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30.世話係と精霊王

 孤独だった。物心付く頃には、既にザフラはこの世界に一人きりなのだということを理解していた。

 ザフラは産まれて直ぐに孤児院の前に置き去りにされていたらしい。下層地区の孤児院であったために、環境は良くなかった。それでも、雨風が凌げるだけ恵まれているのだと周りは口を揃えた。

 侮られると、搾取される。ザフラは男のフリをして、必死に生きた。時には犯罪に手を染めることもあったが、間抜けな連中が悪いのだと自身の行いを肯定した。


「この! こそ泥の悪ガキが!!」


 十五歳のある日、盗みに失敗した。たった一つのパン。それが手に入れられずに、ザフラだけが捕まったのだ。逃げていく孤児院の仲間と目が合ったが、誰一人として足を止めてはくれなかった。

 木の空き箱に向かって、力一杯投げ捨てられた。体を強く打って、噎せる。息が上手く吸えなくて、ザフラは死ぬのだと思った。これまでの報いを受ける時が来たのだと。


「クソみてぇな人生だった……」


 最後に出てきた言葉は、それだけ。


「騒がしいな。何をしている?」


 涙で滲んだ視界の中で、美しい白金色の髪が揺れた。パン屋の店主は酷く情けない声を上げると、そそくさと逃げていく。

 紫のヒマティオンを優雅に靡かせ、男がザフラの方を振り向いた。この世のものとは思えない整った顔立ちの男は、ザフラと目が合うと怪訝そうに眉根を寄せる。


「また、違う。違うが何だ? どこかで」


 ザフラの視界がどんどんと霞んでいく。きっと迎えが来たのだ。天国とやらに行ける気はしないが、少しは楽になれたりするのだろうか。


「そうか。お前は、あの時の……」


 男の声音が微かに驚いたように聞こえた。ザフラの記憶にこんな男は存在しない。きっと人違いだと、そんなことを思いながらザフラは目を閉じた。


 次に目を開けたザフラの世界は、一変していた。綺麗に整えられた天蓋付きのベッドに、上質な衣服。何よりも綺麗な水と食べ物に困らないということが、ザフラには信じられないくらいに幸せだった。


「どうして、こんな。ぼくに何をしろって言うんですか」

「さてな。何故なのだろうか。私にも分からない。お前ではないというに……」

「はぁ? そもそも、あんたは何者なんです?」

「私は、精霊達の王だ。皆は精霊王と呼ぶ」

「せっ!? えぇ!?」


 精霊王は、ラザハルの英雄だ。下層地区に住む者でも知らなければ鼻で笑われるだろう。それくらいに、有名な存在であった。

 初めは警戒していたザフラであったが、その内にきっと何かの気紛れなのだろうと結論付けた。気が変わって捨てられるまでは、この生活を満喫してやろうと心に決めた。

 出来れば気に入られて、ずっとこのままが一番いい。ザフラは精霊王のご機嫌取りをしながら、自分の置かれている状況を理解していった。


「ナルジス様ねぇ」


 精霊王は大広間に飾られた肖像画を眺めて過ごすことが多かった。長ければ、一日そうしていることもあった。


 気付けば一年が経っていた。それだけ一緒にいれば、情も生まれる。精霊王もポツリポツリとナルジスのことや、自身のことをザフラに話してくれるようになっていた。

 時折、精霊王はザフラのエメラルドグリーンの瞳を切なそうに見つめてくることがあった。ザフラはそこまで鈍くはない。直ぐにナルジスの瞳と重ねているのだと気づいた。


「ぼくじゃない。精霊王様が求めているのは、ぼくじゃないんだ……」


 いつの間にか肖像画と自分の違いを探しては、落ち込むようになっていった。肖像画の彼女は癖のあるふわふわとした黒髪をしているが、ザフラの髪は癖の一切ないストレートで茶色だ。

 丸みのある優しげな瞳がこちらを見ている気がして、ザフラは思わず目を逸らした。つり目気味な自分の目を何とかしたくて、目尻を指で下げてみる。ザフラは、真剣だった。


 ザフラは春で十八歳になった。その頃から精霊王は、機嫌よく出掛けることが増えていた。そして夏の暑い日、ザフラに言った。


「ナルジスを見つけた! やっとだ! やっと会える!!」

「……え?」

「早急に迎えに行ってくるよ。ザフラ、ナルジスに良くつかえるように」


 精霊王のこんなにも嬉しそうな顔をザフラは初めて見たのだった。そして、本当の意味で理解する。自分では、ダメなのだと。


「畏まりました」


 ザフラはただそう返し、微笑んだ。これで、良い。あの生活から精霊王は、ザフラを救ってくれたのだ。精霊王の幸せが、ザフラの幸せなのだから。


 それなのに。精霊王が連れてきた少女は、何も覚えてはいないという。その内に記憶が戻ると精霊王は言ったが、一向にその気配はなかった。

 そして、ザフラは気付く。日がな一日、窓の外を眺める少女が精霊王ではない誰かをずっと探していることに。

 同じ女だからだろうか。会話などなくとも分かってしまった。その横顔は、確かに恋する乙女のものであると。


「どうして……」


 自分がどれだけ求めても手に入らない全てを持っている癖に。精霊王を唯一、幸せに出来る存在である癖に。どうして、精霊王ではない誰かを求めることなど出来るのか。

 ザフラの胸中には、怒りが芽生えた。それでも精霊王が幸せそうに見えて、ザフラは何も言えはしなかった。


「あぁ、ナルジス……。全て君と同じなのに、瞳だけが違う。何故だ。今度こそ完璧であった筈なのに。記憶も上手く戻らない。なぜなぜなぜ!!」


 その日、精霊王は久方ぶりに大広間の肖像画の前にいた。苦悶に満ちた声音に、ザフラは思わず隠れて聞き耳を立ててしまう。


「あの黄緑色の瞳は、お前の妹のものだ。血筋なのだから当たり前ではあるが……。あぁ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!! 完璧でなくては、お前ではないではないか!!」


 精霊王は、狂っている。そんなことは、ザフラにだって分かっている。それでも、そうだとしても。幸せであって欲しかった。


「笑ってくれ、ナルジス。また名を……。私の名を呼んで、笑ってくれるだけでいい。頼む、私を――」


 気付けばザフラは走り出していた。あの女への怒りで頭が可笑しくなりそうだった。ザフラには覚悟がある。精霊王が望むのならば、自身のエメラルドグリーンの瞳を差し出す覚悟が。

 ノックもなしに、あの女の部屋へと飛び込んだ。怒りのままにザフラは言葉を放つ。しかし、返ってきたのは冷ややかな声音だった。

 もう、縋るしかなかった。ザフラには、それしか手がなかったのだ。


「ザフラ、貴女の望みとわたくしの望みは違うの。わたくしの欲しい“愛”は、ただ一人。彼からのものだけ」


 その表情から声音から、吐息にさえも愛しいという感情が溢れていた。心の底から愛されている。幸せしか知らないとでも言いたげな澄んだ黄緑色の瞳が、緩やかに弧を描く様がザフラを酷く傷付けた。

 まるで自分が悪者にされたようだった。そして、恐ろしくなった。あまりにも自分と違い過ぎている。最早あれは、自分とは違う生き物のように見えた。

 少女と目を合わせることが出来なくなった。あの澄んだ瞳に映ると、自分が汚いもののように見えてしまうのだった。



******



 いつも通りの朝だった。朝食の用意に取り掛かろうとした瞬間、外で爆音が鳴り響いた。何故だろうか。ザフラは瞬時に、“彼”が来たのだと悟った。


「ザフラ!」

「せ、精霊王様!」


 助けに来てくださったのだとザフラは、ほっと胸を撫で下ろす。しかしそれは、「ナルジスを守れ!」という言葉で一変した。

 精霊王はザフラの返事も聞かずに、直ぐに姿を消す。ザフラの伸ばした手は、虚しく空を切った。


「……、畏まりました」


 そう言ったザフラの声は、涙に濡れていた。それでも、ザフラはナルジスの寝室へと駆け出す。少女を奪われる訳には、いかなかった。


「ナルジス様!」


 飛び込んだ寝室は、既にもぬけの殻であった。その事実に、ザフラが不自然に息を吸う。早鐘を打つ心臓を落ち着けるように、胸元に手を持っていった。


「ど、どこに……。さが、さがさないと」


 フラフラと覚束ない足取りで、ザフラは踵を返す。足が縺れて、転んでしまった。


「どうして、どうしてよぉ……っ!!」


 邪魔をしないで欲しい。精霊王の幸福を。願って何が悪いのか。ザフラは起き上がると、涙を拭う。歯を食い縛り、再び走り出した。


「はっ、はぁ、なにこれ?」


 大広間の像がいつもと違うことに気付けたのは、奇跡であった。見覚えのない階段に、ザフラは不安に唾を呑む。それでも、震える足を踏み出した。


「な、ナルジス様? ナルジスさま!」


 恐怖に止まりそうになる足を無理矢理に動かして、最奥にまで辿り着く。開いていた扉から中を恐る恐ると覗き込んだ。

 少女の背中を見つけ、ザフラは詰めていた息を吐きだす。何処からか鳥の羽ばたく音が聞こえたと思えば、少女の腕に尾の長い美しい薄紫色の鳥がとまった。


「あの、ナルジス様?」


 あれはおそらく、精霊だ。何がどうなっているのかと、ザフラは少女に声を掛けた。少女が緩慢にこちらを振り返る。


「あら、ザフラ!」


 少女が今までに見たこともないような快活さでもって、穏やかに笑った。


「もう大丈夫だからね」

「え? えっと……」

「私に任せておきなさい!」


 そう胸を張った少女は、ザフラの手を取り来た道を引き返していく。大広間まで戻ってくると、ザフラの頭を優しく撫でた。


「貴女はここに居てね」

「いえ! ぼくは!」

「私は、精霊召喚師よ。彼と一緒にいないと」

「え、あ、では、出口まで案内」

「あははっ、どれだけ私がここで過ごしたと思ってるの」


 少女は最後に「大丈夫よ」と念押しすると、薄紫色の鳥を引き連れて颯爽と走っていく。その姿は、精霊王から聞いていた通りのナルジスそのものであった。

 どうなっているのか分からない。しかし、これで精霊王の望みは叶うのではないかと、そんな期待がザフラの胸中に渦巻く。


「あぁ、やっと……」


 嬉しさや虚しさ、様々な感情が混ざりあった複雑な涙がザフラの頬を濡らしていった。

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