-03-
——18時56分。
18時30分に放課後練習を終えた私は、部室でせっせと着替えを済ませて校門へ向かった。
普段は部の友人と途中まで一緒に帰るのだけれど、今日は違う。
理由は言うまでもない。
「おう、お疲れさん。今日はどうだった?」
校門の傍でエンジンを止めたバイクにもたれ掛かって本を読んでいる人が声をかけてきた。
私の兄、ミライである。
「絶好調すぎて怖いくらい!」
私はミライからヘルメットを受け取る。ミライが先にバイクに跨ると、私の手を取って引っ張り上げるようにして乗車をアシストする。実に紳士的な兄だ。
「あれぇ〜カコ? 自転車乗って来てないからって、お兄さんに甘え過ぎじゃなーい?」
後からやってきた部の友人たちの声だ。そう冷やかされると気恥ずかしい。
「お、お兄ちゃんが勝手に来るんだもん! 私は歩いて帰るって言ってるんだからね!」
「はいはい、仲の良い兄妹ねまったく」
「イケメンのお兄さーん! カコをよろしくでーす! またねーカコー!」
そう言うと友人たちは先に歩いて行ってしまった。何度か迎えに来ているのを見られているミライは、すっかり部員とも顔見知りである。
「あーあ、悪かったな勝手に来て。歩いて帰るんなら、ちゃんと言ってくれれば——」
言い終わる前に私はミライの背中にギュッとしがみついた。ミライと目を合わせると、舌をぺろっと出してあざといごめんねアピール。ミライはふっと笑うとヘルメットのシールドを下ろした。
「おら、つかまってろよ」
ミライはキーを捻ってエンジンをかけると、大きな音を立てて愛車を走らせた。
時刻は19時をまわるころだというのに、初夏の夕方はまだ明るい。通り過ぎてゆく建物のひとつひとつまではっきりと見えるほどである。そんな美しい街の中を、ミライと一緒に風のように駆け抜けていった。
自宅と学校の中間地点に差し掛かる頃だろうか、目の前の信号が赤に変わり、私たちは交差点の先頭で停止した。
私たちのいる車線は下りであるため帰宅する車が多いが、上りの反対車線はほとんど車は走っていない。今この瞬間も、信号停止しているものすらなかった。
向かい側の横断歩道を、左から右へ親子が渡っている。母親と3歳くらいの女の子のようだ。2人で繋いだ手を前後に大きく振りながら楽しそうに歩いている。とても微笑ましい光景だ。
微笑ましい光景のはずだった——
ビイイイイィィ————!!
突如鳴り響く車のクラクション。対向車線に目をやると赤信号にもかかわらずブレーキを踏む気配すらないタクシー。横断歩道にはまだあの親子がいる。
「まずい! 逃げろおぉ!!」
声を張り上げるミライ。その叫びは親子には届かない。いや、届いていたとしても今更逃げられはしない。
——もうダメッ! ぶつかるッ!!
私はミライの背中に隠れるように視界を塞ぎ、ヘルメットの上から耳を塞いだ——
「…………あれ?」
何も聞こえなかった。ぶつかる音も、先ほどまで鳴り続けていた車のクラクションの音も。何も。
恐る恐る覗いてみると、そこには親子の姿も、タクシーの姿も無かった。
「……おい、カコ? お前、まさか」
ファッファッ! と軽いクラクションが二回、後ろから聞こえた。目の前の信号はすでに青に変わっている。
「ぬわあ! す、すいません」
慌ててミライはバイクを走らせ、すぐそばの公園で愛車を停めた。顎の留め具を外し、ヘルメットを持ち上げる。
「ふぅ……なあカコ、一応確認するがよ。お前……」
「……跳んじゃった、かもね」
私とミライの間で交わされる言葉。その意味はもう確認するまでもない。
跳んだ、というのはつまり"時間を"である。
常盤カコには不思議な力があった。時を遡り、過去へ行く力である。
常盤ミライも私と同じ力を持っている。ただしベクトルが違うのだ。
ミライが持つのは未来へ跳ぶ力だ。私と違い、ミライはタイムリープをあまり好まないようだけれど。
「かもね、じゃねえよまったく。俺がいないところで跳んでたらどうなってたか……」
「あはは、そうだね……危なかった」
互いの持つ力が一方通行である以上、力を使うときは2人が揃っていなければならない。
もしも1人で時間を跳んだら、そのとき私は、いや、私たちは——
「気をつけろよ。それで? どれくらい跳んだんだ?」
「えぇっ! ああ、それはね、その……えっと……」
「わからないんだな」
「ごめんなさい」
「まあ、目の前であんな事故見せられたら焦るのもわかるけどよ。んじゃ、今がいつなのか確かめよう」
そういうとミライは再びバイクに跨った。私も慌ててバイクに駆け寄る。
私たちは、基本的には自分の意志で好きな時間に跳ぶことができるのだけれど、精神状態が安定していない場合、遡る時間にズレが生じたり、タイムリープ自体がうまくできなくなることがある。
タクシーがあの親子にぶつかる瞬間、私はかなり動揺したのだ。自分の意志とは関係なくタイムリープするほどに。
……違う。本当は心のどこかで望んだのかもしれない。あの親子を助けたいと。そして思ったのかもしれない。過去に跳べば助けられると。
過去に跳べる私たちなら、助けられると——
「お兄ちゃんッ!」
ミライはヘルメットを被ろうとしていた手を止めた。私はそのまま話を続けた。
「あ、あのさ。あの親子なんだけど……なんとか助けてあげられないかな!」
「…………ダメだ」
「で、でもせっかく過去に跳んだんだし、あの事故が起こるの分かってて見捨てるなんて——」
「カコ」
ミライは極めて冷静沈着。表情を変えることなく淡々と話を続けた。
「いつも言ってるだろ。俺たちはヒーローじゃないんだ。困ってる人全員をそうやって助かるわけにはいかない」
「だけど——」
「それにだ。あの親子を助けるってことは過去が変わるということだ。何千何万、何億という人達に、来るはずのなかった未来が来るということだ。その重大さは聞き飽きるほど言ってきたはずだろ。気の毒だが、あの親子にはそういう運命を受け入れてもらうしかない」
……そう。その通りだ。
それこそ聞き飽きるほど聞いてきた。
もし仮にあの親子を助けたとして、その先に望む未来が訪れるとは限らない。あの2人だけならまだいいが、もちろん周囲の人にも影響が及ぶ。事故が起こらなかった結果、もっと悪い未来が来ることだって十分にありえるのだ。
そうなったとき、私はどう責任を取る? また過去に跳んで助けてあげる? そんなイタチごっこをいつまで続ける……?
選ばなかった選択肢の先がどうなるのかなど知る術はない。だからその時その時に後悔しない選択をして生きていかなければならない。選んだその選択肢が最善だったのだと信じて生きていかなければならない。
わかってる。わかってるよ。
でもあの親子は? 事故に巻き込まれない選択肢なんてなかったのに? 選択の余地なくあのまま?
そんなの……そんなのって……!
「……可哀想だよ」
私は俯いて呟くことしかできなかった。
でも仕方がない。あの親子には悪いけれど、ミライの言う通り、そうなる運命だったのだ。どうか命だけはとりとめて、その後の人生を強く生きて……
でももしあのまま死んじゃったら? あの子はまだ幼いのに。人生の楽しいこと、まだ何も知らないのに。お母さんは? きっと子どもを連れて出かけたことを後悔する。そして自分を呪ったまま、意識を失ってゆくんだ……
こんなことを考えてはいけない。大丈夫。きっと助かるはずだから……!!
目の奥が熱くなるのを感じる。ああ、ダメ。泣いちゃダメ。あの人たちは私とは何も関係ないのに……
そのとき、私の右頬に手が添えられた。その手の親指で私の涙を優しく拭うと、ミライの額が私の額と重なった。
「んっ……お兄ちゃん……?」
「今回だけだぞ」
たった一言。短すぎる一言。
それでも今の私にとっては、十分すぎる一言だった。