契約(完了済)
「まったくお主は・・・憶えておれよ。よもや ”氷獄の女神” の異名を取る儂 《エノーラ=サイス》を尻に敷いて、命を拾おうとは・・・!」
「いや、さっきのはアンタが自分で飛び込んで来たんだろう!?
死にかけた人間を助けるなんて、ひょっとして結構いい奴なのか、あんた?」
そんなことを言ってクルトは言葉を返すが、黒い小さなモヤは、カカァッという風に熱気が上がり、炭火のように何やら赤くなっていく。
オイ。もしかして照れてるのか? 安い地獄の王だな。
しばし呆気に取られたが、青年は一騒動を終えて、焦っていた気分が霧散してしまった。
まだ日が昇るまでには時間はあるし、足の速さでは同業者にすら負けたことがない自分だ。トボトボと歩いていっても、”リラ”の街には問題なく着けるだろう。
尻もちをついていた姿勢から、立ち上がってクルトは尋ねていた。
「そう言えばさっき・・・。気になることを言っていたよな、あんた。 たしか”俺はもう助からん”とか・・・」
「ん? ”欲しいものは何でも手に入る”って話か?
儂はたしかにそのような力を持っておるぞ?」
いや・・・。何シレッと良い情報だけをこっちに吹き込もうとしてるんだよ。
仮にも俺は盗賊だぞ。
嫌な情報を早口で流そうとしても、めっちゃ引っかかるんだからな。
「・・・エノーラって言ったっけ? あんたも、悪魔が契約についてウソを言っちゃあダメだろう。命なんぞを代償に要求するからには、それなりにハッキリした契約じゃないと、効力は発揮しないはずだ」
くっ、とその黒モヤの女は呟くと、今回の生け贄は、ずいぶんセコい奴らしいのう、などとぶつくさ言っている。
ほっとけ。下層階級の人間は、騙された奴が泣き寝入りになるようなシステムになってるんだよ。
「う~ん、そうじゃのう・・・」
エノーラと名乗った女は、しばらく考えたあと、やっとこさまともな取引を持ちかけてきた。
「儂は ”欲望を食う者” とも呼ばれていてな。 まあ、信じられんじゃろうが、お主が儂を欲し、前の持ち主から奪った段階で、契約は済んでおるのじゃ。 そして喜べ。お主は国だろうが、美女だろうが、儂の魔力で何でも手に入れ放題じゃ。ただしその欲望が尽きた時には、命はないがの」
こっこっこ! とその女は笑い、クルトの懐の中で、コンパクトが揺れていた。
うう・・・なにこのバイブ機能付きの化粧道具。気持ち悪い。
「儂はその、満足して解放されたお主の欲望を食らうのよ。人間は業の生き物じゃ。死ぬか、満足した時、初めて体から生まれるそれらの思いは自由になる。それを頂くわけじゃな。別に殺すわけではないのじゃが、何故か儂の力を使った者は、みな満足すると死んでしまうようじゃ」
恐ろしいことをサラッと言って、エノーラは話を終えていた。
あとは、細かい契約書がそのコンパクトの中に入っているといって、煙は消えてしまった。
「て、てめえ・・・!」
そんなものがあるんなら、最初から言えってんだ。
適当な説明を聞かされて、二度手間になったクルトは、そばにあった古木にもたれていた。
『国』や、『世界』だって滅ぼせる、人間がひれ伏したくなるような力だって・・・?
胡散臭く思いながら、その小さな化粧ケースを開き、中を確認しようとしている。
「!」
そこにはもちろん、化粧下などは収まってはいなかった。
折り畳まれ、適当に文字が書かれた一枚の紙の下から出てきたのは、息を飲むほどに美しい、秘められた光にゆらめくような、深・蒼玉だったのだ。