第一章この世界の片隅で
六年前、六月十二日の誕生日が久住優太の運命のターニングポイントであった。
父親が研究職に就いていたことで家に帰らないことが多く、普段は母親と家で過ごしていた思いでしかない。
そんな父を心から愛していた母が親身に支えていた記憶が僅かながらに残っている。
深夜遅くに家に戻ってきた父が再び職場に戻らなくてはいけない、そんな時に母は不満や文句を言わず、彼の衣服や仕事に必要な資料、道具の準備をして送り出していた。
特に物心が付いた頃合いから急な出張や泊まり込みが増えたようで家で過ごす父の姿をあまり見ることがなかった。
そのような生活を強いられて、やはり寂しくないわけがなかった。
父の写真を見せてもらっても自分の父であるという実感が湧かないということが普通ではないということを既に理解できる歳ではあった。
ただ写真を見ていると、記憶が定かではない昔、厚くてゴツゴツした手の平で抱かれて頭を撫でられた感触がほんのりと蘇る気がして、それが父であることを再認識する唯一の手段であった。
そんな僕を見かねてか、母は僕との時間を作って一緒に過ごしてくれて、そのたびに父の話を聞かせてくれた。
そして近々父の研究の目途が付くため、父は僕の誕生日に家に帰ってきて、共に過ごしてくれることを約束してくれたようだった。
正直、顔も覚えていないぐらい長い間会ってないから、どんな話をすればいいかわからなかったが、誕生日のときに父親とどんな話をすればいいか考えるたびに高揚感が湧いてきたのを今でも覚えている。
そして九歳の誕生日、父が帰ってくることはなく、代わりに父の訃報が届いた。
勤務先の研究所で爆発事故に巻き込まれ、研究所に勤めていた研究者、警備員等の関係者の多くが亡くなり、父もその一人であった。
ただ幸いなことに他の人の亡骸とは違い、父のモノは五体満足の比較的綺麗な状態で発見されたそうだ。
取り急ぎ父の葬儀が執り行われることになり、親戚、友人、同業者などの多くの参列者が訪れた。
気丈に振る舞っていた母の姿を見て心配になっていたが、棺の中で眠っている父の顔を見ても涙を流すことはなかった。
ただこれからも変わらず、母との二人暮らしが続くだけだと思っていた。
だが、それも叶うことはなかった。
半年後、最愛の人を失った母は心労から病に伏して、後を追うように亡くなった。
たった一年という短い期間に二度の葬式、最愛の母を亡くしても涙が出ることはなかったが、ただ一度目と違うことが一つあった。
最愛の母を奪った、顔も覚えていない父への怒りで心が満ち満ちていたことだ。
これから一生、父への憎悪とともに生きていかきゃいけないのだと自覚したとき、さらに事態はこれでもかと悪い方向へと転がっていった。
「君が久住優太くんかな?」
「……はい」
葬儀が終わり、片付けや手続きなどは親戚方々に任せて少し離れていたところで一人になっていたところ、整髪剤で前髪を七分分けにしたスラッとしたスーツ姿を纏った眼鏡の30代頃の男性が話しかけてきた。
その男は懐から名刺を出しながら、
「はじめまして、私は本田法律事務所の河本と言います。差し支えなければしばらくお話しさせていただく時間を頂けますでしょうか?」
「……はい?」
親戚たちの目つきが獲物を見定めた肉食獣のそれに変わった。
「優太くん、私の家に来ないかい?」
「いや、俺の方で引き取ろう!優太くんと年の近い息子がいるけどどうだい?」
「私の家の方からでも今の学校に通えるだろう」
親戚たちが嬉々としながら、僕を受け入れる先を決め合っている姿は、子どもながら反吐が出るような光景であった。
先日まで、目の上の瘤のようなものとして見做していたというのに。
きっと彼らの目的は夕刻に話しかけてきた河本さんから受けた話なのだろう。
河本さんの話を要約すると父と母の資産の相続、加えて死亡保険金がいずれ振り込まれること、そして合わせて莫大な金額となることなどを教えてくれた。
その間の相続税や諸々の手続きを母が依頼したそうだ。
親戚関係に依頼していないことから察するに母も信頼をおけないと思っていたのだろう。
そして自分の処遇をどうするかで揉めている、という事態に至る。
結果的に母の妹夫婦の家に住むこととなり、母との思い出が詰まった家を手放すこととなった。
妹夫婦の家庭は、二人の息子がいた。
二人と比べて歳が二歳上である僕は事実上、兄となるが突然できた兄に困惑を隠せず、接してくる態度は他人行儀のものであったが、我が儘を押し通そうとするときは別であった。
兄よりも弟の自分たちを優先しろという魂胆が見え隠れし、それを妹夫婦は止めることが無く、むしろ我が子可愛さで助長させていた。
表面上は両親を失った甥に優しい妹夫婦という仮面を付けているが、他人の目が周りに無い時は猫撫で声で近づいて、金を寄こせと遠回しに言ってきたことが多々あり、より自分の心は閉ざされていった。
妹夫婦も最初のうちは優しく接してはいたものの、全く懐かかない飼い猫のような存在であった僕のことを次第に疎ましく思うようになっていった。
そんな関係が長く続くことが無く、しばらくして他の家に追いやられて過ごすものの同じようなことが続くばかりで、たらい回しにされていた。
その頃はもう心身ともに疲弊していた。
そして少しでも自分の状況を良くしようと一つ提案をしてみた。
「高校に入った後はご迷惑をおかけしません。下宿先から高校に通おうと思います」
その時に世話になっていた一家に伝えたのは中学三年、受験のため勉強一筋な時期であった。
提案をした時の彼らの表情は悲しみなど微塵もなく、安心したような少し悔しがっているような複雑な顔をしていた。
その後、無事高校も決まり、その近くの下宿先に住まうことを決めた。
三月二十一日、荷造りをして、世話になっていた親戚一家の家を後にした。
家を出る最後まで顔を見合わせること無く、彼らとの生活に終止符を打った。
もうその地を二度と踏むことは無いだろうと予感しながらも、特に名残も、思い残すことも無い自分自身に虚しさを抱きながら、荷物を入れたバッグを背負い直して足取りを速めた。
電車とバスを乗り継いで二時間、ようやく目的地に近付いてきた。
バスからの景色は、横山市新都の繁華街から住宅街がある閑静な並木道へと移り変わる。
通う予定の高校は、新都の駅から電車で二十分かかり、新都駅から下宿先近くの停留所までバスを利用するのだが四十分近くかかる。
そのため下宿先から高校までは、かれこれ一時間ほどで辿り着ける場所にあった。
ちなみに僕がこれから住む場所から近い街である横山市とは、都心から近く、有数の観光スポットとしても名高い場所だ。
横山市のエリアとしては新都と旧都で二分されている。
新都は繁華街ではあるものの、比較的高層ビルがひしめくオフィス街であるため、学生にとってはあまり馴染みの無い場所らしい。
基本的に学生が立ち寄りやすい場所としてはアクセス面に加え、飲食店や娯楽施設が豊富なところに集まりやすい、そして旧都にはそれらが集中しているそうだ。
港が近く、土地のブランド価値は近辺と比べて非常に高い、そのためカップルのデートスポットだけで無くファミリー層にも魅力的に見える街の一つとして数えられている。
買い物環境に事欠かない場所であるから自分も利用することになるだろう。
当面お世話になる下宿先は、旧都の端のほうにある住宅街にある。
下宿先に向かう間、横山市の情報をあらかたスマートフォンのブラウザで調べておく。
そうして時間を潰している間にも下宿先最寄りの停留所にバスが到着した。
ICチップ読み取り機にカードを当て、乗り越したバス停の数に対応する金額を支払って降車する。
乗っていたバスが排気口を震わせ、ガスを撒き散らして走り去っていく様を尻目に、下宿先までの道を歩き始めた。
まさに住宅街のど真ん中、路地と路地が入り組んで目印が見当たらない。
契約した不動産からの情報ではスーパーやらコンビニ、郵便局などを通って辿り着ける道を教えてもらっていたが、歩き始めて迷子状態になっていると自覚するとともに情報が古いものではないかと疑いを抱き始めていた。
「誰かに道を聞いたほうがいいのかな……。もうちょっと粘ってみようかな」
充電が残り僅かなスマートフォンのGPS機能に頼りながら、情報と表示されている地図とで睨めっこする。
地図と見比べてみると案の定情報が古いのだと確信して、溜め息を吐かずにはいられなかった。
やるせない気持ちを抱きながら、スマートフォンの画面に案内されて下宿までの歩を再開させ、五分くらい経ってようやく目的地に到着した。
下宿先の門前に近付いていくと、一六〇センチメートル後半ほどある女性が一人で立っていた。
こちらに気づくと熟れた芒果のように目尻がトロンと落ちているその瞳でこちらを見据えて微笑を浮かべながら会釈してきた。
「あらあら、あなたが久住さんですねぇ?」
「はい。今日からお世話になります、久住優太です。」
「よろしくお願いしますぅ。私、ここの大家の代理で久住さんを待っていました、綿貫と言いますぅ。さあさあ、部屋を案内しますねぇ」
挨拶をした限り、温和そうで落ち着いた人である印象を受ける。
髪型はショートボブに切り揃えられて、所々癖毛があるのが見受けられるがバランス良く配置されているせいか、ダラしがないという風体には見えない。
身長は自分より五~六センチ低め、ふくよかではないもののしっかりと女性としての特徴的な部位が強調され、存在感がある。
さらに彼女が纏っている女性として独特な雰囲気のものであるように感じる。
まるでほろ酔い状態というか、地に足が付いていないような、おっとりとした感じだった。
綿貫さんが「こちらですぅ」と船頭切ってアパートの室内階段を上って、案内を始める。
今日から世話になる下宿先は築年数が古く、木造2階建てアパートであった。
正直、母が残してくれた貯蓄でもっと条件のいい下宿先を決めることはできた。
だが、それだけで、お金目的で親族のような連中が近付いてくる可能性を考慮し、あえてそう思われない場所に決めた。
見た目はよく言えば風情がある、悪くいえばボロい外見だ。
とりあえず紹介されていた部屋は聞いていたとおり水道光熱、ガス等の設備関係に不備は無く、風漏れも雨漏りも無いことは確認済みの1DKである。
居心地も決して悪くない。
きっと住めば都となるだろうと考え、改めてそこに住むことに決めた。
「じゃあこちらが久住さんの部屋の鍵になりますぅ。何かありましたら1階の大家に伝えてくださいねぇ。もし留守でしたら、この階の端にある私の部屋までに来てくださいねぇ」
「わかりました。いろいろとありがとうございます。これからよろしくお願いします」
「は~い、これからよろしくお願いしますねぇ」
癖毛を揺らしながらお辞儀をして、彼女は自分の部屋のへと戻っていく。
その後ろ姿に軽く会釈して、自分の部屋である二〇一号室の方を振り返る。
受け取った鍵を使って錠を外し、扉を開けて中に入る。
古い木製の扉であることから建付け悪く不協和音が鳴りそうな見た目をしているが、それは常に杞憂に終わるため、内心ホッと胸を撫で下ろす。
中に入ると、そこは決して広くもない狭くもない塩梅な空間が広がり、心が落ち着くような気分になる。
落ち着ける空間を持てたのはいつぶりだろう、とつい感慨に耽ってしまう。
入学予定の高校での学校生活が目前に近付いていることもあり、リラックスタイムを一旦お預けにしてまずは部屋の中の荷物段ボールから荷物整理をすることにした。
片付けを始めてから日の沈みかけとなった時に呼び鈴が部屋の中でこだまして訪問客の存在を知らせてくれた。
「はーい、今向かいーす」
部屋の整理を一通り終えて寝転がった状態から起き上がり、扉へと続く廊下に向かって声を響かせる。
扉へと向かい、鍵を外して開けると、昼間留守にしていた大家さんが玄関前に立っていた。
年は三十代半ばあたりのどじょう髭を生やしたスキンヘッドの男で、多少引き締まった身体にポロシャツと鍔付きの帽子を着こなしていた。
それに加え、一見して大家であると言われても、疑ってしまうような強面であった。
そんな大家さんは扉を開けた自分を見て、にこやかな表情から目を丸くして少しばかり驚いたような顔をしてから、僕の顔をまじまじと見つめてきた。
目尻と口の端に僅かながら皺を寄せて、顎を擦りながら見つめてきている。
「あのぅ……。僕の顔に何か付いていますか?」
「えっ……?あぁ、これはすまないことをした。不快な思いをさせてしまったようだね」
「いえ、別に……」
帽子を取り、謝罪を込めて会釈してくるのに対して軽く頭を下げて返す。
「特に何かあった訳ではないのだが、自分が管理しているアパルトメントの扉をなかなかのイケメンが開けてくるものだからね」
「はぁ……、それはどうも」
「おや、目の下にクマができているようだが……。おっとすまない、もしや休憩中か何かだったかな?」
「えっ?クマですか?」
指摘されて、つい反射的に目元に手を当てるがもちろん何か特別なものに触れられるわけではない。
「越してきたばかりで疲れているだろう、無理もない。だから今日のところは軽い挨拶で済ませておくよ」
そう言いながら目元を綻ばせて鍔付き帽子を胸に当てた。
「改めてここ、時河荘を任されている大家の時河宗一だ。これからは一つ屋根の下でよろしく頼むよ」
「久住優太です。よろしくお願いします。」
時河さんはそう言い終えた後、ゆっくりと右手を差し出して握手を求めてきた。
すかさず手を差し伸べると力強くゴツゴツとした感触と温もりが掌から伝わってくる。
握った時の印象は少し安心感がある、といった感じだ。
そしてゆっくりと結びを解かれて、それではと時河さんは再度会釈をしてその場を後にしようと室内廊下まで歩いて行った。
「あぁ、すまない。言い忘れていたことがあるんだ。」
時河さんはそう言って振り返りながら、こちらに近寄ってきた。
「優太くんはもう琴音ちゃんには会っていると思うけど、他にも今は3人の入居者がいるから時間があるときに声を掛けてみてくれないかい?」
「はい、わかりました」
「じゃあこれからよろしく」
そう言い残して今度こそ部屋を後にして帰っていった。
自分も部屋に戻って、もう一眠りすることにした。
扉を閉めて居間に戻ったときに、ふと時河さんの言葉を思い出して洗面所に向かう。
洗面所の鏡に映る自分の顔を覗き込みながら、目元に手を当ててマジマジと観察する。
「ん?」
疑問が音となって、つい口元からこぼれ出る。
「なんだよ……。クマとか何もできてないじゃん……」
疲労が溜まっていたとはいえ、決して目元の血色が悪くなっていることはなかった。
時河さんがクマを指摘した理由はわからないが、いずれ本人に聞けばいいだろう。
今は近付いてくる睡魔に身を委ねることに決めたのだった。
時河さん、綿貫さんとの挨拶から二日後、近くのスーパーで食材と日用品を買い込んで、その膨張した袋を持ちながら時河荘への帰路でふと時河さんの言葉が頭に過ぎった。
「そうだ、他の住人に挨拶に行かなきゃ」
そう呟きながら、時河荘への歩のスピードをやや速める。
記憶は良い方なのだが、他人からの頼まれごとを忘れがちなのが僕の悪いところだ。
自省しつつ帰ったら挨拶に行かなきゃと決めて、時河荘の門前に辿り着いたと思ったその瞬間、勢いよく左右に開いた門扉、そのうち外側から見て右側の扉が身体にぶつかって尻餅を付いてしまった。
突き飛ばされた衝撃でビニール袋が破け、中のものが散乱してしまう。
そして強打したことへの鈍い痛みがコンクリートに打ち付けた臀部に集まりだしてきた。
「痛てて……」
「ごめん!いきなり開けちゃって……、大丈夫?」
門扉から現れた女性はブロンドのショートヘアで、掛けている眼鏡の奥から小動物のような目が覗いている身長が低めな女の子だった。
ヘッドフォンを首に掛け、リュックサックを携えてどこかに出掛けるところのようだ。
時河荘から出てきたことから住人の一人と見受けられる。
まだ子供とはいえ、こっちは痛い目を見たんだから、さすがに言っておかなきゃいけないことがある。
「うん。大丈夫だけど、いきなり飛び出してきて危ないよ」
「すみません、急いで家を出たあまり……」
いつまでも尻餅を付いてはいられないので、立ち上がって埃を払いながら、女の子に注意をする。
項垂れている女の子にもう少し言い聞かせたいところだが、急いでいるようだし今日のところはこのぐらいにして、母親に注意しておこう。
「今度からは気をつけてね。ところでお嬢ちゃんは小学生?お母さんは部屋にいるのかなぁ?」
「……はい?今、なんて言いました?」
ついさっきまで青ざめていたはずの女の子が、能面のような無表情で見上げてくる。
お面のように不気味な表情ではあるが、顔はリスを彷彿とさせるような可愛さがあり、つい和んでしまいそうなほど整っている。
だがその子の目は据わっていて、何かを見定めるような猛禽類を連想してしまう。
一瞬気圧されてしまうが、負けじと先ほどの言葉を繰り返す。
「だからね、お母さんは……」
「いや、そこじゃなくてもっと前の言葉」
「えっ?」
強気な物言いに一瞬押されてしまうが、目の前の彼女の要望に従うため、さらに記憶を遡らせる。
「えっと……」
まさかとは思いつつも、ほんの少しの確信とともにその言葉を口にした。
「お嬢ちゃんは小学生?」
「……」
目の前の女の子の表情から生気が失われるとともに花びらのような唇が閉じられる。
冷えた空気を纏った彼女に一種の不気味さを感じ取ったその時、女の子がゆっくりと両腕を上げる。
何をするのかその一連の動きを目で追っていたところ、突然肉食獣が草むらから飛び出すように僕の下腹部にしがみついた。
突然の女の子の奇行に驚きつつ、すぐさま引き剥がそうと試みるがそこでなにか妙な違和感を覚えた。
「……あれ?」
「ねえ……お兄ちゃん?」
下腹部に当てられているその感触によって、僕の思考は麻痺させられる。
状況理解を努めるもエラーが生じたロボットのように動けなくなってしまう。
だが、それの正体については、答えのようなものが既に頭の検索エンジンにヒットしているのだが、自分の理性が否定材料を探そうと躍起になってしまっているため、思考回路が混線してしまっている。
小学生にしては発育が良すぎる女性特有の二つの質量、その柔らかい感触を前にして認識を改めざるを得なかった。
「私、大学生だよ?お兄ちゃん?」
下から見上げてくる彼女は悪魔のように唇を端いっぱいに吊り上げてニヤつきながら、ゆっくりと拘束を解いてくれる。
へなへなとへたり込むように地べたに座った僕を彼女は見下ろしながら、ごめんね~と手を振りながら足早に時河荘から離れていった。
小学生のような見た目の女性とのひと悶着が頭から離れず、関節が錆びたロボットみたくぎこちない動きをしながら立ち上がって室内階段まで歩いていき、一歩、また一歩と段差を上っていく。
ビニール袋が破れてしまったため、両手いっぱいに買い込んだものを持ちながら二階に到着し、自分の部屋の方に身体を向けると一人の女性が立っていた。
「あぁ、久住さぁん」
自分の部屋の前で、ちょうど呼び鈴を鳴らそうとしていたのであろう綿貫さんがこちらに気付いて歩いてきた。
冷水を頭から掛けられたように冴えた頭が、だらしのない自分の顔を見られないようにと取り繕ってくれる。
肩の力を入れすぎないよう平静を装いながら、彼女に応えた。
「どうしたんですか、綿貫さん。何か用事でも?」
「……あぁ、そういうことですかぁ」
何かを納得したように眠そうな眼を僅かに開けて、頷いている。
「えっ?何のことですか?」
「久住さん、凛華ちゃんにからかわれましたねぇ?」
「凛華……さんってあの背が小さい?」
「そうですぅ。久住さん、何か驚かれたような顔をされていたので勘が働いちゃいましたぁ」
どうやら先ほど出会い頭でぶつかった見た目が小学生な女の子で間違いないらしい。
「彼女、そのことを気にしているので本人の前では言ってはいけませんよ?」
「そうなんですね、肝に銘じておきます」
外見的な判断要素だけを基に彼女のパーソナリティを今までも客観的に判断されてきて、きっと苦労してきたのもしれない。
彼女の外見的コンプレックスに触れるような発言は金輪際止めておこう、と決意する。
そんな僕を見て綿貫さんは、満足気にニコッと笑いながら凛華さんについての語りを続けた。
「彼女の名前は鳴無凛華ちゃん、私と同い年で大学3年なんですよぉ」
「えっ?あの人、大学3年なんですか⁉」
見えない、と言葉を続けようとしたが、先ほどの決意を思い出して何とかその言葉を飲み込むよう、咄嗟に口元を両手で塞ぐ。
そんな自分を見て、笑いながら補足する。
「彼女は情報数理専門でぇ、パソコンに詳しいんですよぉ」
私も良く教わっていますぅ、と言葉を続けた彼女はなぜか自慢げに胸を大きく突き上げた。
そしてその動きに従って彼女の立派な胸部もまた大きく揺れた。
「ただ彼女は見栄っ張りなところがあってぇ、身長が低い代わりに大人らしくしようとしてしまうのでぇ」
「大人らしく……、ですか?」
「はい、余裕があるようにしたりぃ、経験が高いように見せて補おうとしたりするんですよぉ」
「なるほど……」
先ほどの抱きつき行為は、彼女なりの大人らしさというものが何たるかを考えての行動らしい。
心の中で彼女のために誰か訂正しておかないといけないのでは、と思案したり、また同じような状況に見舞われないか、と願っている自分がいる。
「それでその後、彼女は自分がしたことを後悔していることが多いんですよぉ」
「……へぇ」
よし、やっぱりこれ以上醜態を晒してしまう前に彼女に止めるよう、僕が言いに行こう。
いつか彼女が良からぬ人の手であられもない姿にされてしまうのではないのか、って嫌な未来予想図を頭に思い浮かび、身震いを起こしてしまう。
そんな遠い目をしている僕の様子を見て、綿貫さんはクスクスと笑っていた。
「大丈夫ですよぉ、久住さん。凛華ちゃんが大変な時は私が助けているのでぇ、安心してくださぁい」
「……はぁ」
綿貫さんを無意識のうちにマジマジと見つめてしまう。
当の本人は、僕の視線を察して眉に皺を寄せて、唇を尖らせる。
「久住さん、なんか失礼なこと考えていませんかぁ?」
「えっ⁉いやぁそんなことは~、ないですよぉ~」
「……本当ですかぁ?」
急接近して詰め寄ってくる綿貫さんの小顔に圧倒され、彼女が発してくるプレッシャーから逃れようと思わず顔を背けて、目が泳いでしまう。
そんな疑ってくださいと言われんばかりのことを普段はしないはずなのに、心が乱されていると正常な判断思考が出来なくなってしまうのがやはり人間の性なんだな、と心のどこかで納得している自分がいる。
そんな僕を見て、綿貫さんはゆっくりと顔を離して尋問スタイルを解く。
「久住さんは分かりやすいですねぇ」
「……すみません」
「私は嘘を吐けない人なんだなぁって、良いと思いますよ」
赤面してしまう僕の顔を面白がってニヤニヤしながら見てくる綿貫さんを真正面から見れず、なんだか背中がむず痒くなってくる。
「そうだぁ」
「えっ、どうしたんですか?」
思いついたように手を軽くポンと合わせた綿貫さんは、春の陽気な木漏れ日のような笑顔を見せてくれる。
「凛華ちゃんと知り合ったんですしぃ、よければ他の方とお会いしてみませんか?」
「えっ⁉」
「さあさあ、善は急げですぅ。一緒に付き添ってあげますからぁ」
「お、押さないでください!落ちちゃいますからぁ!」
僕の背中に回って、猫が肉球でポスポスとパンチするぐらいの強さで押してくる。
両手に抱えた買い出し品が、積みあがったジェンガのようにぐらつきながらも、なんとか体勢を整えて、綿貫さんに押すのを止めてもらうようにお願いする。
綿貫さんはニマニマと笑いながら背中を押すのを止めてくれた。
自分の部屋に買い出し品を置いてから、綿貫さんと一緒に他の住人に挨拶することになった。
そういえば、と綿貫さんが再び声を掛けてきた。
「久住さんはお料理されるんですかぁ?」
「はい、簡単なものしか作れませんが多少は作りますよ」
「お得意な献立とかあるんですかぁ?あ、階段を下ってくださいね」
「得意な料理ですか……」
室内階段を下りながら物思いに耽ってみると、今まで作ってきた料理が気泡のように頭の中で浮かんでくる。
誰かに振る舞った経験が無いから、『これ』というものが決められない。
ただ美味しく作れたかどうかは別として、自分の思い入れのある料理が一つ浮かんだ。
「ハンバーグ……、ですかねぇ」
「へぇ~ハンバーグですかぁ、私の経験上ですとぉハンバーグと答えた久住さんは料理できる男子であると見ましたぁ」
「そんな大袈裟なものではありませんよ」
後ろでパチパチと音が鳴らない程度に拍手する綿貫さんに照れ笑いを見られないよう、顔を隠しながら抗議してみる。
「そんなことありませんよぉ~。ハンバーグは基本中の基本、王道中の王道の料理ですからぁ、自慢できることがとてもすごいことだと思いますよぉ」
「本当は美味くできるからってことで、ハンバーグと言ったわけではないんです」
「どういうことですかぁ?」
「ハンバーグは、よく母親が作ってくれたもので思い出の料理なんです」
「なるほどぉ、それは大切な料理ですねぇ」
「はい!物心ついて初めて食べたあの味を忘れられなくて、再現しようと思って作ったのがきっかけなんです」
最初は失敗の連続であったが、努力の積み重ねによって母親の味に近づけた自信がある。
だからこそ自分が一番作った料理としてハンバーグと答えることができた。
「じゃあ久住さん」
「はい?」
「久住さんのお手を煩わせてしまうと思いますがぁ、久住さんが作るハンバーグを一度食べてみたいなぁって思ってぇ……。今度作ってくれませんかぁ?」
「えっ⁉」
急な綿貫さんの提案にドギマギしつつも、お近づきになれるきっかけとなるのではという淡い期待を抱いてしまう。
だが欲が急いて全てを失ってしまうのは元も子もないため、ここは下心を抑え、綿貫さんの顔が見えるように振り向いて答えた。
「はい、腕によりをかけて作りますよ!」
「やったぁ!楽しみにしてますねぇ~」
そう言って綿貫さんはチャームポイントの癖毛をピョコピョコと跳ねさせて、喜びを全身で表現する。
そう話しているうちに僕たちは最初に挨拶する予定の部屋、一〇三号室の前に到着した。
綿貫さんはニコニコと破顔させながら、部屋の呼び鈴ボタンを押した。
「久住さん」
「はい?」
綿貫さんは右手の小指を立てて、こちらに向かって振り向いて顔を近づけ……。
「約束、ですよぉ?」
「っ⁉」
小悪魔っぽい笑顔でそう囁いてきた。
そんな綿貫さんの姿を見て動揺を隠しけれず、わなわなと震える口をなんとか開こうとした途端、玄関戸から籠った声が聞こえた。
「はーい」
「よかったぁ、ちょうどいましたねぇ」
「……」
ホッと安心している自分と、もう少しこのドキドキする会話を続けていたかった自分に押し潰されるも、内面の葛藤が外に出ないよう顔を律したりする。
そうやって心の中でせめぎ合っている間に玄関の先から廊下を踏み鳴らす音が近づいてきて、一〇三号室の扉が開いた。
「あー、琴音さんですか。そっちの方は……?」
部屋の中から出てきた住人は大人びたような理知的な雰囲気を醸し出した女性であった。
髪型は背中まで伸ばしているストレート、今まで寝ていたのかわからないが所々寝ぐせが目立っているが、整えたら最近のヘアトレンド雑誌に載っていそうな、いわゆるモテ髪スタイルというものになるのだろう。
前髪を眉毛の高さ辺りまでに切られ、清楚さを伴いながらも黒と茶色の中間を維持しているところから多少なりとも高校デビューを狙ったような意思を感じる。
そんな彼女はダボダボなパーカー、ショートパンツ姿で目の前に登場した。
だが、彼女の美形の顔が服装のだらしのなさをも、魅力として取り込んでいる気がする。
顔色は白く澄んでいて瑞々しく、サファイアのように青味が掛かった黒い目を持った少女がそこにはいた。
水の妖精をイメージで思い描いたら目の前の彼女のような女性を画伯は描くのだろうと思えるような容姿の持ち主だ。
「こちらは二日前に、ここに越してきた久住さんですぅ」
「はじめまして、久住優太です。これからよろしくお願いします」
「……よろしく」
消え入るような声でボソボソと呟くように応答した彼女は僕の目線から顔を背ける。
すると、綿貫さんはいつもどおりゆったりとした口調をそのままに、目の前の女子に詰め寄った。
「玲那さん、いけませんよぉ~。いくら男性不信とはいえ初めて会う人にその感じはぁ」
「……別にいいじゃないですか。もう用件は済みましたか?もう少しで高校が始まるんで少しは睡眠充電しなくちゃいけないんですから」
「そんなだらしない生活をしていましたらぁ、高校が始まってほとんどの時間を寝て過ごすようになってしまいますよぉ」
「大丈夫ですよ!私、気持ちのスイッチのオンとオフを切り替えられるんで!」
目の前で繰り広げられている押し問答を呆然と眺めていると、玲那さんと呼ばれた女性は威嚇する猫のような敵意が満ちた眼差しをこちらに向けてきた。
「なにか⁉」
「えっ⁉いや……、なにも……」
敵愾心を抱いているような態度の彼女に委縮してしまい、目を逸らしてしまう自分自身の情けなさを痛感する。
こちらを警戒するようにジト目で睨みを利かせてくるが、興味を失ったのか僕から綿貫さんに視線を移す。
「とにかく!もう用件が無いのでしたら私は部屋に戻りますよ!」
「あぁ~ちょっと待ってくださぁい」
綿貫さんが呼び止めるも虚しく、彼女の扉は閉ざされてしまった。
僕たちは彼女の壁を眺めながら、最悪な形で印象が定着してしまったことに暗い沈黙がその場を支配しかけるもそれを最初に破ったのは綿貫さんだった。
「ごめんなさい、久住さん」
「いえ、綿貫さんが謝ることではありませんし……。それにきっと不機嫌な時に訪問されたら誰だって怒ると思います」
申し訳なさで委縮する綿貫さんを励ますも、ますます申し訳なさげに肩身を狭くする。
そんな綿貫さんを見て、どうにか元気付けられないか頭を捻っているとポツリ、ポツリと語り出した。
「彼女は月宮玲那ちゃんと言いますぅ。四月から近隣の高校に通い始めるので久住さんと同じ学年だと聞いていますぅ」
「僕と同い年なんですね……」
それにしても目鼻立ちや立ち居振る舞いが大人びていたなと彼女の姿を振り返る。
高校生の中では目立つルックスだろうから、一度見ただけでは判断がつかないだろう。
「はい、神北沢高校に通うらしいのですがぁ」
「えっ、神北沢高校ですか⁉」
その高校は僕が四月から通う予定の高校だ。
神北沢高校は横山市では有名な進学校であり、有名な名門大学への合格実績がある高校である。
それだけ聞くとまるで勉強一筋に精を出させるような学校と思われがちだが、実際は学校の方針としては文武両道を掲げている。
若い身体にある有り余るほどの活力を部活動にぶつけるように、さすれば精神の向上だけでなく不屈な心を持ち合わせることができる、といった教えを説いている高校である。
正直、今までまともに部活動に参加できた経験が無いから、何か部活動に参加しなくてはいけないとなっている神北沢高校での学校方針に頭を抱えている状況だ。
加えて、その同級生となる女子が同じ屋根の下に住んでいるだけでなく、反感を喰らってしまったことは新たな悩みの種が生まれたと言っても過言ではないだろう。
眉間に皺を寄せながら手を当てて熟考するが、解決先をそう易々と導き出せはしない。
「同じ高校です……」
「あららぁ……」
綿貫さんもかける言葉が見当たらないのか気まずそうに言葉を濁す。
再び二人の間に暗雲が差し掛かるが、今度は僕がそれを払った。
「たぶんですけど大丈夫ですよ!時間はたっぷりありますし、きっと話せば何とか仲良くなれると思います」
「……久住さん」
「だから安心してください!なんとかなりますから!」
「……そうですねぇ、きっと久住さんなら玲那さんとも仲良くなれるような気がしてきましたぁ」
暗い表情から一転して、再び向日葵のような明るい笑顔が綿貫さんの顔に戻ってきて、安堵する。
「さぁ、気を取り直しまして最後の方の部屋へと参りましょう~」
「はい!」
元気よく返事をしたことで綿貫さんも満足気に次の部屋の前に歩んでいく。
次の住人の部屋は月宮さんの隣の部屋、一〇四号室であった。
「勢いよく彼の部屋の前に来てしまいましたがぁ、今の時間で部屋にいるかどうかわからないんですよねぇ」
「どんな方なんですか?」
「彼は留学生で久住さんと同姓の1歳年上の方ですよぉ」
「ということは外人さんなんですね」
「はい、きっと久住さんと気が合うかと思いますよぉ」
そう言いながら綿貫さんは呼び鈴を押すと部屋の中でチャイムの音が反響して聞こえてくるのがわかる。
音の響きと物音ひとつ聞こえてこないため、綿貫さんの懸念したとおり留守のようだ。
「あららぁ~、やっぱりいらっしゃらないようですねぇ~」
「今の時間はどこに行ってるとか、わかるんですか?」
「おおよその検討しかできませんがぁ……。おそらく観光スポットを巡りながらぁ、写真撮影をしているはずですぅ」
「観光スポット巡りに写真撮影ですか!」
おもわず目を輝かせて感嘆の声を上げてしまう。
時河荘に来るまでの間に、横山市やそのあたりの周辺の繁華街や観光スポットについて気になる場所はスマホ携帯で調べてブックマークしたりしていた。
もしよければ、一緒にスポットを巡ってみたいものだ。
「いつか観光地についていろいろ話してみたいですね」
「わかりましたぁ。もし私の方でも見かけましたら久住さんのことについて話をしておきますねぇ~」
「はい、お願いします!」
まだ直接会ってはいないけれども、一〇四号室の住人と仲良くできるような予感がしてきた。
そんな自分を見て、綿貫さんは淡い微笑を浮かべていた。
「とりあえずですがぁ、今日のところは凛華ちゃんと玲那さんとお会いできただけでも成果と言えますねぇ」
「はい!綿貫さんも挨拶に付き合っていただいてありがとうございます!」
「いえいえ~。少しでも久住さんがここでの生活に馴染んでいただくように頑張るのがぁ、先輩の務めですからぁ」
彼女は僕の方に体をクルっと半回転させて向き直り、ニッコリと笑みを浮かべる。
きっと凛華さんが追い求めている女性像としては綿貫さんのような人を目指すべきなんだろうなと考えていると、想像上の凛華さんが満面の笑みで袖を引っ張っているような気がして思わず寒気がした。
綿貫さんの笑顔を見ながら、脳内凛華さんに追い込まれているとあることに気が付いた。
「そういえばさっき僕の部屋の前にいましたが、何か僕に用事でも?」
「あぁ~そうでしたぁ。本当の用事を忘れていましたぁ」
そう言いながら、綿貫さんは両腕を後ろに組み、首を傾げながら僕の顔を見上げてきた。
「久住さんは来週の夜、予定は空いていますかぁ?」
「えっ?」
生まれてから経験したことがない、女性から予定を聞かれるという体験はまさに神秘的な感動を覚えるものだった。
あくまで空想上、絵空事のようなものであると思い込んでいたのだが今、目の前でそれが起こると淡い期待を抱いてしまう。
だがまだ出会って間もない間柄なのにも関わらず、お付き合いする関係に至れるほど、彼女の情報は知らないわけだから、あくまでお近づきのために予定を受け入れるべきか、と考えあぐねていると綿貫さんは言葉を続けた。
「新しく入居した久住さんのために、皆さんと歓迎会を開こうと思っているんですがぁ」
「えっ⁉あー、歓迎会ですか……」
「あれぇ?もしかして騒がしくされるのは苦手でしたかぁ?」
「いえ!うれしいです、歓迎会!」
思い悩んでいた自分が恥ずかしい、先ほどまでの思い悩みが激しかった自分を心の奥底に押し込んでやった。
綿貫さんが教えてくれた歓迎会は、時河さんがここに新しく人が入ってくるたびに催してくれるらしい。
住人の紹介、親睦を兼ねて歓迎会を開き、ドンチャン騒ぎするという企画だ。
料理とかは時河さんが作るのが上手いらしく、時河さんのサポートとして女性陣が加わるらしい。
自分のために開いてくれる歓迎会なんて今まで経験が無い。
そう、『今まで』を考えるとどうしても過去の暗い影が付きまとってくる。
「ただ……、歓迎会はうれしいんですが……」
「なにか気になることがありますかぁ?」
「気になる、と言いますか……」
「?」
煮え切らない自分自身に嫌気が差す。
自分の懸念に綿貫さんはどのように答えるのか気になる、だがまた同じような状況になるのでは、という一抹の不安と頭の中に蘇る同じ血が通っているはずの親族たちに邪魔者、金になる木のような扱いをされてきたことによるトラウマが口を開けるのを拒絶する。
思わず彼女と目線を合わせるのが苦しくなり、視線を逸らしてしまう。
だが、それでもと自分自身を説得して、なんとか喉の奥から絞り出してその心根を目の前の綿貫さんに吐露した。
「歓迎会って……、皆さんにご迷惑を掛けませんか?」
質問の意図が読めないのか、綿貫さんは首を傾げる。
言葉を言い換えて伝えるべきだろうかと何か言おうとしたが、綿貫さんの方が早かった。
「久住さん」
「はい?」
僕の名前を呼んだ綿貫さんは、両手を地面と水平に動かしてジェスチャーをするも彼女の意図を汲み取れない。
その間、頭を下げてください、という口パクをしていることに気付き、なるほどと一人納得しながら彼女の指示に従った。
すると僕の頭頂部に彼女の細くひんやりとした指先が置かれた。
その感触に安らぎを覚えるのはきっと必然だろう。
生物的本能というべきなのだろうか、思わず、撫でられて甘やかされている飼い犬のようにうっとりとした表情になって目を細めてしまう。
だが、この状況を他の住人に見られると、燃やした石炭のように身体が灰になって崩れしまうような気がする。
「よぉし、よぉしぃ」
「……あのぅ、綿貫さん?」
「はぁい?」
「あのぅ、少し気恥ずかしいんですけど……」
「んふふ、元気出ましたぁ?」
「……」
有り体に言えば、元気以上なものが出た気がする。
気恥ずかしいとはいえ嬉しくないわけがなく、彼女の掌の心地良さをまだしばらく堪能していたいな、と思っている自分がいる。
しかしその思い虚しく、彼女の柔らかな手が頭からゆっくりと離れていく。
「昔の久住さんに何があったのか私にはわかりませんが、ここはもう久住さんの家でもあるんですよぉ?」
綿貫さんは、慈愛に満ちた笑みを浮かべて語り聞かせるように続けた。
「だから、多少の迷惑は掛けていいと思いますよぉ?」
春空の下、爽やかなそよ風が彼女の髪をふんわりと持ち上げる。
それとともに漂ってきた彼女のシャンプーの香りにドキッと胸が跳ね上がるような、心臓の鼓動が早くなっていくような感覚に陥る。
色恋沙汰の経験が無い思春期男子学生にとって、この状況に対しての耐性などあるはずがない。
年上のお姉さんに慰められ、頭を撫でられ、トドメに女性の髪から香ってくる匂いと来た。
僕の弱点を突いた三連コンボにノックアウト寸前だ。
「それじゃあ、私はこれでぇ~」
悩殺寸前まで追い詰めた当の本人は、僕が陥落寸前のようであることを露知らず、その場から立ち去ろうとしていた。
だが、まだ彼女をこの場に留めておかなければいけない、まだ伝えなくちゃいけないことがあるから……。
「あの、綿貫さん!」
「はぁい?」
目頭が熱くなるのを感じつつ、綿貫さんに向き直りながら、その思いを伝えた。
「歓迎会、参加します!」
「はぁい!」
満足そうな笑顔を見せてそのまま自室へと戻っていく綿貫さんに、ありがとうございます、と感謝の言葉を呟く。
きっと自己満足なのだろうが、それだけで気分が高揚し、スキップしながら自分の部屋へと戻っていった。