09.魔王と様々な助け
あのたぬきの手腕は相も変わらず恐ろしい。ルノーが策を考える間も許されずに出発が決まってしまった。しかし、到着してからのことは一任されている。船上で纏めなければ。
ルノーは、着慣れない商人服に袖を通しながら溜息を吐き出した。使用人がいなければ、完成形が分からなかったかもしれない。
「違和感が凄いな」
姿見に映る自分の姿に、思わず眉を潜める。ちゃんと商人に見えるのだろうか。
議場に入ってきたニノンは、既にクラリスから事情を全て聞いたらしく、覚悟も用意も出来ていると言った。
正規の手順ではないため、王侯貴族としてではなくニノンの知り合いの商人という体で入国するほかない。そのため、こうして着慣れない服に着替えているのだ。
配役はリルがいの一番に手を上げ「私は護衛になろう」と言い出したので、自然にそのまま挙手制となった。
「お似合いでございます」
「そうかな。まぁ、可笑しくないならいいよ」
使用人の本音か建前か。判断しかねるそれを軽く流すと、ルノーは議場へ戻るために足を出す。使用人は恭しく辞儀をすると、扉を開けた。
議場には既に支度を終えたトリスタンが落ち着かない様子で椅子に腰掛けていた。ディディエとガーランドに挟まれ、何やら励まされている。いつものあれかと、ルノーは溜息を吐いた。
「君の自信はいつになったら付くんだろうね」
「るるる、ルノー卿」
「るが多いな。僕の従者役なら、もう少し胸を張ることだね」
「か、畏まりました、ルノー様……」
「落第点だね」
「うぐぅ……」
すげないルノーのそれに、トリスタンは机に沈んだ。
「まぁ、トリスタンはやれば出来る子だから」
「俺はやればできる」
「そうです。いつも自分が使用人にして貰っているように兄上にするのですよ」
「がんばる」
二人はもはや慣れたもので、気合いを入れるように一発ずつトリスタンの背中を軽く叩いた。
「……何やってんですか」
その光景を見て引き気味に部屋へ入ってきたのは、侍女のお給着せ姿のイヴォンであった。彼は王女殿下から離れる訳にはいかないと、この配役を譲らなかったのだ。
間を置かずに、騎士姿のリルと商人姿のロラが一緒に入ってくる。二人は廊下で出会したようだ。
「おや? 我々が最後か」
「お待たせしてしまいましたね~」
「いいえ! 全く待っていません」
直ぐ様イヴォンはリルに近づいていく。イヴォンの服装を目に留めて、リルはふわっと微笑んだ。
「とっても良く似合っているな、イヴォン」
「え!? あ、その、ありがとうございます」
途端に頬を赤らめもじもじとし出したイヴォンにロラは、おや~? と恋の気配を感じて目を細めた。これは、イヴォンルートに入ったのだろうか。
「リル様ったら~」
「……? 可愛いだろう?」
「あぁ、うん。そんな感じなのね」
全てを察して、ロラはイヴォンの片恋を影ながら応援しようと心に決めた。
「イヴェットと呼んだ方が良いだろうか?」
「それは無いでしょ。ボク、あーいや、私のことはイヴとでも」
「それもそうだな。私のことはいつも通りリルと呼ぶんだよ」
「間違っても殿下とは呼ばないようにしますよ、リルさん」
リルとイヴォンは、随分と気安い間柄になったようだ。ロラは二人の様子を微笑ましそうに眺めていたが、「では」という伯爵の声に思考が強制的に切り替わる。
「最後に面白い情報を一つ」
「まだあるので?」
「実はただの噂話でしてね。着替えを待つ間に、信憑性を確かめていたのですよ」
伯爵はニノンへと目配せをする。ニノンは一つ頷くと、顔を正面に向けた。
「実は今、ラザハルは一つ困り事を抱えております」
「困りごと?」
「我が国に聖なる乙女伝説があるように、ラザハルにもそういった話がございます。精霊王を召喚できる唯一の女性、聖天女伝説です」
それに、ロラが大袈裟に反応を示す。それを横目で確認して、ルノーは再びニノンへ視線を戻した。
「その聖天女が現れたそうなのです。しかし、未だ精霊王の召喚には成功しておられないようで……。首都では妙な噂が広がっています」
「どのような?」
「“精霊王様はずっと人間界に留まっている”、と。今は何処にあるかも分からない旧神殿で、誰かをずっと待っていらっしゃるそうです」
「誰か……」
「それが、待ち人の名は誰も口にしようとしないのです。なので、私には分からないのですが……」
あの場にいた者達の脳裏に、“愛しいナルジス”というあの男の声が浮かび上がる。
「ナルジス……」
「どうした、ベルトラン」
「いえ、私の愛娘の名はシルヴィですので」
「……? そうだな」
伯爵がどの程度ラザハルの情報を収集しているのかをルノーは知らないが、ナルジスという名に心当たりがあったとしても驚きはしない。
陛下もそう考えているのか訝しげに伯爵を見たが、その視線を伯爵が流したので追求することはなかった。
「この情報をどうするかは、お任せしますよ」
「……有り難く頂戴しておきます」
「それはそれは、お役に立てて光栄ですな」
見えない火花が伯爵とルノーの間に散ったのだった。
陛下と伯爵が見送りに来ると目立つということで、王宮で別れた。その時、フレデリクは不安そうにジャスミーヌは悔しそうに、我々も目立つからと見送りは断念する流れになったのでいま港にはいない。アレクシは何でも渡したい物があるとかで、ついてきている。
港には、立派な帆船が停泊していた。ルノーはそれを見上げ「キャラック船か」と呟く。
「初めて見ました」
「僕も実物を見たのは初めてだ」
「凄い……」
トリスタンは感嘆の息を吐き、小さな少年のように目を輝かせながら帆船を見つめていた。その横でリルも、「船に乗るのは始めてだ!」と胸を踊らせている様子が隠しきれていない。
そんな場合ではないのに。それは分かっているが、ルノーも興味は引かれた。何故だろうか。嗅ぎ慣れない磯の香りと潮風が、妙な感覚にさせる。どこか非現実的だ。
――――凄いね! ルノーくん!
弾んだ声が聞こえた気がした。それに、パッとルノーは顔をそちらへ向ける。澄んだ黄緑色の瞳が煌めく様が、どうしようもなく……。
「シ、ル……」
シルヴィ。名を呼ぼうとして、最後までは続かなかった。こちらに向かって笑いかけたシルヴィが、霧のように消える。それにルノーは、静かに目を伏せた。
「大将ー!!」
ここ数ヶ月で聞き慣れてしまったそれに、ルノーは顔を上げる。何故かユーグがこちらに向かって大きく手を振りながら走って来るのが見えた。
「よかった! 何とか間に合ったな!」
よほど慌てて走ってきたのか、汗をかいている。額から滑り落ちたそれをユーグは、白いローブの袖で乱雑に拭った。それにルノーが渋い顔をする。
「ハンカチを持ち歩くように言った筈だよ」
「今それ言う? あと、ハンカチはポケットに入ってるよ。一回も使ってないけど」
「意味がない」
ルノーの呆れたような溜息をユーグは気にした様子もなく歯を見せて笑った。いつものやり取りなのだろう。
「それで? どうしてここにいるの?」
「そうそう。大将に渡したいもんがあってな」
ユーグはローブのポケットに手を入れながら「何か知らんが、ラザハルに行くことになったんだろ?」と器用に方眉を上げた。
おどけたような雰囲気の中に、心配や疑心が混ざって見える。本気で詳しい事情は知らないのだろうことが窺えた。
「まぁ、色々あってね」
「あっそ、土産楽しみにしてるぜー」
「買う暇があればね」
「そこは意地でも買ってこいよ」
可笑しそうに笑ったユーグが、ポケットからパンパンに何かが入った小袋を一つ取り出す。それに、ルノーがきょとんと目を瞬いた。