第二四話 月に想う
「行ったか……」
と、呟いたのは紫髪の魔女、キュルケだ。
『ゼーハム』の町の片隅に建てられた白い家の前には、彼女を含む三人の男女と一人の幼子が立っていた。
彼女達はつい先程、慌ただしく帰郷の途に就くことを決めたレティシアの見送りを済ませたところだ。
キュルケの呟きを耳にしてかどうかはともかく、レティシアとの別れを最も惜しんでいたエルフの男――ノアは、この出逢ったばかりの魔女の方に向き直った。
ノアはやや畏まった態度で彼女に訊ねる。
「――キュルケさん。あなたはこれからどうされるんですか?」
問われた魔女はわずかに眉を顰めた。
「キュルケ、でよいぞ。堅苦しいのは苦手じゃ」
「……わかったよ」
ノアは彼女の言葉を受けて、態度を軟化させた。
キュルケは改めて、元々の彼の質問に答える。
「――妾としては、すぐにでもそこらでお主と魔法比べをした上で、魔法について討論を交わしたいところじゃが――その前に茶を一杯、馳走になるのも吝かではない」
そのストレートな物言いに、ノアは思わず顔を綻ばせる。
「じゃあ、キュルケ。まずはお茶をご馳走するよ。――みんなも、中に戻ろう」
「うむ」
「はい」
「おうちにかえる〜」
ノアに促され、頷くキュルケに続いて、ノアの妻子であるヴィンデとフェリクスも動き出す。
一同は白い家の玄関を通って、屋内へと入っていく。
その過程で、キュルケは前を歩く白い髪の女性――ヴィンデの病状を観察していた。
(持って、せいぜいあと十日といったところか……)
魔法に長けたキュルケは、魔法の源となる生命エネルギー――〈プラーナ〉――を感知する術にも長けている。
昨夜、『黄金の隼亭』を訪ねて来たヴィンデを一目見た時点で、キュルケには彼女の残りの生が長くないことが察せられた。
普通の人間やエルフの〈プラーナ〉は、きれいな卵のような形状の外殻に詰まった物――キュルケはそのようなイメージで認識している。一方のヴィンデの〈プラーナ〉は、まるで穴の空いたバケツに注がれた水のように、外殻から止め処なく漏出しているようだった。
〈プラーナ〉に対する知覚を閉じれば、一見しただけではヴィンデは健康な人間と変わらない。しかし、それが見せかけだけだということは、キュルケにとっては火を見るより明らかなことだった。
(……〝不死の秘術〟は使えんな。元より、使う気もないが)
キュルケの肉体を不老不死のものとした秘儀。キュルケ自身、それを修めてはいるが、彼女はそれを他の誰かに施すことはしないと決めている。終わりのない人生で数々の苦難や別れを経験してきた彼女は、誰かを同じ目に遭わせたくはなかった。
また、その秘儀を実行するためには竜の生き血や希少な鉱石といった様々な素材に加え、数ヶ月に及ぶ儀式魔法の準備が必要だ。更に、対象者にも高い能力が求められる。それらの条件をヴィンデの寿命が尽きるまでに整えることは、現時点で既に不可能だった。
(手詰まり、か……)
暗澹たる気持ちを胸中に秘めつつ、キュルケはノアの家の門戸を潜った。
「――何か、気になることでも?」
最後尾からキュルケの後を追っていたノアが、玄関の戸を後ろ手で閉じながら、思案げな様子の彼女に問いを投げ掛けた。
「いや、なに――」
不意の質問に対して一瞬、どう誤魔化そうかとキュルケは逡巡した。
――だがここで、彼女の胸の裡で、ちょっとした悪戯心と好奇心とがむくりと顔をもたげた。
次に彼女が口にしたのは、こんな言葉だ。
「――お主、妾が不老不死の存在だと言ったら、どう思う?」
「……!」
質問を返されたノアは、その瞬間ぴたりと動きを止め、次の瞬間には口を引き結んで表情を真剣なものに変えた。
ややあって、ノアはこう答える。
「……その話、詳しく聞かせてもらいたいな」
キュルケはその答えに満足し、にやりと口角を上げた。
――後日、この時の会話を思い返したキュルケはこう語る。
「……いやはや、身から出た錆ではあるが、妾の一言がきっかけであんなことになろうとは、全く想像だにつかんかったわい」
*
同日の夜。
『ブロセリアンド大森林』を目指して走っていたレティシアは、道中のとある町の宿屋に逗留していた。
既に夜は更けていたが、レティシアは未だ寝床に就いてはいなかった。その代わりに、宿屋の屋根の上に腰を下ろし、独りきりで円い月を見上げていた。
レティシアが青白い満月を見つめていると、ふとその円いキャンバスの上に一人の女性の顔が描かれる。レティシアが『ゼーハム』の町で出逢った、髪まで白い色白の女性だ。
儚いながらもどこか芯を感じさせる彼女の表情を目にして、レティシアの心の海に波が立つ。
「どうして……」
波にあおられ、レティシアの口から言葉が漏れ出る。
レティシアの胸中に生じたさざめきは、次第に大きく、大きくなっていく。
「どうして、こんなに心が掻き乱されるんだ……」
雪の花びらのような彼女は勝ち誇るでもなく、蔑むでもなく、ただ、どこか眩しい物を目にしたときのように、わずかに目を細めてレティシアを真っ直ぐに見つめていた。
彼女が何かを語ることはない。
すると、白い彼女の姿が煙のように消え失せ、代わってキャンバスに描かれたのは、故郷でレティシアの帰りを待つ銀髪の女エルフの顔だった。
「フラウ……」
懐かしさが込み上げ、レティシアは彼女の愛称を呼んだ。
幼馴染の銀髪のエルフは呆れたように手を額に当て、やれやれと首を振った。
そして、言う。
『だから、言ったじゃない。あなたは、昔からノアに首ったけなんだって』
「…………」
レティシアには、返す言葉がなかった。
「ノア、か……」
そう、ノアだ。
ノアなのだ。
『――私がいなくなった後、夫のことをあなたにお願いしたいのです』
レティシアは、再びヴィンデの言葉を思い出す。
『サン・ルトゥールの里』に帰って、エルフの長老達にノアとこの五年間の旅についての報告を済ませたならば、彼女の願いに対する答えを出さなければならない。
だからもう、レティシアには、変わり者の幼馴染に対する尊敬と友情に留まらない自分自身の感情を誤魔化し続けることはできなかった。
〝このままずっと、ノアと一緒にいられたら――〟
――『サン・ルトゥールの里』で当たり前のように一緒の時間を過ごす内に、そんな漠然とした願いを持つようになったのは、いつからだっただろうか。
――ノアが自分に何も言わずに里を出たとき、どうして私の心はあんなに深く傷つき、裏切られたような、見捨てられたような悲しい気持ちの沼に沈んでしまったのか。
〝――今、この場にノアが居てくれたら、……〟
――この五年間の旅路の中で、何度そう思ったことだろうか。
それはノアが優れた魔法使いで、レティシアの眼前に立ちはだかっていた問題を解決し得る能力を持っているから、というだけではなかった。
『……あら。エルフの方ですか? 夫を訪ねていらっしゃったのでしょうか?』
『ママ、そのひとだぁれ?』
『フェリィ、こっちに来ちゃダメって言ったでしょう』
――彼女を、その子供を見たとき、胸の奥で燻った感情は何だったのか。
ノア、ヴィンデ、そしてフェリクス。
レティシアは、昨日の昼下がりの束の間、三人が一同に会していた時の光景を思い浮かべる。
それはまるで、完成された一幅の絵画のようで――。
レティシアはハッとした。
そのとき初めて、彼女は気づいた。自分の感情が一般に何と呼ばれ得るものであるか。
「――羨んでいたのか、私は……」
その感情は「嫉妬」と呼ばれるものだった。
連鎖的に、レティシアがノア自身に対して抱く感情も導き出される。
『ほれ、その想い人のことを強く思い浮かべるのじゃ』
『――お、想い人などでは……!』
数日前のキュルケとのやりとりを思い出し、レティシアは頬を緩める。
「ノアは、私の想い人」
それは真実だった。
レティシアはここへ来て漸く、自分の想いを自覚した。
それは、今に始まった想いではなかった。
レティシアは記憶を遡る。
里を出てからの五年間。
その前の、里でノアと共に過ごした三十年間。
そして彼女は、もう一つのことに気づく。
「私はずっと昔から、あいつに惹かれていたんだな」
――もしかしたら、共にレイスを倒したあの時からかもしれない――レティシアは、そう思った。
『だから、五年もかけてこちらまでいらしたんでしょう?』
レティシアはまた、ヴィンデの別の言葉を思い出した。
今のレティシアなら、「そうだ」と胸を張って応えられるかもしれない。
その問いを発したヴィンデはもう、余命いくばくもないという。
レティシアは改めて、彼女が懇願した件について考えを巡らす。
――答えは、すぐに出た。
「私は、ノアと添い遂げたい、と思っている……」
エルフの集落の里長になることと、ノアと夫婦の関係になること。
レティシアにとって、その二つを両立させるのは難しいかもしれない。
しかし、答えを出したレティシアには、ノアのことを諦めるつもりは毛頭なかった。
(だが、そのためには――)
レティシアは、ノアとの婚姻の前に立ちはだかる、ある大きな問題に気がついた。
(――そのためには、私はノアに求婚しなくてはならないではないか!)
その問題を認識したとき、レティシアの顔は、羞恥で真っ赤に染まっていた。
三十年来の幼馴染(既婚かつ子持ち)に今更どんな顔をして結婚を迫れば良いのか、レティシアにはさっぱり思いつかなかった。
(帰ったら両親に――いや、それはまずいか……。まずはフラヴィに相談しよう)
結論を出した以上、レティシアにはそれを避けて通るという選択肢は存在しない。
――何十年も自分自身でさえ気づかなかった自分の慕情について、ノアが知る由などないのだから。
レティシアはふと、そんな男女の問題に頭を悩ませる自分の姿が周囲にどう映るかを想像して、滑稽さを感じた。――ほんの少し前までは、こんなことで悩むことになるとは思いもしなかったというのに。
「浅ましい女だな、私は……」
つい、自嘲の言葉がレティシアの口を突いて出た。
『――だから、言ったじゃない』
そう言って、月が笑ったような気がした。
**
同日。『サン・ルトゥールの里』にて。
集落の中には、罪を犯した者を一時的に閉じ込めるために、地下を掘って造られた収容施設がある。
フラヴィは二名のエルフを引き連れて、その施設の通路を歩いていた。
ある独房の前で、彼女を含む三名は足を止めた。
「……食事をお持ちしました」
「ああ、入ると良い」
フラヴィが声を掛けると、中から嗄れた老人の声がする。
フラヴィは二名のエルフをその場に残し、食事を持って単身で房内に足を進めた。
「どうぞ」
「……ありがたい。頂こう」
フラヴィが食事を差し出すと、老人はゆっくりと手を動かしてそれを受け取る。
老人の顔色は悪い。
ここ二〇日余りの独房生活で、次第にやつれてきたようだ。
「……里長に不自由を強いてしまい、申し訳ありません」
フラヴィが、外の二名のエルフに聞かれないように小声で囁く。
老人――レティシアの祖父、モルガン=サルトゥールは彼女の謝罪を聞いて目を瞬かせた。
「……儂は今や里長の座を追われた身。君は、自分自身のことを考えなさい」
「はい」
モルガンの言葉には少々、迂闊な発言を窘めるような響きがあった。
フラヴィは彼の言葉を忠告と受け止め、頷いた。
モルガンが再び口を開く。
「……ところで、レティシアはまだ帰って来てはおらんかね……?」
「ええ。まだ、何の音沙汰も……」
「そうか……」
それきり、房内の会話は途絶え、後にはモルガンの食事の音だけが聞こえた。
(――レティ。お願いだから、どうか今だけは帰って来ないで……)
その間にフラヴィが思い浮かべたのは、どこに居るとも知れない幼馴染への、届くはずもない願いだった。