法は殺人を止められるか
人殺しというものは、本当に悪なのだろうか。
幼い頃から、目の前で強者が横行し、せせら笑いながら生き延びている世界で育ってきた青年には、そんな思いがあった。
その時代においての力 ーー 例えば金や腕力以上に、人が生き残っていけるであろう、正しい正義など存在しない ーー
まだ”法”というものが生まれていなかった当時、だれかを殺すということは、自分が生きるために奪うことであり、それは命をつなぐ切実な行為だったのではないか。
『・・・では、その法というものは、何のために作られたのじゃ?』
彼女は問いかける。
それにも、青年は難なく答えることができた。
「ときどき、『天によって定められた』などという輩がいるが、結局のところ罪を定めるのは神ではなく人だ」
殺された男のまわりにいた婦女子や老人が乱暴され、その不幸が後世に語られていったからこそ、暴力を早い段階でつみ取るためのルールが生まれたのではないか。
『・・・』
けど、と自慢げに語った青年は、そこで初めて答えをためらう。
何でも知っているフリをしながら、たった一つ、自分では分からない疑問がそこに生じる。
「ーーならば、『死罪』は? 人々が声を荒げて最もやってはいけない、と叫んだ、人の命を奪う行為『死罪』は、どこから出来上がった法だ?」
それにあっさりと頷いたのは、今度は彼女だった。
迷いの中にいる青年に、彼女は嘲笑うように言う。
・・・倫理か?
それとも、正義のためか?
『いや、ただの報復感情じゃよ』
ハッと、クルトは視線を前にもどして、首をふっていた。
ここはハーライン峡谷。
すでに入り口を越え、山賊のテリトリーに入って一日が経とうとしている。
思ったより時間がかかってしまったのは、見張りが予想以上に敏感で、夜遅くにならないと、まともに進むこともできないと感じたからだった。
(・・・さすが、地形を利用して討伐隊を何度も返り討ちにしただけはあるな)
クルトは、慎重に後ろをふり返りながら、可能な限りの範囲を索敵しながら進んでいった。
視界が、とにかく悪い。
いくつも森に現れる断崖絶壁に、青年が持っている適当な地図はほとんど通用しない。
・・・ときどき出くわす見張りには、クルトのかるい神経毒が塗られた飛刀か、エノーラの投石魔法が頭を直撃していた。
くわんっ!
「おいっ!」
「すまん! 今のヤツは兜をかぶっていた! お主の方が適任じゃったな」
ヒマ潰しに「儂にもやらせい」と主張してきたエノーラだったが、静かに倒せよ、というクルトの命令を無視して、彼女は邪魔しかしなかった。
「そもそも、ここら一帯を爆撃してやろうと言う儂の申し出を断ったのはお主だろう。なんでこんな七面倒くさいマネを・・・」
ぶつくさ喋っているエノーラだったが、以前の彼女の話を聞いて、その力をクルトは恐れたのだった。
ーー都市を二つほど、壊滅させたことがあるーー
それは、青年にとっても聞き慣れた伝説の話だったのだ。
そのうちの一つは、北の列国としても有名だった、城塞ユリウス
。
突如その都市が暗黒焦土と化したのは、ある兵器実験、または凶獣の羽化が原因だったと考えられている。
・・・しかし・・・
「あれはのう。当時の正妃、シエナ王女がちょっと嫉妬してな。王都の参謀副官に、それは頭の切れる女がおったのじゃよ。でもそいつは仕事にしか興味がなく、王に何度か抱かれたあげく、『よくあんな下手くそと寝て喜べるもんだ』と後宮からつめ寄ってきた王女に無表情で言ってしまったのじゃ」
いや、女の嫉妬ほど恐いものはないぞ。
「恐いのはあんたの魔術だろうが」
クルトはそう言って、また周りの気配をさぐっていた。
滑稽な自慢話を淡々と聞いていたが、そろそろ、敵のアジトがある場所に着いてもおかしくはない。
来た時間の、同じぶんだけ反対側に歩けば、ちょうど峡谷の向こうに出るあたりまで、彼は到着していたのだ。
(・・・言っとくけど、地形を変えちまうようなとんでもない魔法は使うなよ、エノーラ! 山賊のアジトを使えなくする程度にぶち壊すだけでいいんだ。運が悪ければ、そいつが死ぬこともあるだろうし、俺はそれぐらいで充分なんだ)
自分がいま、冷静でいるのかどうかは分からなかったが、クルトはとりあえず、一撃離脱作戦を彼女に与えていた。
ーー それが上手くいくかどうかは、まったく見当がつかなかったが・・・。
作戦は、実にシンプルだ。
エノーラの言う”魔法”でカチ込みをかけ、効果を確認することもなく脱兎の撤退。のちに噂話や瓦版でほくそ笑みながらその惨状を見聞きするという、かなりセコイ内容である。
「・・・はっ。ビビリがよくやるような手じゃな。儂のようなプロフェッショナルをそんな流儀で戦わせようなんざ、お主は本当に変わっておるよ」
こんな男に儂の価値が分かるのが不思議じゃのう・・・とエノーラは真剣に悩んでいたが、まあそれなりに彼女も楽しんでいるようだった。
何しろ、自分を”引き寄せる”人間にはそれなりに強運、妙運があるはずなのだ。
だが、それでもまさか、クルトが自分にとってどういう主人になるかまでは、この女傑でも完全に予想を外すことになった。