27.騎士と悩み
理解できなかった。アレクシには女心というものが。
同じ子爵家同士で親も仲が良かったために、アレクシとクラリスは幼い時からずっと一緒だった。
クラリスは幼い頃からよく泣いた。転んでは泣き。アレクシと喧嘩をしては泣き。怖い夢を見たのだと泣いた。
アレクシのグラーセス子爵家は、由緒正しき騎士の家門。涙は見せるなと父に習った。だから、簡単に泣くクラリスが理解できなかった。
しかし、女性には優しくしろとも教えられた。アレクシは出来るだけクラリスに優しくした。守ってあげるとも約束した。クラリスはとても喜んだ。
母親と共にお茶会に出席するようになって、クラリスは更に泣くようになった。クラリスには魔力がなかった。そのため、苛められたのだ。
その日も茶色の髪を馬鹿にされたのだとクラリスは泣いていた。アレクシは現場を目撃した時には必ず助けに入っていた。しかし、その日は間に合わなかったのだ。
「アレクシ様の嘘つき!!」
「すまない、クラリス。しかしだな」
「言い訳なんて男らしくありませんわ!!」
泣き喚くクラリスに、アレクシは押し黙る。こうなっては、聞く耳など持たないだろうと。どうしてこうなってしまうのだろうか。俺が何をした。アレクシは段々と嫌になってきていた。
「ちょっと、邪魔よ!!」
不意に聞こえてきた怒声に、クラリスが身を縮める。アレクシは暇な連中だと視線をそこに遣った。そして、目を瞬く。
クラリスに対して言ったのだと思っていたが、違っていたらしい。それはそうだ。今、クラリスの近くにはアレクシもいるのだから。
そこには、クラリスよりも暗い茶色の髪をハーフアップにした少女が立っていた。白銀の髪をした令嬢二人に何やら馬鹿にされている様子だ。アレクシは助けに入ろうとした。
しかし、それはクラリスがアレクシの服を掴んだことによって、出来なくなってしまう。脅えたようにアレクシに縋るクラリスを放っては行けなかったのだ。
「そこの貴女達!! 何をなさっているの!」
「ジャスミーヌ様!?」
「い、いえ、何も……」
暗い灰銀の髪をした令嬢の乱入によって、少女は助け出された。それに、アレクシはほっと息を吐き出す。
「シルヴィ様!」
「はい?」
「貴女も黙っていないで、何か言い返してはいかが?」
暗い灰銀の令嬢にそう言われて、少女は「はぁ……」と何とも気のない返事をした。
少女がシルヴィ・アミファンス伯爵令嬢なのだとアレクシに教えてくれたのは、クラリスだった。あの少女は、彼の有名なルノー・シャン・フルーレストと仲が良いのだということも。
クラリスは少女と友達になったらしい。貴族の子どもで魔力なしは珍しい。クラリスはとても喜んだ。そして、シルヴィはフルーレスト公爵令息様に守って貰えて羨ましいと溢した。
社交界を揺るがす事件が起こった。ルノー・シャン・フルーレストが病にかかり、白金が漆黒になってしまったのだというのだ。
噂は瞬く間に広がり、勿論アレクシとクラリスの耳にも届いた。
「シルヴィは大丈夫かしら」
「どういう意味だ?」
「だって、もう守って貰えないわ」
心配する所はそこなのだろうかと、アレクシはモヤモヤとした気持ちになった。
ルノーが漆黒になってから初めての王室主催のお茶会は、注目を集めた。本当に漆黒になっているルノーを見て、皆こそこそと「もう終わりだな」とせせら笑っていた。
何とも醜悪だ。アレクシは見ていられないと会場を出て行った。
外の席にシルヴィとクラリスが座っているのが見えた。クラリスがシルヴィに必死に何かを言っているが、あの日と同じ。少女は「はぁ……」と気のない返事をした。
「きゃあぁぁあ!?」
会場から響いてきた悲鳴に、アレクシは慌てて踵を返す。会場に飛び込むとそこには、四つん這いになった令息の上に、足を組んで優雅に腰掛けるルノーがいた。
ルノーは「謝罪するなら許してあげよう」と言い聞かせるようにそう言った。しかし、令息はその提案を受け入れなかったのだ。
ルノーは徐に足元に転がっていた割れて半分になっていた瓶を拾う。そして、鋭く尖った部分を何の迷いもなく令息の顔に向けた。
「よく聞こえなかったな。もう一度、言ってくれる?」
ゆったりと、ルノーはその顔に笑みを浮かべた。隠しきれない残忍さが滲んだそれに、場の空気が凍る。
アレクシは鍛練を積んできたと自負していた。魔力量はそれ程までになかったが、その分剣の腕を磨いてきた。同年代の子達には負けない自信があったのだ。しかし、本能で理解する。今飛び出した所で、自分ではルノーに勝てはしないと。
視界の端で焦げ茶色の髪が揺れた気がした。誰も何も出来ない中で、「ルノーくん!?」という少女の声がやけに大きく聞こえた。
「わっ!?」
慌てすぎたのか、少女が何かに躓き前のめりになる。ルノーは直ぐに立ち上がると、手慣れた様子で少女を優しく抱きとめた。
「ありがとう」
「うん。走ると危ないよ、シルヴィ」
少女はそれに素直に頷く。次いで、ルノーをじっと見上げた。それに、ルノーが不思議そうに首を傾げる。
「ルノーくん」
「うん」
「逃げよう」
少女の顔は至極真面目だった。ルノーはというと、面食らったように目を丸めている。それはそうだろう。アレクシも突然何を言い出すのかとポカンとしてしまったのだから。
「ふざけるな!!」
大声を出したのは、四つん這いになっていた令息だった。フラフラとしながら立ち上がると物凄い剣幕でルノーと少女を睨み付ける。
「魔力なしの分際で!!」
ルノーが不愉快そうに眉根を寄せた。それを見て、少女は「放っておけばいいのに」と呆れたような顔をする。
「売られた喧嘩は買う主義だ」
「そうだった」
「直ぐに終わるよ。待ってて、シルヴィ」
「ううーん……」
少女が困ったように眉尻を下げた。そして、視線を令息へと向ける。何かを考えるような間のあと、「あっ!」などと声を漏らした。
急に少女が令息に向かって歩いていく。迷いのないそれに、令息が後退った。机にぶつかって、耳障りな音が鳴る。
「シルヴィ?」
ルノーが戸惑ったような声を出した。
「な、何だよ!? お前、アミファンス伯爵家の令嬢だろ!? 俺よりも位が低い癖に!」
喚く令息に対して、少女はふわっと花が咲くような笑みを浮かべた。場に似つかわしくないそれに、令息がびくっと体を強張らせる。
少女が令息に何かを囁いた。それに、令息の顔がみるみる真っ青になっていく。
「は、あ、なに?」
少女はこてりと首を傾げると、更に口を動かす。しかし、小声であるためにアレクシには何も聞き取れなかった。
令息がその場にへたり込んだ。「うそだ……」などと呆然と少女を見上げている。
「父が是非お会いしてお話をとおっしゃられておりましたわ」
少女が今度は明瞭に聞き取れる程の声量を出した。そして、淑女らしい美しい辞儀をする。
「お父様によろしくお伝えください。では、ごきげんよう」
それだけ言って、少女は踵を返す。先程転びそうになっていた少女と同一人物には見えなかった。
「随分と面白い情報を持っているね」
「お父様がね? 話す機会があれば伝えてくれって」
「あぁ、なるほど。たぬき……」
「……?」
ルノーが何やら溜息を吐き出す。少女はきょとんと目を瞬いた。
しかし、それは一瞬で。少女はルノーの手を掴むと、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。「さて!」なんて大仰に言いながら。
「逃げろー!!」
そして少女は本当にルノーの手を引いて、楽しげに走り出したのだ。それに従って、ルノーも走り出す。驚いたように目を丸めながら。
「なっ!? シルヴィ嬢!?」
慌てたように叫んだのは、フレデリクだった。
「シルヴィ?」
「捕まったら一緒に怒られてよ?」
「……うん。でも、捕まらないように本気で隠れようか」
「待て! お前が本気で隠れたら、本気で見つけられんだろう!!」
「聞こえません」
「待ちなさい! 怒らないから! あと、シルヴィ嬢は何を知ってる!? 何を言ったんだ!! 教えなさい!!」
フレデリクが追い掛け出したので、ルノーが前にいた少女を抱えて走り出した。このままでは、追い付かれると思ったのだろう。
「邪魔しないで下さい」
「ルノー!!」
バタバタと走り去った少女を抱えたルノー。そして、その後を追い掛けていったフレデリク。三人がいなくなった会場は、しん……と静まり返った。そして、一気にザワザワとし出す。
アレクシは呆気に取られたように立ち竦むクラリスを見つけて、気遣わしげに声を掛けた。すると、クラリスは興奮したような瞳をアレクシに向けたのだ。「素敵!」、と。
「わたくし、勘違いをしておりましたわ!」
「え? クラリス?」
「見ていて下さい、アレクシ様!」
「何をだ?」
「わたくし、もう泣きませんわよ!」
クラリスには、先程のやり取りがどのように見えたのか。颯爽とルノーの手を引いて走り出した少女が、輝いて見えたのかもしれない。
「そう、か……」
背筋を伸ばして前を凛と見据えたクラリスは、ずっと一緒にいた筈なのに、知らない令嬢のように見えた。
その日から、クラリスは本当に泣かなくなったのだった。
******
アレクシは、鍛練場の前で立ち竦んでいた。眉間には、深く皺が刻まれている。何があったのだろうかと、周りの生徒がちらちらと視線を遣った。
「あらあら、アレクシ様?」
「……クラリスか」
「どうされたのですか?」
隣に並んだクラリスが下から覗き込んでくる。何故かアレクシは目を合わせる事が出来ずに、視線を明後日の方へと向けてしまった。
「悩み事ですか?」
「まぁ、そうだな……」
クラリスの言う通り、アレクシは最近悩んでいた。アレクシが真面目で融通の利かない男であることをクラリスはよく知っていた。悩み出したら長いことも。
「どのようなお悩みですか? わたくしではお力になれないかしら?」
「すまない」
「どうして謝られるのですか?」
「情けない」
クラリスは立派な淑女になった。頼られている時は、煩わしく感じる事もあったというのに……。それなのに、いざそれがなくなると不安になるなど。何とも勝手な話だ。
どんどんとクラリスは前へ前へと進んでいってしまう。だから、アレクシは焦っていた。置いていかれる。それでは、駄目だ。クラリスを守るのは、いつでも自分でありたかった。
クラリスがアレクシの片手を両手で握った。それに、アレクシはやっとクラリスと目を合わせる。
「では、頼りになる方に相談してみてはいかがですか?」
「父上では駄目なんだ。言われる答えは分かりきっている」
「違いますわ。ほら、いるでしょう?」
いったい誰のことを言っているのか。優雅に微笑むクラリスに、アレクシは眉根を寄せる。アレクシの悩みは剣のこと。そんな事を相談できる相手など……。そこまで考えて、ふとある人物が浮かぶ。しかし、まさかと目を見開いた。
「フルーレスト卿のことか?」
「そうですわ」
「いや、待て! 無理だ。俺はそこまで親しくない」
「そうなのですか? 学園祭の時に一緒にいたではありませんか」
「あれは、殿下の命であってだな」
この前、ルノーにアレクシは有益な人間だと思われていないことが分かったばかりだ。それなのに、相談など聞いて貰えるわけがない。
「でも、言ってみなければ分かりませんわ」
「しかしだな、クラリス」
「シルヴィがいたら、聞くだけ聞いて下さるかもしれません」
アレクシの脳裏に、鮮やかな黄緑色が浮かび上がる。何年経っても変わらない。ルノーはあの少女にだけは、素直に従うのだ。
「そう、か……」
「わたくしも付いて行きましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうですか。では、頑張ってくださいませ」
アレクシは素直に頷く。この手が離れていかないように、頼りになる男にならねばならない。守ってあげるという約束は、今でも有効なのだろうか。