40.魔王と紳士の嗜み
面倒なことになった。ルノーはただシルヴィのために、精霊召喚の書物を読んでいただけであるのに。亭で読んでいたのが駄目だったのかもしれない。
「で? ジャアファル、今日は何用だ」
「ニノンがアミファンス伯爵令嬢の心配ばかりするもので。お見舞いに来た次第です」
「お前は共に行かなくとも良いのか?」
「積もる話もあるでしょうから」
ルノーの正面の席で隣り合って座るムザッファルとジャアファルが、そのような会話を繰り広げている。それを聞き流しながら、ルノーはページを捲った。
「いい香りですね、王様。本日のシーシャは、ブドウのフレーバーで?」
「そうだ。甘いものの気分でな」
あぁ、やはり葡萄の香りであったのか。ルノーは初めて見る水タバコに興味が引かれ、思わず顔を上げてしまった。
そんなつもりはなかったが、ムザッファルと目がしっかりと合う。亭で出会した時に交わした挨拶以来のそれに、ムザッファルは目を瞬いた。
「シーシャに興味があるのか?」
「……母国では見ないので」
「ふむ。ジルマフェリス王国では、何が主流だったか」
「パイプですよ、王様。因みにヴィノダエム王国では、今はシガーが人気と伺いました」
「誰にだ」
「それは、もちろん秘密です」
「だろうな」
ジャアファルは挨拶もそこそこに直ぐ本に視線を戻したルノーがやっと顔を上げたと、嬉しそうな笑みを浮かべる。それに、ルノーが深々と溜息を吐いた。
「僕に何の用?」
「おや? バレていましたか」
「視線がうるさい」
「何だ、やはりそうだったのか」
「私の用事は後でで構いません。シーシャに興味がおありならば、吸ってみられては?」
「タバコは好きじゃないんだ」
「それはそれは、どうしてでしょう?」
「苦いから」
簡潔で幼い理由に、ムザッファルもジャアファルもキョトンと目を丸める。独特の威圧感を持つ悠然とした態度を崩さない目の前の男は、そういえばまだ青年と呼ぶ年頃だった事を二人は思い出した。
「吸い慣れていなければ、そう感じるのは無理もあるまい。しかし、パイプタバコも甘いフレーバーがあったと記憶しているが」
「その通りです。ご自分の嗜好に合うものを探してみては如何でしょう。社交界では、そういった嗜みも重要視されるのでは?」
「……殿下と同じような事を言われる」
ルノーがうんざりとした様子で溜息を吐く。紳士の嗜みだと、フレデリクが噎せながらもパイプタバコを燻らせていたのを思い出したからだ。そのうち慣れるとか何とか。
「殿下……。フレデリク王子か?」
「そうです。昔から口煩くて堪らない」
「それは意外だ」
「口煩さで言えば、王様も負けておりませんよ。大人しく護衛されていろだの、もう少し慎みを持てだの、落ち着けだの。あぁ、やれやれ」
「このような人間にだけはならんようにな」
「肝に銘じておきましょう」
「おやおや、手厳しい」
あまり堪えていなさそうに、ジャアファルが飄々と笑う。それに、ムザッファルは呆れを滲ませ首を左右に振った。
「私のオススメは、バニラフレーバーでございます。最も甘いパイプタバコでして。バニラは最高級品を使用しておりますので、そういった場でも問題なく吸っていただけるかと」
「へぇ」
「やめろやめろ、客人相手に商売するな」
「おっと失礼、商人の性でしょうね」
「あわよくばが滲み出すぎているのだ」
「当然では??」
ジャアファルが心底不思議だと言いたげな顔で、小首を傾げる。それに、ムザッファルはニコッと笑みを返した。
「腹が立つからその顔はするなと、言い続けているのを忘れたか?」
「もちろん覚えておりますよ、王様」
語尾にハートマークでも付きそうな声音で、ジャアファルも満面の笑みを返す。ムザッファルの額には青筋が浮かんで見えた。
「余が相手でなければ今頃、処刑台の上だぞ」
「これからも末長く仲良くして頂けると幸いです」
「まったく……」
「ふふっ。ご注文の品々、問題なくご用意致しますのでご容赦を」
「仕事の腕だけは確かだからな、お前は」
「そうでしょうとも」
商人とは、こういうものなのだろうか。まるで口から先に生まれたような男だと、ルノーは胡乱な目でジャアファルを見遣った。どこ吹く風で笑顔を返されたが。
「ザフラをな。後宮の使用人として迎えようと考えておる」
「あぁ、なるほど。手元に置くには、それがいいでしょうからね」
「いえいえ、ルノー様。そうではありませんよ」
「……?」
「お手付き、ご存じですか?」
ジルマフェリス王国は、一夫一妻であるが聞かない話ではない。ルノーの周りにはいないが、愛人を囲っている貴族も中にはいるようだ。
しかし、ここはラザハル。一夫多妻が認められており、王もハレムを持っている。
「つまり、行く行くは側室にすると?」
「本人の意思は尊重したいが……。旧神殿に遣えていたという点でなぁ」
「意見が荒れているのですか」
「宮殿も一枚岩ではなくてな。妙な連中が近寄れんようにしたい。寵姫にして護衛で固めてしまえば、手出ししづらかろう?」
「まぁ、否定はしません」
「王様も心労が絶えませんね」
「この程度、何ということもない」
どこの国でも権力争いに躍起になる暇人は存在する。それに巻き込まれた結果、シルヴィは池に突き落とされたのだ。ルノーはその厄介さをよく理解していた。
ムザッファルは、ラザハルの第二王子だ。しかし、正室の第一子であり賢王の呼び声通りの男である。そのため、王を継ぐことを誰も反対しなかったそうだ。あくまでも、表面上は。
ラザハルの王子はムザッファル含め五人。今現在も裏では、様々な思惑が蠢いているのだろう。聖天女の保護を徹底しているのも。ザフラを寵姫にと考えているのも。無用な火種を生まないためであろう。
「神殿の使用人にしては?」
「それも考えたが……。彼女にとっての聖天女は、ターラではなくナルジスだろう? それに、精霊王を思い出す環境はよくないと判断した」
「あぁ、そうでしたね」
「後宮で仕事をしながら、必要最低限のマナー等を学んで貰う。でなければ、寵姫にしようにも母が納得せんだろうからな」
「王太后様は、しっかりした方ですからね」
「ははっ……。数多の正室候補を蹴散らし、寵妃に登り詰めた黄金の女豹だからな。知っておろう?」
「今でも黄金色の瞳に射貫かれると、幼少期に叱られて大号泣した在りし日を思い出しますよ」
「余もだ……。普段は優しい方なのだがなぁ」
先王と共にジルマフェリス王国に滞在されていた折、ルノーも王宮でお会いしたことがある。“まぁ、美しい黒髪”と、弧を描いた優し気な瞳の奥に灯る獰猛な光をよく覚えている。彼女を敵に回すと面倒そうだな、と。
ムザッファルは、思い出した記憶を振り払うように頭を左右に振る。この話は、終わらせる事にしたようだ。
「それで? ジャアファルよ、ルノー卿に何用だ」
「はい。此度の取り引きなのですが」
「お代ならば、余に請求しなさい」
「まさかまさか! とんでもないことでございます。しかし少々、色を付けて頂ければなと」
ジャアファルがワクワクと瞳を輝かせる。この男は刺激的な事を好むという従者の言葉が、ルノーの脳裏に過った。
「つまり?」
「是非とも! どのように魔界と平和条約を結んだのか。魔王とはどうような方なのか。諸々についてお聞かせ願えれば幸甚です!」
「ふぅん……。そういうこと」
「王様も興味があおりでしょう!?」
「少し落ち着きなさい。しかし、そうだな。興味は大いにある」
ムザッファルとジャアファル、二人の視線がルノーに向く。こういった時の会話の定型文は用意されている。それを話せば何も問題はないが……。ルノーは思案するように目を伏せた。