(5/16)夫が降格に。どうしよう!!
6月。
松桜高等学校の教諭、高橋是也の降格処分が発表になった。9月1日『講師』に降格である。
学校主任を外され、部活動の顧問も辞めさせられる。出勤は月曜日から水曜日まで。木曜日と金曜日は学校に来なくていいということだろう。
よりにもよって紫陽はそれを仲良くなった在校生徒、朝比奈怜から聞いた。
「お姉さまっ。学校のホームページにこんなのがっ」
真っ白になる。
『え? どんな問題をしでかして?』と思った。
そんな馬鹿なである。あんな真面目に務める教師他にない。
確かに『得体の知れない鬼太郎』『スカした鬼太郎』『友達のいないスナフキン』と生徒の評価は散々だが、真面目すぎるからである。
自転車を懸命に走らせて夫の元へ走った。
タカハシはポツネンとリビングのソファーに座っていた。
もう夜なのに電気もつけてない。
月の光が夫の白い頬を照らしていた。
靴を放り投げるように脱ぎ、玄関から無我夢中でリビングまで走ると「是也さんっ」抱きつく。
「あのっ。朝比奈さんから聞いてっ。どうしてですか!?」もう紫陽パニックである。「もしかして生徒と結婚したからですか!? 在学中に不純異性交遊してたと思われたんですか!? そんなっ。告白すら20歳を超えてなのに誤解ですっっ。私上の人に言いにいきますっ」
是也に驚かれた。
「なんのこと……?」
スマホの学校ホームページを見せる。
「ああ……」是也が小さな声になった「おかしいな。発表自体は来月のはずなんだけど……」
左手で髪をかきあげる。考え込むときにするクセだ。
「ねぇっ。『講師』って!? 降格処分ですよね!? 何でですかっ。理由はなんですか?」
タカハシが苦しそうな顔になった。
「それがね……言えないんだよ……」
「は!? 言えないって!? 私たち夫婦じゃないですか! 隠し事は無しですよ!!」すがり付いた。
「ああ……うん……そうだ……。明後日ね。本部長にこの件で呼ばれているんだよ。紫陽も一緒にくる?」
本部長!?
「ほら。この学校『大里会 松桜高等学校』でしょ? 『大里会』は高校2校。認定子ども園、小学校中学校大学と、塾も経営してるでしょう? そこの本部長と統括部長に呼ばれているんだよ……」
ええええええ!? 校長すっ飛ばして是也さんが直接注意されるってこと!? そんな大事なの?
膝がガクガク震えた。
是也は辛そうだ。
その日紫陽はタカハシの家に泊まった。眠る時も抱きついて離れなかった。是也に頭を撫でられて「大丈夫……大丈夫だから……」と言われながら短い眠りについた。
◇
「え!? なんでなんですかっ?」
翌々日紫陽は再びパニックになった。
なぜか『統括部長、本部長直々の面談(おそらく戒告)』に例のラメラメブルードレスを着るはめになったからだ。
戒告受けるのに奥さんがこんな華やかなドレスきちゃあダメでしょう!? どっちかというと『総丸デパートの青池さん』みたいな真っ黒なスーツでしょう!?
と思ったのだが「それがね……ホテルで話すから浮かないような服でって指定で……」
「はっ!?」
訳もわからず赤坂に連れていかれた。
場所は赤坂にあるホテルの中華飯店だった。個室を取ってあるのだという。
確かにドレスの方がここでは浮かないだろう。いつもの『ギャルギャル胸ドバーン』は論外である。
『とにかく是也さんの勤務ぶりをアピールしよう。なんとか降格を取り下げてもらおう』と思いつめて席につくと(ここも給仕が椅子を下げてくれる店だった)意外な人がやってきた。
「よぉ〜。カブラギ」
あっ!! サトル!!!
◇
ほとんど色の抜けた髪を今日はそこそこセットして久保悟が立っていた。なんだぁ? コイツも戒告!? 是也さんと違ってお前はいくらでも『戒告』理由がありそうだけどなぁ!
相変わらず高そうなスーツだ。
後ろに上品そうな男性と女性がいる。2人とも55歳から60歳というところだろうか。
「これ。オレの親父とマリア〜」
え? 『マリア』ってサトルのお母さんだよね?
『オレのマリア』。松桜高等学校の生徒なら誰でも知っている有名人であった。
サトルが授業中しょっちゅう話すからだ。
『オレのマリアがこの間自転車に乗った瞬間コケた』とか『オレのマリアが大根の漬物を買いに行ってきゅうりの漬物買ってきた。間違いすぎじゃね?』みたいな面白話である。
紫陽も『オレのマリア』には勝手に親しみを持っていた。なんか『サザエさん』みたいな女性を思い浮かべていたが、実際のサトルの母はふくよかではあるがキチッとした感じの人だった。
『でもどうしてサトルのご両親がこの席に?』と不思議に思った瞬間にタカハシに言われた。
「紫陽。こちらが久保統活部長」サトル父を手の平を上に向けて示す。
はぁ!?
「それで。こちらが久保真理亜本部長だよ」
次にサトル母を手の平で示した。
はぁぁぁぁぁ!?
「これが妻の紫陽です。本日はお招きいただきありがとうございます」
タカハシがお辞儀したので紫陽も慌てて頭を下げた。
◇
ホテルの中華飯店でサトル大爆笑である。
「そりゃあ悪かったなぁ!! カブラギ!!!」
「『悪かったな』じゃすみませんっ!!!」
お腹抱えてヒーヒー言ってる。
『あらあら』という感じでサトルの父母が2人を見ていた。
「いっや。悪かった! まさか顔合わせの前にホームページが更新されるとは思わなかったぞ。タカハシあれだよなぁ? ホームページに載るのは夏休み始まってからの予定だよなぁ?」
タカハシがため息をつく。
「うん。終業式の朝会で生徒に発表されてからホームページの流れだ。事務員さんのミスだろう。学校としても困るよ」
「そら、あれだわ。本部長から事務に注意してもらわないと、なぁ〜? 本部長!?」と母親のマリアに言った。
「総務部長に言っとくわ」とマリアがうなづいた。
タカハシに小さな声で詫びられる「ごめんね。紫陽。余計な心配かけたね」
紫陽も小声で返した。「ほんとですよっ。なんでご両親のこと教えてくれなかったんですかっ!」
ここ2日生きた心地がしなかったというのに!
「オレが『絶対言うな』って止めてたんだぞ〜」サトルが小籠包に箸を伸ばしながら言った。
「何も知らせないで会わせた方が面白いだろ〜!?」
サトルッッッッッ。
ほんっっっっとお前ブッッっ飛ばすぞ!!!
……というわけにもいかず笑顔を張りつけて会釈した。
タカハシは『降格』ではなかったのである。形式上は『降格』だが、実際は本部の仕事を兼務するために学校の仕事を整理されたのであった。
月曜日から水曜日までは学校で現国を教える。当面は木曜日から土曜まで本部長の秘書業務をするということだった。
「ゆくゆくはこいつに『本部長』になってもらうからな〜」
紫陽はポカンと話を聞いた。
もう何年もタカハシはこの『本部への昇進』を断り続けたのだという。
『自分は一介の教師に過ぎないし、学校をまとめる仕事などできない』と言い続けた。
本部長となれば高校のみならず子ども園から大学はては経営する学習塾までのまとめ役。校長すっ飛ばして別ルートにのることになる。
「荷が重すぎると思ってね……正直おとといも電気をつけ忘れるほど考えこんでしまったんだ」
そうだったのか〜。
サトルがフカヒレスープを皿にすくいながら言った。
「ま。オレも後任の目処さえ立てば『講師』だぁ」
つまりこういうことだった。
サトルのひいおばあさんの名前が大里栄。松桜高等学校の創始者である。
息子の大里彦左が現在の会長。妻の海子が副会長。
彦左には1人娘がいた。それが真理亜。サトルの母である。嫁いだので姓は『久保』
会長と副会長が職を辞せば、サトルの両親が会長と副会長に繰り上がり昇進。
空いたポストにサトルと是也が着く……という算段になっているのだという。
「まずは業務を覚えるために秘書からってことだな〜」
◇
それにしてもサトルが母校の経営者一族だったとは……。
まあ……確かに……あの常軌を逸した金遣い。本物のおぼっちゃまだからこそである。
紫陽なら1000円のアクセサリーですら何時間も悩んでしまう。
もし『デパートの外商』が家を出入りするような生活をしていたら。お金を使うことに何の躊躇もなかったろう。実際の紫陽は貧困すれすれの母子家庭だ。
『恵まれている人っているんだな〜』と思ったらため息ばかりがでた。
「あの……つまり……サトルさんが高校の数学教師をやってらっしゃるというのは……」
「まずは1番下っ端からやれってことだぞ〜」
なんかもうがっくりきた。
紫陽はこれから2年必死に勉強し、教員資格を取り、一生安泰に先生ができれば御の字という人生設計しか立ててなかったというのに。
◇
「そんでよー。カブラギ。お前タカハシの子供12人産むんだろ?」
『まああああ』という顔を本部長と統括部長にされた。つまりサトルの母と父である。
「はぁ……。あの……。私『与謝野晶子』に憧れてまして……」
マリアが笑顔になった。
「素敵! 鉄幹との夫婦愛は有名だものね♡」
「あっ。はい。その。才能とかは真似できないのでそんなとこ真似できたらなと……」ハンカチをモジモジ動かしてしまう。自分がひどく子供っぽい考えの持ち主に思えた。
サトルがアワビを大口あけて押し込みながら言った。
「じゃあ。お前うちの採用試験受けろー。ちょーど空きが出るからよー」
是也のことである。
「うちに受かれば12人くらい産ませてやるぞー。産休時の代用教員もいるしなー」
「は!? まだ妊娠してもいないのに産休時の教員!?」
「こいつー」アワビを飲み下しながらタカハシを指差した。
ああああああああっっ。
「え……ちょ……サトル……」タカハシが慌てる。
「カブラギが現国の『タカハシセンセー(妻)』になって、産休中は『タカハシセンセー(夫)』に代りゃあいいだろうがぁっ!!!」
いや……え……それ12回繰り返すの!?
隣の席の是也の肩をバーンと叩く。
「まっ! がんばれよっっ『タカハシセンセー』!!! その間は秘書の仕事半分にしてやるっ」
タカハシが頭を抱えてしまった。
◇
「タカハシに前『子供が中学にあがるころ、自分は定年(60歳)だ』ってフラれたんだろ? ヘーキだぞー。うちの副会長(サトルの祖母)今78だからなぁ!!」と爆笑されてその会は終わった。
帰り道タカハシと並んで歩きながら紫陽はなんだかしょんぼりしてしまった。
黒い漆塗りの橋を渡っていた。橋げたに等間隔の丸い照明がぼうっと点灯している。さらに下には暗い川が流れているのだ。
「あの……是也さん……」
「何? 紫陽」
「私ほんと子供ですね…………」
まるで子供が『空を飛びたい』というように『子供12人』と口に出していたのであった。
共働き。17歳の差。子供12人。
なんの現実も伴ってない空想だけの思いつきだ。自分は是也にどれだけ幼く映っていたのだろうと思うと消えてしまいたい気持ちだった。
「夢の話ばっかりして」
タカハシが頭を撫でてくれた。
「紫陽」
「はい」
「実は俺も『子供12人』想像してみたんだ」
「……はい?」
「うちね。2階建で160平米あるでしょ?」
「広いですよね」
「古いけどね。で、2階の部屋が4っつある。そうするとね? 一部屋4人寝れば収まるんだよ」
「あっ! そうですね!!」
「この20年広くて嬉しいと思ったことはなかったけど……まあ本は置き放題だったけどね……やっと『うちにもいいところあるなあ』って思えたよ」
「はい……」
是也はにっこり笑った「俺は20年以上も『夢の見かた』を忘れてたよ。夢はいいね。ワクワクする」
紫陽は、胸いっぱいになってしまった。
確かに。
この人の人生には『現実』しかなかった。
高校3年間はヤングケアラーとして高校と家と病院を行き来するばかり。修学旅行すら行けなかったと聞いている。看病の甲斐もなく両親は次々死去。
18歳からは一人暮らし。生きるだけで精一杯の大学生活。
夢なんか最初から見れなかったのである。
それが鏑木紫陽というある意味『夢しか見ていない』女の子が飛び込んでくることによって少しづつ変わっていこうとしているのだ。
「そうは言っても12人は大変そうだから紫陽の夢と、現実の折り合いを考えていこうね」
「はいっ。是也さん大好きですっっ」
是也が両手をポケットにいれて笑った。
恥ずかしそう。
「俺もだよ。紫陽」