劣らない壮大な邸や寺院や庭園が、いくつもこの遠い北の地に存在することに誰もが目を疑った。

 しかし、何よりも肝心な平泉の主である藤原泰衡は既に姿を消した後だった。

「自らの舘に火を放ち、これほどの都を捨て逃げのびるとは…ひどい腰抜けです」

 鎌倉を発ってここ平泉に至るまでに河津賀志山での戦いが唯一戦らしい戦だった。そして泰衡は戦わずしてひたすら北へと逃げている。

「北か…」 

 頼朝の扇子の拍子が忙しくなる。

 自分たち源氏の一族は昔から妙に北と係わりがある。北と関わることで朝廷での地位を上げてきたと言っても過言ではない。

 楽師が宮中で貴族たちを前に舞を舞うように、夷族の矢羽根が飛び交う僻地こそが武士にとっての舞台だった。自分はいまその舞台にいる。舞ったところで大した得もないが、舞わなければ貴族たちを黙らせることもできない。

 頼朝は茫漠と広がる北の山々を想った。そのどこかに泰衡は潜んでいる。

 雨は更に強くなり夕闇を濃くしてゆく。

「雪になる前に方を付けたいものだな…」



「気に入らんな」

 奴為がぼそりと言った。次郎は囲炉裏の火に照らされたその顔をじっと見る。奴為はなおも感情のこもらない声で「気に入らん」と呟く。

「何がだ」

 とぼけて訊ねる次郎を鋭い両目が見据える。

「全部がだ」

 奴為はやはり抑揚のない声で

「九郎を殺し…弟たちを殺し…己の都を捨てた。あの男が何を守ろうとしているのか分からん」

 蝦夷と呼ばれる者たちのこの朴訥な物言いが河田次郎は好きだった。無駄を省くというより、むしろ嫌うところは彼らの生活そのものが現れている。

「そうだな」次郎は火箸を弄びながら

「恐らく、血を守ろうとしているのだろう」

「血?」

 奴為が顔を上げる。その彫りの深い顔を見返し次郎は頷く。

「奥州藤原氏の血だ」

 奴為の口がひんまがる。小馬鹿にしたとき彼らがよくやる癖だ。

「たしかに、奥御舘(おくのみたち)というのは偉いらしい。我が身可愛さが大義名分としてまかり通るのだからな」

 次郎は何とも言えない寂寥感に襲われた。

 初代清衡が平泉を築いて約百年。蝦夷たちの心は藤原氏からひどく離れてしまった。

 奥六郡の長を称した安倍氏の血を引く清衡だったからこそ、蝦夷たちも後三年の役では影から清衡を助けた。その後奥州の王となった清衡も、最北にある蝦夷たちの土地にはあえて手をつけないことで恩に報いた。

 しかし清衡が没し、奥御舘が代わるごとにこの統治せぬ統治はただの無関心にかわり、京の朝廷との結びつきが強くなるほど藤原氏と蝦夷たちとの溝は深まっていった。

 藤原氏代々の郎従であり、そして平泉より遥か北に位置するこの贄柵で、長く蝦夷たちと隣人のように暮らしてきた次郎にとってそれは眼前の事実だったが、窮鳥のように飛び込んできた泰衡はまだ知らない。

「斥候にいった者の話だが」

 囲炉裏にかけた鍋をかき回しながら、奴為が何気なく言ったので次郎は驚いた。

「斥候を出していたのか」

「頼朝は平泉を出たそうだ」

 軋むように炭がはぜた。

「北へ向かっているらしい」

 戸板越しに聞こえる雨音が強くなる。奴為はつまらなそうに「投げ文の噂は本当だったらしいな」と呟いた。

 数日前から柵でささやかれていた。密かに泰衡が頼朝へ命乞いの書状送ったらしいと。そこにははっきりとではないがいまの自分の居場所も書かれていたらしい。

「まさか」とも次郎には言えなかった。次郎にも泰衡が何を考えているか分からなかった。

「あの男は周りが思うほど愚かではないぞ」

 次郎の心を見透かしたように奴為が言う。

「何故ろくに戦わず北へ逃げてきた」

 次郎と奴為の目が探るようにぶつかる。

「北へ頼朝を引き寄せることで我ら蝦夷を戦いに巻き込むためだろう」

 やはり何も言えず次郎はうつむいた。ここでは泰衡は既に奥州の王ではなく、鎌倉軍という災いを招き寄せる厄介者でしかない。皮肉にもそれは彼がかつて自害に追いやった源義経の立場と同様だった。

(因果は巡ると言うが…)

 そんな言葉で全て割り切りるほどの信仰心も次郎にはなかった。

「違うぞ」

 黙り込んでいる相手に奴為が唐突に言った。

「…何がだ」

 今度は本気で訊ねた次郎に奴為は身を乗り出し

「我らは臆しているのではない」

 次郎は一瞬きょとんとして、次に吹き出した。

「何を…お、大熊にすら平然と立ち向かう主らが臆するなど…臆病になる薬があったら塗ってやりたいくらいだ」

 腹を抱えて笑う相手に奴為もニヤリとしたが、すぐにいつもの無表情になってもくもくと鍋をかき回す。やがて杓で中身を掬い上げると次郎に示した。

「我らはこれだ」

 杓には赤茶けた色のサンモダシがのっている。次郎はそれと奴為を見比べる。

「…茸か」

「茸だ。とられてもとられてもまた生えてくる。それはこの地と繋がっているからだ。人間の血とは関係が無い。が、無駄な血を流すつもりもない」

 そう言い杓ごと口に頬張る奴為を次郎はじっと見つめた。口をもごもごさせる奴為の目が白黒する。

「…熱いか」

「…熱い」



 降り続いた雨にも米代川がさほど水かさを増していないのは、源となる山々には雪が降った証拠だった。

 わずかな晴れ間に冷たく輝くその水面に泰衡は石を投げ込む。

 鈍い音とともに流れが一瞬とどまり波紋をつくっては消えてゆく。その一瞬が、流れという大きな力に自分が及ぼすことのできる全てだ。それでも泰衡は石を投げ続ける。

 砂利を踏む音に振り向くと、河田次郎が立っていた。ちらりと見て泰衡は顔を背ける。

 この男の目が苦手だった。いつも相手の心から悲しみを見つけ出し、ともに悲しむような目が。

 泰衡は威嚇するように乱暴に石を投げたが、次郎は動く気配がない。

「何か言いたいのか」

 苛立たし気に言う泰衡に次郎は逆に近寄る。それが泰衡の心をわずかに和らげた。

「本当ですか」

 石を選ぶ泰衡に次郎は訊ねる。

「鎌倉方に文を送ったというのは」

「本当だ」泰衡は数個選ぶと体を起こし

「流罪でもいい。どうか命ばかりは助けてくれと書いた」

 次郎はまだ若い主の横顔を見つめる。

「御家人に加えてくれとも書いた」

 石が落ちる音と、泰衡の自嘲的な笑いが重なった。次郎が何も言わないので泰衡は仕方なくその目を見る。

「冗談だぞ」

「おびき寄せるためですね」

 泰衡は目を逸らした。

「頼朝をこの地までおびき寄せ…蝦夷たちも巻き込んで戦わせるためですね」

「何が悪い」

 水鳥が奇声を上げ飛び立ち次郎ははっとする。しかし泰衡は微動だにせず

「そもそも蝦夷の連中がもっと早くに加勢していればここまで逃げ落ちることもなかった…平泉を明け渡すこともなかったのだ」

その声には純粋な怒りが滲んでいた。理不尽なことが我慢ならない、子供のような怒りが。

「しかし、蝦夷にも自分たちの暮らしというものが…」

「何が暮らしだ!」

 鋭い泰衡の声が川面に響く。

「その暮らしも我ら藤原氏が奥州を治めていればこそだろう!百年もの間安寧を貪って蝦夷どもはそんなことも忘れたのか!」

 失望が次郎の口をつぐませた。泰衡は京の空気を吸い過ぎている。

 先代の秀衡が積極的に朝廷に係わり、ついには陸奥守という官職まで手に入れたのは、飽くまで奥州藤原氏という地方権力を中央の人間に認めさせるためであった。

 しかし、その子泰衡にはそれが中央への迎合と映っていたのだ。そしてそれを泰衡は自身の貴族化という形で受け継いだ。

 泰衡が蝦夷を見る目は京の貴族たちと同じなのだ。

「お前は蝦夷どもと親しいのだろう」

 黙っている次郎を泰衡は睨みつける。

「だったら連中によく言い聞かせろ。鎌倉の軍勢に押し入られたくなければ死ぬ気で戦えとな」

 言い捨て柵へと去ってゆく。寒空の下一人残された次郎に、誰かがささやきかけた。

「事は簡単だな…」

 はっと辺りを見回したが、側には川が流れ潜むような場所はない。しかし声は不思議と重く響いてくる。

「あの男が全ての災いのもとだ」

「奴為…」

 友の名を呼び、その姿を探したが、周囲には秋雨で色あせた景色が広がるばかりだ。

「あの男の首をくれてやれば…頼朝も満足するんじゃないのか」

 次郎は動きを止めた。

「首を獲られたかといって今更仇討を考える郎従もいないだろう」

「待て…」

「何なら我らが獲ってやってもいい。そのほうが事をややこしくせずに…」

「待て奴為!」

「頼朝は待ってはくれんぞ」

 どおっと冷たい雫を含んだ風が駆け抜ける。

「お前は友であの男はお前の主だが、我らはこの地を戦場にする気はない。お前がやらないのなら我らがやる」

 刃を喉元に突き付けられたように、次郎はとっさに言った。

「儂がやる」

 沈黙が流れた。

「…分かった」

 奴為の満足げな声が響く。

「必要とあらば我らも手を貸すが」

「いや…大丈夫だ」

 答えながら己の言葉に吐き気を催した。主君の首を獲ることの何が大丈夫だというのか。

「任せるが…無茶はするなよ」

 そう言い残し奴為の気配が消えると、とたんに後ろめたさが襲い次郎は狼狽える。

(これが蝦夷のためであり…この地のためであり…ひいては藤原氏のためなのだ)

 砂利を踏みしめながら懸命に言い聞かせる。

(あの方はこの地を治めるに足る器ではない…このまま災厄の種として生かしておくよりは潔く…)

 一瞬、ここで川に石を投げていた泰衡の姿がよみがえり、次郎は喉を詰まらせる。

 どう考えれば、あの命を奪うことが許されるのか分からなかった。



「おっとっと」

 ぬかるんだ道に馬が足をとられる。平泉を出て更に北へ向かうにつれ雨は冷たさを増し、山々は色を失ってゆく。

 誰も口にこそ出さないが、温暖な地から下ってきた鎌倉勢にとって突き刺す寒さのほうが戦よりも余程身に応えた。

「もし泰衡が更に北へ逃げたら…」

 つい愚痴っぽく重忠が呟く。

「儂らは北の果てまでも追い駆けていかねばならないのか」

 隣に馬を並べる和田義盛が前方をゆく頼朝の背を眺め

「殿にとってそれだけの価値がある。泰衡の首は」

 それは自分たち御家人にも言えることだった。焼け落ちた後とはいえ、平泉という都市の豊かさを誰もが今更のように思い知ったのだ。

(藤原氏を滅ぼし…奥州を手に入れれば権威だけでなく富も手にできる)

 いわば朝廷に対する示威行動にすぎなかったこの遠征も、思いの外手にするものは多そうだ。

(もっともうまくいけばの話だが)

 雨に濡れるその背中を、義盛は尚も思慮深げに眺める。

 奥州藤原氏とは源氏の棟梁である頼朝にとって避けては通れない、北に潜む獣なのだ。

 百年前にこれに係わった源義家は国守の地位を奪われ、朝廷での立場も失った。

(北の人間は得体が知れん)

 烏帽子を滴る雫を払いつくづくと義盛は思った。

 長く厳しい冬という過酷な環境に身を置いて暮らしているだけでも、何かしら底知れない力を持っているような、そんな畏怖にも似た思いを抱かせる。

 と、重忠が盛大なくしゃみをした。

「何にせよ早く出てきてもらわないことには…いまなら鎌倉の海に飛び込んだって温泉のようでしょうね」

 義盛は小さく笑う。

 そうだ。ここはたとえ侵しても住む土地ではない。自分たち武士のためにあつらえられた巨大な舞台に過ぎない。

(せいぜい派手に舞うだけのこと)

 かじかんだ手綱を取る手に力を込め、義盛は口元を引き締めた。



 贄柵《にえのさく》にいくつもの篝火がたかれている。

「何の騒ぎだ」

 具足姿の次郎に誰かが言った。はっと振り返ると杉戸の陰に奴為の姿があった。

「何をしているんだ」

 目を逸らす次郎に冷たい声が言い募る。

「戦おうと思う。頼朝軍と」

「…お前は約束を違えぬ男だと思っていたがな」

「聞いてくれ!」次郎は奴為に向き直り

「あの方は…泰衡様は御仏の前で泣いておられたのだ!子供のように…」

 平泉から唯一持ち出した小さな阿弥陀如来像を前にして、声も抑えず床を這うように激しく泣く泰衡の姿に次郎は強い衝撃を受けた。

「あの方は真の悪人ではない!憎むべきは我らの地を侵そうとする頼朝のほうだろう」

 悪いのは泰衡をここまで追い詰めた頼朝という時代の力だ。言わば泰衡も自分たちもその犠牲者なのだ。

「結局…それがお前の結論か」

 ゴトリと床に硬いものが投げ出された。一瞬訝った次郎の全身の毛が逆立つ。小振りな壺ほどのものを包んだ布が赤く染まっていた。

「我らはこの男のために戦うつもりもなければ死ぬつもりもない。この男のために我らの暮らしが脅かされるなら消すまでだ」

 それを直視できない次郎は床をつかみ必死に吐き気を抑える。

「これを頼朝に持っていき降伏の意を伝えろ。冬が近い…連中もこれ以上深追いはしないだろう」

「夷狄めが…」口を押える次郎の指から呻きがもれた。

「蛮夷が!己の暮らしを守るのがそれほど大事か!?恥を知れ!」

 奴為の目が悲しげに細まる。

「お前なら…我らを選んでくれると思っていた」

 音もなく奴為が去った後も、床に這う次郎の嗚咽は続き、その傍らには小さな肉塊と化したかつての主君が転がっていた。



 陣が岡には微妙な空気が流れていた。

 冷たい雨が止み、ささやかな陽射しが枯れた山々を金色に照らしている。

 しかし御家人たちの顔は晴れなかった。

 誰もが余計な闖入者か、あるいは身の程を弁えない愚か者というように、中央に引き据えられた男を眺めている。

 ぱちり、と正面に座る頼朝が扇子を鳴らした。

「河田次郎」

「はっ」次郎が更に頭を低くする。

「平泉代々の郎従だそうだな」

「はっ」

 頼朝は盆に置かれた泰衡の首を見やり

「贄柵とはどういう意味だ」

 次郎は思わず顔を上げた。次郎と同様に物問いたげな御家人たちを尻目に、頼朝は扇子で首を叩きながら

「いや、妙な名だと少し気になってな」

「に、贄柵の由来は」再び頭を下げ次郎が説明する。

「平泉の舘において宴が催される際、熊や鹿、猪などの獣を整える場として造られたのが名の由来です」

「ほう」頼朝の手が止まる。

「なるほど。贄柵の住人が新たな主人に贄を献上しにきたというわけですな」

 梶原の言葉に誰もが薄笑いを浮かべた。

(それで納まってくれればいいが)

 義盛がそう願ったのもやはり早々にこの地を引き揚げたいがためだった。

 そもそも大義名分の乏しかったこの遠征で、肝心の泰衡の首が敵方の人間に獲られるなど、敗北の次に悪い。まして戦らしい戦もろくにしていないのだ。

(存分に舞うこともできず何を朝廷に誇るのだ)

 泰衡の首を獲るという、最も差し出がましいことをしでかした河田次郎という男に、御家人たちは憎悪の念さえ抱いている。

「贄柵…か」頼朝は再び首を打ちながら

「御苦労だった。泰衡の首はたしかに受け取った。お前は柵に帰っていい」

 がばりと次郎が顔を上げ、御家人たちも揃って頼朝を見た。床几に上げた片足に肘をつき、頼朝はじっと泰衡の首を見つめている。

「殿…」

「ん?ああ、褒章のことは追い追いな」

「いえ、そうではなく…」

 言いあぐねて重忠は次郎を睨みつけた。呆然と頼朝を見る次郎の手が、やがてワナワナとぬかるんだ土をつかむ。

 その場にいる誰より素早く、次郎が頼朝の思考を読み取ったのだ。

 既に頼朝の関心は奥州にも泰衡にもない。戦場で充分に舞うことができなかったいま、次はこの泰衡の首を朝廷でどう効果的に使うかに移っている。

「この者の処分をせずともよろしいのですか」

 堪らず常胤が言った。

「処分?」

「この者はこともあろうに主君の首を討ったのです!人としても武士としても許されることではありません!」

 いきりたつ常胤を、そして御家人たちを見回し頼朝はふっと笑った。

「お前たちはそんなことはしないだろう」

「いえ、そうではなく」

 重忠が吹き出し、御家人たちが次々と笑い出した。濡れた枯れ山に響く笑い声に、一人奇妙な笑い声が混じる。河田次郎だった。

「殿だ将軍だと大勢を従えていても…とんだ田舎者の集まりだ」

 ゆっくりと立ち上がった次郎は正面の頼朝を睨みつけた。

「ここにおわすは奥州藤原家四代目頭首藤原泰衡様だ。朝廷でも東北に藤原氏ありと言われ北方の王者と称えられた藤原家頭首の首級を前にして笑うとは何事だ!」

「…貴様!」一瞬次郎の気迫に圧倒された御家人たちは気色ばみ刀をつかむ。それをぱんっと扇子の音が止めた。

 頼朝の切れ長の目が次郎を見据える。

「泰衡の首を獲ったのは本当にお主か」

「無論」

「命乞いが目的ではないのか」

 次郎が不遜に見返す。

「失礼ながら御教示いたすためでございます。藤原家頭首と言えどこの地を戦場にする者は首を獲られると」

「そうか」頼朝はまた微笑み

「お主はこの地を愛しているのだな」

 立ち上がるなり命じた。

「この者の首を斬れ」

「…殿?」

 立ち去ろうとするところへ駆け寄る義盛に、頼朝は扇の陰で声を潜め

「優しそうな男だ…恐らく罪の意識に耐えられまい」

 義盛はちらりと次郎を眺め

「やはり泰衡を討ったのはあの者では…」

「あの頭の傷を見ただろう。背後から執拗に頭ばかりを狙っている。仮にも武士なら首級を傷つけるようなことはしない」

 頼朝がぽんっと肩を叩く。

「もういい。目的は果たした。それにここは寒い」

 そのまま振り返らず頼朝は去ってゆく。その背中から次郎は忘れられたように置かれた泰衡の首を見やる。

 すっかり土気色になったその顔に、ふと白いものが舞い降りた。次郎はゆっくりと天を仰ぐ。

 いつのまにか鉛色になった空から、小さな雪片がひらひらと撒いたように降ってくる。

 次郎の頬を涙がつたった。

 花でも手向けるように、雪は泰衡の首の周りを白く覆ってゆく。

「よう…ござりましたなあ」

 奥州王に相応しい手向けに思えた。

 さっと気紛れな陽の光が辺りに差し、雪が金色に輝く。

(ああ…儂はこの地が好きだ)

 徒士が次郎の肩をつかみ地面に押さえつけ、用意された刀が水で濡らされる。

 地面に落ちては吸い込まれる雪を次郎は見ていた。

 この地に生きる覚悟がない者は、きっと雪が阻むだろう。

 次郎は白く覆われた奥州の山々を想った。その景色はいつまでも途切れることはなく、温かな雪のなかへと、次郎は埋もれていった。



 さらされた後、塩漬けにされた藤原泰衡の首は京都まで運ばれ、更にその後平泉へと返され、父祖たちの遺体とともに納められた。

 譜代の旧恩を忘れ、主人の首を梟した科で斬罪となった河田次郎の首の行方は誰も知らない。



 無人となった贄柵が、深い雪に埋もれている。

 音もなく流れる米代川の川辺から、奴為はその姿を見つめていた。

 贄柵とは、藤原家の治めれど支配せずに蝦夷側が感謝し年に一度献上の品々を用意する場所であり、いわば藤原家と蝦夷の境界線にあたる柵だった。

(これから南の人間がどんどん入ってくる)

 藤原という壁がなくなった以上、自分たちはもっと北へ行かなければならない。

 奴為は冷たさにキリキリと鳴りそうな川の水に手を浸した。この厳しい寒さだけが自分たちの味方だった。

 手を払いもう一度柵を振り返る。雪の重さに耐えきれず、既に歪み始めているようだ。

(お前が死ぬことはなかったんだ)

 歴史という流れのなかで泰衡の首は必要だっただろう。しかし、次郎の首はあってもなくてもいいものだった。

 いうなればこの川に投げ込んでも、何の波紋も起こさない小さな小さな石粒に過ぎない。

 奴為は雪をかき分け柵に近づくと、その塀の扉に一本の矢を突き刺した。大鷲の矢羽根がついた、漆塗りの矢だった。

「お前が最後の…贄になってしまったな」

 もう二度と来ることはないだろうと、柵に背を向けながら奴為は思った。

 飽くことなく振り続ける雪は全てを白く埋めてゆく。

 やがて辺りは一面真っ白に染まり、音までも消え去った。





「都を造ろうと思う」

 背中を向けたまま青年が言った。

 また粉雪が降り始めている。

「この北の地に…京にも負けない都を」

 留為は目を細め平泉の大地を見渡す。雪が景色をぼやけさせ、境界線を曖昧にする。

「儂は京を知らん」

 青年が振り返る。

「儂も知らん」

 相手をまじまじと見た留為は、やがて口を歪め

「好きにしろ。お前がこの地の王だ。清衡」

 ニッと笑った青年の髪に雪の雫が光った。 


 

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― 新着の感想 ―
平泉とは、なんとも渋い。そんな題材に相応しい、渋い語り口で書かれており、秋の夜長にピッタリのお話でした。 戦をさける。それのみが税を納める理由だというのは、領民にとってはそうですよね。 楽しませて頂…
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