01.モブ令嬢は三年生
やめて。いやだ。涙で揺れるシルヴィの視界の中で、ルノーが地に膝をついている。
ポタッ、ポタッ、一定の間隔でルノーの血が顎から滑り落ちては、地面を赤く色付けていた。額を切ったのだろうか。出血量が多い。
「ルノーくん……っ!!」
シルヴィは必死にルノーに向けて腕を伸ばした。しかし、手は空を切るばかりで。いつものぬくもりが触れることはなかった。
「離して!!」
怒りに任せて、シルヴィは後ろの人物に向けて叫ぶ。力の限り暴れてみたが、自身を抱えている腕の拘束が弛むことはなかった。
「この……っ! 絶対に許さない!!」
涙に濡れるシルヴィの黄緑色の瞳が、ほの暗く翳る。鋭く睨まれたその人物は、ただ悲しげに笑むだけだった。
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サマーバケーションに入る前日。終業式や学級活動を終えた生徒達は、早々と寮に戻り帰省の準備をする者。教室に残り会話を楽しむ者。食堂へ行きお茶を楽しむ者と、各々自由に過ごしていた。
シルヴィはいつもの校舎裏でルノーから届いた手紙を読み終わり、苦笑を漏らす。入学前に届いていた手紙よりかは、充実した毎日を送っている様子であったが……。
サマーバケーションが近付くにつれ、『会いたい』『もう無理』『限界』『一目だけでも』と禁断症状のようになってきていた。
「心配だ……」
それは、フレデリクも同じ気持ちであったらしい。明後日に皇太子殿下主催の小さなお茶会が開かれることになっている。
シルヴィの招待状には、『必ず参加するように。くれぐれも宜しく頼む。本当に』と記されていた。切実すぎるそれに、ちょっと引いたのはシルヴィだけの秘密だ。
そのため、シルヴィは明日に王都のタウンハウスへと移動する予定になっている。他の招待されている面々も概ね同じのようだ。
内容とは違い、お行儀の良い美しい筆跡にシルヴィは目を細める。最後に『好き』の文字を指先でなぞり、封筒へと丁寧に戻した。
「シルヴィ様~」
おっとりとした声に名前を呼ばれて、シルヴィは顔を上げる。そこには、疲れ果てているロラの姿があった。
「ごきげんよう、ロラ様」
「ご機嫌じゃないよう~……」
「あらぁ……」
ロラがベンチの空いていた隣に腰掛ける。シルヴィ達は三年生になり、彼女が一年生として入ってきてしまったのだ。
「フレデリク様、帰ってきて~!!」
「そんなに大変なんですか? 生徒会」
「大変っていうか~。言うこと聞いてくれないっていうか~」
「会長のガーランド様は生きてますか」
「ディディエ様のお陰で? トリスタン様もギリギリ生きてる~」
「なるほど」
「まぁ、それもそれでお腹いっぱいだけど~……」
「あぁ……」
ロラの目が死んでいる。それに、シルヴィは気遣わしげな顔をした。
「ロラ様!!」
「げっ!?」
ロラを叱りつけるような声音に、シルヴィは目を丸める。そこには、渦中の人物イアサント・リナン・ジルマフェリス王女殿下が立っていた。
少し大人っぽい顔つきに成りはしたが、まだまだ幼さの残る丸々としたオレンジの瞳。頭を飾るフリルが可愛らしいヘッドドレスに目がいってしまう。
「やはり、ここで怠けておられたのですね!」
「いやいや、休憩時間なんですけど~」
「もう終わりですわ!」
「嘘でしょ……」
ロラの口から魂が出ている気がする。ガーランド曰く、“やる気があるのは大変素晴らしいことですが、空回っているのは否めません”とのことだ。
「あら? シルヴィ様もいらっしゃったのですね?」
「そうですね。最初からいました」
「お暇そうで、羨ましい限りですわ」
あからさまな敵意の滲むそれに、シルヴィは笑顔を返しておいた。何とイアサントはまだ諦めがつかないらしいのだ。
ルノー本人が不在の争いに何の意味があるのやら。シルヴィは相も変わらず完全スルーを貫いていた。誰が相手であろうとも。
「ぐっ! その余裕そうな顔が嫌いです!!」
「ド直球」
「ね~……。私が仕事に戻るわ」
「貴重な休憩時間なのに」
「それな~」
ロラが半泣きで立ち上がろうとした時であった。イアサントの後ろから「王女殿下」と甘やかな声が聞こえてくる。それに、イアサントは一気に狼狽えだした。
「楽しそうですね。オレも入れて頂けますか?」
「ディディエさま……」
「何です?」
うっとりと瞳を細めるディディエに、イアサントは顔を真っ赤にする。何度か口を開け閉めすると、耐えられないという顔をした。
「わ、わたくしはもう戻りますのでっ!!」
それだけを叫ぶと、凄まじい勢いで走り去ってしまった。押すのはいいが、押されるのは弱いらしい。
「愛くるしい」
イアサントの背中を見送ったディディエは、惚けたようにそう吐息をこぼす。お約束になりつつあるこのやり取りに、シルヴィもロラも生暖かい目になってしまうのは許して欲しいと思っていた。
「おっと、駄目だ駄目だ。ロラちゃん」
「は~い」
「ちゃんと休憩するようにって、会長からの伝言だよ~」
いつもの軽い調子に戻ったディディエに、シルヴィとロラも現実に戻ってくる。次いでロラは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「お言葉に甘えま~す!」
「そうして~」
「良かったですね」
「ほんとよ~」
ロラは大きく伸びをしながら深々と溜息を吐き出す。脱力したように、ベンチの背に凭れた。
「シルヴィ嬢、ごめんね」
「え? いえ、ディディエ様が謝ることなんて何も」
「オレに任せてよ~」
「うん?」
「この一年で、必ず口説き落としてみせるから」
ドロリとした独占欲が滲む声音とは裏腹に、ディディエがニコッと爽やかに笑う。それにシルヴィは、「あ、あぁ、はい。応援してます」としか返せなかった。
「さて! じゃあ、オレは追いかけっこでもしてこようかな~」
「追いかけっこ……」
「得意なんだ。姉さんで鍛えられたからね」
「そうですか」
楽しげに「じゃ~ね」と手を振るディディエに、シルヴィもロラも手を振り返す。どちらを応援するべきだろうか、と。
「ヤベ~わ」
「何だか、日に日にパワーアップしてません?」
「どっちが?」
「どっちも……」
「ははっ、はぁ~~」
「お疲れ様です」
今頃、生徒会室で死んでいるであろうガーランドとトリスタンにもその言葉を送る。今年の生徒会は早くも波乱に満ちているようだ。
「シルヴィ様は~、相変わらず夢見が悪そう」
急に変わった話題に、シルヴィはきょとんと目を瞬く。ロラは自身の目元を指差しながら「隈」とだけ言った。それに、一変してシルヴィは苦く笑う。
「夢の内容は、覚えてないんですけどね」
「魘されてるって、クラリス様が心配してたわ~」
「そう、ですね……」
心配そうに眉尻を下げたロラに、シルヴィはもごもごと口ごもる。何も返せる言葉がないのだ。
夢見が悪い原因は不明。月に数回が、週に数回に増え、ここ一週間は毎日のように魘されていた。色々と試してみたが、改善の兆しは一向に見えない。
「何なのかしらね~」
「環境が変われば、改善するかもしれませんから」
「だと良いんだけど~」
いつも夢の内容は覚えていない。しかし夢を見る度に、どんどんと不安が胸中に溜まっていく。今にも破裂してしまいそうで、焦りに似た何かが足に纏わりつくのだ。
不快なこれを何と呼ぶのが相応しいのだろうか。シルヴィは、答えを見つけられずに溜息を吐き出した。
「大丈夫、きっと」
自分に言い聞かせるように、口癖と化した言葉をシルヴィは口にするのだった。