53.ヒロインと乙女ゲーム
何の前触れもなかった。ロラがそれを思い出したのは、五歳の誕生日のことだった。
父親から誕生日プレゼントにと貰ったドレスを着て、姿見の前ではしゃいでいた。男爵家の令嬢だからといっても、リュエルミ家はお金がなく贅沢など出来なかった。だから、その新しいドレスがとても嬉しかったのだ。
ヒラヒラと揺れるドレスから、不意に視線を上げた時だった。鏡の中の自分と目が合って、強烈な違和感に襲われた。この女の子は誰なのか、と。
そこで、前世の記憶を思い出したのだった。
「……え?」
意味が分からなかった。その場にへたり込み、ロラは震えた。自分に何が起こっているのか、恐怖でしかなかったのだ。
試しに、手を上げてみた。鏡の中の女の子も同じ動きをする。やはり、鏡に映る女の子は自分であるらしかった。
おかしい。ロラは残っている最後の記憶を懸命に探った。その日もいつも通りだった。会社に行って仕事をして、仕事が終わらなくて残業になって、やっと終わらせて家に帰ろうとしていた筈だ。そこから、記憶が曖昧になっていた。
自分は死んだのだろうか。これは所謂、転生というものなのか。何も分からなかったが、自分はもうこの女の子として生きていくしかないのだということだけは、何故か理解が出来た。もう帰れないのだと本能がそう言った。
「うそでしょ~……」
ロラは暫く放心していたが、ふと鏡に映った女の子に見覚えがある気がして再び思考を再開させた。
癖の全くないストレートの髪は、美しい白金色をしている。くりくりとしたぱっちり二重の薄い桃色の瞳。ふっくらとした唇は口紅も塗っていないのに、色付いて見えた。
美少女がそこには存在していた。ロラはマジマジと鏡の中を見つめる。悪くはなかった。寧ろ、気分は高揚した。
「かわいい~!」
そこで、思い出す。社会人になってから、ドップリとハマってしまった乙女ゲーム。
【聖なる光の導きのままに】
そのゲームに出てきたヒロインにこの女の子がよく似ていることに。
それはそれは驚いた。しかし、ジルマフェリス王国や光の乙女伝説。この世界の全てが、ここが乙女ゲームの中であることを証明してくれていた。
そして、リュエルミ男爵家。何よりもこの女の子の名前であるロラは、間違いなくヒロインのデフォルト名であった。
「やだ~! 私、ヒロインなの!?」
普通に浮かれた。大好きなゲームのヒロインに転生。夢のような展開だった。折角ならと、ロラはゲームを楽しむことに決めたのだった。
ここは、ゲームであってゲームではなかった。風邪をひけば苦しいし、怪我をすれば痛かった。
不意にロラは理解した。生きている。自分も、父親も、母親も。村の人達も。全員、この世界で生きていた。
セーブもリセットも存在していなかった。紛れもない現実だったのだ。
「どうしよう……」
ロラは急に怖くなった。自分が選択肢をミスすれば、世界はバッドエンドを迎えてしまう。魔王が暴れて、人が沢山傷付くことになる。そして、ヒロインである自分は己の命を掛けて魔王を封印するのだ。
出来そうにもなかった。そんな覚悟は持てなかった。だから、ロラは決めた。ゲームを楽しんでいる場合ではない。意地でもハッピーエンドを迎えてやるのだと。
ロラには自信があった。ゲームを隅から隅までやり込んだという自信が。選択肢の台詞を一から十まで思い出せた。
本当は最推しのフレデリクルートが良かったが、どうせなら悪役令嬢も幸せになって欲しいわよね~と思った。だから、出会いイベントの印象で攻略する相手を決める事にしたのだ。
入学式はそれはもう緊張した。ついにゲームが始まってしまったと震え上がった。しかし、初っ端から躓くわけにはいかないと気合いを入れて出会いイベントに挑んだ。
確かにゲーム通りに攻略対象者達と出会いはした。したが、何やら様子が違っていた。雰囲気も台詞も少しずつゲームと違っていたのだ。
ロラは混乱した。しかし、フレデリクがとてつもなく格好良くて、ドストライクなのは変わっていなかった。普通に心臓が止まるかと思った。
「そこの貴女!」
「きゃっ!?」
これもゲーム通りであった。最後の最後に登場するのは、ヒロインのライバル。悪役令嬢であるジャスミーヌ・オーロ・ガイランである。
「勘違いです!」
「え?」
「私は殿下狙いじゃありません!」
「なんですって!? それでは、困りますわ!!」
「え?」
沈黙が落ちた。そこで、悪役令嬢であるジャスミーヌも転生者であることを知ったのだ。
ロラの最推しがフレデリクだと分かった瞬間、ジャスミーヌはトリスタンと結ばれたいのだと熱量多めに力説してくれた。婚約破棄の条件も。だから、ロラはジャスミーヌと協力することにしたのだった。
ゲームのシナリオは所々、狂っていた。しかしロラは、そこまで気にする必要はないのではないかと最初は思っていた。
唯一、ガーランドの兄であるルノー・シャン・フルーレストの事は気になった。ゲームでは既に亡くなっているキャラだったからだ。単純に興味があった。どんな人なのだろうかと。
ゲームが終わったら会ってみよう。ジャスミーヌからルノーの事を聞きながら、ロラはそう軽く考えていたのだ。
そう。食堂のイベントが起こるまでは。
初めて見たルノー・シャン・フルーレストという人は、酷く恐ろしい男だった。後ろで一つにされた漆黒の髪は、魔力が全くない事を示していた。であるのに、その男は場を完全に支配していた。
「ヤバ~イ!」
それしか出てこなかった。色んな意味でヤバかった。楽しげな声を出したのは、無理にでもそうしなければ膝から崩れ落ちそうだったから。
丸々イベントを横取りされた。どうしたら良いのか分からなくて、ロラはジャスミーヌの所に逃げたのだった。
ロラはもう一度、今度は真面目にルノーの話をジャスミーヌから聞いた。そして、このままではまずいという事を痛感する。何とかルノーと仲良くなろうとしたのだが、失敗。何故かロラはルノーに嫌われているようであった。
そして迎えた学園祭のイベント。そこでも物の見事にイベントをルノーに横取りされてしまった。
さらっと揺れたルノーの美しい白金色の髪は、ロラよりも白に近い色をしていた。まるでお伽噺に出てくる王子様のようだ。まさに乙女ゲーム。スチル画面を見ているような錯覚に陥った。
しかし、守るようにその腕の中で大事に大事に抱かれている少女は、ゲームのヒロインではなかった。ゲームでは名もないモブであるはずの伯爵令嬢。シルヴィ・アミファンスは、ルノーにとっては誰よりもヒロインであるようだった。
ここは、ゲームであってゲームではない。分かっているつもりだった。しかし、ロラは嫉妬した。この世界のヒロインは私である筈なのに、と。
シルヴィは見掛ける度に、楽しそうに生きていた。魔王が復活したら、大変な事になると知らないのだろう。だから、あんなに楽しそうに笑っていられるのだ。
ある日の事だった。ロラはシルヴィが魔法科の令嬢達に難癖を付けられている現場を見てしまった。黄色と緑色の腕章を付けている。上級生のようであった。
どうやら、魔力が戻ったルノーに横恋慕しているらしい。勝手な話だと感じた。
何やら罵られているが、シルヴィは「はぁ……」と気のない返事をした。全く響いていない。何なら、ちゃんと話聞いてる? というレベルだった。
「ただの幼馴染みですので、わたくしに言われても困りますわ」
どうやら、横恋慕ではなかったようだ。しかし、ルノーの様子からして令嬢達が立ち入る隙はなさそうであるが。
令嬢達はその後も言いたいことを言いたいだけ言って、立ち去っていった。その場に残されたシルヴィは、令嬢達の姿が見えなくなると軽く溜息を吐く。
「ルノーくんにバレなきゃいいけど」
なんて呟いて、何事もなかったかのように女子寮へと向かって歩いて行った。ロラは普通に驚いた。前世と合わせても、あそこまでのスルースキルを持ち合わせている人を見たことがなかったからだ。
スルースキルがカンストしている。絶対に。人生二周目なのかしら~。いや私、二周目だけど持ってないわあそこまでのスルースキル。ロラはシルヴィの後ろ姿を半ば呆然と見送ることしか出来なかった。
次の日のことだった。フレデリクと一緒に図書館へと向かっている道中、ルノーを見掛けた。ルノーが前から歩いてくる。
そして、ロラ達の前にいた魔法科の女子生徒の集団とすれ違った。小気味良い音が耳朶に触れる。瞬間、女子生徒達が悲鳴と共に目の前から消えた。
「何だ!?」
フレデリクが驚いて声を上げる。慌ててそこに近付けば、落とし穴よろしく空いた大きな穴に女子生徒達が落ちていた。
「る、ルノー!!」
「あぁ、残念だな。邪魔が入らなければ、このまま埋めてしまえたのに」
「やめないか!」
フレデリクに叱られたが、ルノーは何処吹く風で、こてりと首を傾げる。別に悪いことはしていないとでも言いたげに。
「シルヴィ嬢に言い付けるぞ」
「それは……。困ります」
「何故このような事をしたんだ」
「あの子に売られた喧嘩は僕が全て買うと決めていますので」
うっそりと好戦的な笑みを浮かべたルノーに、ロラは戦慄した。シルヴィと真逆だ。喧嘩上等すぎる。
フレデリクがこめかみを押さえて、深々と溜息を吐いた。ロラはフレデリクの胃が心配になる。大丈夫だろうか。
そして、シルヴィの事も心配になった。昨日のシルヴィの様子からして、この女子生徒達の事はルノーには言っていない筈だ。どこから? どこから情報を入手したと言うのだ。
ロラは考えを改めた。とんでもなくヤバいルートに入ってます、シルヴィ様。逃げて。全力で逃げて~……。モブ令嬢に幸あれとロラは内心で泣いた。
ロラの考えは合っていた。しかも、想像以上のヤバさだった。モブ令嬢が突入したルートは、ゲームには存在していない魔王ルートだったのだ。
しかし、シルヴィはルノーが魔王であることは知っていたらしい。ただ、自分が魔王ルートのヒロインになってしまっていることに気付いていないだけ。それが一番ヤバいのだが。
「わ、わたし、ただの、も、モブなのにーーー!!」
真っ赤な顔で走り去って行くシルヴィに、ロラは何処かで安堵した。ただのモブなのに。そうシルヴィは言った。何だ。やっぱりシルヴィも自分達と“同じ”だったのだ、と。
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ジャスミーヌと隣り合ってシルヴィの部屋へと向かいながら、ロラはご機嫌に鼻唄を歌っていた。
「何がそんなに楽しいのです?」
「だって~! 仲間が増えるのよ~?」
「仲間になってくださるかは、分かりませんわよ? わたくし達を欺いていたんですもの」
「あのね~……。意地でも仲間にしなくちゃダメなの! シルヴィ様がいないと世界平和は成り立たないのよ~?」
「ですけど……」
ジャスミーヌが不服そうに眉根を寄せる。まぁ、ジャスミーヌの言いたいことも分かるには分かる。ジャスミーヌとシルヴィの付き合いは長いのだ。それなのに、何も教えてくれなかった。そう思ってしまっているのだろう。
しかし、ロラの中身は結構ないい年した大人なのだ。色々な事情があるのも分かる。シルヴィの言い分をまだ聞いていないので、想像でしかないのだが。シルヴィの中で優先順位がジャスミーヌよりもルノーの方が高かっただけの話なのだろうとは思っていた。
「シルヴィ様ってば、演技派よね~」
「本当ですわよ」
ジャスミーヌはシルヴィに感謝した方がいいとは思うのだが……。まぁ、ジャスミーヌがプリプリ怒った所で、シルヴィが気にするかは甚だ疑問だ。気のない返事で流されそうではある。
シルヴィならば大丈夫だろう。そう結論付けて、ロラは辿り着いたシルヴィの部屋の扉を丁寧にノックしたのだった。