第十五話 追走劇、再び①
レティシアがイザベラと別れてから、ほぼ丸一日が経った。
彼女は『ブロセリアンド大森林』の東の外縁に近い位置を南下し、川を越えて『ベラウ』の町を目指した。森の外へと続く林道に入ってから、栗毛の牡馬――エッツィロに騎乗して速度を上げた。
そして森を抜け、なだらかな丘陵地帯に入ってしばらく経った頃、――襲撃を受けた。
レティシアの鋭敏な聴覚が、何かが空を切るような音を捉えた次の瞬間、彼女の目前に荒縄で編まれた大網が迫っていた。
「――何っ!?」
――しまった、と彼女が思った時にはもう遅かった。
レティシアは咄嗟に風の刃を放ったが、頑丈なその網を破ることは叶わなかった。
――ヒヒィィンッッ
エッツィロが前脚を上げて大きく嘶く。
レティシアは牡馬もろとも、大網に絡め取られてしまった。
「ぐっ、硬い……ッ!」
レティシアは短剣に魔力を纏わせて、なんとか人が一人通れるだけの穴を開けることができたが、その時には兵士達が四方を取り囲んでいた。
「ま、まずいニャっ!」
シャパルが小声で危機を訴える。
「行き先を読まれていたのか!?」
追手に自分の進路を読まれていたことに驚愕するレティシアだったが、深く考える余裕はなかった。
「掛かれっ‼」
騎士の号令を受け、兵士らが前後左右から槍を構えて迫って来る。
網から抜け出したレティシアはやむなく、上空へ飛んでその場を脱した。
「弓隊、撃てっ‼」
十を越える数の矢が空中で身動きの取れないレティシア目がけて飛来する。
「痛っ……!」
「レティシアッ!」
苦痛の声を上げるレティシアの胸の中で、シャパルが悲鳴のような声を上げる。
レティシアは急ぎ風の結界を張ったが、間に合わずに数本の矢が体を掠め、内一本が右肩に刺さっていた。
(――エッツィロ、すまない‼)
既に退路は絶たれていた。
レティシアは二昼夜を共にした牡馬を置いて行くことに心の中で謝りながら、兵士達の囲みを越えて、『ベラウ』の町の方角へ向かって疾走した。
「逃がすな‼ 追えっ‼」
馬上の騎士に率いられ、兵士らの一団がレティシアを追う。
風を纏ったレティシアが彼らを引き離して向かった先は、地面が泥濘みと化した湿地帯となっていた。
(……ここは足を取られるな)
泥濘みの上で苦心して足を運びながら、レティシアが〈飛行〉か〈空歩〉の魔法を使うべきかと思案していたその時、彼女の前に立ち塞がる人影があった。
「――よう、リターンマッチと行こうじゃねぇか」
そこには、片手で剣を担いだ獅子面の騎士の姿があった。
「あの時の騎士か……」
レティシアの右の指先からぽたりと赤い雫が落ちた。
「ここまでは狙い通りだな」
作戦通りに事態が進行している様子を見守り、騎士トビアスは内心で胸を撫で下ろしていた。
騎馬に乗った彼は、待ち伏せの後に兵士らと共にレティシアを追っていたが、自身は湿地帯の手前で転進して丘を上った。そして、同僚である騎士レオンハルトと、標的の女エルフの交錯を見下ろしていた。
二日前の深夜、トビアスはレオンハルトと共に『ガスハイム』町で代官補佐のマルティンに面会し、女エルフの捕縛に失敗したことを報告した。その後、彼ら二人はマルティンから彼女を捕らえよという特別任務を与えられた。
リベンジに燃えるレオンハルトはそれを受けて気炎を上げていたが、トビアスは予定になかった特別任務に頭を痛めた。
任務を早く片付けたいトビアスは、情報屋を使って『夜蝶の館』から女エルフの脱出を手伝った女性従業員――イザベラの情報を洗い、網を張った。
そして、まんまと捕らえた彼女から女エルフの行先の情報を引き出したのである。
「レオンハルト殿はあのエルフに勝てますかな」
随伴していた黒いローブ姿の男が問い掛けるように言った。
この男は、トビアスの要請によってこの追撃部隊に加わった、ザルツラント辺境伯家に仕える魔術師の一人だ。トビアスは、魔法に長けたエルフに対抗するには魔術師の力が必要だと考えた。
先の待ち伏せがレティシアに察知されないように、兵士らに隠蔽の魔法を掛けていたのは彼である。
トビアスは、感情を悟らせない表情で魔術師の問い掛けに答える。
「なに、ここで倒す必要はない。休ませずに追い立て続け、十分に弱らせたところを捕らえれば良いのだ」
*
「こら、待てっ! 俺と勝負しやがれっ‼」
「……しつこい男だ」
レティシアは肩で息をしながら、泥沼の上を滑るように飛んでいた。
彼女は、騎士レオンハルトと交戦しながらなんとか〈飛行〉の魔法を発動し、湿地から腰の位置程度の高さで浮かび上がって移動していた。
レオンハルトは泥濘みを物ともせずに、人間離れした脚力でレティシアに追い縋る。
しかし、さすがに空を飛ぶ彼女には追いつけず、次第に両者の距離は離れていった。
レティシアは空を飛びながら左手で脇腹を押さえ、痛みに顔を顰めた。
(――折れては、いないか……)
間断なく鋭い痛みを放っているのは、つい今ほどレオンハルトと交戦して彼の蹴りを受けた箇所だ。折れてこそいないが、肋骨には罅が入っていることだろう。
(……せめて、この湿地を抜けるまでは〈飛行〉を維持しなければ)
レティシアは痛みに耐えながら魔法の維持に集中した。彼女は獅子面の騎士を引き離す一方で、自身の魔力が急速に減っていくのを感じていた。
〈飛行〉という魔法は高速で移動するには最適な魔法だが、著しく燃費が悪いという欠点があった。そのため、無闇矢鱈と使えるものではなく、魔力に余裕が無いときには利用を控えるべきものだ。
とはいえ、この湿地の中で膂力に長けたあの騎士と戦うのは避けるべきだ、とレティシアは判断した。
そして、ようやく乾いた地面が目に入った頃、レティシアの眼前には新たな敵の影が立ちはだかっていた。
「騎馬隊か……」
「ど、どうするニャ?」
湿地の先で待ち構えていた馬上の兵士達は、一様に弓を構え、きりきりとレティシアに向けて狙いを定めていた。
それはトビアスがレティシアの進路を予見し、事前に伏せておいた弓騎兵の分隊だった。
「構えっ! 撃てっ‼」
指揮官の号令に従い、騎兵らが一斉に矢を放つ。
「――押し通る‼」
一方のレティシアは、湿地の終端で〈飛行〉を解除することなく、そのままの勢いで騎兵の分隊に突撃した。
騎兵らが放つ矢はレティシアが纏った〈飛行〉による風に阻まれ、彼女を避けるように後方に逸れていった。
「ぐわあぁっっ‼」
一人の騎兵が弾丸のごときレティシアの体当たりを正面から喰らい、馬上から弾き飛ばされた。
レティシアはそこで初めて〈飛行〉の魔法を解除し、そのまま騎手を失った黒毛の馬に跨った。
「せいっ!」
黒馬が棹立ちになって激しく嘶くが、レティシアは巧みな手綱捌きでバランスを取ると、両脚を締めて馬の動きを制御する。
わずかな時間で黒馬の制御を掴んだレティシアは、そのまま『ベラウ』の町の方角へ馬首を向ける。
「馬が奪われたぞ‼」
「いかんっ!! ここで仕留めるのだ!」
騎兵らの叫びに入り交じってパラパラと矢が舞い、黒馬とレティシアを襲う。
レティシアは再び風の魔法を発動したが、その前に一、二本の矢が黒馬の背に突き刺さっていた。
それでも、風の補助を得た黒馬はレティシアを乗せたまま、弓騎兵の隊との距離を開けていった。
「すまないが、このまま『ベラウ』の町まで駆けてくれ」
「……仕方ないにゃあ」
レティシアが馬の首筋を撫でながら囁くと、彼女の胸から顔を出したシャパルが、馬の代わりにおどけて返事をする。
黒馬はブルルッと鼻息を荒く鳴らして、街道を駆け続けた。
しかし、レティシアがこの後、『ベラウ』の町に辿り着くことはなかった。