36.魔導師と兄の関係
突然だった。ガーランドが本家の養子に出されることになったのは。
フルーレスト公爵家の後継が病気になり、魔力を失ってしまったというのだ。魔力がない者に後は継がせられない。そこで白羽の矢が立ったのが、暗いとはいえ金色の髪色を持ったガーランドだった。
ガーランドの生活は一変した。広々とした豪邸に、多くの使用人。仕立ての良い服に、食べきれない程の食事。そして、厳しい教育。
ガーランドは十一歳になっていた。そのため、自分が置かれている状況がよく分かった。どれだけ凄い家に引き取られたのか。掛けられている重圧がどれ程のモノなのか。
そして、自分が誰と比べられているのか。
「はじめまして。よろしくね、ガーランド」
フルーレスト公爵夫人は優しい人であった。この人が自分の新しい母親なことに、とても安心した。
「しっかりやるように」
フルーレスト公爵は厳しい人であった。この人の期待に応えなければ、自分の存在価値はないのだと即座に理解した。
「今日から一緒に暮らす貴方の弟よ。仲良くしなさい」
フルーレスト公爵夫人はそう言って、ガーランドを一人の少年に紹介した。
ガーランドはこの少年が後継になる筈だったルノー・シャン・フルーレストなのかと、最初はただそう思った。
艶のある漆黒の髪が、彼は魔力なしなのだと教えてくれた。元は綺麗な白金色だったと噂で聞いていたが、見る影もない。
ガーランドは自分はさぞこの少年に疎まれるのだろうと思っていた。自分から後継を奪おうというのだから。
それに、ガーランドは金色持ち。漆黒とは比べ物にならない。そんな驕りがその時には、確かにガーランドの中に存在した。
どんな罵声を浴びせられるのかと身構えていた。しかし、予想に反して目の前の少年は「ふぅん」とだけしか言わなかった。
ガーランドは呆気に取られて、そこで初めて少年と目を合わせる。深い紺色の瞳には、何の感情も浮かんではいなかった。ただひたすらに興味の無さそうな視線は、直ぐにガーランドから外された。
「ルノー様は、」
「ルノー様が、」
「ルノー様に、」
邸宅の中心は、ガーランドではなく少年のままであった。魔力を失った漆黒の少年と期待されている筈の金色の自分。ガーランドの方が凄い筈であるのに、常に少年の影が付きまとってガーランドを嘲笑った。お前には無理だ、と。
使用人達も家庭教師達も、ガーランドと少年を比べた。しかし、当の本人である少年は何も言わなかった。ガーランドなど眼中にない様子で、少年は好き勝手に過ごしていた。
ある日、ガーランドの魔法授業と少年の剣術授業が被ってしまった。しかし、公爵家の訓練所は広々としていたのでそのまま行われることとなった。
少年は対魔の剣術を習うことになったらしい。教師から基本的な事を教えて貰っている。まだ始めて日が浅いようであった。
ガーランドは気が散って仕方なかった。そのせいで魔法の制御を失敗して、魔法が少年に向かっていってしまったのだ。態とではなかった。しかし何処かで、これで自分の方が凄いのだと証明できるなどという期待が過った。
少年は慌てていなかった。何て事のないような顔で剣を軽く振ったのが見えた。ガーランドの魔法はその剣に弾かれ、少年に当たることなく空に消えていく。
周りが呆気に取られている中で、少年は剣を顔の前まで持ってくるとそれをマジマジと観察し出した。刃こぼれなどが無いことが分かると、少年はゆるりと笑む。
「へぇ、これは面白いな」
心底、楽しそうな声であった。ガーランドの魔法など意に介していない。ガーランドがまだまだ初心者だからと言っても、普通は魔法が自分に向かってきたら恐怖する筈なのに。
「す、素晴らしい! 流石はルノー様です! 初めてであそこまで的確に核を弾くとは!!」
剣術の教師が感動で涙している。逆に魔法の教師はガーランドに冷たい目を向けた。
この事件は瞬く間に邸宅中に広がった。ガーランドは更に肩身が狭くなり、少年を嫌っていった。庭園の隅で隠れて泣くことも増えていった。
泣いていると誰かしらが声を掛けてきた。一応は、フルーレスト公爵家の後継だ。皆、優しい言葉をガーランドに掛けた。
そうだ。もっと自分を敬え。大事にしろ。俺は凄いのだから。どんどんとガーランドは歪んでいった。
そんな時だった。彼女が声を掛けてきたのは。
焦げ茶色の髪を二つにしたどこにでもいそうな普通の少女。少女と話したことはなかったが、ガーランドは少女のことを知っていた。
何故なら、よく邸宅で見掛けたからだ。いつもいつも、大嫌いな少年と一緒にいる。楽しそうな笑い声が煩わしい少女。
少女は泣いているガーランドの傍に屈んで「大丈夫ですか?」と首を傾げた。悪意を知らないような。そんなものは存在しないとでも言いたげな。そんな澄んだ黄緑色の瞳をしていた。
少女は花を持っていた。フルーレスト公爵夫人自慢の植物園で、よく少年と遊んでいるのを知っている。今日もそうなのだろう。
ガーランドは酷く苛立った。傷付けてやろうという明確な意図があった。
「うるさい! お前には関係ない!」
どうせこの少女も“そんなことを言わないでください。心配なんです”なんて、言ってくるに決まっている。あの少年と一緒にいる理由なんて、フルーレスト公爵家に取り入るために決まっているのだから。
あの少年に価値がなくなったのなら、次は自分だろうとガーランドは考えた。絶対に仲良くなんてしてやらないとガーランドは内心でほくそ笑む。
「そうですか? 分かりました」
「……え?」
しかし、少女の言葉はガーランドが思っていたものとはかけ離れていた。
少女は納得したように一人頷くと、立ち上がる。しっかりとした綺麗な辞儀をすると「では、失礼致します」だけ言って、本当に立ち去ってしまったのだ。
ガーランドは暫く何が起きたのか理解できずに固まっていた。優しい言葉を掛けて貰えるのだと当たり前に思っていたからだ。横っ面を張られたような衝撃だった。
少女は怒ったのだろうか。いや、顔も声もそんな感じではなかった。少女の瞳は最初から最後まで何ら変わっていなかった。
ガーランドは少女のことを考えた。しかし、よく分からなかった。それはそうだ。遠くから見たことはあっても、話をちゃんとしたことはなかったのだから。
その日、少女は一人だった。一人で植物園のベンチに座っていた。ガーランドは意を決して話し掛けてみることにした。
「あの、」
少女は声を掛けてきたのがガーランドだと分かると、驚いたように目を丸めた。そして、心底不思議そうな声で「何ですか?」と返事をした。
「どうしてあの人と一緒にいるんですか?」
急にそんな事を聞かれて、少女はきょとんとしていた。ガーランドは自分でも何を言っているんだと思って、撤回しようとした。しかし、それよりも先に少女が口を開く。
「楽しいから」
「は?」
「ルノーくんと一緒は楽しいからです」
嘘では無さそうだった。
「楽しくなくなったら、一緒にいるのをやめるんですか?」
「えぇ!? どうでしょう? そんな事を考えたことがなかったな。でも、一緒にいて楽しくない人と一緒にいたいかと言われると……。いたくはないです」
ガーランドは愕然とした。てっきり、この少女が少年に付きまとっているのだとばかり思っていた。違うのだろうか。自分は何か思い違いをしていた? 大変な思いをしているのは、あの少年の方なのだろうか。
「あの人と簡単に喋れるものですか」
「それは、喋ってみないことには分かりませんわ。でも、貴方なら喋れるのではありませんか?」
「俺には無理ですよ」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの……」
少女の黄緑色の瞳に、ガーランドが映って見える。何故かいたたまれない気持ちになって、ガーランドは顔を逸らした。この前、傷付けようとした負い目だろうか。
「だって、貴方はルノーくんの弟でしょう?」
いつか聞いた言葉だった。そうだ。少年と初めて会った日に、フルーレスト公爵夫人がそう言っていた。“貴方の弟よ”、と。
しかし、そんなこと誰も思っていない。フルーレスト公爵も公爵夫人も少年も。そして何よりも自分自身が、そんなことを思っていなかったのだとガーランドは気づく。
「弟なんだから、気軽に喋り掛けたらいいのです。ルノーくんはお兄ちゃんになったのですから、そこはしっかりして貰わないと」
この少女は、本気でそう思っているのか。ガーランドはルノーの弟なのだと。ルノーはガーランドの兄なのだと。この少女だけが、そう思っていたらしい。
果たして、そうだろうか。この少女の言うとおり、自分はあの少年の弟足り得るのだろうか。そんなことを言って許されるのだろうか。認めれば、楽になるのだろうか。
「シルヴィ」
「はーい?」
聞こえてきた声に、ガーランドは思わず逃げてしまった。後ろから「えぇ!?」と少女の戸惑ったような声が聞こえた気がした。
今日も今日とて魔法史の授業で教師に溜息を吐かれた。“こんなことも分からないのですか?”なんて、分かるわけがない。今まで習って来なかったのだから。
ぼんやりと歩いていたら、植物園まで来てしまっていた。少女のことが脳裏に過って、ガーランドは植物園に入っていた。
少女が座っていることを期待して、ガーランドはベンチに向かった。しかし、そこには少女ではなく少年が座っていた。本を読んでいて、ガーランドに気づいていないようであった。
ガーランドは踵を返そうとして、思いとどまる。喋り掛けたら、どんな反応が返ってくるのだろうか。そう言えば、自分から関わろうとした記憶が一切なかった。
「あ、の……」
緊張で声が掠れた。少年は本から一瞬だけ視線を上げて、ガーランドを見た。驚いた様子がない。もしかしたら、気づいていたのかもしれない。
直ぐに本に戻った視線に、ガーランドは言葉を詰まらせる。しかし、拳を握ると意を決して口を開いた。
「勉強を教えて下さい!」
「どうして僕が?」
冷たい声だった。それに、泣きそうになる。ガーランドはぐっと耐えて、少女に言われた言葉を口にした。
「俺は、貴方の、弟ですから」
涙声の情けないものであった。それに、少年は本から顔を上げた。きょとんとした顔でガーランドを見つめてくる。
「おとうと……」
「そうです。良いでしょう? 教えて下さい。その、あ、あにうえ……」
もじもじとしてしまった。物凄く恥ずかしい気持ちになったが、ガーランドは視線を逸らさなかった。
少年は思案するように目を伏せる。暫くすると、手に持っていた本をパタリと閉じた。
「いいよ。僕は、君の、兄だからね」
ゆるりと笑んだ瞳には、興味が滲んでいた。