49.黒幕と素敵な場所
地獄だった。トリスタンの世界は、両親が亡くなった日から暗闇の中に落ちた。ひたすら歩いても出口のない闇の中で、トリスタンはそれでも光を求めて歩き続けた。それしか道はなかった。
森の中で隠れていた所を治安隊に保護され、叔父であるルヴァンス侯爵に引き取られた。ルヴァンス侯爵はよくしてくれた。
ルヴァンス侯爵はトリスタンの母親、つまり自身の姉と仲の良い姉弟であったらしい。しかし、トリスタンの父親のことは嫌っていた。
“だから、あんな男と結婚するなと言ったんだ!”
トリスタンの前でもよくそう言っていた。トリスタンは父親も母親も大好きだったので、あまり良い気はしなかった。
それでも、ルヴァンス侯爵は姉の死の真相を掴もうとしてくれていたので、トリスタンは“いい子”で居続けた。
ある日、ルヴァンス侯爵はトリスタンに“国を信じるんじゃない”とだけ言った。その頃に、ルヴァンス侯爵夫人が子どもを身籠った。
ルヴァンス侯爵の興味は、一気に実子へと向いた。敵が国であると示唆するような事を言っていたのも関係あるのだろうか。ルヴァンス侯爵は、トリスタンの両親の事故から完全に手を引いてしまった。
トリスタンは他者を信じるのをやめた。もう誰も信じられなかった。自分でやるしかないと思った。必ず、復讐してやると決意した。
それでも、侯爵家から追い出されては生きていけない事はよく理解していた。だから、人好きのする笑顔を張り付け、出来るだけ目立たぬように過ごすことに徹した。
学園に入学を控えた頃だった。魔物の動きが活発になってきたという話を聞いたのは。まだ推測の域を出ないが、魔王が復活するのではと貴族連中が騒ぎだしていた。
使えると思った。この国を壊してくれるなら、何でも良かったのだ。そこから、トリスタンは様々な書籍を読み漁った。そして、“光の乙女伝説”はただのお伽噺ではなく、魔王は実在するのだという結論に達した。
魔王がした数々の残虐な行為を考えれば、きっとトリスタンの望みは叶うと思った。学園に入れば、自由な行動が取れる。そこで決行することにした。
学園の構造を掴むための探索だった。学園の警備はそこまで厳重ではなさそうだった。この国は長らく平和を享受している。平和ボケしているなとトリスタンは鼻で嗤った。
そこは、普通科の校舎裏だった。誰も来ないような場所だとばかり思っていた。だから、人がいて少し驚いた。
黒い制服に赤い腕章をしている。トリスタンと同じ普通科の新入生のようだった。暗い焦げ茶色の髪を二つにした女子生徒が何も植えられていない荒れた花壇を眺めている。何をしているのか気になった。
思わず声を掛けると、女子生徒は驚いたように肩を跳ねさせる。振り向いた女子生徒の澄んだ黄緑色の瞳と目が合った。
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トリスタンはこの日の事を酷く後悔していた。声など掛けなければ良かったと。この女子生徒が全てを狂わせてしまった気がしてならないのだ。
復讐を果たせば、救われると思って生きてきた。光ある所に出られる。それだけを目指して歩いた。
それなのに、ふと気付いてしまった。まったく別の方向に光があることに。目が眩んだ。気のせいだと思おうとした。
光から逃げるように目を向けた復讐の道には、おぞましい程の闇が広がっていた。急に足が竦んだ。
「君の望みを叶えるといい。魔物を使って僕に喧嘩を売ってまで、したかった事だろ?」
今更、違う道を選ぶことなど許されないとでも言うように魔王がそう言った。目の前の剣を取って、復讐を果たせば、出られるのだろうか。この永遠に続く暗闇から。
もう分からなかった。トリスタンには、何が正解なのか。震える手を剣に伸ばした。瞬間、「いけません!!」とジャスミーヌがそれを止める。何処かで酷く安堵した。
「そんな事をして何になるのですか! 駄目ですわ。貴方の手が汚れるだけ!」
ジャスミーヌに手を握られた。そのジャスミーヌの手も震えている。トリスタンの瞳から涙がこぼれた。
「然るべき処罰を国が与えてくれます。そうでしょう? 殿下」
「あぁ、ただでは済まさん」
本当だろうか。トリスタンの脳裏に、このまま流されてしまった方が楽なのではという考えが過る。それを遮るかのように「ふぅん?」と魔王の声がした。
「別に構わないよ。君の好きにするといい」
どういうつもりなのだろうか。トリスタンに復讐をさせて、それを楽しもうとしているのだと思ったのに。魔王はジャスミーヌとフレデリクを否定しなかった。
トリスタンは恐る恐ると視線を魔王へと向ける。深い紺色の瞳が、値踏みするようにトリスタンを見ていた。それに、心臓が凍りつく。何もしていないのに、息が上がっていった。
漠然と駄目だと思った。しかし、魔王が求めているモノが分からない。
“ただし、よく考えるんだよ?”
“僕はいい子であれば嫌いではない”
魔王はそう言っていた。トリスタンは試されている。でも、どうして。これは“褒美”だと言っていたのに。
“僕に喧嘩を売ってまで”
不意に浮かんだその台詞に、トリスタンは急に合点がいった。思い起こされるのは、学園祭でのこと。
あぁ、そうか。トリスタンは確信した。間違えれば、消されるのは自分なのだと。秤にかけられている。役に立つ人間であるのかどうなのかを。
「トリスタン様! お願いですから!」
ジャスミーヌが手に力を入れる。この手を取るのが正解なのか。目の前の剣を取るのが正解なのか。分からない。ただ、楽な方へと逃げたい気持ちが膨らんでいく。
分からないんだ。何も。もう、どうすれば良いのか。自分でも分からないんだよ……。トリスタンの瞳からボロボロと涙が溢れ続ける。
苦しい。楽になりたい。許してくれ。助けてくれ。頼むから。
“他人に止められてやめるってことは、その程度のことだったと言うことです”
そう言ったのは、誰だったか。違う。それだけは違うと、トリスタンは断言できた。
“後悔するようなことは自分で決めるのですよ。誰かのせいにしても、その誰かは責任を取ってはくれないのですから”
冷たく突き放すような言葉だと感じた。でも、それはきっと間違ってはいないのだろうとも思った。
トリスタンは諦めきれずに助けを求めて、シルヴィに視線を遣る。あの日と同じ、澄んだ黄緑色の瞳と目が合った。
その瞳の中にいる自分が酷く汚く見えた。急に恐ろしくなる。今更だと思った。やはり今更、そちらには行けはしないと。
不意に、シルヴィが何かに気付いたように視線を動かす。トリスタンもそれを追って顔をそちらへと向けた。
ディディエとガーランドがいた。どうするのが良いのか、二人も分からないらしい。アワアワと分かりやすく焦って見えた。下手に口を出すわけにはいかない。しかし、何かしなければと。
トリスタンは視線をシルヴィへと戻す。それはシルヴィも同じだったようだ。再び、目が合う。シルヴィはとても喜ばしいものを見たと言うように、穏やかに微笑んだ。
独りで生きてきた。これからも、そのつもりだった。いつからだろう。独りが寂しくなったのは。
いいのだろうか。そちらに行っても。許されるのだろうか。独り生き残ってしまった自分が、幸せになっても。許してくれるのだろうか。
「“素敵”な場所……」
記憶の中で女子生徒が挑発するように笑う。ここは、その通りに“素敵”な場所であった。居心地の良すぎる。日溜まりのような場所。
思い出が多く出来すぎた。単純に嫌だなと思った。この場所が血で汚れるのは、嫌だった。どうしても、認められなかった。
「嫌です」
だから、そう言った。
トリスタンは誰の手も取らなかった。その代わりに、光ある方へ自分の意思で踏み出す。もう手は震えていなかった。
復讐の先にも出口はあったのかもしれない。それは誰にも分からない。ただトリスタンは、出来てしまった大事な人達がその復讐の先には居ないのだろうと思った。
「ここで、血生臭いことはしたくない。俺が、嫌なんです」
「へぇ?」
「それに、俺は剣の腕がよくありません。俺がするよりも、断頭台の方が派手に首を落としてくれそうですから」
「……悪くない。まぁ、ここにはシルヴィもいるからね。このくらいで終わらせよう」
ルノーはそう言うと同時に指を鳴らした。地面から蔓のようなものが伸びて男達をぐるぐる巻きにする。ルノーが立てた人差し指を回すと、蔓がそれに合わせて男達を振り回し始めた。
男達が絶叫する。まるで投げ縄を回して投げるように、ルノーが指を振ると男達が空高く飛んだ。勿論、登りきったら落ちるのが当たり前で。今度は地面に向かっていく。
フレデリクが風魔法を使うより先に、男達の体は蔓に引っ張られて途中で止まった。そのままゆっくりと降りてきて、最後の最後で地面から少し離れた位置で蔓が切れる。拘束されたままの男達は顔面から地面に着地した。痛々しい音と呻く声が聞こえる。
「殿下に差し上げますよ」
「今のは私怨か。既に返り討ちにしたのだろう」
「先程、喧嘩を売られたので」
「あぁ……。そうだったな」
男達が“穢らわしい”と喚いていたのを言っているらしい。きっちりしている。トリスタンもああなっていたかもしれないと、身震いした。やはり、この人に喧嘩など売るものではない。
「あの、本当に良いんですか。何か、期待には応えられていない、ですよね……?」
「好きにするといい。僕はそう言ったよ」
「……え?」
「まぁ……。他者の意見に流されるような者は、いらないけどね。僕は」
それに、トリスタンがびくっと体を強張らせる。
「他者の意見を取り入れるのと、流されるのは似て非なるものだと思うよ。自分の意思がない者はつまらない」
それが、答えだった。ルノーがトリスタンに求めたモノ。どちらでも良かったのだ。よく考えて、自分で選んだのであれば。
「楽な道を選べば、君は次もそうするよ。きっとね」
トリスタンに反論はなかった。自分でもそう思ったからだ。
しかし、それにジャスミーヌが眉根を寄せた。何故こうも上から目線なのかと言いたげに。
「その魔物達はどうなのです? 力で無理矢理に従わせているように見えますわよ」
《無理矢理など滅相もない! 魔界のルールは、単純明快ですぞ。勝った方が正しい。勝者に従え。力こそが全てなのです》
《力なき者に従う者などおりません。我々は自分の意思で王を決める》
やっぱり番長方式だった。魔物には魔物の価値観があるのだろう。シルヴィは納得したが、ジャスミーヌは尚も悔しそうに歯噛みする。
《魔王様は凄いのです~》
《先代の魔王様を倒した時に、一緒に大きな岩山を消し飛ばしてた!》
どの規模の岩山だろうか。しかし、その様子がありありと目に浮かんで、シルヴィは苦笑する。あのドラゴンの姿なら簡単に出来そうだ。いや、今の姿でもやりそうではあるが。
「君達、上出来だったよ。よくやったね」
《何と!?》
《勿体なきお言葉!》
《今でも思い出されます。『邪魔だからいらない』と案内役だけを連れて、聖なる国へと向かわれた魔王様の後ろ姿を》
《頼られる喜び……》
魔物達が感涙している。ルノーが呆れたように溜息を吐いて「褒美は?」と問うた。
《もう頂きましたゆえ》
《魔王様も完全に復活されましたし、本当にめでたい》
《お祝いですね~》
《お祭り!!》
「魔界で勝手にやりなよ」
主役不在でも魔界では関係ないのか、魔物達が嬉しそうにする。楽しく騒げればなんでも良いらしかった。
「ルノー、その魔物達だが……」
「必要なら言ってくださって結構ですよ。協力しましょう」
「そうか。助かる」
《お任せを~》
《血生臭いのも良い?》
「頼む。そこが一番重要だからな」
《は~い》
《はいはーい》
魔物達の返事が軽い。なるほど。彼らの王は紛れもなく、ルノーだけであるようだった。これはどうしたものかとフレデリクは重く息を吐き出す。
ルノーはそれを見て、ゆるりと笑んだ。「手土産には足りませんか」などと言いながら。