挿話 回想:ヴィンデ①
【お知らせ】
ヴィンデの回想を書くにあたって、20話「再会への道のり②」の彼女のセリフを少しだけ修正しています。
「ヴィンデはお利口さんね。もっとわがままを言ってもいいのよ」
幼かった私に向かって、母はよくそう言いました。
病気がちで母に迷惑をかけることが多かった私は、少しでも自分でできることは自分でしようと思い、無理をしない範囲でせめてなるべく多くの家事をこなすようにしていました。
母は冒険者として働いていました。
灰色の髪の母は、いつも「アッシェ」という通り名で呼ばれていたので、ときどき私でさえ本名を忘れそうになるほどです。
「ヴィンデの髪はさらさらね。ずっと触っていたいわ」
母は私の真っ白な髪に触れるのが好きのようで、何かの機会があるたびにすぐに頭を撫でようとしてきました。
なんでも、私が生まれるよりも前に故郷で亡くなったお姉さんに似ているのだそうです。
「家事の邪魔なので切りたい」と私が言うと強硬に反対して、邪魔にならない結び方を教えてくれました。
かつて遥か北方の生まれ故郷を離れた母は、それから二年後に『ケルバー』の町で冒険者の仕事をするようになったそうです。
「お母さんの生まれた村って、どんなところだったの?」
「――その話はまた今度ね」
何度か母の故郷の話を聞き出そうとしてみたのですが、いつもはぐらかしてばかりで、どうやら話したくないようでした。
断片的に聞いた話で覚えていることは、冬はとても寒いということ、大婆様と呼ばれる人がいたこと、亡くなったお姉さん――私にとっては伯母――以外の家族との仲は良くなさそうだった、ということぐらいです。
そして母は十四歳のとき、その村を訪れたあるベテラン冒険者の後を追いかけて、村から飛び出したのだそうです。
話がそちらに及ぶと母は満面の笑みを浮かべて、母が「師匠」と呼ぶその方がいかに豪快で優れた冒険者なのかを熱弁してくれるのです。
「お母さん、その話もう三回目」
「……あら? そうだったかしら」
こんな具合です。
まあ、まだ冒険者としてやっと新人の域を出たぐらいの母に、私たち母娘が暮らしていた家を譲ってくれた方なので、私にとっても大恩人であることは間違いありません。
『ケルバー』の町で暮らしていた頃、私も二、三度ほど実際にお会いしたことがあります。
まるで巌のように筋骨隆々とした方で、初めてお会いしたときには本気で逃げ出したくなりました。……獅子を目前にした鼠とはこのことか、と思いました。
後にあの方が女性だと聞いたときには、開いた口が塞がりませんでした。母はそんな私を見て、けらけらと笑っていました。
そんな御方に導かれて冒険者になった母は、『ケルバー』の町で仕事を始めて一年ほど経った頃に私を身ごもりました。当時、よくパーティーを組んで仕事をしていたある男性冒険者との間で、男女の関係の一線を越えてしまったそうです。
私は父親にあたるその人の顔を、生まれてから一度も見たことがありません。
「いい、ヴィンデ。男なんて信用しちゃ駄目よ。言い寄って来る男が居たら、だいたいは体目当てだと思った方がいいわ」
父にあたる人は、身重の母を置いて浮気をした挙げ句に、どこかへ去ってしまったようです。
私はその話を聞いて強い憤りを感じたのですが、母は反対にさばさばとしていて、十年も経てば熱が冷めきってしまったようでした。
「……ヴィンデはいい子。ウチの子になる?」
「ヘルガさんが家の子になればいいと思いますよ?」
「……む。それも魅力的。……悩む」
母は人付き合いが少ない方だったと思いますが、長年、冒険者として共に仕事をしていたヘルガさんのことは深く信頼しているようでした。
ヘルガさんは仕事帰りに私と母の住む家に立ち寄ることがよくあり、私も母も彼女を歓迎したものです。
「ちょっと。私のヴィンデに手を出さないでよね」
「それは無理。このさらさらはパーティーで分かち合うべき」
据わった目で睨んでくる母に対し、ヘルガさんは私を後ろから抱き締めて盾にするのでした。
母とヘルガさんはまるで無二の親友のようで、私の目にはそんな二人の関係がきらきらと輝いて映りました。
「私に何かあったら、ヘルガを頼りなさい」
母はよく私にそう言いました。
私は十四歳になっても、家事をしながら一日のほとんどの時間を家の中で過ごしていました。
一度は仕事に就こうと、服飾店や飲食店の下働きができないか試みたのですが、どこも体が弱い私には務められないようでした。
「無理しなくていいのよ。家のことだけでもやってもらって助かってるわ」
母はそう言ってくれましたが、その母もいつまでも働けるわけではありません。特に、冒険者は体が資本ですから、何かの事故で働けなくなるリスクは常にあります。
「お母さん。私、領都に行ってみたい」
私は、そのとき生まれて初めて、母にわがままを言いました。
――領都に行けば、仕事が見つかるかもしれない。
その頃、行きつけだった食料品店の店主の方が言うには、領都では読み書きや計算ができれば、仕事に困ることはないのだそうです。領都では『ケルバー』の町の何倍もの人が暮らしており、そうした需要には事欠かないと言っていました。
私のわがままに対して最初は渋い顔をしていた母ですが、領都には職業学校などもあって、役人や専門的な仕事に就けるチャンスもあることを話すと、真剣に考えてくれるようになりました。
「……今すぐは無理だけど、お金が貯まったら、考えてみましょうか」
「お母さん、ありがとう!」
私は母に抱きついて感謝を伝えました。
私の日常生活の中に、家事の他に読み書きと計算の練習が加わってから、数ヶ月が経ちました。
――そして、あの夜を迎えたのです。
その晩、母は家に帰って来ませんでした。
それ自体は、特に珍しいことではありませんでした。冒険者の仕事は泊りがけになることもあるようですし、仕事が予定通りに進まないこともまた、よくあることのようでしたので。
ただ、妙な胸騒ぎのようなものを感じながら、私は家の出入り口にしっかりと鍵を掛け、眠りに就きました。
――ガチャガチャガチャ!
深夜、突然そんな音が耳に入り、私はぱちりと目を覚ましました。
音は家の玄関の方から聴こえてきました。母ならば、そんな風に音を立てるはずがありません。
私は素足のままベッドから降りると、静かに玄関の方へ忍び寄り、耳を澄ませました。
「……何やってるんだよ。早くしろ……」
「……ぶっ壊しちまった方が早くねえか……?」
聴こえてきたのは、そんな男達の話し声です。
私は思わず身を固くしました。
私は最初、単に盗人が家に押し入ろうとしているのかと思いました。
ああ、それだけの話だったなら、どんなに良かったことでしょう。
聞き耳を立てていた私は、そのままある男の言葉を聴くことになりました。
「アッシェのやつ、ヘマをしやがったぜぃ」
母の通り名を呼ぶその男の声は、蛙が潰れたような特徴的なものでした。
私はその男の声に聴き覚えがありました。
確か、以前に酒場で母に難癖をつけようとして、店に出入り禁止を食らっていた冒険者の男が、そんな声の持ち主でした。
その男の発した言葉が、今でも耳にこびりついているかのようです。
「あいつが死んだ今となっちゃ、この家も、あの真っ白な娘も俺たちのモンだぜぃ」
それを聞いた瞬間、私は自分が世界から切り離されてしまったかのように感じました。
げらげらと笑う男達の話し声や、がちゃがちゃと鳴るドアの音が、その時はどこか遠い別世界の出来事のようでした。
――お母さんが、死んじゃった……?
それは私にとって、世界の終わりそのものでした。
私の心は、とてもそれが事実だとは受け入れられませんでした。
そのままどのくらいの間、自分が放心していたのかはわかりません。
幸い、私は男達が玄関のドアと格闘している間に正気を取り戻すことができました。
その次に私の心に強く湧き上がってきたのは、「逃げなければ」という思いでした。
『――もしも私がいない間に物盗りが家に押し入って来たら、身を守る物以外は何も持たずに、とにかく逃げなさい』
記憶の中にあった母の言いつけと、母の死を告げた男を遠ざけたい気持ちが合わさって、私は玄関から離れました。
靴紐を結び、一振りのナイフを握り締めて、裏口からそっと家を抜け出したのでした。
町は暗く寝静まっていました。
月明かりだけを頼りに、私は当て所なく町をさまよい歩きました。
母がいない時に頼る場所として教えられていたのは、まず冒険者ギルドの事務所。次に教会でした。
もちろん、どちらも門を閉ざし、灯りを落としていました。
今思えば、町の衛兵に頼るという選択肢もあった気がします。ただ、母は『ケルバー』の町の衛兵とは相性が悪かったのか、彼女の教えの中にその選択肢は含まれていませんでした。
私は誰かの足音や話し声が聴こえる度に、物陰に身を潜めてやり過ごしました。
「……ガキはいたか?」
「……いや、こっちにはいねえ」
深夜の町中を行き交う男達は、誰かを探し回っていました。
おそらく、それは私だったのでしょう。
私は見通しの良い通りを歩くことを避け、乞食のように路地をとぼとぼと歩きました。
「お母さん……」
心細くなった私の口から、母を求める声が漏れました。
もちろん、応える者などありません。
「うっ……」
ふと息苦しさを感じ、私は道端で蹲りました。
持病の発作が出そうになっていました。
薄着で外に出たので、寒気に当てられてしまったのかもしれません。
こうなってはもう、どうしようもありません。
――どうか、誰にも見つかりませんように。
私は発作をこらえながら、そう祈りました。
そのときのことです。
――ポン、と私の肩に誰かの手が置かれました。
私が驚いて振り返ると、そこには端正な顔つきの、耳の長い若い男性が立っていました。
――エルフ。
彼がそう呼ばれる存在であることは明らかでした。
私がエルフに出会ったのは、そのときが初めてでした。
彼が男性だったこともあり、私は懐の中のナイフを強く握り締め、警戒しながら彼の顔を見上げていました。
彼が私を追う男達の仲間かはわかりません。しかし、私を害しない保障もありませんでした。
そんな風に緊張していた私に、彼は次のように訊ねました。
「大丈夫かい? 見たところ具合が悪いようだけど、こんな夜遅くに独りきりでどうしたんだい?」
その優しい声音を聞いて、私はナイフを握る手の力を緩めました。
彼は明らかに、私を心配してくれていました。
少なくとも、悪漢の仲間ということはないでしょう。
私は口を開き、しかし発作の影響で声が上手く出せずに、パクパクと魚のように口を動かしてしまいました。
「……よかったら、お家まで送ろうか?」
私の様子を見かねてか、エルフの青年はそんな提案をしてくれました。
その申し出には、純粋な好意以外、感じられませんでした。
私はふるふると首を左右に振りながらも、この降って湧いた救世主のような青年に縋りつきたい衝動に駆られました。
そのときの私には、他に頼りにできるものが何もなかったのです。
「た……助けて、ください」
私は振り絞るようにして声を出し、ふらふらと手を伸ばして、差し伸べられた彼の手を掴みました。
果たして彼はその手を振り払うことなく、親身になって訊いてくれました。
「――何かあったの?」
月明かりに照らされるエルフの青年の瞳は、よく晴れた日の青空と同じ色をしているようでした。