第二章悪夢と少女
—東北地方北西部の山岳地帯
「森が騒がしいな……」
猟師の立木隆造は武骨な手で猟銃を持ちながら、自分の名前一字から当てた白い猟犬のリューとともに、獣道を歩んでいた。
鬱蒼と生い茂った草木で覆われた森の中では、昼であっても樹葉に光が遮られて、決して視覚だけを頼りに生きていける環境下ではない。
だが、聴覚や嗅覚、五感全体で突き進むだけでは、命の保証ができるような場所ではないことを齢六十過ぎの骨身がそれを物語っている。
五感だけではなく経験を持ち合わせていなければ、すぐさま自然の餌食となってしまうことを積年の記憶から何度も学んでいた。
そして隆造は今、その肌身に突き刺さってくるような何か、『異常』を感じ取っていた。
森に潜む動物たちが、何かを警告するようにあちこちで音を立てているさまが、それを感じ取る証拠でもあった。
「リュー、あまり離れるなよ?」
地面から槍のように突きあがって伸びている杉林の中に入り込みながら、四足歩行の相棒に警戒態勢になるように促す。
近くの村で熊が出たとの情報が入り、付近にいた猟師たちが熊退治のために森の中に散らばって既に2時間が経過していた。
暗く閉鎖された自然の世界は一層不気味さを増しており、早々に熊を見つけ、退治して終わらせようと心に決め、猟銃を掴む手に力を込める。
木々の間から時折聞こえてくる動物や虫たちが蠢いて発生する音は、いつもなら鬱陶しくて敵わないと思っていたが、今この時だけは変わらない世界が周りに広がっているようで安心していた。
すると、リューが何かに気付いたように体を跳ねさせる。
「何か見つけたのか、リュー?」
小声で押し殺すような呟きを相棒にかけると、応じるように鼻を鳴らして樹林の間を走っていく。
巨大な苔むした木々を避けながら一定の距離を保って突き進むリューを隆造は追いかける。
すると水分を含んで湿った地面に熊の足跡のようなものを見つけ、その状態を確認する。
「比較的新しい……。まだ近くにいるな」
警戒をさらに高めて猟銃を握り直す。
隆造の読みどおりであれば、既にこちらの存在を熊が捉えていてもおかしくはなかった。
むしろ聴覚と嗅覚が人よりも優れている熊が隆造たちに気付いていないことは逆に不自然と言っても過言ではなかった。
加えて冬眠から目覚めた熊は腹を満たすため、食べ物を探しに洞穴から出てくるが、周りの食べ物が少ないと人里まで下りてくる。
今、追っている熊はそれに該当する個体であるから、飢えによって獰猛になっている可能性が高く、その危険性は決して甘く見ていいものではない。
他にも猟友会の仲間が数十名と散らばっているが、どうやら辺りを引いたのは常に単独で行動することを好む隆造が担当しているエリアのようだった。
すると途端にリューが脱兎のごとく青々と犇めき群がる草叢に飛び込んでいった。
「リュー、待て!」
思わずリューに向かって叫びを浴びせるが、静止を聞かずにドンドン走り抜けていく。
「糞ったれ!」
思わず悪態をついてしまったが、冷静さを取り戻しつつ相棒が進んでいった方角に向かって後を追っていく。
行く手を阻むように方々に生い茂っている枝群が隆造の衣類に引っかかって進む足を遅滞させる。
まるで隆造にこれ以上進むのを、森が拒んでいるようであった。
それでも隆造は構うものかと引っかかる枝を折り払いながらも、相棒が走り去った道を進んでいった。
だが、隆造の足は突如止まった。
吐き気を催してしまいそうな不快な臭い、それが辺り一面から漂ってきて、隆造の足を止めた。
顔を顰め、口元を袖で隠して、臭いを抑えようとする。
「なんだ、この臭いは……」
今まで嗅いだことが無いような嫌悪するほどの臭いで立ち眩みを起こしかけるが、それでもなお隆造は歩みを再開した。
そして草叢を抜けてリューの後ろ姿を見つけるも、リューの尾が丸まった状態で毛が逆立っているのを確認し、猟銃を構え直す。
リューのその姿を見るのは何年ぶりだろうか、最後に見たのはいつの時だったかは思い出せないが最も警戒して怯えているときに見せる姿であった。
隆造がリューに近づきつつ、相棒の視線の先を追っていった。
そして、そこには巨大な熊が横たわっていた。
「死んで……いる?」
自分たちが追っていたはずの熊が血と臓物、糞尿を綯い交ぜにしたものを飛び散らせ、果てた姿で仰向けに横たわっていた。
不快な臭いの元はこの変死体からのものだった。
警戒は怠らず、横たわっている熊の死体に近付いていく。
傷口を確認すると、皮膚や内臓が内側からめくれあがっているように窺え、それに加え飛び散った血液などの体液が至るところに張り付いて凝固しかけている箇所を見つけた。
現場から察するに体の内側から何かが膨れ上がって皮膚が破裂して、この熊は死に至ったのであろうと判断する。
さらに一つ気がかりな点がある、死体の状態がまだ新しいことだ。
せいぜい死後十~二十分前後と見たとして、この熊の血液が凝固しているのは不自然だ。
いや違う、と隆造は目を凝らして見てみるとその血液は凝固というよりも石片のように固まっていた。
「ん?」
もう一つ、死んだ熊の身体を見て気になる部分があった。
「……嚙み痕?……もしかしてこいつ……」
喰われたのか、と言葉を続けようとした瞬間、『異常』に気付いた。
目の前の不自然な死体に意識を向け過ぎたことにより、猟師として致命的なまでの見落としをしていた。
「音が……消えた?」
厳密に言うと先ほどまで聞こえていた動物や虫たちの動音が一切聞こえなくなった。
その代わり何かを引きずったように這う音が、どこかから聞こえてくる。
這ってくるような音が少しずつ大きくなっていく、それが意味することは一つしかなかった。
「ここから今すぐ離れるぞ、リュー!」
隆造の提案に応じるように吠えて、元来た道を先導するべくリューは走り出した。
その瞬間、草木の中を走り抜けていた白い弾丸を横合いから飛び出してきた黒い何かが弾き飛ばした。
ビチャッと潰れる音とともに隆造から見て二時の方角、15メートル離れた杉の大木に肉塊となったリューが打ち付けられていた。
ゆっくりと時間が再生されたようにリューだったものは、ずれ落ちていった。
先ほどまで動いていた相棒だったものを目にして、隆造は生唾を飲み込むとともに脂汗が額から流れ落ちた。
隆造は、相棒の朽ち果てた姿を目の当たりにして絶望していた。
そして相棒の死体の周りを見てみると、長年見続けた青々しい樹林地帯は一変して、夥しいほどの死で、紅色に染められていた。
辺り一帯が爆心地であったのだろうか、至るところに血溜まりがこびりついているとともに、熟れた果実を潰したように噎せ返りそうになる臭いが充満している。
今までに遭遇したことない恐怖、絶望を振り撒いた張本人が擦り這う音とともに、その姿を隆造の前に現した。
隆造の目は既に生を意識できず、呼吸ができているかどうかも認識できていなかった。
生きている心地が無い、猟銃を構えたまま立ち尽くしたまま、隆造の瞳孔にはリューだった塊をずっと映していた。
苦悶の表情が無いリューのそれは、きっと死を自覚せずに生涯を終えたのだろう。
彼を薙ぎ払った塊の正体は、一メートル程の岩杭であった。
岩杭がリューの何倍もの速さで打ち出されて、身体の形を保てずに果ててしまったのだと悟ったその時、隆造の瞳の中には憤怒の炎が燃え上がっていた。
「待っていろ、リュー……。お前さんを寂しく逝かせないぞ……」
猟銃を構え直して三度目、隆造は目の前の絶望に銃口を向ける。
スゥ、と息を吸い込んで照準を構え、引き金に指を掛ける。
照準器から見上げるそれの姿は、一言で表すと岩石が寄り集まった化け物。
頭部、胴体、手足は岩で構成され、内部から膨れ上がるように隆起した岩が鎧のように編まれているように見える。
そしてその頭部がさらに特徴的でフードを被っているように岩肌によって頸椎が守られるように覆われている。
加えてフード上の岩の先端が尖っていながら、穴のようなものが視認できる。
頭部からは目と思しき眼孔は光を灯し、口元から息を吐くたびにノコギリ状の牙が見え隠れしている。
岩の化け物と隆造の目が合うのを知覚する。
落ち着いて勝機を見極めなければ、こいつを確実に殺せないと長年の経験が警告を聞き入れて、打ち倒すための算段を立てる。
目の前の化け物を観察する限り、杭の攻撃が速いだけで胴体や首の動きが緩慢のような気がする。
そう思ったとき、岩塊が態勢を整えようと微動作して、何かが軋むような不協和音と流砂がこぼれるような軽い音が隆造の耳に届いた。
固い物質で構成された身体であるから、おそらく構成物同士が擦れ合い、動きの邪魔になっているのかもしれない。
そうであるなら機動性においては、隆造に軍配が上がっているのは自明の理であった。
狙うは頭部の窪みとなっている顔面、それに絞って照準を定める。
重心を後ろ、身体全体の力を節々に込めると、老体が悲鳴を上げていることを自覚する。
銃身がお釈迦になることを覚悟で至近距離から頭部に打ち込んで、死なない生物はいないはずだ。
仮にも岩で構成された身体だとしても、構造の脆い部分を破壊されれば死に至るのは自明の理だ。
銃身を構えた状態で左足の腱をバネのように圧縮させる。
リューの俊敏さを意識したような動きでは死の未来しか見えない。
それを超えるほどの速度で動き、化け物の間合いに入って撃ち抜くビジョンを隆造は思い描いた。
そうして対峙している瞬間が千秋のように長く感じるほど、目の前の敵を撃ち殺す算段を付けたが、ようやく態勢が整った。
ゆっくりと流れるような時間を打ち破ったのは隆造であった。
全盛期の身体を凌駕するほどの跳躍で一気に化け物との間合いを詰め、体中の筋肉が引き千切れていく感覚が隆造自身を襲った。
そして岩塊生物の隆造への対応は、目を見張るものであった。
岩の鎧、右胸部一部が膨れ上がったように膨張し、岩杭が生成、射出された。
岩製の凶弾が向かってくるのを視認するが、もちろん隆造はそれも計算に入れており、体を斜めにずらして前進することで、岩杭を避けた。
しかし完全に避けきることはできず、左腕に裂傷を負うも隆造の動きを阻むまでには至らなかった。
隆造はそのまま天狗のように化け物の身体を足場にして跳躍し、化け物の目と鼻の先まで近付いた。
「これで終いだ」
そう息を吐き出すように呟きながら銃口を化け物に押し当てて、引き金に込める力を入れた。
ズドン、と重く体の底まで響き渡るほどの衝撃音と薬莢の香りが場を支配する。
至近距離から放たれた散弾が化け物の顔面を削り、侵食していく。
それに伴い、銃身が破損して隆造自身も至近距離からの銃撃による反動で隆造自身も吹き飛ばされ、地面に打ち付けられる。
体全体を犯してくる激痛に歯を食いしばりながらも、仇を確認するため、上体を起こす。
散弾を撃ち込まれた化け物の顔面からは煙が数本立ち昇り、鈍重な巨体は沈黙しているようだった。
その様を見て隆造は、心の底から湧き上がる充足感に歓喜しながら震えが止まらない体にこれ以上の無茶をさせまいと上体を横にし、そっと瞼を閉じるのであった。
それから三十分後、猟友会の仲間たちが猟銃の音を頼りに辿り着いて目にした光景は、赤く咲き乱れる彼岸花畑の如く見るも無残に食い散らかされた死体の世界だった。
その異様な世界に散らばっている亡骸の中には破損した猟銃、そしてその傍らに転がった老人のやせ細った腕と犬の皮膚、尻尾の毛が散乱していたのが現場で発見された。
「っ⁉」
ハッと息を飲みながら、目を覚ましてバネ仕掛けのように上体を起こす。
我に返ったように自分の今の状況を整理するとともに確認をする。
僕の名前は久住優太、四月から高校生、十五歳で、時河荘に現在お世話になっている。
時刻は深夜二時、自分が昨夜敷いた布団の上で敷布団に包まって眠りについていたところだった。
現状を問題なく把握し終えたことに安堵しつつ、眉間に手を当てて背中を丸める。
涼やかで心地のいい春の夜の時、コンディションは最高の状態で眠りについていたはずだったのに、寝覚めの悪くするような悪夢によって最悪な形で起こされた。
寝汗を吸収してべたついた寝間着の甚平が肌に張り付く感覚に嫌気が差して、着ている衣類を脱いで下着だけの姿になる。
トランクス一丁で風通しが良くなり、幾分か気分は楽になるが後味の悪さはまだ残っていた。
「夢……だったのか?」
ポツリとこぼすように呟くも、それに答える存在はもちろんここにいない。
だが、本能的にアレはただの夢ではない気がしてならない。
喉奥に小骨が刺さっているかのように悪夢の内容について考えてしまう。
正直言って、もう夢の子細な情報までは覚えていない。
体感的にはつい数秒前まで見ていた夢であるのにもかかわらず、誰がどこで何をしたのかもう曖昧模糊になっていた。
そんな自分の記憶の悪さに辟易しながら、頭を抱えて揺さぶってみるも何も変わらない。
ただ一つ、わかっていることがある。
自分の夢の中で、どこかの誰かが死んだことだ。
夢の中で死んだ経験が実体験のようにあまりにもリアル過ぎて、不快さを感じる要因の一つでもあった。
夢は自分が生まれてから今まで体験したことを復習するために記憶を再構成して、あたかも初めての体験のように当人に見せるらしい。
つまるところ本人が体験したことのないことは見ることができないのだ。
だからこんな夢を見ることなど、通常ではありえないはずだ。
だが悩んでいても何も答えは出ず、時間だけが刻々と過ぎていく。
窓から見上げた空には、燻煙のようにどこまでも闇が広がっている。
冷蔵庫に向かい、中に入っていた飲料水のボトルを取り出して、口の中を濯ぐように乾燥した喉を潤す。
ボトルの蓋を閉めて口元を拭きながら、この後どう過ごすかに思考をシフトさせる。
ただこのまま起きていても中途半端に時間を持て余してしまうだけで、昼時に眠くなってしまうという昼夜逆転の生活が容易に想像できてしまう。
そのため、もう一度布団に入り込んで意識を薄めるように努めることにした。
なるべく何も考えないよう無の状態、真っ白になって自分が消えてなくなるようなイメージをしながら布団と一体になるように身体の力を抜いていく。
次第に浮遊感が生まれ重力を感じなくなったような気分になると既に自分は寝ていると直感するのだった。
三月二十五日、部屋の窓ガラスから入り込んでくる煩わしい陽光に照らされ、目元に被ってくるそれを手で遮りながら自らの布団を剥いで身体を起こす。
現実味を帯びた夢は朧気ながら記憶に残ってはいるものの、悪夢を見たばかりの時とは違い、さほど気に留めるほどではなかった。
昨日は、窓ガラス用の遮光カーテンを購入したが、時河荘への運搬に疲れてしまい、取り付けを怠っていたため、今も包装された状態で放置されている。
朝焼けの陽射しの洗礼を一身に受けたため、できるなら怠けた昨日の自分に恨み節をぶつけてやりたいと思いながら、朝からカーテンの取り付けに勤しむことになった。
取り付けが完了し、朝ご飯の焼きトーストにハムとチーズを乗せたものとコンソメスープを胃に流し込みながら、今日の予定を確認するが生憎とその必要性が無いことを痛感して天井を見上げた。
「暇だな……。今日、何しよう……」
昨日までに生活に必要なものは思いつく限りだいたいは揃えたと考えている。
買い溜めておいたので当面は買いに行く必要性が無くなった。
まだ、最後の住人である留学生と挨拶ができていない。
すぐに挨拶に行くべきだろうし、行きたいが、時刻はまだ7時半前後。
さすがにこの時間に引っ越しの挨拶に行くのは、気が引ける。
仮に昼前当たりに挨拶に行くにしてもそれまでの時間は暇を持て余すことになる。
何もすることが無いというのは、意外に精神的に応えるものがあるな、と身をもって知った。
「何か無いかな~」
どこかに出掛ける予定を作るためにスマ―トフォンで付近の散歩スポットや名所を調べたりするもなんとなく気が乗らず、電源ボタンを押して画面の光を消灯させる。
スマートフォンを手放して布団に寝転びながら、目線を積み上がった荷物に移す。
世話になっていた家から持ってきた荷物は、部屋に備え付けられているタンスや購入した収納ケースに既に仕舞っている。
それとは別、タンスやケースに入れていないハンガーに掛けられたブレザーや通学用のリュックが視界に入る。
「今のうちに高校でも確認しに行ってみようかな」
全国ありとあらゆる高校は現在春休み期間であり、行く必要は無いが、四月三日水曜日の入学式に道に迷って遅れたりしてしまったときは、入学早々最悪な学生生活を送ることになること必至だろう。
だからこそ念には念を入れて、一度高校までの道のりを確認するために行ってみようという考えが浮かんだ。
そう決まれば、まずやることは決まっている。
背中に密着している平たく伸びた敷き布団と掛け布団を折り曲げて畳み、寝間着から外着に着替え始めた。
寝具を仕舞い、外着はグレーの真ん中に文字がプリントされた半袖シャツに老竹色の肩出しパーカーを纏い、淡い紺色系のボトムズをチョイスした。
スマートフォンと財布をポケットに入れ、外出準備が整い、玄関扉を開けた。
春先の空は雲一つ無く、澄み渡るような群青色が広がっている。
2階廊下から見上げたその朝空模様があまりにも洗練されていて、心奪われかけていたところ、階下から声を掛けられた。
「おっ!朝早いね~。優太くん」
声を掛けられた方に顔を向けると、手拭いで頭を覆った作務衣姿の大家の時河さんが、庭に敷かれたブルーシートの上でこちらを見上げていた。
彼の右手には工具が握られている。
なにやらシートの上で機械類を分解しているようだ。
「おはようございます、時河さん。朝から精が出ますね」
何気ない挨拶をかけてみると、こちらに対し穏やかな微笑を浮かべながら声を返してくる。
「あぁ、昔からこういう機械を分解して修理をするのをよくやっていてね。今は懇意にしているリサイクルショップから仕入れたものを直しているところさ」
手に持っているスパナを頭のあたりまで掲げてアピールしている姿を眺めながら、室内階段から降りて、分解されている部品類を覗き見た。
そこには分類された部品類が丁寧に置かれていたが、原形の判別が難しくなっていた。
しかし、その中からアンテナとフレームを見つけ、頭に浮かんだ名前を口にしてみた。
「ラジオ……、ですか?」
「あぁ、そうだよ」
しゃがんだ状態の時河さんは部品群に向き直り、工具箱からドライバーを手に取ってネジを緩めながら僕に語りかける。
「ところで優太くんの部屋にテレビとかって、無いよね?」
「はい。今まで観ることも無かったので、必要ないかなって」
「そうなると時事的な情報が周りよりも疎かったりして、不便じゃないかい?」
こちらを見上げて、様子を窺うように僕の回答を待つ時河さんの目には、他人とは決して思えない、もっと身近な間柄に向けるような温かさを感じる。
まだ会って間もないのにも関わらず、自分事のように伺ってくる彼に違和感を抱いたが、気に留めることはなかった。
「最近はネットニュースなんかあるので、時事ニュースとかはテレビや新聞よりも早く入手することができますし、特に不便に感じたことは無いですね」
「そうか……。時代は変わっちゃったんだな……」
そう言いながら、目元を隠すように部品群に視線を落とす。
丸まっていた背中がさらに丸くなる姿を見て、声をかけ直そうかと口を開くが、時河さんの声の方が早く届いた。
「そういえば優太くんはどこかに出掛ける予定なのかい?」
「あぁ……。特にこれといった用事は無かったんですが、通う予定の高校までのルートの確認をしに行こうかなと思って……」
「偉いよ、優太くん!」
徐ろに立ち上がりながら、僕の肩を両手で掴むように時河さんは手を伸ばすも、彼自身の油塗れの汚れた手に気付いて、伸ばすのを止めた。
油で汚れた自らの手で僕の衣服を汚してしまわないよう、あたふたした表情を浮かべていたが、結果的に汚さずに済んだことで安堵の表情に変わっていく。
落ち着いたように一度深呼吸をして、時河さんは言葉を続けた。
「優太くん、偉いね。準備を欠かさないようにするなんて、若い頃の私は怠っていたからさ」
「いえ、別にこれは……」
「普通のことだって?」
「……えっ?」
先読みをしたように時河さんが、僕の言葉の続きを口にして、驚きの声が出てしまった。
今の僕はきっと鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔を晒していることだろう。
そんな僕を見て、時河さんは苦笑いをしながら、再びしゃがみ込んで解体した各部品を手に取って検品しながら左手をひらひらと振った。
「別に気にしなくていいさ。そう、それは普通のことなのかもしれない。けど……」
そう言いながら再び僕と目を合わせて、中断していた言葉を続けた。
「当たり前のことを当たり前のようにできない人たちがいる。だから私にとって君は特別な存在に見えるのさ」
そう諭しながら、カーテン越しの陽光のような優しい眼差しで僕を見据えた。
僕は時河さんの眼差しを受け止めきれずに思わず目を逸らしてしまうが、言うことは言ったというように満足そうな時河さんは、修理を本格的に再開していた。
「あ~、やっぱり……。AMとFMの切り替えスイッチに隙間ができていたから、うまく受信できていなかったようだね」
「予想していたんですか?」
「AMは流れるようだったからね。だから内部の電子回路じゃないと思ったんだ。」
工具箱の予備の部品パーツを漁り、目当ての切り替えスイッチのパーツを見つけて代用パーツを填める。
僕は、時河さんの言葉の意味を半分も理解することができなかった。
その場でボゥーっと突っ立っていて、もちろん自分が追い求めているものがなんなのか分かるはずもなかった。
なぜ彼の言葉と行動にここまで心が左右されているのか理解できなかったが、とりあえずその場を後にして高校に向かうため頭を下げる。
「すみません、いってきます」
と、一言残して時河荘を後にした。
時河さんと僕の間を切り裂くような風が入り込んだせいか、彼の返答を耳にすることは無かった。
それに対して特に気にすることもなく、高校までの道のりを淡々と歩んでいくのだった。
「いってらっしゃい」
優太くんの背中に向かって投げた見送りの言葉は、突然舞い込んできた春風によって掻き消される。
我ながらタイミングの悪さに頭を抱えてしまいそうになるが、油塗れの手で額を触ることもできず、ただ溜息をつく。
気を取り直して手元にある解体したラジオに視線を移し、原型の姿まで巻き戻しするように組み立てていく。
そして自らの姿を確立してもらったラジオキットが、満足そうにフレームの光沢に陽光を反射させてくる。
正常に作動できるかのテストのため、ラジオの自家発電式のレバーを回して、充電していく。
ラジオのスイッチをFMに入れ、チャンネルを合わせるためにチャンネル調節のつまみを回す。
ザ、ザッという途切れたノイズ音が続いていたが、少しずつ明瞭な言葉が聞こえるようになり、さらにつまみを調節していくと完璧に近付いていった。
「よし、問題なさそうだな」
呟く声を押し切るようにラジオから威勢のいい音声を流していく。
ちょうど今、朝の情報番組が始まったようだ。
『NRK、朝のニュースをお送りいたします。昨日午後未明、秋田県山中で男性の遺体が発見されました。発見された遺体の身元は元の猟友会に所属している立木隆造さん、60歳のものであると判明しました。発見された立木さんの身体は損傷が激しく、麓近くの村に出没した熊に襲われた可能性が高いと見て捜査を継続しています。続いてのニュースです。昨日発生した……』
朝から痛ましいニュースを耳にして、幸先の悪さを実感しながら、修理工具や予備パーツなどを仕舞っていく。
片付けを一通り終えて、修理したラジオのスイッチを切る。
自室に持ち帰るために手に取って、立ち上がりながら左に付けている腕時計を流し見る。
「約束の時間まではまだ余裕があるな……」
そう呟きながら、作務衣のポケットに入っている鍵を取り出して、一〇一号室を開けた。
時河荘近くのバス停から乗車して、窓ガラスに映る閑静な景観に目線を移す。
時河さんの言葉に対していまだに、喉に刺さった小骨のような違和感を抱いたまま、考えてしまう。
当たり前のことを行うことが、今まで普通なのだと考えて生きてきた。
むしろそれができない人たちの方が普通ではない、『異常』なのだと思っていた。
だが時河さんの言葉でその考えは逆だったのではないのか、と積み上げてきたアイデンティティーが揺らいでくるような感覚に陥りかけている。
「僕が……、特別?」
本当にあの人はそんな格好良い意味で言ったのだろうか。
物心付き始めの頃、母だけが側にいて、父という存在をよく知ることなく育ち、その環境が『当たり前』だと思っていた。
でも、それは『当たり前』ではないと知ったのは、4歳になって幼稚園に通い始めて間もない頃、そして同時に『当たり前』だと思っていた状況が『異常』なのだと知った。
父が帰らぬ人となり、母が追うようにして僕の元から去ったのは『異常』。
年端もいかない子どもが独りとなり、手元に残ったのは、彼らが遺した財産だけという『異常』。
血が繋がっているはずの親戚たちが、僕をただの金蔓として見ていたのは『異常』。
常に付き纏うように身近にあった『異常』たちのせいで『当たり前』というものが、いつの間にかわからなくなっていた。
そして気付いていないだけで、そんな『異常』な空間で育った僕もまた『異常』なのだろう。
もしかしたら時河さんはあの時、僕という人物をそう推し量っていたのかもしれない、と性根がねじ曲がったような考えが心に浮かんでしまう。
あまりにもそれは与太話が過ぎて笑わずにはいられない。
仮に僕の過去の経緯を知っているのだとしたら、時河さんもそういう考えに辿り着くかもしれない。
他の人との対応がどのようなものなのかは知らないが、会ったばかりの自分に親身になってくれる理由も合点がいくかもしれない。
『次は終点、新横山に留まります。信頼できる実績を兼ね備える講師が集う結塔社、女性特有の婦人病などでお悩みの場合は西川クリニックをご利用ください』
時河荘を出てから十分程度かと思いきや既に二十分近く経過しているようだ。
社内アナウンスが僕の思考を一旦中断させて、熱くなった前頭葉にブレイクタイムを与えてくれる。
おかげで、遅れていた体内時計が正確な時間との誤差を調整してくれるような気分に包まれていく。
窓ガラスに肩身を寄せて、重心を委ねると外気で冷やされたガラスの感触が体感に伝わってきて、熱くなった自分の頭を心地よく冷ましてくれる。
話を戻そう、僕はきっと『異常』なんだろう。
だが、それがなんだというのだ。
たとえ今、それがわかって、くよくよしていたって前に進めないというのは、今までの生活で嫌というほどわかってきたはずだ。
それを踏まえた上でも、僕はこれからの生活を上手くこなしていけるはずだ。
大丈夫、というボロボロの言葉で自分を支えてきた僕は、これからもがむしゃらにでも突き進んでやる、なんて決意を新たに、新横山駅から神北沢高校までを結ぶ路線の改札口を通っていった。
気持ちを一新させようとピチピチと両頬を叩く。
頭を切り替えた僕は、左右のホームに停車している車両を交互に見ながら、列車種別を確認する。
右側に留まっている種別は快速急行、左側は各駅停車が止まっている。
新横山駅から高校までを結ぶこの路線名は応鉄線と呼ばれるものだ。
応鉄線は新横山駅から二つの終着駅を結ぶ路線であり、仁王寺駅から二又に分かれて居留奈駅方面と湘北台駅方面に向かうものがあるが、僕が主に利用することになるのはその一つである居留奈駅までを結ぶ経路であった。
そして仁王寺駅から三つ離れた駅である神北沢駅に神北沢高校があるのだが、駅構内に展示されている路線図を見る限り、快速急行では通り過ぎてしまうようだ。
到着時間で考慮してみると、途中まで快速急行で向かう方が早いのだが、まだ学校が始まったわけでもなく特に予定も無いため、ここはあえて各駅停車で向かうことにした。
「それにしても人、多過ぎだろ……」
加えて今の時間帯は朝八時あたり、ちょうど通勤通学の時間で一日の内に忙しい時間帯の一つ、ホーム内は多くの人でごった返しているような状況である。
うんざりするような人混みをかき分けて進むのがやっとであった。
だから各駅停車の方が、座席を確保することが容易だろうと考えられる。
「そういえば各駅停車一本で向かうと何分くらいかかるのだろう」
不意に思い浮かんだ疑問に答えるため、懐からスマートフォンを取り出して、有名な経路検索アプリで調べてみると通勤時間ということも相まって五十分ほど掛かるようだ。
時間の余裕的に問題は無いのだが、約一時間あまりの間、ずっとスマートフォンをポチポチとイジっている自分の姿を想像して、思わず心の中でドン引きしてしまった。
スマホ依存症に一歩ずつ近付いてしまうような将来を歩むのは、極力避けたい。
そんな時、ふと視界の隅にコンパクトな佇まいの書店があるのに気付いた。
駅構内の書店は規模が小さいため、取り扱っているジャンルは広いといえども、そのカテゴリー内で取り扱っている本のタイトルやシリーズは狭い傾向にある。
だが、見かけてしまったからには、つい取り扱っている作品を確認したいという欲求で、ふらっと足取りが書店の方に向いてしまう。
「あっ!このマンガ、新刊が出てたのか!」
手に取ったマンガは最近話題になっているラブコメものと友情バトルものの2冊。
以前から気にはなっていたが、大型書店で既刊見かけた際はなんとなく購入する気にはなれなかった。
だが、今は暇つぶしの娯楽として既刊を含めて購入することにした。
2つのタイトルの新刊と既刊含めて数冊を手に取り、レジで会計してもらい、ゲットすることができた。
「あっ!」
暇つぶしを見つけた喜びで頭がいっぱいになっていたのか、気付かないうちに各駅停車が乗客用ドアを閉めて出発しようとしている瞬間を目にしてしまい、間抜けにも声が漏れてしまっていた。
「仕方ない、次の電車に乗るか……」
そう呟きながら各駅停車が知者する予定のホーム側に並び直した。
そこから高校がある駅まで長い道のりは、あっという間の時間であった。
マンガを手に取って読み耽っていると、外界との繋がりの一切を遮断されたような感覚になり、再び時間の感覚が緩やかになっていく。
『次は神北沢駅、神北沢駅に止まります』
車内アナウンスが目的地の場所に到着することを告げてくる。
五十分ほど経過して、まだ二冊目の後半あたりまでしか読み進められていなかった事実を知り、驚き半分、名残惜しさ半分であったが、車両の扉が開いて駅名が書かれた看板が見えたとき、読み続けたいという自分の欲求を抑えつけて車内を後にした。
駅舎の出入り口から約五分歩いたところに、神北沢高校があるとスマートフォンの地図アプリがお知らせしている。
神北沢高校までの道は桜並木が街道沿いに植えられているため、四月初めになると満開になり、風が吹くと桜吹雪を散らして新学期を祝福しているような光景になるそうだ。
まだ三月終わりであるこの時期は、蕾の中から花弁が僅かに覗いている状態だ。
芽吹くのが、とても待ち遠しい。
長きに渡って樹齢を重ねてきた桜の大樹の太い幹は圧倒的な存在感を醸し出し、高校までの道に沿って整列している様がまた凄みを感じさせてくる。
桜並木を眺めながら歩いて行くと、次第に神北沢高校の全貌が見えてくる。
高校は生クリームを塗りたくったような色合いの外壁に囲まれた鉄筋コンクリート4階建てで、校門から見て校舎は左側に偏っていて、右側には体育館施設が屹立している。
以前、高校案内パンフレットの中身を読んだ際、フロアごとに柔道場や剣道場、水泳プールなどが施設に纏まっているなんて説明書きを読んだことがある。
体育館施設は校舎よりも小さいが、地下二階まであるらしいので館内マップを見た限りだと、運動場が充実しているような気がする。
そして校舎を隔てた奥側には、グラウンドが広がっているそうだ。
春休み期間のためか、朝練をしている運動部の掛け声がグラウンドから校舎を飛び超えて、喧しく聞こえてくる。
このまま中に入って部活動の見学がてら学校内を見て回りたいと思ったが、近くに守衛所がある。
さすがに私服姿で入るのは注意されそうで、高校の敷居を跨ぐのは躊躇われた。
「仕方ない。学校までの道は分かったし、どこか別の場所に寄って帰ろうかな」
そう自分に言い聞かせながら、元来た道に戻ろうと身体の向きを変えようとしたとき、いつの間にか僕の隣三メートル離れた場所に肩ほどの背丈の少女が一人立っていた。
だが、纏っている雰囲気から自分と同い年ぐらいで、高校前に立っているから女学生なのか、と考えが過ぎったがすぐに捨てた。
白いローブのような衣服を纏い、顔が隠れるようにフードを被っているため、その容貌はよく見えない。
しかしフードの奥にある眼差しは高校に真っ直ぐ向けられているのは首の傾き具合でわかった。
加えて少女の髪は黒ではない。
雪片を頭から纏ったように一筋一筋が白銀に光る髪がフードから垂れ流されている。
ローブの中がどうなっているのかわからないが、綿貫さんとは少し系統が違う佇まいをしている。
まるで地に足が付いてない、そこに『いる』ようで『いない』ような印象を抱く。
「あのー……」
「……」
返事は無い、むしろこちらに視線すら合わせない。
負けじと再挑戦してみる。
「えっと……神北沢高校の関係者ですか?」
「……」
「もしかして、ここの学生とか?」
「……」
一切の反応を見せない彼女に心が折れそうになるが、なんとか踏ん張ってみる。
そもそも、服装や髪の色からして日本人では無いのかもしれない。
それなら日本語で伺っても返答しないのは当たり前なのではないのだろうか、もしや英語圏で話しかけた方がいいのか、目の前の彼女は僕が英語で伺うことを待ち望んでいるのではなかろうか。
一人、心の中で連想ゲームのように策を練っていく。
その前に、まずは自分が聞きたいことを頭に浮かび上げて。英語に変換してみる。
変換し終えた英語を駆使して彼女に声を掛けようと口を開こうとした瞬間、白いローブの裾がゆったりと風によって揺らめいたように見えた。
「……」
「……えっ?」
ローブの裾が揺らいだのは、少女自身がそれを動かしたからだった。
ゆっくりと左腕を上げていき、何かを指さしている。
彼女が指差している方角に目線を向けるが、特段何かが見えるわけではなく、彼女が意図しているものが読み取れない。
「あのー、何を指差して……、っ!?」
問いかけようと少女の方に顔を向き直すと、先ほどまで隣にいたはずの白いローブの彼女は忽然と消えていた。
反射的に首を左右に動かして少女の姿を探すと、白いローブ姿を捉えることができたが、彼女は学び舎と体育館施設を繋ぐ渡り廊下の真ん中に立っていた。
「一瞬でどうやって!?」
並外れた移動速度、むしろ瞬間移動とも言える芸当に頭が付いていけず、混乱しかけるほどだ。
そんな少女がゆったりとした歩幅で学び舎の中に入っていく様を見て、先ほどまでの躊躇は一体何処へ行ったのか、後をつけるため校門を通って敷地に侵入してしまった。
少女が入った渡り廊下と学び舎の境目になる入り口まで走って辿り着き、目にした光景は、一階廊下奥にある地下へと続く階段を下っていく白いローブ姿だった。
地下に続く階段まで辿り着くと、踊り場からさらに下へと降りていく姿を見る。
踊り場から見た光景は、地下1階からさらに降りていく姿。
僕に見失わせないようにしながら、追いつかれないように距離を置いているような意思が伝わってくる。
少し息を切らせて、両肩を揺らしながら精一杯、肺に酸素を入れようと呼吸する。
「全然追いつけない、なんなんだよ……」
地下二階まで辿り着いた瞬間、そんな悪態が吐いて出る。
それでも足を動かして白いローブの少女を追いかける。
彼女は十メートル離れた教室に入っていき、入室した途端に扉が勢いよく締まり、その音が廊下中に反響して聞こえてくる。
春休みの時期は使用されてないのか、地下2階の廊下や教室の照明が灯っていない。
唯一、上階からの僅かな光で届いてきて、薄暗い不気味な空間が出来上がっている。
お化け屋敷のように不気味な仕上がり様になっていることに肝が冷えてきたが、ここまで来たからには食い下がるわけにはいかない。
意を決して、少女が入っていった教室の前まで歩いていき、立ち止まる。
「『地学準備室』?」
教室入り口上に張り付けられているプレートに記載されている教室名を読み上げる。
地学準備室の扉は外から中を覗けるような窓ガラスが取り付けられていないため、白いローブ姿の少女が教室内で一体何をしているのかわからない。
生唾を飲み込みながら取っ手を掴む。
掴む手に力を加えて開けようとすると、扉の建付けが悪いのか僅かに隙間ができる。
そしてそのまま勢いで、重い扉を開け放った。
「……っ!?一体どうなってんだ、これ!?」
扉を開けたその先は暗く、申し訳なさ程度の苔で覆われた岩肌の壁、静まり返った空間、縦横高さの幅が三メートルほどの洞窟が先まで続いていた。
光源が無いものの、薄暗さに慣れて夜目になっているのか視界はぼやけて見える程度しかない。
奥からひんやりとした空気が吹き付けるとともに、自分の身体を押し返してくるような圧迫感が肌身に伝わってくる。
これ以上進ませないという意図のようなものを感じつつ、それでもと扉の先に足を踏み入れた。
「……ここは一体どこなんだ?」
疑問に感じながら、ふと後ろを振り返ると、通ったはずの教室入り口が既に無くなっていた。
「……嘘だろ」
現実逃避じみた心境を思わず口に出してしまうが、その声は虚空に消えていく。
現状をいったん把握するべく立ち止まって考えを整理する。
謎の少女を追いかけて学校内に入って、明らかに学校内ではない場所に入り込んで、帰り道が無くなってる。
こんなあり得ない状況続きで一体どうすればいいっていうんだ、この僕に……。
前に続く道も、後ろも、果てしなく闇の世界が広がって何も見えない。
「まるで異世界召喚ものの序章みたいな展開だな……」
一体自分に何を求めているのか、一切の判断材料が無いこの状況下を本当に異世界召喚だと言えるのだろうか。
ハァ、と嘆息して両手で髪を掻き上げる。
「光源が無い……、戻る手立てがない……、真っ直ぐに伸びた道……」
手元にある材料から類推するに、思いつく答えは一つしかなかった。
「……真っ直ぐに歩けばいいのか?」
見えない何かに問いかけるように声を出す。
洞窟の奥から風が微かに髪を揺らすように吹いてくる。
それはまるで肯定を示すかのようだった。
風が吹いてきた方向に向かって、壁伝いに進んで行く。
一歩、一歩、踏みしめていくたびに足音が岩壁に当たって反響する。
岩で形成されている洞窟は、人の手が加えられたのかと思えるほど滑らかな手触りで、突起物などで躓いたりするのではないかと慎重になるが、一向にそうなることはなかった。
歩いている内に足下がおぼつかなくなるほど、地面が凸凹した場所に出るのではないかとも思ったが、そうなる気配もない。
「一体、どこまで続くんだろう……」
不安と隣り合わせで進んでいくたび、一体どこに導いているのか、と警戒心が募っていく。
やがて自分の手が壁から離れ、より一層不安と警戒心が増してくる。
だがそれは今までのただの道から広い空間に出ただけなのだ、とすぐに直感した。
その開けた場所もまた、灯りが無いため、どんな場所なのか見当が付かない。
するとポゥっと、ゆっくりと夏の蛍のような妖光が自分の隣に生まれ、明るくなっていく。
突然の灯りに眼球が悲鳴を上げて咄嗟に目元を手で隠すが、少しずつ目を慣れさせていくために手の押さえを無くしていくとともに、光源の元を確認する。
そこには周りを照らすよう左掌に昼光色の光を宿し、彼女の半径1メートルほどの周囲を照らしている白いローブの少女がいた。
最初の瞬間的な移動といい、この時点で少女は『普通』ではないと改めて確信した。
少女は僕の前をゆっくりと歩んでいき、数歩離れたところで彼女の足は止まって、ようやく僕と目線を合わせるように振り返る。
その傍らには少女の腹部あたりまでの高さの安山岩で形成された円柱、そして同じく三角錐のオブジェがその円柱の上に置かれていると気付いた。
そして少女は、オブジェに自身の体温を込めるように手を添える。
オブジェは徐に光を発し、僕の身体を仄かに照らす。
『気……ザザ……け……ザザ……間……無……。ザザッ……穿ち……命脈……絶つゴウラ……目覚……た。ザザ……空……截……の頂ザザッ……ラドバ……醒ザザ……す。選……強……らザザ……刻……近……』
所々が途切れ途切れで、壊れかけのスピーカーのようなノイズだらけの声、彼女が伝えようとしている話を理解できない。
「えっと……、ちょっと聞こえづらいんだけど」
『……』
少女の顔色をその目深に被ったフードで読み取ることはできないが、彼女が纏っている哀愁から、きっと憂いを帯びた眼差しでこちらを見据えているのだろう、と感じる。
「本当にゴメン」
『……い……ザザ』
聞き取れないことに罪悪感を抱いた僕は、少女に謝罪を述べて頭を下げる。
顔を上げると、顔が見えない少女はどこか覚悟を決めたような厳しさの中に、それでもなお僅かに慈愛を込めたような眼差しで、僕を見据えているような気がした。
なぜ少女はそのような眼差しで見てくるのか、その小さく華奢な身体で一体何を背負っているのか、それらを理解するために今の僕には『何か』が足りていないと自覚する。
……待ってくれ、なぜ僕は『何か』が足りない、と思ったのだろうか。
思考が混乱して、思わず頭を押さえる。
搔き乱される感情、理性が綯い交ぜになるが互いに脳内で拒絶反応を起こし、絶痛絶苦で顔を歪ませる。
それでも、と僕は引き裂かれるような頭の痛みで苦渋の色に染まった表情を浮かべながらも、少女の心根を理解したい一心で彼女の方に左手を伸ばす。
「君は一体、何なんだ……」
少女に伸ばした手がやがてローブ越しではあるものの、彼女の右耳があるあたりまで手が届いた。
その瞬間、ザザッと上質な和紙を擦り合わせたような掠れた音が、壁に反響して鼓膜に何重にもなって聞こえてくるとともに、少女全体にノイズが生じた。
寸分満たない時間でノイズが晴れ、そこに立っていたのは、フードが外されて素顔が露わになった少女だった。
その顔には、見覚えがあった。
「……えっ?君は……」
『お願……、目覚ザザ……て』
するとその時、何かが落ちてくるような衝撃が二回立て続けに肩の上に掛かり、脳が揺さぶられるような感覚に陥った。
「おい、君!何をしているんだ!」
「……えっ?」
「何をしているんだ?と聞いているんだが……、言葉理解できる?」
肩に掛かる衝撃と一緒に背後から投げられた声に驚いて振り向くと、顔が皺だらけで厳つく、渋い顔をした五十代ぐらいの警備員姿の男が、僕の肩に手を置いていた。
そしてさらに驚愕したことに自分が立っているこの場所が、洞窟内の広い空間などではなく、埃とカビの臭いで充満した教材や資料、授業に使用するような何らかのオブジェが無造作に仕舞われている地学準備室の景色に変わっていた。
「えっ!?あっ、はい!あれ?」
「あれ?じゃないよ。君は自分が何をしているのか、わかっているのかね……」
「……いえ」
「ハァ……、とりあえず事務所まで付いてきてもらうよ」
「……はい」
警備員さんが意図していること、自分の置かれている立場、一体どうなるのかを瞬時に察して諦観したような表情になってしまう。
警備員さんの指示に従って、魂が抜けたような足取りで付いていくのだった。