第四章序章の始まり
「いらっしゃいませ。お客様は何名さ……ま……」
「あっ」
「……」
店員は、僕の顔を見るなり店の奥へと引っ込んでいき、代わりに先輩と思しき女性店員が、僕たちを席まで案内し、注文を取ってくれた。
その間、隠れるように引っ込んでいった店員が、こちらの様子を物陰からちらちらと伺ってくる。
きっと自分が連れている人のことが気になって、仕方がないのだろう……。
「あなたの知り合いかしら?」
「あ~、知り合いと言えばそうなんですが、たった一、二分の関係と言うか、なんというか……」
「……あなたもいろいろあるのね」
何をどういう風に解釈したのか、西洋美女は一人で納得したように生暖かい目線を僕に向けてくる。
その目線はきっとなにか誤解を生んでいると思い、否定しようと言葉を探したが、さらにややこしくなってしまいそうな気がして諦めた。
やがて金髪女性が注文した紅茶が運ばれ、テーブルに置かれた。
置かれた拍子に紅茶表面に生まれた波紋を二人で見つめ合う、という無為な沈黙の時間が場を支配したが、彼女がその沈黙を破った。
「私のこと、覚えているかしら……?」
「……すみません」
「そうよね、最後に会ったのはもう六年も前だもの……」
淡い期待が脆くも崩れ去って、再び落ち込むように肩を落として嘆息する金髪美女は紅茶を飲むべくティーカップに口を付ける。
現在、僕たちは中華料理店から旧都である横山市内のとある高級ホテル内のラウンジに場所を移しているわけだが、人目を引くような金髪西洋系美女と冴えない学生の僕という現実味を帯びない組み合わせでお茶を嗜んでいる構図が出来上がってしまっている。
とばっちりではあるが、中華料理店で騒ぎを起こしてしまった一人と見られ、店を追い払われてしまい、その時の迷惑料と僕の飲食代を含めて払ってくれたのが、目の前で紅茶をゆっくりと啜っている彼女であり、それらに対するお礼何かで、と申し出たところ、お茶することを提案され、今ご一緒させていただいているわけである。
「あのぅ、もしよければお名前を教えていただけませんか?そうすれば、思い出せるかもしれないので」
「ごめんなさい、そうね。まだ名前を紹介していなかったわね」
居座りを気品よく正し、真正面から僕を見据えるように身体を向かせる。
「ソフィー・サラ・バレットよ、よろしくね。親しい間柄は気軽にソフィーって呼んでくれてるわ」
「久住優太です。すみません、やっぱりご期待には沿えられそうにないです」
「いいのよ、気にしないで」
ソフィーさんはウィンクをして気さくな微笑を浮かべて、気まずい空気を変えてくれた。
そこで彼女の『サラ』という名前を聞いて、ふと過ぎった直感を本人にぶつけてみた。
「もしかして、ソフィーさんってハーフですか?」
「残念ながら違うわね。私はクオーターで、母方の祖母がサラという日本人女性でそこから名付けられたわ」
紅茶に吐息を掛けながら冷ましつつ、ちびちびと口に含んで飲んでいく。
もしかしたらこの人、猫舌なんじゃないかなと思えてきて、なんとなくソフィーさんに親近感が湧いてきた。
かつティーカップをディープレートに置いて、ホッと溜息をつきながら両手を組むソフィーさんの姿には、大人の余裕というものもまた感じられる。
正直、思春期真っ只中の僕にとって、彼女の両手でさらに強調された胸が、あまりにも刺激が強すぎるため、思わずそわそわと挙動不審になってしまう。
僕は頼んでいたアイスハーブティーが届くのを今かと待ち望んでいるかのように、装うことを咄嗟に思いつき、それを早速実行に移す。
そんな僕を見て、何を思ったのかソフィーさんは猫のような悪戯っぽい含み笑いを浮かべる。
僕の浅はかな計らいを見抜かれているようで面映ゆい気分になり、なんとか空気を変えようと話題を振ってみる。
「そういえばソフィーさんって日本語がお上手ですよね、何年くらい日本にいらっしゃるんですか?」
「もう八年ぐらいになるわね。二十歳に日本に来て、そのままずっと仕事で滞在していたのだけど、日本語をマスターしたのはもっと随分前よ」
なんでもソフィーさんの母方の祖母が生きていた頃、ソフィーさんに日本についての暮らしや文化について、いろいろ教えたそうだ。
フランスに生まれて育った彼女にとって、祖母の経験は刺激的なものであったらしく、いつか日本に行きたいという一心で祖母から学んでいたらしい。
その甲斐あって、語学習得に苦労は一切しなかったそうだ。
そんな生粋のお婆ちゃん子であるソフィーさんは、遠い目をしながらスーツの胸ポケットに付いているブローチに右手を添える。
「でも、もう私の祖母が語ってくれた時代とはかけ離れていたから、最初は残念だったんだけど、でもまだ『昔の名残』を残している場所は日本にもあるでしょう?」
「だから、横山市に?」
「えぇ!素敵な街だわ、ここは!だけど仕事の関係で今は、別のところに住んでいるんだけどね」
ソフィーさんは少し残念そうに肩の力を抜いて嘆く。
そんな彼女の悩みを聞いて、ふと先ほどの時河さんの背中が頭に過ぎった。
中華料理店でなぜ激昂していたのか、自分の記憶上の彼とかけ離れた人物像から抱いた戸惑いを解消するべく、彼に関する重要な何かを握っていると思われるソフィーさんにそれとなく聞いてみることにした。
「もしかして、それって時河さんが関わっているんですか?」
そう質問を彼女にぶつけてみたものの、間違いだったのではと今更ながら悔悟したが、彼女の方は別段気にしていない素振りで、少し顎を引いて問い詰めるような眼差しを向けてきた。
「もしかしてさっき、盗み聞きしていたのかしら?」
「す、すみません。聞こえてしまったとはいえ、つい……」
シュンと肩身を縮こませる僕の姿を見て、彼女は再びクスッと悪戯っぽく笑いかけてきた。
「まぁいいわ、気にしないで。本当はあの場であんな話をするつもりはなかったのだけど、つい口を滑らせてしまってね。私もまだ青いわね」
そう自省する彼女は深々とソファに身を預けて、視線を落とす。
「……でも」
彼女は角砂糖を持ち上げて飲みかけの紅茶に入れながら、剣山のような目をこちらに向けた。
「あの場で聞いたことは全て忘れなさい」
蛇に睨まれた蛙のように瞬きもできないほどの悪寒、身体の硬直が遅れて到来した。
彼女の紅茶の中に落ちた角砂糖が、ゆっくりと形を保てなくなり、崩れていく。
これ以上踏み込むのは許さない、という意思が言葉と態度からひしひしと伝わってくる。
先ほどまで見せてくれていたソフィーさんの温和な雰囲気から想像ができないほどの冷たく言い放たれた『警告』で、何も言うことはできなくなった。
その言葉で頭が氷点下まで冷えきってしまったにも関わらず、いつの間にか近くに置かれていたアイスハーブティーの氷が溶けだし始めていることに気付いた。
そんな自分とは対照的に、既に平常運転になっているソフィーさんは、再びティーカップに口を付けて、冷めている紅茶を飲み干した。
「さすがに甘くなりすぎたわね」
眉間に皺を寄せ、愚痴を呟きながら、ティープレートにカップを置き直した。
「ユウタくんが気になっているのは、私とトキカワの関係かしら?」
「……えっ?」
「あまり赤裸々には答えられないけど、簡単な話程度ならしてあげられるわ」
ソフィーさんは、「ごめんなさいね」と言っているような曖昧な笑みを浮かべて、ポツリ、ポツリと語り出した。
「トキカワとはそうね……。一言で言えばただの同僚といったところかしら」
複雑な感情が入り混じったような面持ちで、ソフィーさんの肩が僅かばかり震えているように見えた気がした。
「もう少し言うとね。昔からの馴染み、ってとこかしら。切っても切れない腐れ縁みたいな関係、だったわ」
「……すみません、嫌なことを思い出させてしまって」
「別にいいのよ、君は気にしなくていいの」
そう言ってソフィーさんは、空元気と言ったような乾いた笑いを浮かべた。
一瞬迷ったが、ここで躊躇ってしまっては彼女の行為を無碍にしてしまう。
ここはソフィーさんと時河さんの関係についての続きを聞くことにした。
「時河さんもソフィーさんと同じ研究職で、同じ場所で働いていた仲間というところだったんですか?」
「あくまで昔の話で、そんないいものじゃないわ。あと私たち、専攻が違ってね」
そう言いながらメニュー本に手を伸ばして、記載されているドリンク項目を吟味するように目を通しながら話を続けた。
「私は進化生物学で、トキカワは遺伝学だったかしら。同じ生物学の一分野とはいえ考え方が違うから何度も衝突したりしててね。トキカワには手を焼かされたものだわ」
時河さんのことを悪く言ってはいるものの、ソフィーさんのそれは懐古するような表情で、どこか不思議な魅力を感じた。
「なるほど、だから『腐れ縁』なんですね」
「そうよ。それに年が一回り離れているからって、同じ職場の同僚なのにもかかわらず何度も子ども扱いしてきて失礼な奴ね」
そう言いながら、腕を組み直してムスッとハリセンボンのように頬に膨らませるソフィーさんを見て、在りし日の時河さんの気持ちがわかる気がした。
「そう、何度もトキカワとは意見を交えたわ。交えたけど何度も気が合わなかったし、反発することが多かった……。あの人はただの頑固者よ……」
左腕を抱くように擦りながら、目線を落として物寂しく独り言のように愚痴をこぼした。
それを聞いてようやく気付いた。
あぁ、ソフィーさんと時河さんの関係はもう終わってしまったんだ、と。
たとえ顔を合わせるたびに喧嘩をするような相手であったとしても、今までのそれは決定的なものではなかったのだろう。
それが今日、終止符を打つことになってしまった。
「昔ね、そんな仲の悪い二人の間を取り持とうとした男が一人いたの」
ソフィーさんは僕の顔を見直しながら、再び淡々と語り出す。
「基本中立的な立場で仲を取り持とうとした彼は、私たちとはまた違った分野の研究者だった。事情を知らずに割って入ってきているのだと、彼の存在はむしろ火に油だった。二人で追い返して、こう言ってやったのよ」
一拍、息を吸いながらソフィーさんは右手の人差し指を僕の方に向けて険しい表情で言い放った。
「私たちの仲裁に入りたいなら、まずは私たちの分野を把握してから出直してきなさい……ってね」
そんな刺々しい物言いから一転して、チャーミングにウィンクをしてきた。
「そしたら、その人どうしたと思う?」
「出直してきた、とかですか」
「そう!愚直にもね」
呆れたような、諦めたような、それでいて清々しさがあって笑えるでしょ、と目配せしてくるが正直なんらおかしいと思えるところは何一つないと思った。
笑わず、真っ直ぐに見ている僕の姿に意外だと言ったように目を大きく開かせるが、思わず納得したように頷きながら、店員を呼んで新たにハーブティーを注文すると同時に何か注文するかと目線を投げかけてくる。
そんなソフィーさんの厚意を無碍にするわけにもいかず、氷が溶けきって水っぽくなったアイスハーブティーを飲み干して同じ物を要求すると、注文を取りに来た店員が「かしこまりました」と一言告げて席から離れていった。
店員が離れていくのを確認して、ソフィーさんが再び開口する。
「私は科学者として、時に人道的ではないと言える感性を持ち合わせているところがある、きっとトキカワもそう……。でも彼はそうではなかった。彼はいつどこでも真っ直ぐで人情味があって、そこが科学者らしくなかった」
「科学者らしくない……?それって、どうして……」
「そうね……。人として当たり前のことをする。一貫してその信念を曲げなかったから、科学者として一線を越えることはなかったのよ」
今朝、時河さんが僕に向けて言った『当たり前のことを当たり前のようにできない人たちがいる』という言葉を思い出す。
「どんな時も決して人間味を捨てなかった、そんな彼のおかげで私はトキカワとも手を組むことができたの」
だから私は彼に惹かれてしまった、と自嘲しながら消え入るような声で呟くソフィーさんの瞳は、濡れた宝石のように煌びやかで一際美しくも、儚げであった。
注文してテーブルに届いたハーブティーをソフィーさんは徐に口まで運び、一口含んで飲み込むまでの喉の動きがよく見えた。
「と、いうことよ!ユウタくん!」
悲しげな表情からまた打って変わって、茶目っ気ある顔へと変わる。
先ほどから中国雑技団の変面のように、コロコロと表情を変える彼女に翻弄され呆気に取られてしまい、なんとか平静を保つので精一杯だった。
「な、何がですか?」
「トキカワと共同で研究できたのは仲裁役の彼のおかげ。科学者らしくなく、人として当然なことをしてきた彼に若い身空で初恋を経験していたのよ」
「は、初恋?……いや、時河さんとの馴れ初めは理解できました。ですが、ソフィーさんが言う人道的な人が科学者らしくないってどういうことですか?」
「あぁ……それはね」
瞼を閉じて彼女は一考するようにハーブティーを再度口に含んで飲み込んでから眼を開けて僕と目線を共有する。
「ユウタくんは、科学者の本懐って何だと思う?」
「……世界の発展、とかですか?」
「そうねぇ~。人としては当たり前の答えね、でも本当は違うわ」
ティーカップを置いて、彼女は胸を強調するように腕を組む。
「自分の誇大欲求を満たすことよ」
「……どういうことですか?」
「端的に言えば、自分の知識や技術を周囲に見せつけて威厳を示し、それを自分の誇りとする。それが私たちの生活基盤を支える科学技術の全てよ」
「……」
「信じられないって顔ね、でもそれが科学の世界の本性よ」
頬杖を突くように右拳を頬に当てながら、ソフィーさんはじっくりと観察するように僕の瞳孔を見据えてくる。
「人としての倫理を顧みず、自らの価値を示すためにどれだけのものを発見できるか、作り出せるかに意義を示すグループ。時に他者を踏み台にしてまで、のし上がろうとする愚者の集団。抱える主義、思想、理屈、真理を探究し、それを見出すため、時にどんな犠牲を払ってでも成し遂げようとする憐れな生き物。科学の発展?世界の躍進?そんなことは二の次なのよ」
ただの利己的集団なのよ、と自分に言い聞かせるよう自嘲気味に呟くとともに言葉の重みを感じる。
きっと彼女の見てきた数多の光景がそれを作り出しているのだろう。
「その点、彼は違っていた。」
ティーカップの淵を愛し気になぞりながら、彼女は語る。
「自分が調査していた研究は、必ず誰かの役に立つと言っていた。彼の言葉からは自分が主役であるかのように感じさせる言葉は無くて、そこには必ず誰かを気遣った優しさが込められていた。こんなに心が温かい人がなぜ科学者に、と考えていたけれども最後まで答えは分からなかった」
「最後まで……って、今は会っていないんですか?」
「……えぇ」
ソフィーさんはラウンジの窓ガラスに顔を向けて、ガラス越しから見える並木通りの景色をその瞳孔に映した。
「今はもう、遠くに行ってしまったわ……」
「そう、なんですか……」
気まずい空気が辺りを漂い、触れてはいけない琴線であったと痛感する。
「人はね、些細なことでも過ちを犯してしまう生き物なのよ」
ゆっくりと首を動かして僕と視線を合わせてくる。
「きっとそれは万人に当てはまるわ。本人にとってレギュレーションを破るための動機さえあれば平気でそれを破る。多くの史実がそれを物語っているわ。それでも……」
まじまじと僕の顔を記憶に刻み込むように見つめながら、一拍を置いて語り続けた。
「当たり前なことを、間違いを犯さないことって結構難しいわ。それでも間違わず倫理に寄り添おうとして泥沼で足搔いている人達が稀にいるのよ」
そう言って、話は終わりといったように再びソフィーさんは、ハーブティーが入ったティーカップに口を付けて、ここの紅茶美味しいわね、と感想を言っている。
今日のバスの中でずっと考えていたモヤモヤが再燃して、自分の中で燻り始めるような気がしてきた。
するとソフィーさんはスーツの懐から、彼女のスマートフォンを取り出して画面を一瞥する。
「ごめんなさい、ユウタくん。私、もう行かなきゃ」
「えっ、あ、はい」
「ここの会計は済ませておくから、ゆっくりしていってね。そうだこれ、私の連絡先のメモ。もしまた何かあったら連絡してね。」
矢継ぎ早かつ一方的に話してくるソフィーさんに戸惑っている間に、ラウンジの名前が印字された紙ナフキンに彼女はさらさらと電話番号を書いて渡してくる。
僕はそれを呆然と受け取ることしかできないまま、彼女の急いでいる姿を間抜け面のまま眺めていたと思う。
「それじゃあ、また今度会いましょうね。今日はとっても楽しかったわ」
ソフィーさんは軽く手を振りながら、会計のところまで速足で駆けていった。
掴みきれない女性だったな、という印象を抱きながらソファに重心を預ける。
深々と沈み込む僕の身体を優しく支えてくれるソファの感触が心地良い。
ソフィーさんが特別に思い焦がれていた人の話を最後に聞いた所為か今朝、時河さんから言われた言葉が再び脳裏に蘇ってくる。
「僕は……普通じゃなくて特別……」
そう誰にも聞こえない大きさで声を出しながら俯きがちに考える。
僕は『普通』でありたいと思っていた。
倫理感を伴わない人たちは、おかしい、異常なのだ、とかつて親戚達の家でお世話になっていた時にそう思っていた。
彼らは、僕を引き取れば、多額の保険金や遺産を我が物のように使い込めると思っていたが、僕が懐かず、金を引き出せないとわかるや否や目の上のたんこぶのように虐げてきた。
それは普通じゃない、彼らとこのまま一緒にいたら心を壊される、幼い身でありながらそう感じるほど、あの頃の生活は今でも忌避するほどだった。
だからこそ彼らのように私利私欲的な人ではなく、誰かの為に何かをできるような、そんな普通の男になりたいとそう感じていた。
だがそもそも『普通』って一体何だろう、あまりにも広義的すぎる。
ソフィーさんが言っていた科学者の本懐の話のような、もし倫理性を捨てることが多数を占めるのであれば、異を唱えた僕は少数派と見なされて、普通ではないと判断されるわけだ。
『普通』というのは、民主制に都合の良い言葉に過ぎない。
人として正しいと思ったことが、時と場合、特定の集団の中では、常識的とは見られずに、間違っていると判断されることもある。
僕達は、そんな脆い常識で築かれた不安定な世界に生きているんだ。
それでもあの親戚達に囲われていたとき、そこは歪な環境だと思ったから僕は彼らのような人には決してならないと心から誓ったはずだ。
その思いは、今でも間違いじゃないと信じている。
だからもしも、『特別』、『異常』だなんて周りに言われたとしても、僕は誰かの為になれるように生きていきたい。
誰かに揶揄されようが、正しいと思った信念を貫き通していけばいい。
決して簡単なことではないだろうが、きっと自分が間違っていると思うことをするよりも、死んだ母親に胸を張れることができるだろう。
「お待たせしました……って、さっきのツレの女の人、帰ったの?」
「えっ?あぁ、うん。もう帰ったよ」
「……ふ~ん」
声を掛けられた方を見上げて瞳に映ったのは、白いラウンジ制服と黒のスカートに身を包んだ清楚で嫋やかな女性店員だった。
だが、その女性店員さんはただの店員さんではなかった。
「……僕と同い年だよね?」
「そうよ?」
「なんでバイトしてるんだよ」
「バイトじゃないわ、手伝いよ。状況から見てわかるでしょ?」
いや分からないよ、とツッコミを入れようと思ったが、あえて飲み込んだ。
自分と同じ年、そして神北沢高校はバイト御法度の学校のはずだ。
そのはずなのに目の前には、制服姿の月宮玲那さんがいた。
最初にカフェラウンジに入って接客してくれた店員であり、時河荘の同住人で、四月から同じ高校に通う予定の女学生だ。
月宮さんとは、時河荘の住人達に挨拶をするとき、唯一部屋に居た人だ。
ただ、その時の彼女は寝起きだったせいか苛立っていて、さらにく男性不信らしく、男である僕に苛立ちの矛先を向けられ、ギクシャクしてしまったのが最近の記憶だ。
そのせいで初めて見たときの月宮さんは水の精霊って感じだったが、刺々しさと氷点下な態度が相まって、雪原の薔薇という印象に上書きされていた。
「手伝いって……。バイトと何が違うのか、いまいち分からないんだけど」
「ここは私の従姉妹の店だから、手伝いって形で働かせてもらってたのよ」
「そうだったんだ……。なんかゴメン」
「……なに謝ってんのよ」
男のくせに、とボソッと呟いたように見えたが良く聞き取れなかった。
プイッと顔を背けた月宮さんの制服姿は正直、ボディーラインが部屋着の時よりも分かりやすく出ていて、見る場所に困る。
最初に会ったときは気付かなかったがスタイルが良く、おそらくだが綿貫さんや凛華さんよりもバストサイズは凌駕しているのが分かる。
ソフィーさんも海外パワーというべきか規格外のスケールだと思ってはいたが、おそらく月宮さんは同レベルではないか、という大きさだ。
これで自分と同い年だと言うのだから末恐ろしい逸材だなと確信するとともに、自身の煩悩を自覚し、僅かに頭を降って、それを叩き出すように努める。
もう一度月宮さんに目を向けると、彼女に対して妙な引っかかりを覚えた。
なんとなくだが、素っ気ないように振る舞っていながら、どことなくそわそわして落ち着きがないように見える。
「あの……、あの時のことなんだけど……」
「あの時?」
「うん……。あっ、そうだ、ゴメン!アンタが注文したハーブティー持ったままだったわね!」
慌てながらも溢さず丁寧に新しいアイスハーブティーをテーブルに置く月宮さんの顔が目と鼻の先まで近付いて、飛び出てくるのではと思うほど心臓が跳ね上がった。
透き通るほどの瑞々しさを兼ね備えた彼女の美貌が、きめ細やかで思わず見惚れてしまいそうになる。
爽やかで、なおクリームのように濃厚で溺れそうなほど甘い匂いが月宮さんから香ってくる。
挙動不審になりつつ、化粧で大人びて見える月宮さんの顔をチラチラ見ていたら、その頬を朱に染めて熱を帯びている事に気付いた。
「月宮さん、もしかしたらだけど体調悪い?」
「えっ、なんで?」
「顔が赤いようだから、てっきりそうなのかなって……」
「そ、そんなことないわよ!っていうか、そういうことじゃなくて……。もういいわ、なんか言う気も失せちゃったし」
「えっ、何を言おうとしたんだよ」
「……」
そう言って気まずそうにしながらも、花びらのような唇を横一文字に結んでそっぽを向く月宮さんの横顔を見て、それ以上の追求は鬼門だと本能が理性にアドバイスをしてきたため、嘆息しながら諦めた。
「わかったよ、これ以上は聞かない。ゴメンね、仕事の邪魔だったよね?」
「……」
「店の人も怒るだろうから戻っていいよ、僕もすぐにこの一杯飲んだら帰るし。接客してくれてありがとう、話ができてよかったよ」
「……邪魔じゃないわよ」
「えっ?」
「なんでもない!」
そう言って再び顔を逸らした月宮さんの目線は、吸い寄せられるように窓ガラスの方に向かっていった。
「……ねぇ」
「なに?」
「なんか外の様子、おかしくない?」
月宮さんが見ている先に目を向けると、カフェラウンジのガラスから見える隣接歩行者通りに人集りができていて、並木通りの先が人の壁で見えなくなっていた。
カフェラウンジに来たときは、そこまで人通りが込んでいるわけもなく、それは店に入ってからも同じだった。
初めて来た場所だし、このあたりの人口密集度がどれほどかは分からないが、カフェラウンジで手伝いをしている月宮さんが違和感を抱くほどだから、これは日常的な風景ではないのだろう。
さらにピアノの伴奏曲のBGMに混じって、店内のあちこちで他の客の話し声がざわざわと聞こえてくる。
月宮さんのように外の様子がおかしいことに気付いて騒いでいる人もいれば、なにやら携帯サイトで情報を共有している人もいる。
さらに店内にいた人たちが真相を究明するために一目見ようと、外の野次馬の一員になるため、外に出て行った人もいた。
周囲のざわめきが多少なりとも気になり、聞き耳を立てているとすぐにその内容が聞こえてくる。
「おい、近くでスゴいことが起こっているらしいぞ」
「トラックが横転したって書いているけど、ホント⁉」
「マジかよ、交通事故?煽り運転?」
「でもトラックが倒れたっていうけど、衝撃音が届かなかったね~」
「道路の真ん中に突然、山ができたんだって!」
山ができた、という不穏な単語から後味の悪い記憶が蘇った。
そして夢で見た、あの黒い山のような岩の怪物の姿が脳裏に浮かび上がった。
だが、あれはただの夢に過ぎない、決して現実などではないんだ、と必死に自分の脳に言い聞かせ、落ち着きを取り戻そうと努める。
「ユウタくん!」
ラウンジ全体に響き渡るような大声が店内の人たちの注目を一斉に搔っ攫う。
大声を発したその主はラウンジの入り口で、先ほどよりも衣服が乱れた様子から察するに、急いで戻ってきたのだろうソフィーさんは、肩で息を切らしている状態でもなお、張るような声で僕に向かって呼び掛けてきた。
「早く逃げて!」
焦燥に彩られた彼女の言葉の意味を理解したのは、その直後だった。
ソフィーさんの叫び声が聞こえてから間もなく、背中に突き刺さるように聞こえてくる衝撃音。
その正体は、ラウンジの窓ガラスを押し破るように破壊し、店内に侵入してくる巨大なスポーツカーのフレームが擦れ、ひしゃげる音だった。
近くにいた客たちを圧し潰し、一瞬にして挽き肉へ変えていく。
その光景が瞳孔に映ったとき、咄嗟の判断で月宮さんを突き飛ばし、ソファなどの衝撃から身を護るためのものを瞬時に見繕って、彼女の上を覆っていく。
次の瞬間、飛び込んできた車をさらに店内へ押し込むように、爆風が店内に雪崩込み、テーブルも客も、何もかも薙ぎ倒すように吹き荒れてくるのが肌身に伝わってきた。
爆風と爆音による衝撃波によって綯い交ぜにされながら、世界が反転するような眩暈に似た感覚を最後に意識がブラックアウトした。