4話 ~激怒~
「あ、あ………」
突如として豹変した倫理の恐ろしさにユウキは声が出せない。しかし現実は待ってはくれない。あまりの驚きにすべてを忘れていたユウキだったが目の端に映った動きですぐに思い出した。思い出してすぐに動こうとしたが体が硬直して上手く動けないことに気が付いた。
「ンジュッ!」
動揺するユウキとは違ってその魔物は何の影響も無いか、あるいは逆にチャンスだと思ったようで一瞬にして距離を詰めた。その黄色の目玉は殺意があふれている。ああ、この魔物は絶対に人間を殺すことを楽しんでいると思う。ただ腹が減ったから喰う、生きるために喰うのとは全く違うものを感じる。興奮、喜び、そう言ったものを感じ取ってしまう。
まるで人間、だからこそ恐ろしい。そして悪意を固めてできた腕を倫理に向けて叩きつけた。鎌のような黒い物質が空気を切り裂く音と共に襲い掛かる。
「倫理さん!」
死んだ。
ユウキの脳みそは一瞬でそう判断した。躱してほしい、その思いは届かず魔物の餌食となった人間は微動だにせずその一撃を腹で受けた。
その結果、倫理は雪を巻き上げながらものすごい勢いで夜の霊山を吹き飛ばされて行き、硬そうな氷の塊にぶつかり、爆発したかのような音があがった。鎌のような腕は鋭いだけではなく、想像以上のエネルギーを持っている何よりの証拠だった。
「ンジュ!」
倫理に気を取られたユウキがそれでもなんとか左に飛び退いたほんの僅か後に、その場所に再び黒い腕ふるわれた。しかし今度は空を切っただけだった。ほっと息をする暇もなく次なる攻撃に備える。
食人アフライ触れられてはいけない、冒険者ギルドで何度も聞いた話が頭をよぎる。あの腕はただ単に鋭利な刃物としての武器ではない。もっともっと恐ろしい力を秘めているのだ。あらかじめ伝えておけばよかったと後悔する。きっと倫理は目の前にいる魔物の恐ろしさを知らなかったに違いない。あるいは知っていて恐ろしすぎて身動き一つとれなかったか。
恐怖に体が硬直するより前に倫理の元へ走った。そんなことをしたところで意味は無い、心の奥底では声がする。食人アフライのあの鎌のような腕で切り裂かれてしまっては、普通の傷薬など何の効果も無いのだ。だから触れられてはいけないのだ、勝てる勝てないの話ではない。どうしても戦わなくてはならないのなら無傷で勝利しなくてはならない相手なのだ。
心の奥底では逃げろと叫ぶ。
そんな訳のわからない他人の事なんか放っておけ、どうせそいつはもう助かりっこない。お前も見ただろうあの吹っ飛び方を、普通の人間なら完璧におしゃかになってるさ。お前が言ったところで何ができるって言うんだ、あいつが死んでくれたのはむしろ好都合だ。
死体は食人アフライにくれてやればいい。お前より体の大きなあの男の死体が一つあれば十分腹は膨れるだろう、きっとあの化物だって満足してお前を襲ってこないさ。
逃げろ。
「ちょっといい人間かもしれないと思ってみればこの侮辱!ふざけやがって糞餓鬼が!!」
自分自身の内側から聞こえてくる声がする。
倫理の怒り狂った声がする。
様々な思考がいっきり湧き上がって来る。しかしそれにとらわれることなくユウキは一直線に突き進む。今はじっくりと物を考えるべき時じゃない、一刻も早く余計な一切を捨て行動すべき時だ。
スキル「銀色の狼」は深い積雪など無いもののようにして、力強いストライドでユウキの思った通りに体を動かす。そのスピードはこの霊山で生きている食人アフライよりも早い。
「倫理さん、大丈夫ですか………」
首から下の皮膚が赤黒い全裸の男が、何事も無かったかのようにすっと立ち上がった。
「お前………」
背筋が寒くなった。
つい今しがた強烈な一撃を受けた人間とは思えないほどその声は静か。そのあまりにも異常な男の視線の一直線、その意志は自分一人に対して向けられていると感じた。まるで恐ろしい化け物から攻撃を受けたことなど忘れてしまったような態度だった。
なぜ?
予想していた状況と違いすぎてユウキの頭はついてこない。何を怒られているのか全く理解できなかった。食人アフライはベテランの冒険者ですら恐れる危険な魔物、自分が囮になるから逃げてくれと言った、自分が犠牲になることを覚悟しての言葉がなぜこんなにも怒られるユウキは理解できなかった。
「ンギュウウウ!」
走って来る食人アフライ。一度攻撃を当てて弱った獲物をしとめようとしているのだろう。逃げるべき。しかしユウキにとっては迫りくる魔物よりも目の前にいる人間の方から目が離せなかった。
当然のごとく人を喰う化け物は止まらない。恐ろしい鎌のような腕が再び振り下ろされるのを見てユウキはとっさに後方へ避けてしまう。そしてその後ですぐに自分の取った選択肢が間違いで会ったことを悟った。
自分の身の安全だけを考えた行動だった。変だけどもどこか気になる全裸の男。助けてあげよう、守ってあげよう、そう思っていたはずなのにいざ恐ろしい一撃の気配を、氏の気配を感じ取った瞬間にそんなことなど忘れて、とっさに自分の身を守ることの行動に動いてしまった。
倫理は動かない。
恐ろしい表情で自分を見据えたままでその場に立ち尽くしていた。迫りくる魔物にはまるで気が付いていないような態度だった。あっ、という声だけが出た。再び弾け飛んで行った倫理。
「ンギュギュギュ!」
満足そうに飛んで行った馬鹿な獲物の行く末を一瞬だけ見た後で、今度は残ったもう一人の得物に対しての連続攻撃。
嗤っている。
その醜い口から溢れ出る声は怒声でもなく気合でも無く嗤い。弛緩した高音の声。追い詰められた生きものの声では決してない。自分が勝つことを確信した余裕の声だった。初めて会った魔物ではあるがその顔と声の質で何を考えているのかは想像できた。
自分たちは舐められているのだ。
心の中にいる黒い自分は倫理の死体が一つあれば見逃してくれるかもしれないと言っていたが、どうやらそうではないらしい。倫理の元へ駆けつけるか一瞬迷って最初の攻撃こそ危うく当たりそうになったが、その次からは余裕をもって躱すことが出来た。たしかに速い攻撃だが想像以上ではない。スキル「銀色の狼」は十分に相手の速度を上回っている。
躱しながら考える。
果たして自分は何のためにあの不思議な男の元に駆け寄ろうとしているのか。いざとなれば自分の身の安全ばかりを考えて助けることもしないくせに。怪我を治すこともできないくせに。なぜ駆け寄ろうとするのか。ただの自己満足、偽物の正義感、ただ自分がいい人間でありたいためだけの行動なんじゃないか、ゆっくりと流れていく景色の中でユウキは自問自答する。
「何軽々と避けてくれてだよ小僧」
ざらざらする耳障りな声が聞こえてきてユウキは一瞬動きを止めた。
「ンギュウゥウ!」
再び始まった連続攻撃を躱す。今確かに食人アフライから人間の声が聞こえた。なん十本もの黒い指が動いているような口からあの声が出たのだろうか、いや違う。ユウキは恐ろしい魔物の腹に浮き出ている人間の顔を注視した。
「喰わせろよ、喰わせてくれよ小僧」
ユウキは息をのんだ。腹の顔が閉じていた目を見開いて口を動かして喋っていた。さらに恐ろしいことにユウキにはその喋り方に心当たりがあった。
「ロドヒさんですか?」
十分な距離をとって問いかけると腹の顔は大きく笑った。
「ひゃっひゃっひゃっひゃ!覚えてくれてたんだな小僧、嬉しいよ、いまものすごく嬉しいよ」
声質は違っているがその陰湿な笑い方はある日突然、行方不明になった冒険者ロドヒだった。正直言って嫌いだった。出会うたびににやにやしながら近づいてきて嫌がらせをしてくる。そして困っているのを見ると本当にうれしそうに笑う。
ユウキにとってロドヒとはそういう人間だ。ユウキの名前を呼ばずにあえて小僧と呼ぶのはお前の名前を呼ぶ価値は無いというロドヒの意思の表れ。その呼び方も大嫌いだった。
全身に鳥肌が立っていた。
「ああ、なんていい顔をしてるんだよ小僧。いや、小僧なんて言い方は失礼だな、お前には感謝しねぇといけねぇんだからな。よく来てくれたなユウキ、本当に嬉しいよ」
毛の生えた魔物の茶色の腹と融合したロドヒの顔が歪む。
「子供を喰うのは初めてだ。お前はどんな味がするんだろうなユウキ、きっと柔らかいんだろうなユウキ、ユウキ、ユウキぃいいいいいいいいいいい!!!」
欲望の叫びが夜の山に響き渡った。