-06-
「んん……あれ、朝?」
窓から差し込む光で目の前がチカチカする。瞼をゆっくり持ち上げると、そこは見覚えのない部屋だった。
ああ、そういえば昨晩はミライと一緒にホテルに泊まったのだった。
ミライと、一緒に……
ホテルに……
「はっ——!?」
跳び上がるように上半身を起こして辺りを確認する。制服はちゃんと枕元にあるし、着ているバスローブにも乱れはない。身体にも特に違和感もないし、昨晩は何もなかったようだ。
今、何時だろう。
ベッドから下りて、たたんだ制服の上に置いておいた桃色の腕時計を掴んだ。
——9時48分。
完全に寝坊だな、と少し笑いたくなった。まあ、いつもはミライが起こしに来てくれるから寝坊することはないのだけれど。
ということは、ミライはとっくに起きているということになる。先にホテルを出たのだろうか。合流する場所も時刻も話していないのに私一人を残していったのだろうか。
「んん……」
唸るような低い声と同時に毛布がゆっくりと動いた。
「あれ、ひょっとして?」
ベッドの反対側にまわり込んでそっと覗いてみる。そこには未だ夢から覚めていないミライの姿があった。あのミライが寝坊するとは珍しい。初めてではないかと思う。昨日の私があまりに慌ただしかったものだから疲れていたのかもしれない。
普段の冷静で大人びたカッコいいミライと違い、子どものような寝顔で眠っている。ミライが眠っているところなど、最後に見たのはいつのことだっただろう。
……ちょっと、可愛い。
眺めているだけで胸がきゅっと軽く締め付けらるような感覚が新しい。母性本能をくすぐるとはこういうことなのだろうか。男はいくつになっても子どもだ、などと聞いたこともあるけれど、あながち間違ってはいないのかもしれない。
いい機会だ。私はミライに毎朝毎朝ひどい起こされ方をされてきたのだ。今日は私がミライが涙ぐむまでくすぐってやろう。私が受けてきた屈辱と苦しみを味わうがいい。
狙いはミライの脇腹。そっと、気づかれないようにそーっと手を伸ばす。
「…………」
もうすぐ手が届く。さあ、覚悟しなさ——
「…………さき……」
「ッ——!!」
反射的に手を引っ込めてしまった。
今、さきって……?
人の名前? 私は知らない。職場の人? なら呼び捨てはしないと思うけれど。浮いた話はないと言っていたのに。あれは嘘? 分からない。
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。背筋が凍るように寒い。心がざわざわする。
ミライ……あなたには……
あなたの中には誰がいるの——?
「……んああ、起きてたのか、カコ。おはよう」
「うえっ! お、おはようお兄ちゃん!!」
「珍しいな、お前が早起きなんてよ。そんなにここが嫌か? まさか寝つけずに徹夜したとかじゃねえだろうな」
「それは、大丈夫!! ちゃんと寝たよ! ちゃんと!!」
「……? そりゃあ良かったけど……どうかしたか?」
「いや!? 別に何も!? そ、それよりお兄ちゃん! もう10時過ぎてるよ!」
「はあ!? 寝過ごしてんじゃねえか!! ほら着替えろ! 早く出るぞ!」
「ちょっとお!? いきなり脱ぎ出さないでよ! あっち向いてえええええ!!」
——10時31分。
周囲を十分に警戒しながらホテルを脱出。誰にも目撃されることなく宿泊することに成功した。
と、思いたい。
ひとまずバイクを軽く走らせて、昨日の公園のベンチに腰かけた。
はあ、とため息が漏れる。落ち着いた場所に来ると頭に浮かぶのはミライの寝言。さきって誰なんだろう。浮いた話はないと言っていたのに、あれは嘘だったのかな。私には知られたくない人なのかな。いろいろ考えてしまう。
「なんだ、お前までため息ついて」
ミライは財布を眺めながらため息をついていた。想像以上の出費だったらしい。
——寝言を言っていたよ
——さきって呟いていたよ
——さきって誰なの?
——思い当たることはない?
「……別に何も」
あと一歩が踏み出せなかった。喉元まで出かかったその言葉を無理やり飲み込むことしかできなかった。
別に妬いているわけではない。ミライにとって大切な人ができるのは嬉しいことだし、祝福したいと思っている。
ただ、妹に言えないような関係であってほしくない。妹に嘘をつかなければいけないような人と一緒になってほしくない。
私って、わがままかな……?
「……」
「…………」
「………………」
「……ああもう! わかったよ謝るよ!!」
「えっ……?」
「ホテルのこと怒ってんだろ? 黙って連れ込んで悪かった! でも俺だっていろいろ考えたんだ! いくら妹とはいえあんなとこに連れてくのは良くないかなーとか、変なトラウマ植え付けたり軽蔑されたらどうしようとかさ! なかなかの賭けだったんだよ! だからーそのー、な? 許してくれよ! この通り!」
驚いた。突然何を言い出すかと思えば、両手を慌ただしく動かしながらの必死な弁明だった。おまけに深々と頭を下げて、その上で両手を合わせている。
「……ふふっ」
腹の底から笑いがこみあげてきて、爆発寸前だった。
「あははは! ちょっとお兄ちゃん何してんのもう!」
「はあ……?」
「あーもう、可笑しい。やっぱりお兄ちゃんは最高だね」
「な、なんだよそれ! だってなんかずっと機嫌悪そうだし、俺のせいかなって思うだろ!?」
「ううん、別に怒ってないし、なんかもうどうでもよくなっちゃった」
「ったく、わけわかんねぇよ……」
ミライはよそを向いて頭を掻いた。
そうだ。ミライはこういう人なのだ。
あまり感情を表に出さないけれど、いつも私のことを最優先に考えてくれる。たまに鬱陶しいくらいのお節介を焼いてくれる。無神経で言葉は不器用だけれど、心は強くて優しい。私にとってミライがたった一人の家族であるように、ミライにとっても私がたった一人の家族なのだ。
だから私は、ミライのことが信じられる。信じてみようと思った。
今回のことだって、きっと何かの間違い。私の勝手な思い込みなのかもしれないのだから。
「お兄ちゃん!」
「な、なんだよ?」
「彼女できたら紹介してね!」
「お、おう……? わかった」
いつもミライのペースで進む会話だけれど、今回は私の勝ちみたいだ。