15.モブ令嬢とヒロイン
貴族の世界は辛い。シルヴィは数字が並んだ紙と教科書を交互に見ながら、頭を抱えた。前世から理数系はどうにも苦手なのだ。
しかし、シルヴィはこれでもアミファンス伯爵家の一人娘。爵位を継ぐ予定はないが、素敵なお婿さんを貰って女主人として家門を守っていって欲しいなぁ。なんて事を両親が溢しているのを幼い頃に盗み聞きしてしまった。
直接言われないのは、両親の優しさなのか。シルヴィは素敵なお婿さんの基準がよく分からないので、ルノーに相談したこともある。
最初はルノーも幼かったので「僕に聞かれても知らない」なんて言いつつも一緒に悩んでくれたのだ。しかし大きくなるにつれ、ニコッと微笑まれるだけで相手にしてくれなくなった。
そのため、シルヴィもルノーに相談するのは諦めたのだが……。その微笑みの意味をシルヴィがいまいち理解していないのは言わずもがなである。
まぁ、兎に角。嫁に行くにしろ、婿を貰うにしろ、女主人として最低限の教養は必要ということだ。電卓が欲しいとシルヴィは図書館の机に突っ伏した。
「駄目だよ、シルヴィ。ほら、起きて」
「頭が爆発するから無理」
「しない」
宥めるように頭を撫でられて、シルヴィは体勢はそのままに顔だけを隣に向ける。合ったルノーの瞳は、小動物でも愛でるかのような穏やかさを孕んでいた。
それに、シルヴィは不貞腐れて口をへの字に曲げる。ルノーには分からないのだ。この苦しみと怠さが。ルノーは何でもそつなくこなすチートなのだから。
魔王補正というやつなのだろうか。とは言っても、いつも難しそうな本を読んだり、しっかりと授業は受けているので、何の努力もしていない等とは言わないし思っていないけれど。
「もうおしまいする」
「僕は止めないけど……。困る事になるのはシルヴィだよ」
「うぐぅ……」
正論を言われて、シルヴィはルノーから視線を逸らした。
「君のそれは、“出来ない”ではないよ」
「うん?」
「“やりたくない”、だろ?」
呆れでも怒りでもなく、ただ事実を言うようにルノーは淡々と続ける。それに、シルヴィは目を瞬いた。
「僕が教えた所は全て出来てる。満点だ」
「だって、教えて貰ったから」
「“出来ない”人間は、教えた所で理解出来るとは限らないよ」
「えぇ……」
「昔からそうだ。君はやれば出来る癖に、やろうとしない」
「うーん……」
シルヴィの髪を梳くように弄びながら、ルノーは納得していなさそうなシルヴィを眺める。本人は、やっているつもりなのだろうか。
「アミファンス家の血かな」
「なにそれ?」
「君の父親はたぬきだからね」
「たぬき……」
シルヴィの脳裏に可愛い狸が出てきたが、そういう意味ではないことは分かる。そうだろうか。シルヴィの印象では、ふわふわっとした笑顔を常に浮かべる穏やかな自慢のお父様、なのだが。
「きゃあ!?」
不意に聞こえた可愛らしい悲鳴に、シルヴィの思考がそちらに持っていかれる。何かあったのだろうかと、上体を起き上がらせた。
視線を向けた先、自棄にキラキラとする二人組にシルヴィは目をすぼめた。眩しい。それは髪色のせいなのか。容姿のせいなのか。
持っていた本をぶちまけて転んだらしいヒロインをフレデリクが助け起こしている。好感度を上げるためのイベントだろうか。細々とした日常パートまでは覚えていない。
少し距離があるし、図書館なので小声なこともあり会話までは分からないが、フレデリクの顔を見る限りでは好感度は着実に上がっていそうだった。
「あっ」
顔を上げたフレデリクとシルヴィの目が合う。巻き込まれたくはなかったが、何もしないわけにはいかずにシルヴィはひとまずニコッと微笑んでおいた。
反応を返して欲しかった訳ではないのだが、何故かフレデリクはヒロインと共にシルヴィ達の方へと近寄ってくる。それに、シルヴィは笑みを浮かべたまま心の中で絶叫した。やめてくれ、と。
しかし、こうなっては致し方ない。シルヴィは立ち上がって挨拶をした。ルノーもそれは同じで、立ち上がり辞儀をする。
「彼女を紹介したくてな。この前は出来なかっただろう?」
「あの、私、ロラ・リュエルミと言います。よろしくお願いします」
少し緊張したようにはにかんだヒロインは、まさにヒロインであった。ゲームのイメージ通りの可憐で可愛く、無敵に素敵なヒロイン。本当に転生者なのだろうか。そう思ってしまう程に。
シルヴィはちらりと隣に立つルノーを見上げた。無言である。ここは、シルヴィから自己紹介しようと淑女らしく辞儀をした。
「わたくし、シルヴィ・アミファンスと申します。よろしくお願い致します」
「是非、仲良くしてください」
ふわっと笑んだヒロインの瞳に、好奇心のようなものが滲んだ気がして、シルヴィは本能的に足を後ろに少し引く。
そんなシルヴィには気づかず、ヒロインは直ぐに視線をルノーに向けてしまった。それに、シルヴィはほっと息を吐き出す。
「あの……」
ルノーを上目遣いに見上げて、もじもじとするヒロインにシルヴィはもしかして! と顎に手を当てる。魔王ルートが開いてしまったのだろうか。
よし、逃げよう。戦略的撤退。已む無し。
つらつらと言い訳を並べつつ、切り出すタイミングを計っていれば、何を察したのかルノーに先手を打たれた。
シルヴィの肩に回ったルノーの手が、シルヴィをルノーの方へと引き寄せる。そのまま後ろから抱き締められた。
モブ令嬢は逃げるタイミングをしくじった。シルヴィはゲームのメッセージウィンドウを思い浮かべて、現実逃避することにして目を閉じた。南無三。
「……ふぅん」
意味深な“ふぅん”に、シルヴィは結局目を開けてしまった。しかし、ルノーは後ろにいるので、シルヴィからではどんな表情をしているのか分からない。
「ルノー」
フレデリクに責めるような声音で呼び掛けられて、ルノーは「僕はフルーレスト」とだけ言った。
それに、ヒロインが呆気に取られてポカンと口を開ける。フレデリクは額を押さえた。
「えっと、何とお呼びしたら……」
「貴族の慣例通りに呼べばいいよ。そうだろ? リュエルミ男爵令嬢」
圧が凄い。シルヴィは口を挟むべきではないなと空気に徹することに決めた。
「うーん……。フルーレスト卿?」
こてんと絶妙な角度で首を傾げたヒロインに、シルヴィは凄いなと感嘆する。これは、流石のルノーも見惚れてしまうのでは? などと思ったシルヴィが間違っていた。
「殿下の趣味は変わっていますね」
「……は?」
フレデリクが石のように固まる。
「もう行こう、シルヴィ」
「え? でも、」
「勉強は“おしまい”するんだろ?」
「する!」
「続きは明日しようね」
「…………」
「シルヴィ?」
「……はい」
「うん、いい子」
世の中そんなに甘くはないのだ。しかし、ルノーの教えてあげようかという提案に頷いたのはシルヴィであるので、そこは自分の責任かとシルヴィは潔く諦めた。
机に広げてあった勉強道具を片付けていく。フレデリクが「待て、ルノー。お前はどうしてそう」云々かんぬん。いつもの事なので、シルヴィは気にせず勉強道具を抱えた。
「ねぇ、シルヴィ様?」
「うわっ!?」
「やだ~、そんなに驚かないで?」
「あ、あの?」
「貴女も私達と一緒なのかしら~?」
いつの間に隣に来たのだろうか。ヒロインがシルヴィの顔を覗き込んでくる。先程と雰囲気が全然違う。そこには、ヒロインではなくロラがいた。
ウキウキと目に見えて楽しそうなロラに、シルヴィはきょとんと目を瞬く。“一緒”とは、つまり転生者なのかどうなのかを聞いているのだろう。
シルヴィは困った顔で、首を傾げた。いったい何の話なのか分からないと示すために。それに、ロラは目を丸めた。
「あら? え? 違うの~?」
「えっと……」
「嘘でしょ。じゃあ、なんで?」
何で、ルノー・シャン・フルーレストが生きているのか。ロラは焦ったような。困ったような。そんな顔をした。
「私は、」
ロラが何かを言おうとした。シルヴィは何故か聞かなければいけない気がして、ロラと向き合う。
しかし、ロラの言葉は「ちょっと」というルノーの苛立たしげな声に遮られてしまった。ルノーに手首を引かれて、シルヴィの視線もロラからルノーに移る。
「馴れ馴れしいな。光魔法が使える白金持ちだからと調子に乗りすぎない事をオススメするよ」
ゲームで悪役令嬢が似たようなことを言っていた。いや、この貴族社会のルールからすれば、ルノーは間違った事は言っていないのだが……。
シルヴィは自棄にロラを敵視するなと、ハラハラしながら二人の顔を行ったり来たりとする。
「私、そんなつもりじゃ」
「シルヴィは伯爵家の令嬢だ。許可もなく、名で呼ばないように。分かったね? リュエルミ男爵令嬢」
「……はい」
冷たすぎて風邪引く。久しぶりにシルヴィは、そんな事を思った。
しょんぼりと顔を俯かせたヒロインに、シルヴィはオロオロとする。何かフォローした方が良いのだろうか。
「ここは、学園だろう。少しくらいはだな」
「殿下、僕はこれでも寛大ですよ」
「う、む……」
「失礼します」
ルノーはさらっとそれだけ言うと、フレデリクの横を通り過ぎる。ルノーに手首を掴まれたままだったシルヴィも半ば引き摺られるようにして足を出した。
「申し訳ありません。あの、失礼致します」
「あぁ、叱っておいてくれ」
フレデリクとすれ違う時にそんな会話をする。え? 私が? と口から出そうになって、シルヴィはすんでのところで飲み込むことに成功した。
図書館を出た所で、ルノーは足を止める。それに合わせて、シルヴィも立ち止まった。
ルノーと魔法科の命知らずによる喧嘩のせいで荒れていた図書館前は、とっくの昔に魔法の力で元通りになっている。閑静で美しい、落ち着く場所。
その筈であるのに、ルノーが無言なせいで妙な緊張感が漂っていた。シルヴィは恐る恐るとルノーの隣に並ぶと、顔を下から覗き込む。
ムッス~とこの上なく不機嫌そうな顔が見えて、シルヴィは“叱る”のではなく“宥める”必要があるなと息を吐いた。
「ルノーくん」
「……君は、もう少し自覚を持った方がいい」
「んえ?」
この不機嫌の原因が自分にあるなどと思っていなかったシルヴィは、間の抜けた声を出してしまった。そうか。私のせいか。シルヴィは「何の?」と努めて優しい声で問い掛けた。
それに、ルノーの眉間の皺が更に深くなる。何がそんなに気に入らないのか。シルヴィはお手上げだと眉尻を下げた。
「きみは、いや、ぼくが」
「うん?」
「うん。僕がいるからいいよ」
「えぇ? 何が?」
ちゃんと分かるように言ってくれと、シルヴィは渋い顔をする。
ルノーは自分の中で満足のいく結論が出たので、この話は終わらせ次の事を考える。渋い顔で見てくるシルヴィの眉間の皺を指先で解しながら、ルノーはロラの事を思い浮かべた。
「あの女に近付かない方がいいよ」
「何で?」
「聖なる一族の生き残りだから」
ルノーの言葉に、シルヴィは目を真ん丸に見開いた。何故なら、それはまだまだ先のシナリオで判明することだからだ。何故、ルノーがそんな事を知っているのだろうか。
「あれ程までに純度の高い光の魔力。僕の知る限り、持って産まれてくるのは聖なる一族くらいだよ」
「何で純度が高いって分かるの?」
「瞳の色が薄い桃色だっただろ?」
「うん」
「光の魔力を持つものは、赤い瞳で産まれる。純度が高ければ高いほど、白が混じるんだよ。だから、薄い桃色はかなりのものだ」
そんな設定あったんだ。シルヴィの記憶にはなかったので、単純に驚いた。まぁ、ヒロインは“光の乙女”であるので、純度が高いのは当たり前だろう。
ルノーがヒロインを敵視していた理由に合点がいった。魔王を屠ることの出来る可能性がある存在。確かに、関わりあいたくはないだろう。
「だから、近付かないようにね」
別にシルヴィはただの人間であるので、そこまで光魔法を恐れる必要はない。寧ろ、光の乙女は讃えるべき存在だ。
しかしシルヴィにとっては、そこまで親しくないヒロインよりも大切なのはルノーであった。なので、特に何も言わずに頷く。
それに、ルノーは満足そうにうっとりと目を細めた。シルヴィは味方なのだ。聖なる一族よりも魔物である自分の。
「それにしても、あの目」
「め?」
「うん。ガイラン公爵令嬢もよくするんだけど……」
「ジャスミーヌ様も?」
何だろうか。シルヴィは心当たりがなかったので、不思議そうに首を傾げた。
ルノーはシルヴィの頬に手を添える。親指でシルヴィの目元をスリッと撫でた。
「異物を見るような、目」
言葉の意味を理解した瞬間、シルヴィの肌が粟立つ。そうか。そうだ。乙女ゲームの内容を知っている二人からしたら、ルノーは異物でしかない。そしてそれはシルヴィも、だ。
やっと理解した。あの好奇心は、そういった感情の上に成り立っていたのだ。だから、逃げたい気持ちになる。
しかし、それは、あまりにも……。
「なんて顔をしているの」
「だって……」
「放っておけばいいよ。ほら、むくれないで」
シルヴィを宥めるように、ルノーの親指が今度は頬を撫でる。それに、シルヴィは目を伏せた。
「ベンチに行こう。購買部で好きな物を沢山買って」
「……うん」
「君らしくないな」
「……うん」
「心配になる」
困ったように落とされたそれに、シルヴィは視線を上げる。ルノーの瞳にほの暗いモノが揺れた気がして、シルヴィの中から怒りが飛んでいった。
「君が望むなら、」
「首はいらないの! 甘いものやけ食いしてくれる!」
「沢山買おうか」
こういう時は甘いものだ。シルヴィは一変してソワソワと嬉しそうなルノーの様子を見て、困ったように笑んだ。
ルノーとシルヴィが異物だと言うのなら、ロラとジャスミーヌとて同じことだ。何も変わらない。転生者である二人は、ゲームのシナリオを狂わせる存在でしかないのだから。