第十章 目覚め
仄暗い水の中を漂うように過去、現在、未来の時間感覚を狂わせるような、そんな世界に僕はいた。
白濁とした意識の中から自分の周りに広がる不思議な世界に気が動転することはなく、ただその在り方を受け入れるかのように自分の身体を世界の流れに任しきっていた。
何も飾らない、裸のままで無重力空間を漂っていくうちに一つの仮説に辿り着く。
「これが、死……」
呟きは虚空に溶けて、自分の鼓膜へ届くことはない。
死んでいることに対してそこまで焦りを感じることもなかった。
本当は自分自身、『生』に対してそこまで執着していなかったのだろう。
だからこそ死んだという事実を受け入れることができたのだ、とそんな自分の心理状況を冷静に、他人事のように推察する。
その瞬間、『死』と真っ向から直面した最後の記憶が脳裏にフラッシュバックしてきた。
「⁉」
咄嗟に自分の失ったはずの左腕を右腕で触って確認しようと確かめるも、砂が詰まった塊のように動きが重く、鈍い。
自分の目で確認することのほうが早いと考え、首を動かして確認しようとするも、視界に靄が掛かったようで無理だった。
ただ、左腕に力を込めると、そこにあるという感触が脳だけでなく、身体中に行き渡っていく。
失ったはずの左腕の確かな感覚が戻ってきて安堵するとともに、確かに無くしたはずの左腕が今もこうして満足にある、ということに不可解さを感じせざるを得ない。
だが、そんな答えがわからないもどかしさよりも、周囲を取り巻く空間が気になって仕方がない。
その場所は無重力で、浮かんでいくこともなく墜ちていくこともない、時間を切り取ったような停滞した空間に取り残されているようで、身動きが取れない。
思ったとおりに動けない場所に居続けるのは、窮屈な場所に圧迫されるような不快感を伴い、苦痛以外の何物でもなかった。
どうにかして、この空間から抜け出そうと藻掻こうとするも、微動だにしない。
だが、それでも唯一動かせる身体の場所があった。
「……左腕だけは、動けるのか?」
五指を曲げて拳を作るだけでなく、手首を回したり、肘や二の腕、肩関節も問題なく動かせることがわかった。
他の身体の場所と比べて自分の思い通りに動くことが、逆に不自然に思えるほどだ。
なぜ左腕だけが動かせるのかは分からないが、今はとにかくこの空間から抜け出すことが最優先だ。
霧を払うように左腕を動かすも、もちろん何かが起こるわけでもない。
どうやってここから抜け出せるのかは分からない、それでも何もしないよりかはマシだ、と思いつくかぎりの行動を起こすがやはり何かが変わることはない。
途方に暮れ、左腕を胸の前に置いて脱力する。
するとその瞬間、左腕から眩いほどの輝きを放つとともに、それが手の甲に集まって束となる。
夏の陽光のようにギラギラとした光の柱へと変化し、闇を払うかの如く辺りを照らすだけでなく、一直線に伸びて壁のような何かにぶつかるとともに、大理石が砕かれるような音が空間内に響いていく。
燦爛たる光輝に目が眩んで顔を顰めてしまうが、目を薄めながらも光線が当たった箇所に視線を向けると、そこに亀裂が生じているのが見て取れた。
手の甲から伸びている光線が徐々に小さくなっていく。
それとともに集束していた光粒子が散乱、再び左腕全体を覆うように包まれ、眩さが弱まっていく。
瞼を開け、生じた亀裂をじっと観察するように凝視すると、罅は今もなお少しずつ広がっていき、その隙間からこの世界の外の光が漏れ出してきているようだった。
直感的にここから抜け出すための足掛かりになると察し、その漏れ出した光に向かって、左腕を伸ばす。
真っ直ぐ伸ばした手に応えるように、柔らかな光が左腕を包み込んで、僕の身体を手繰り寄せてくる。
ここから脱出できると確信し、歓喜したその時、亀裂から溢れ出している光が視界いっぱいに広がっていった。
その刹那、眩い光が次第に薄れていくとともに、目の前に広がったのは残映。
もう思い出せないほどの遠い記憶の断片を基に、忠実に再構築されたような懐かしい原風景が目の前に現れた。
母と共に暮らした家から程近い場所にある河川敷。
そこから見上げると、一面に広がる大海原のような青空を夕焼けが暮色に染め上げるさまがよく観察できる。
紅に黄金色を混ぜ合わせたような、見る者の心を奪うほどの絢爛華麗な残照は幼い頃によく見せてもらった光景だ。
為すべき事も忘れて郷愁に浸って、思わず見取れてしまう。
「……優太」
僕の名前を呼ぶ懐かしい声が頭上から聞こえてきた。
ふと声がした方に顔を向けると、自分の背丈よりも二倍近い高さを持った男が、いつの間にか僕の左手を握りしめて、並立していた。
突如現れた男に驚くよりも、それ以上に百八〇近くあるはずの僕よりも高い身長があることに驚愕を隠しきれなかったが、その理由はすぐに分かった。
自分の身体に目線を落とすと、気付かないうちに僕の身体は縮んで九歳の時のものになっていた。
「優太……」
再び僕の名前を呼ぶ声が頭上から聞こえ、声の主に焦点を合わせるべく見上げる。
夕日で焼け爛れたように真っ赤に染め上げられ、顔も判別が付かない男がいた。
「……父さん?」
既に自分の記憶には父に関する記憶など忘れているから、自分の父親がどんな外観だったか、容貌かも思い出せなくなっていた。
なぜ、顔がわからないような男を、父さんなんて呼んでしまったのだろう、と疑問が脳内を駆け巡る。
だが、僕の呼び掛けに対して肯定を表すように左手を握っている力が優しく加えられる感触が伝わってきて、男は本当に自分の父親なのだと確信した。
それが分かった途端に深い悲しみと汚泥のように凝り固まった憎しみが、瞋恚の炎となって燃え上がり、身体を焼き尽くすほどの衝動が心を支配せんとする。
「お前の怒りが伝わってくる、……本当にすまない」
「……今さら、何を!」
「こうするしか……、なかったんだ」
「母さんは最期まで、アンタを想い縋って死んでいったんだぞ!残された僕は……、俺は!生きていく術も分からない子どもで、頼りたくもない親戚に頼らないといけなくて、惨めな思いをし続けた!今さらアンタの謝罪なんて聞きたくもない、俺の前から消えろ!」
積年の恨みをぶつけてやると、父親と思しき男の表情は読み取れないものの、握っている手が震えているのが伝わってくる。
「それでも俺はお前に謝らないといけない。俺は何もかもを犠牲にしたのにも関わらず……。お前だけは俺と同じ道を辿らせまいとしたが、俺の力が及ばなかったから……」
「……何を言ってるんだ、アンタは」
「優太……」
そう言って男は僕の左手を強く握りしめるとともに、握り会った手の隙間から光流が溢れ出してきて、僕を包み込んで押し流そうとしてくる。
握っていた左手は解放され、僕の身体は光流に連れ去られてしまう。
必死になって父親に左手を伸ばすがもう届くことはない、だが表情が読めない男の最後の言葉だけが耳に届いてきた。
「優太、俺の願いを……、どうか……」
それを聞いたが最後というように、光流は伸ばしていた左手をも飲み込んで、微睡みの外へと押しやっていった。
規則正しい電子的な単音が鼓膜に響いてくる。
その音はフィクションでよく見かけるような患者のバイタルを計測する電子機器から発せられるそれのように聞こえる。
重い瞼をゆっくりと開けて初めに目にしたのは、清潔感のあるこざっぱりとした白亜のような天井だった。
「見知らぬ天井……」
ぼやいた呟きにもちろん反応を返す者などはいない。
重力が背面に感じるだけでなく、頭部に当たっている程よい弾力と首から爪先あたりまで掛けられている肌掛けを見て、自分は寝かされているのだと気付く。
「……そうだ!左腕!」
身体に掛かっている肌掛けを退けて、自分の身体に目を落とす。
そして、その瞳に映りこんだそれを見て、思わず息を呑み込んだ。
そこにあったのは失ったはずの、懐かしくも当たり前にそこにある感触、紛れもない自分の左腕が寝台に横たわっているのを目にした。
力んでいた肩肘の筋肉が弛緩し、ゆっくりと息を吐きながら敷布団に体重を預けた。
その瞬間、横山市旧都の地獄絵図、そこで見た謎の岩石の怪物の姿が脳裏にフラッシュバックした。
あの時、怪物が起こした爆発攻撃に巻き込まれて左腕を失ったはずだ。
だが、今それは目の前にあって、自分の身体に繋ぎ目などが無く、くっついていた。
「……夢だったのか?」
呟きを漏らすも、やはりそれに応えてくれる者などはいない。
左腕のことで安心した瞬間、自分が置かれている今の状況が気になってきた。
首を右に向けると、自分の心拍数値を計測、スクリーンに表示させている見慣れない電子機器、そこから心臓の上や手首へ向かってケーブルを伸ばしているところも含めて、瞳に映った。
その電子機器の隣には輸液を吊した点滴装置があり、伸びているチューブが腕に繋がれているのが分かる。
「ここは……一体……?」
バイタルを計測している機械に、点滴装置、そして自分の身体に目を向けるとケーブル類が繋がれていて、患者服のようなものを着させられているなどの点から考えて、総合的にここは病院か、それに関係する場所なのだろう。
自分が目覚めたことを知らせるためにナースコールのボタンが無いか、右腕を動かして枕もとを触ったり、自分の目で確認してみるも、見当たらない。
吊るされている薬液ボトルの中身残量から見て、おそらく小一時間前に設置したのだろう。
それならば、誰か状況を説明してくれる人や、この場所の関係者が近くにいるはずだ。
自分が起きたことを知らせるために大人を探そうと、鉛のような重い身体を鞭打ちながら上半身を起こす。
「……えっ?」
今まで寝かされた状態で見えていなかったが、上半身を起こしてようやくその光景に気付いた。
視界に入ったのは、機械や点滴装置を繋げられ、今も眠っている人、人、人……。
病室のようなものとは違う、一つの部屋に自分を含めて八人ほどの人間が、カーテンで仕切られていることもなく、対面に並んだ二列の寝台にそれぞれ寝かされている光景だった。
隔離施設のように殺風景ではあるがそれとは違う、まるで急ピッチで環境を整えた医療保護施設と言ったほうが正しいだろう。
もし、寝台や保護できる人数をオーバーしたのであれば、病院は受け入れ拒否をするはずだ。
それらを踏まえて断言できるのは、ここは病院など元々医療機器が完備されていた場所というわけではないようだ。
そして眠っている人たちは、何かしらの目立つ外傷を負っていることに気付いた。
頭部を包帯でぐるぐる巻きにされて鼻と口のみが出された状態や、腕や足にギブスで固定され、骨折している人もいれば、明らかに身体の一部が無くなっている者もいた。
あまりの痛々しさに目を背けてしまいそうになるが、だがその中で唯一目立った外傷が見受けられない二人の人間を見つけた。
その二人の顔に思わず釘付けになってしまった。
咄嗟にケーブル類を取り外して寝台から立ち上がろうとするものの、長い間眠っていたせいか体の節々が悲鳴を上げる。
それを無視して立ち上がるが、足がもつれて転びそうになって片膝を付く。
ふらつきながらも、なんとか隣り合って並べられている彼らのベッドの横に歩み寄って、二人の顔をまじまじと見つめた。
そこにいたのは、小学校低学年頃の幼い表情を浮かべる男の子と自分よりも大人びたような表情の美少女だった。
健やかに落ち着いた寝息を聞くとともに、手当てを受けた痕が残っているものの平穏無事な姿が見れて、ホッと胸を撫で下ろした。
「よかった……。生きていてくれた……」
女性が寝ているベッドガードに額を擦り付けるようにして膝を落としながら、目尻に涙を浮かべる。
二人は僕と同じ、横山駅にいて、そしてあの惨劇に巻き込まれた生存者。
決して忘れることがない岩鎧を纏ったおぞましい怪物。
それと対峙したあの時、力尽きた僕を助けようとその小さな身体を張って、僕を守ろうとした男の子。
そして、時河荘の同じ住人であり、同じ高校に入学するはずの容姿端麗の同級生、月宮玲那さん。
二人の安否を確認できて安堵するとともに、その時ようやく理解した。
あの忌々しい記憶は、決して夢などではないことを。
そして目の前に眠っている二人だけではない、ここに寝かされている負傷者たちは全員横山駅の生存者なのだ、ということを。
「あの時の生存者たちをここに集めたのか……?」
一体どういうつもりで、と言葉を続けようとしたところで、全身を覆いつくすほどの激しい悪寒に襲われた。
加えて、身体の震えが止まらなくなるとともに、鳥肌が立って、怯えていることを自覚した。
でも一体何に、と考えるよりもその答えは、身体的、精神的苦痛を伴った恐怖の記憶がそれを物語っていた。
「……奴が来る」
なぜだか分からないが、何かがここに近付いてくる反応を感じ取った。
ゆっくりとではあるが、この場所へと近づいてくる巨大な憎悪の塊のような気配を確かに捉えていた。
そしてその反応から、横山駅のカフェラウンジだった場所で対峙した岩鎧の怪物が抱いているものだと直感した。
だが、その瞬間に感じ取った反応はそれだけではなかった。
もう一つ、何か別の巨大な邪気のような気配が猛スピードでこちらに近付いているのを感じ取った。
「……まさか二体目⁉」
持ち合わせるものは違えども、根本的なところで同じような二つの反応が伝わってきて、動揺から足元がふらついて壁によりかかるように手を突く。
心に刻み込まれた恐怖が甦り焦燥感に苛まれるだけでなく、新たな脅威が近づいているというこの掛け値無しの最悪な状況で、風船のように絶望が視界いっぱいに膨れ上がっていくような気がする。
「……早く、ここから逃げないと……」
目の前に寝かされている生存者たちを自分一人でここから運び出すのは、極めて困難だ。
かといって負傷者を無理に起こすのは、素人目線から見ても危険だとわかる。
だったら、この施設の関係者をここに呼んで生存者たちを運び出す手伝いをしてもらえばいい。
すぐさまこの部屋の扉と思しき場所に駆け寄って、センサー類のようなものに手を翳したり、振ってみたり、扉自体を押したり、横に動かそうと試みるもビクともしない。
見た目スライド式の自動ドアのようなタイプが動かないということは、外側からロックされているのではと察した。
一体何のために、と答えを導きだそうとするが、焦りで考えが纏まらない。
とにかく外に自分の存在を知らせるために、使える物がないか再度部屋を見渡した。
改めてこの部屋を一望すると、本当に真っ白く、極端に清潔さを求めたようなこの部屋には窓や時計など外界の様子が伺えるものが一切取り付けられていないのがわかる。
外の状況がわからないというだけで、キリキリと胃が締め付けられるようなストレスが感じられる。
いつ奴らが来るかわからないという緊張、気付かないうちにもう目と鼻の先に死を意識するような存在がいるのではという戦慄が焦りとなっていく。
一刻も早くここを出ないといけない、という危機感が身体を動かす。
だがそのとき、不意にピリッとこめかみの辺りで静電気がスパークしたような刺激が走って、動きを止めた。
そして僕は気付いた、自身の認識に間違いがあったことに……。
きっかけは、この建物全体を揺れ動かすほどの地響き、そして微かではあるが建物越しで伝わってくるほどの轟音。
こちらに迫りつつある反応、それは現在進行形で遠く離れた場所からここに向かっているのだと考えていたが、それは大きな間違いだと直感した。
感じ取った反応の距離感を正確に掴めていなかった、誤認をしていたのだ、とここで改めて痛感するとともに理解した。
奴らはここに向かっているのではない。
この施設の外……、今この瞬間、目と鼻の先と言えるほどの距離まで奴らは来ているのだ。




