33.魔王と大冒険の果てに
まさか自分の目から涙などと呼ばれるものが出てくるとは。ルノーは、想像もしていなかった。
安心したように腕の中で泣き出したシルヴィの涙を指先で拭いながら、ルノーは湧き上がり続ける名も知らぬ感情を持て余す。溢れたそれは、溜息となって空気に溶けていった。
「シルヴィ様~!!」
シルヴィに負けず劣らず号泣するロラをリルが支えながら近付いてくる。「よ、よかったよ~!!」などと言うものだから、シルヴィの瞳から更に涙が流れた。
「いや、本当に良かった。しかし、予想だにしない盤面になったな」
リルの視線が、未だに現実に帰ってこれない精霊王を嘴でつつき続ける鳥に向く。まさに、“王は途方に暮れた”といった惨状であった。双方ともに。
「ん、ぐすっ、上げて落とすのが、一番ダメージを与えられるって、伯母様が」
「そうかぁ。まぁ、確かにダメージは凄そうだな」
「ちょっと、予定と違ったんですが。何というか、思ったよりも演技力があった? みたいで、ナルジス様に合わせました」
「本当よ~! 絶対に心臓が一回とまった」
「それは、私もだよ」
ロラとリルの言葉に、シルヴィは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「あああ、あんた! おっそろしい事するんじゃねぇよ!!」
「遂に世界は滅亡するんだと思った」
勢いよく走ってきたイヴォンとトリスタンが、真っ青な顔でシルヴィを見る。しかし、トリスタンはシルヴィと目が合うと、ドバッと音が聞こえそうなくらいに涙を流しだした。
「トリスタン様!?」
「し、しんぱいした、とても。変なことされなかったか?」
「そうだったわ~! 大丈夫!? 如何わしいことされてない!?」
「いかがわし、い……?」
何故そのようなことを聞くのかと、シルヴィは怪訝そうに眉根を寄せる。セイヒカは全年齢向けのはずであるのに。
ロラの如何わしい発言に、男性陣が目を真ん丸にして固まる。トリスタンはそこまでの意味を含ませ聞いてはいなかった。
「消そう」
「待って待って、ひとまず大丈夫。え? なぜ? いや、変なことはされてないんだけれど」
疑問符を大量に飛ばすシルヴィに、ロラとリルは顔を見合わせる。二人ともに苦笑すると、ロラはシルヴィに「十五禁なのよ~」と耳打ちした。
「とんでもない事実を知った。いや、なるほど。だからか」
「だからか??」
「何というか、ボディータッチが多くて。でも待てよ? それは、全年齢向けでも同じな気はする」
「ギリギリを攻めてくるからな!」
「確かに~」
コソコソと小声で話す女性陣に、ルノーの顔がどんどんと険しくなっていく。聞き耳を立てるのも違う気がして、ムスッと口をへの字に結んだ。
それに気付いて肩を跳ねさせたトリスタンが、何か話題を変える手段はないかと慌てる。シルヴィの足元に落ちていた本を見つけて、ひとまず手に取った。
「本? 何だろう、これ。文字……なのか??」
見慣れない文字に、トリスタンは首を捻る。それに気付いたシルヴィとナルジスが、同時に「ばぁーー!?」と叫んだ。
「おわっ!? なんだ!?」
シルヴィはトリスタンの手から無理やり日記を奪い取ると、それを持てる力すべてで遠くへ投げ捨てる。次いで、ルノーの服を両手で握った。
「お願いルノーくん! あれは燃やして!!」
「……? いいよ」
よく分からなくてもシルヴィにお願いされれば、ルノーは何だろうと叶えるだけだ。いつも通り指を鳴らして、日記を燃やしたあげる。
「あ、危ないところだった……」
「え? なになに~?」
「ええと、黒歴、じゃなくて、ナルジス様の日記です」
全てを察して、ロラとリルは「あぁ……」とだけ溢した。推し活日記は、誰にも見せない前提で成り立つものである。
「ナルジス!」
落ち着きかけた空間を壊すように、精霊王の声が響き渡る。ルノーはシルヴィを守るために、片手で自身の方へと引き寄せた。
「諦めの悪い」
「どうしてだ! 私のことを思い出してくれたのだろう? 何故そちらにいる? おかしい、どうして、どうして!!」
「やめなさい!!」
美しい薄紫色の鳥が、精霊王の前に降り立つ。その鳥に叱責された精霊王は、叱られ怯えた幼子のように身を縮めた。
「まさか、本当に? 本当にナルジスなのか?」
「そうだって言ってるでしょ! いい子だから、もうおやめなさい。彼女はシルヴィちゃんよ。ナルジスではないの」
「そんな、だって、わたしは、ちゃんと! 見つけたんだ。ナルジスと同じ澄んだ魂を……」
「同じじゃないの。違うのよ。似ているだけ。だって、私はずっと貴方を見てたもの」
精霊王は、両手で頭を抱え「では、では、私は、わたしのやってきたことは」とぶつぶつ呟き始める。それは、段々とナルジスへの怨み言へ変わっていった。
「お前が悪い」
「……え?」
「お前が! お前が最後にあんな事を言ったから! あんな事を言わなければ、私は! 私は、こんなに苦しまずに済んだのだ!!」
遂に精霊王は地に踞ると、慟哭した。耳をつんざくような悲痛なそれに、心を痛めるもの、呆れるもの、様々な視線が精霊王に向く。
「ファリード……?」
「お前が! 『死なないで』と! 『生きて』と! 言ったのだろう! 私に生の呪いをかけたのだ! お前は、お前は……」
「そんな……」
「ナルジス、お前は我が主。命令は、聞かねばならない」
精霊王が縋るように、ナルジスに向かって手を伸ばす。触れるか触れないかの位置でとまると、涙でぐちゃぐちゃになった顔に笑みを浮かべた。
「あぁ、ナルジス。頼む。頼む。私を愛してくれ」
憐れだ。ルノーは憐憫を滲ませ、精霊王を見遣る。後を追い死ぬことを許されず、化物に成り果てた者が、愛する者に死を乞うている。
これが、目的だったのか。永く求めていたものが、愛しい者からの『もういいよ』そのたった一言であったとは。
「お前だけ。この呪いを解けるのは、ナルジスだけなのだ。頼む。頼む……」
「だって、貴方は……。精霊王で、シナリオが、だって、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!!」
何に恐怖したのだろうか。鳥は精霊王から距離を取るように後退る。それを精霊王が逃がすまいと、両手で鳥の体を包むようにして捕らえた。
「あぁ、ナルジス。やっと、やっとだ! 私は、お前を見つけたのだな」
「ファ、ファリード……」
うっとりと狂喜を孕んだ瞳が弧を描く。もう後戻りなど出来はしないのだろう。
「うわぁ……。どうしよう。止めに入った方がいいのかな」
「シルヴィ様ってば、正気~?」
「でも、ここまで来て仲違いされると困りません?」
「それは困るな!」
「ですよね? どうします?」
「うう~ん……。どうしましょ~?」
「そうだな。妙案がある者!」
急に無茶振りをされたトリスタンとイヴォンが、ぶんぶんと首を左右に振る。ルノーの腕の中でシルヴィが、悩むように指を顎に添えた。それに、ルノーは仕方がないなと溜息を吐き出す。
「シルヴィ、おいで」
「うん? 分かった」
ルノーに手を引かれて、シルヴィは素直に付いてくる。それに、ルノーは満足そうに目を細めた。
「先手を打って、約束しておかないからだろ?」
精霊王の傍で足を止めたルノーは、呆れたように彼らを見下ろす。精霊王は、魔王からナルジスを守るように自身へ引き寄せた。
「っ!? ナルジスに近寄るな!」
「煩いな。僕はしたよ。ずっと一緒にいようと。死でさえも僕らを分かつことは出来ない。ねぇ? シルヴィ」
ルノーの視線が精霊王からシルヴィに向いて、シルヴィは目を瞬く。そういえば、意地でも離れないとルノーが言っていたなぁ、なんてことを思い出した。
「そう言われると……。うん、したね!」
「したのかぁ」
「ほんっとに!! シルヴィ様、そういう所ある~!!」
あの時は、こうなるとは思っていなかったのだ。そもそもとして、あの約束は今でも有効なのだろうか。シルヴィは、問うようにルノーを見上げる。
ルノーは目が合って、心底嬉しそうに目尻を下げた。蕩けるような吐息が溢れ落ちる。
「君の言う“大切”が、少しは分かった気がするんだ」
「うん」
「それがどれだけ増えようとも、僕は、僕はね」
シルヴィの頬に手を伸ばせば、嫌がらずに受け入れてくれる。それだけでもルノーは、クラクラとした優越感に支配されるのだ。
「それでも君を選ぶよ」
それが、ルノーの答えであった。
「シルヴィに聞いて欲しい話が沢山あるんだ」
君は楽しんでくれるだろうかと、分かりきっているはずの問いに嘲りと不安を同時に覚え。やっと君まで辿り着いたと、安堵するようにルノーは息を吐き出した。