眼鏡の平穏な日々と予期せぬ悪夢
今わたしは東京行きの特急あずさに乗っている、長野での一週間はあっと言う間に過ぎてしまった。お母さんとお婆ちゃんが知り合いやわたしの同級生達に泰明さんの事を言いふらしまくったおかげで毎日のように質問攻めにあってたから、かえって疲れたような気がする。
今ではこっちの暮らしがメインになっていて香苗や千紗ちゃん、大学の友達のほうがわたしにとって家族や地元の人達よりも親しい存在になりつつあるんだよね。
その中でもやっぱり泰明さんの存在は特別かな。正式にお付き合いする様になってから会うのが楽しみというかいつでも一緒にいたいと思うようになってきた。
長野でお母さんやお婆ちゃんと話している時でも早く泰明さんと逢いたいと思うくらいにわたしは彼の事が好きになっている。
その事をお母さんに話すとすごく喜んでくれて、お婆ちゃんに冷やかされながら毎日彼の話ばかりをしていたなあ。
色々と考えていたら終点の東京駅に間もなく到着するアナウンスが流れだす。毎度のことながら迷子になりそうになりながら改札を抜けると、一番逢いたかった人の声がわたしを呼び止める。
「おかえり! 実家はどうだった明梨ちゃん」
いつもは東京駅からJRと私鉄、バスを乗り継いであかね台まで行くんだけど、今回は泰明さんが東京駅まで迎えに来てくれている。
彼と一緒にいる事にもすっかり慣れて今では最初の頃みたいに緊張し過ぎてテンパったり暴走することもなくなっている……あの頃の自分が恥ずかしい。
「懐かしかったけどやっぱり今の生活の拠点はこっちですね。友達もたくさんいますし」
もちろん泰明さんもいるからですよ、とはさすがにまだ恥ずかしくて言えない。
泰明さんはわたしの荷物をヒョイっと持ってコインパーキングまで軽々と運んでくれた。結構重くて大変だったんだけどやっぱり力持ちなんだなぁ。
「夕飯はまだ?」
「特に考えてませんでした、この時間だと作るのにも遅いし……食材はあるんですけどね」
お母さんとお婆ちゃんに、こっちでは自炊をしていて寮の友達のご飯や泰明さんのお弁当を作ってるって言ったら、お米や野菜や加工肉をいっぱい持たせてくれたんだ。
重いものや足の速い物に割れ物は後で送ってもらうけど数日分の食材は自分で持って来ているんだけど、さすがに帰ってすぐに作る元気は無い。
「何か食べたい物ある?」
「泰明さんの好きな物でいいですよ」
連れて行ってくれたのは漫画みたいに野菜やお肉を盛った|(注文する時、全のせ増し増しって呪文みたいな事を言ってたからかも)ラーメン屋さんだった。
千紗ちゃんの彼氏蒼太くんのボクシングの先輩で泰明さんのトレーニング仲間の赤木さんが店長をしてるから時々来るんだって。美味しかったんだけど量が物凄くってお腹がパンパンになっちゃった。
「あっ! お帰りなさいっす、明梨先輩。んっ! この匂いはラーメン士郎っすね! ワタシも蒼太くんと時々行ってるっす」
「千紗ちゃんも蒼太くんとうまくいってるの?」
千紗ちゃんと話すのも何だか懐かしい気がするなあ。
「進展は明梨先輩達よりも早いかもしれないっすよぉ」
「わたし達は二人共初心者だから仕方ないよ」
こうしてわたしは帰省を終えて今の日常に戻る。そして夏休みが終わり大学に通い友達と笑って過ごす日々が再び始まった。
大学では学祭の展示物やコンテストの出品作の制作、寮では千紗ちゃんや寮生のみんなと話したりご飯を食べたりする毎日。
そういえば香苗達が千紗ちゃんカップルがセッティングする合コンを楽しみにしてたな。なんだかわたしと泰明さんが付き合いだしてから周りの色恋沙汰が盛んになって来たような……もしかしたら前からあったけど、わたしがその手の話題に関心が無くて気付いて無かっただけなのかも。
泰明さんとは毎日トラックの中でお弁当を一緒に食べて週末に食事やデートに連れて行ってもらう関係のまま。
スポーツやトレーニングばかりしていた彼にとってミュージアムやショッピングは退屈なのかと思ったけど、今まで知らなかったものや新しい刺激が沢山あって楽しいと言ってくれている。
香苗や千紗ちゃんにはゆるい付き合いって言われるけど、今はこのくらいのお付き合いがわたしには心地良い。始まりは変な出会い|(わたしの暴走)だったけどゆっくりと関係を深めていきたいと思う。
そんな当たり前の毎日が続いていたある日の朝、寮の食堂で朝食とお弁当の用意をしている時にお母さんから電話がかかってきた。普段はSNSで済ますのに緊急なのかな? おにぎりを握っていたからスピーカーにして電話に出るとお母さんから切羽詰まった声が聞こえて来た。
「明梨! 昨日の夜、恭介がうちに押しかけて来たの! アイツお父さんが怖くて私達に寄り付かなかったんだけど、どこかでお父さんが亡くなった事を知ったらしくて! こっちは青年団のみんなが追い払ってくれたし、すぐに警察にも連絡したから大丈夫だったけど、明梨の所にも行くかもしれないから気を付けて!」
「うっ……うん! 分かった!」
電話が切れた時、わたしは握りかけのおにぎりを持ったまま硬直してしまった。お父さんが来るかもしれない、そう思っただけで身体の震えが止まらない。
「モラハラDVクソ親父っすか? 大丈夫っす! わたし達がついてるっすよ!」
「明梨ちゃんなるべく一人で行動しないように気をつけるのよ」
「香苗にも言っといたほうがいいわよね」
「警察は事前には動いてくれないけど言うだけは言っといたほうが良いわよね!」
「あっ! そうだっ、バイト先の副所長の旦那さん警察官って言ってたから力になってくれるかも! いまから行って相談してみるっす! ついでにハタケさんにも伝えるっすね!」
そう言って千紗ちゃんは電話で蒼太くんを呼ぶと一目散に出かけて行く。みんなが心配してくれたおかげでいくらかは落ち着く事が出来たけどやっぱり怖さは抜け切らない。
みんなが色々と助けてくれるし、昨日の夜、長野にいたなら今日はこっちには来れないよね。
大学には香苗がバイクで送ってくれるって言ってるしきっと大丈夫。
そろそろ香苗が来る時間かなと思って寮の入り口の扉をあけるとそこには男の人が……一番逢いたく無かった人が立っていた。なんで香苗が呼びに来るまで待てなかったんだろう? 恐怖で判断力が鈍ってたとしか思えない。
「久しぶりだな香苗、大きくなって見違えたけどその怯えた顔は変わんねえな……ジジイもあの世に行ったことだし、これからたっぷりと可愛がってやるよ」
狂気を忍ばせたその目で睨まれてわたしは逃げる事も声を出す事も出来なくなってしまった。