ドン引きする筋肉、テンパる眼鏡
「えっと……何してんの?」
俺の汗が染み込んだ作業着と肌着に顔を埋めて匂いを嗅ぐ女子大生を見て、俺は思考が停止しそうになっている。ある意味、上半身裸で汗を拭いている姿を覗き見されているよりも衝撃的な光景だ。
「いやっ! あの! 変な意味でやってるわけじゃ無いんです! えっと畠山泰明さんの汗の匂いが知りたくて思わず……」
真っ赤な顔をして目をグルグルさせながらテンパる女の子に変な意味じゃ無いって言われても全く説得力が無いんですけど!
そもそも汗びっしょりで臭いに決まっている肌着の匂いを嗅いでうっとりとしている女の子に対してドン引きする以外にどんなリアクションを取ればいいんだよ!
ん? ちょっと待て⁉︎ 今この娘なんて言ったっけ?
「えっと……何で俺の名前を知ってんの?」
まさかストーカーとかの類じゃ無いだろうな? 恐る恐る聞く俺の問いに彼女はトラックを指差して答える。
「えっと……後ろのプレートに名前が書いてますからそれで……」
あっ、確かにトラックの後には「私は交通ルールを遵守します」のプレートに名札が差し込んであるから名前は見たら分かるよな。
今までは何とも思ってなかったけどこのプレートって、職場と氏名が分かるから個人情報保護の概念で考えると問題がある気がするぞ。
「まあ、俺の名前はプレートを見ればわかるから良いとして……君が今その手に握っている物は何?」
彼女は視線を自分の右手に移すと目に見えて動揺し始めて震えるような声を絞り出す。
「は、は、畠山さんの! 汗の染み込んだシャツです!」
「それを何に使っていたんだ?」
彼女は顔をさらに赤くして焦点の定まらない目をさらに高速でキョロキョロと動かしてプルプルと震えていた。今にも頭から湯気が噴き出しそうだ。
「信じてください! 本当に変な事はしてないんです! ただ……あなたの身体と汗がどんな匂いをしているのかが知りたかっただけなんです!」
「えっと、それって十分に変な事だと思うんだけど……」
さすがに俺がドン引きしている事が伝わったのか、彼女は目に大粒の涙をためて何度も頭を下げて謝り出す。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 本当に悪気は無かったんです! あなたが水道で汗を流す姿と逞しい背中が気になってしまって……どうしてもあなたの匂いを吸い込んだ肌着の香りを嗅いでみたくなって……」
そこで彼女が言葉を詰ませると様子に気づいた通行人やコンビニの客が俺たちの方に近付いてきた。
「何だ、何だ、もしかして万引き?」
「あれってデザイン学部の真田先輩よね? トラックの運転手と何かトラブったのかしら?」
「あのトラックの運転手、上半身裸だし……一体どういう状況よ⁉︎」
「でも彼、均整がとれた良い身体をしてるわねえ」
周りに人が集まり出すと彼女はさらにテンパり出して手足をバタバタさせながらギャラリーに説明になっていない説明を必死になってしようとするけど、もう日本語になっていない。
「アワワワワッ! えっと……えっと! あのですね! 何でもないの! 何でもないんです! 只々わたしが畠山泰明さんにご迷惑をかけちゃって、困らせちゃっただけなの! 本当に何でも無いですからゴメンナサイ、ごめんなさい、本当にゴメンなさい! あわわわわわっ!」
人の名前をフルネームで出さないでくれ! そして迷惑をかけているのは現代進行形で、俺は今物凄く困っている。
「ごっごっごっ……ごめんなさいぃぃぃ! すみませんでしたぁぁぁぁぁ!」
最後には謝りながらというか叫びながら彼女は全速力で走って行ってしまった。俺の肌着を手に握りしめたままで……。
彼女が逃げて行くとギャラリーも散って行ってしまった。トラックの前で一人立ち尽くす俺にオーナー夫婦が声をかける。
「ヤス君災難だったねえ」
「あの娘、普段はおとなしい感じなんだけどどうしちゃったのかしら」
「替えがあるからまだ良いんですけど、あの娘にシャツを持って行かれちゃいました」
ハードワークマンで買ったプレミアムボディークーラー……普通のシャツよりもかなり高かったんだけどなあ。まあ事故みたいなもんだと思って諦めるか。
昼休憩を取るはずだったのに反対にどっと疲れてしまった。本当に彼女は一体何をしたかったんだろう?
「三号車の畠山、帰りました」
午後の配送をなんとか無事に終えてセンターに帰り、今日の日報を渡しアルコールチェックを済ませると淀川の姉さんが心配そうな顔で俺に話しかけてきた。
「どうした脳筋⁉︎ 今日は珍しく疲れきった顔をしてるけど体調でも悪いのか? 顔色も良くないぞ」
「今日、あかね台四丁目店で休憩を取ろうとしたんですけど……」
今日の昼休憩で起きた出来事を姐さんに話すと彼女は少し考えた後真剣な顔で俺に言う。
「たぶんその娘、脳筋の事が好きなんじゃないかな?」
「うへえっ⁉︎」
姐さんが予想外の事を言うので思わず変な声が出てしまった。初対面と言うか話した事もまともに顔を合わせた事もない人間を好きになる事なんてあるんだろうか?
「まともに俺の顔を見てないはずなんですけどね」
「おそらく筋肉に惚れたんじゃないかな? 見てたのは主に後ろ姿だろ? お前の背筋は見事だから逞しい男性が好きな娘だったら興味を持つと思うよ。そんで女ってやつはそっち方面の嗅覚が敏感だからな、好きな男の匂いは良い匂いに感じるものさ」
「よく分かんないですけどそんなもんなんですか?」
「そんなもんだよ」
この時の俺は彼女、真田明梨とこれから深く関わっていく事になるとは思ってもいなかった。