第六話 人間の町に着いて
その日の昼下がり。
レティシアとシャパルは馬車のワゴンの中で、荷物と一緒に揺られていた。
シャパルがごそごそと荷物を漁っては果実を取り出して食べる。それをレティシアは一瞥しながらも、咎めることはしなかった。
『積荷の食料は自由に召し上がってもらって構いません』
先ほどレティシアが出会った御者の男――ゲラルトと名乗った商人――は、朗らかな笑顔でそう言った。
レティシアも果実を一つ取り出しては、それに齧り付いた。
「馬車は楽ちんニャ〜。人間は良いモノを作ったニャ」
「……まあ、この数日歩き詰めだったからな。ありがたいことだ」
『フィダス』の村という当てが外れたレティシアは、「よろしければこれから私が向かう町まで送りましょうか?」というゲラルトの申し出を受けることにした。
他に有力な情報を持たない彼女にとって、それはまさに渡りに船だったのだ。
「……『フィダス』村って、教えてくれたのは誰だったかニャ?」
「昔、旅の途中で里に立ち寄ったエルフの話だったそうだ。考えてみれば、実際に彼がその村を訪れたのは三十年以上は前になるな」
「人間は寿命が短いから、それだけあれば村一つなくなっていても不思議はないのかニャ?」
「そういうことなのかもしれないな」
そんな風にレティシアがシャパルと話していると、馬車の速度が少し緩んだ。
「見て下さい。ここが『フィダス』村があった場所ですよ」
御者台からのゲラルトの声に従って、レティシアはワゴンを覆う幌の隙間から外を覗いた。
そこでは朽ちかけた家々を雑草や蔦が覆わんばかりに茂っており、人が住んでいるような気配はなかった。
「もう二十年ほど前になりますか。魔物の群れが森の奥から出てきて、当時住んでいた村人たちはみな森の外へ避難しました。
魔物らは『ガスハイム』の町の守備隊によって粗方退治されましたが、その後、ここに戻って来る者はいなかったそうです。……それっきりですよ」
ゲラルトはそのように語った。
「……そろそろ『ガスハイム』の町に到着します」
それから数刻が経ち、茜色の雲が西に棚引く頃、ゲラルトが荷台のレティシアにまた声を掛けた。
レティシアは荷台の上で立ち上がると、外壁に囲まれた町並みを眺めた。
森の奥で生まれ育った彼女にとって、人々が築き上げた大きな町を目にするのは初めてのことだった。
「……あれが、人間の住む町か」
「エルフはやはり珍しいですから、その耳は隠しておいた方が良いですね」
「そうなのか? ――では、これを使わせてもらおう」
ゲラルトの忠告を聞いたレティシアは、手近にあった布を頭に巻きつけ、頬被りとして使った。
「うん。それなら問題ないでしょう。では、あなたは私の知り合いの娘さんという体で通しますので、合わせて下さいね」
「う、うむ。上手く話せる自信はないが」
「……では、なるべく喋らないで。にこにこと笑顔で座っていてもらえますか? それで大抵は上手く行きますから」
「あ、ああ。それぐらいなら大丈夫だ」
ゲラルトは一瞬だけ残念なものを見るような目つきをしたが、レティシアがそれに気づくことはなかった。
『ガスハイム』の町の西門に辿り着いた一行は、馬車用の門で衛兵と対峙することになった。
「これはゲラルト殿。どなたか、ご一緒で?」
「ええ。『ランスバッハ』の知り合いの娘さんでして。こちらに用があるというので、乗せてきたんですよ」
「左様か」
ゲラルトと顔見知りらしいその衛兵がワゴンの中を覗き込むと、美しい顔立ちの娘が強張った笑顔で彼を見返していた。
「む……」
「――行っても良いですか?」
「あ、あぁ。『ガスハイム』の町へようこそ」
レティシアに目を奪われた様子の衛兵だったが、ゲラルトに問われて我に返った。
そのようなやりとりがありつつも、一行は問題なく『ガスハイム』の町に入ることができた。
町に入って最初に行き着いた広場で、レティシアはシャパルと共に馬車を降りた。
「ありがとう。あなたのおかげで人の住む町の中まで簡単に入ることができた」
レティシアが礼を言うと、ゲラルトは人好きのする笑顔でそれに応える。
「――いえいえ。こちらも商売ですから」
レティシアはその言葉を聞き咎めた。
「商売……だと?」
「ええ」
ゲラルトは穏やかに頷く。
しかし、その後に続く言葉は、レティシアにとって穏やかとは言い難いものだった。
「――それでは、お代を払っていただきましょうか。森からこちらまでの運賃と、積荷の食料の分で、合わせて金貨一枚というところでしょうか」
「な、何っ!?」
レティシアは狼狽した。
寝耳に水を掛けられたような思いだった。
「食料は、自由に食べて良いと――」
彼女が反論の言葉を上げようとすると、ゲラルトは表情から笑みを消した。
「ええ? まさか、ただだとでも思ったんですか? 積荷は全て商品ですよ。食い逃げされたんじゃあ、商売上がったりですよ」
正論だった。
彼は確かに言った。『自由に食べて良い』と。しかし、『ただで』とは言っていなかった。
(……確かに、彼の言う通りだ。単純に好意だと思ったのが間違いだったのか……)
生まれて初めて人里に下りたレティシアは、それがゲラルトの張った罠だったということに未だ気づいていなかった。
当然、物の値段についても無知な彼女は、金貨一枚が妥当な価格かどうかもわからない。
「すまないが、私は人間の扱う貨幣の持ち合わせがそれほどないのだ」
エルフの集落では、人間の扱う貨幣は価値を持たない。
森の中でごく稀に誰かの落とし物として見つかることがあるが、レティシアが集落から持ち出せたのは由来のわからない銀貨や銅貨が数枚程度だった。
「代わりに、これを代価としてもらえないだろうか?」
その代わりにレティシアが背嚢から取り出したのは、何かの液体が詰められた透明な小瓶だ。
それを受け取ったゲラルトは、中身を確かめるようにじっくりと目を凝らす。
「デュースウォームの蜜玉から抽出した蜜液だ。貴重な食材だぞ」
「これが、あの噂の……」
ゲラルトはごくりと喉を鳴らした。
そして、やや考え込むような仕草を見せたが、残念ながら素直に取引に応じてはくれなかった。
「――本物なら、確かに高価な品物でしょうね」
「……私を疑うのか」
「まさか。しかし、鑑定は必要ですね」
手持ちで最も価値があると思った物を受け取ってもらえず、内心で気落ちするレティシアだったが、ゲラルトの言い分は納得の行くものだった。
「鑑定書はお持ちですか?」
レティシアは沈んだ表情で首を横に振った。
「では、やはり手放しで信じるわけには行きませんね。こちらも商売ですので」
「――ならば、どうしろというのだ」
レティシアは出口の見えないやりとりに焦燥を感じていた。
そこで、何かを思いついたらしいゲラルトは、次のように提案してきた。
「そうですね。私の知り合いの店に行きましょうか。そこでなら、あなたがお金を手に入れられる方法が見つかるでしょう」
「……わかった。そこに案内してくれ」
レティシアには、彼に従う以外の対案を思いつくことができなかった。
踵を返したゲラルトは、レティシアに見えないように独りほくそ笑んだ。