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凶兆  作者: 黒駒臣
10/19

・グロ、残酷描写、後半に災害描写あり閲覧注意

          




「ただいま」

 はるかが台所に入ると、母かなえのシンクに向かう後姿があった。

 ダイニングの中心に配置されたテーブルにはゴミに混じって郵便物や新聞が乱雑に積まれ溢れかえっていた。床も同様で足の踏み場もない。

 きれい好きなお母さんだったのに――

 はるかは母の背後に近付いた。

「きょうのおかずはハンバーグよ。はるか大好きでしょ」

 明るい声でかなえが振り返る。だが、焦点の合っていない目が向けられているのははるかにではなく、今は誰もいない彼女の席だ。

 わたしはここよっ、親のくせになんで見えないのっ。

 頭に来たはるかはテーブルのゴミの山を(はた)いた。実在していない手はそれらをすり抜けたが、ゴミ山は崩れ、新聞や郵便物と共に床に落ちた。その音に、かなえがびくりと身を震わせ、恐る恐る自身の背後を振り返る。両手にはハンバーグのタネではなく泥団子が握りしめられていた。

 焦点が戻った視線ははるかに向けられていた。だが見えて(、、、)はいない。

 手の中の泥団子が滑り、かなえの足元にびたっと音を立てて落ちた。

「はるか――どこに行ったの? 誰に連れて行かれたの? 今どこにいるの? 早く戻ってきて――」

 シンクにもたれてかなえが泣き崩れた。

 ふーん。まだわたしのこと行方不明だと思い込んでいるんだ。都合のいいお(つむ)ね。

 母にいらついたはるかは再度テーブルの物を乱暴に叩き落とした。


 邦子にいじめられていたはるかを助けてくれるものは誰もいなかった。

 大人の面前では良い子を演じる邦子に、校長夫婦や男先生はまったくいじめに気づかなかった。

 繁樹や保良は見て見ぬふりをし、他の女子はみな邦子の言いなり。頼りの母かなえは家に閉じこもり暗く沈み込んでいて当てにならなかった。

 なんでこんなところに来なければいけなかったのか。

 生まれ故郷に戻ると相談もなく決めた父の義春をひどく恨んだ。

 それでも相談できるのは父だけだった。

 だが、慣れない農作業に疲れ切っているようで、帰宅しても自分たちに構う余裕すらなかった。

 救いはどこにもなかった。両親の状態など気にせずいじめの相談をしていれば、真剣にここから出て行きたいと訴えていれば、もしかして救われていたかもしれない。

 でもはるかはもう誰も信じることができなくなっていた。

 生きていても仕方ない。

 学校から帰ったあの日、自室のロフトベッドの柵にパーカーの紐を掛けて首を吊った。

 細くて頑丈な紐が首の肉に食い込む。

 とたんに後悔が押し寄せた。

 やっぱ死ぬのやだ。苦しい。苦しい。助けてお母さん。

 その時、ノックの音がした。

「はるか? 帰ってるの? ただいまも言わないで――

 ねえちょっと聞いてくれる? お母さんね、きょうお隣さんに無理やり畑仕事手伝わされてね、一生懸命手伝ったのに、街のもんはどんくさいって嗤うの――ねえ、聞いてくれてる?」

 ドアの向こうで一方的に話し、返事がないので入って来たかなえが悲鳴を上げた。

「いやあっ、はるかっ何やってんの、はるかっ」

 助けてっお母さん、早くこれはずして――

 喉が締まって言葉にならず、それでも涙目で母親に訴えた。

「いやあっはるかっいやあああっ」

 だが、かなえはパニックを起こし、はるかの身体に縋りついた。腰が抜けているのか全体重をはるかにかけてくる。

 引っ張らないでぇっ、く、苦しい。お願いっ引っ張らないでっ

 半ば飛び出した目で訴えても願いは聞き入れられなかった。

「はるかっはるかっはるかあああっ――そ、そうだ紐を、紐を解かなきゃ――」

 やっとそれに気づいたが、慌てふためくかなえの手は固く結ばれてしまった紐を解くことも、皮膚に埋まった紐をはずすことも叶わなかった。

 学習机の引き出しから取り出した鋏で紐を切り、床に寝かされた時には、すでにはるかは虫の息だった。

「だいじょうぶ? だいじょうぶ? はるかっ、はるかっ」

 血相を変えた母親の顔がだんだんかすれて見えなくなっていく。

 ――もう遅いよ、お母さん。


 ねえ、思い出しなよ。

 わたしは家出したのでも誘拐されたのでもない。あんたに殺されたんだよ。

 今、正気に戻ってるよね? その時ぐらいは自分のしたこと思い出してよ。

 名前を連呼し泣き崩れている母を、はるかは冷ややかに見下ろしていた。

 かなえがはっと顔を上げた。

「あ、そうだ。お夕飯の支度しなくちゃ。きょうのおかずはハンバーグよ。はるか大好きでしょ」

 勢いよく立ち上がり、空席に微笑みかけて、かなえが再び泥をこね始める。


 いつの間にか帰って来ていた義春が台所の入り口に立ち、疲れきった様子でじっと妻の後姿を見つめていた。


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