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——2017年7月上旬。午前5時45分。
15分前から何度も鳴っている目覚まし時計を寝ぼけ眼をこすりながら再び止めた私は、それでもベッドから出られずにいた。
「おーい、起きろよカコー。遅刻すんぞー」
常盤カコ——それが私の名前である。
だいたいこれくらいの時間になると、兄が起こしにやってくる。それまでには起きておきたいと毎回思っているのだけど、体は言うことを聞いてくれない。
「んん……あと5分……」
「ダメだ。そのまま二度寝して、バタバタ家を飛び出してくの分かってんだかんな」
「それで間に合うんだからいいじゃん……だいたい朝早すぎ……もう少しだけ……そしたらちゃんと起きるから……」
「はあ……ったくだらしねえな。ほーら、さっさと起きろっ!!」
「ひゃあ!? ちょっと!? いぃひひ! わかった! 起きる! 起きるからやめてぇ〜!! ひぃいぃ!」
私がくすぐったがりなのを知っている兄は、最後は決まってこの手段に出る。ここまでされると寝ボケも一気に覚めるというものだ。
「よし、起きるって言ったな。じゃあ早く出てこい。朝飯できてんぞ」
兄の名前は常盤ミライ。
歳は私より3つ上の21歳で、家事の大半をこなしている。地元の役所に高卒で勤めている公務員で、収入は多くないけれど、節約すれば2人で暮らすには問題ない。
部活の朝練がある私より出勤が遅く、放課後練習を終えて帰ったときには既に仕事を終えて家に戻っているため、私が家にいるときには必ずミライも一緒だ。
無理やり起こされて不機嫌な私は寝グセ頭にパジャマという格好でダイニングテーブルについた。
卓上には既に二人分の朝食が並べられている。地平線から半分だけ顔を出した朝日が米の一粒一粒を輝かせ、右のお椀からたちのぼる湯気からは味噌とほんのり出汁の香りがする。中央に置かれた鮭の切り身は、素材の味を殺さないよう、ほんの少しだけ塩を振って焼いてあるようだ。
「どうしたカコ、そんな顔して。せっかくいい鮭が手に入ったのに」
「お兄ちゃん、あの起こし方やめてくれない?」
「ああ、そのことか。いいじゃねえか。笑顔で始まる一日ってのは、きっと楽しい一日になるぞ」
「こっちは楽しくて笑ってる訳じゃないの! 無理やり笑わされるのがどんだけ苦しいか分かる!?」
「でもなあ、お前ああでもしねえと起きねえし」
「そ、れ、に! 私もうすぐ18よ! 年頃の女の子の腰とか脇とか撫で回して恥ずかしくないの? 社会人として!」
「部屋中に服やら下着やら脱ぎ散らかして、それを兄に洗濯させてるだらしない妹を年頃の女の子として見ろって言う方が無理だ」
「なっ……!! んもう! お兄ちゃん最低ッ! バカッ! 変態! 」
「俺も好きで妹の下着触ってるわけじゃねえよ。文句あんなら自分で洗え」
ミライは顔色ひとつ変えることなく、平然と味噌汁をすすっている。そう言われると返す言葉が見つからない。
結局私は黙って朝食に箸をつけることになった。
言い負かされたのは不服だけれど、こういう時間はとても好きだ。他愛ない話でも兄妹喧嘩でも、ミライが相手なら楽しいと思ってしまう自分がいる。ありのままの自分をさらけ出せるからだろうか、他の誰といる時よりも心が安らぐ気がする。そういう友達がいないわけではないけど、ミライに敵う人はいない。
焼き鮭を口に運びながら、新婚生活ってこんな感じなのかな、と想像してしまった。旦那さんとなんでもない話をしながら向かい合って朝食をとる。それはとても平凡で退屈そうに見えるけれど、きっととても幸せなことなのだろう。ただ、家事は私がやらなくてはならないのかもしれないけれど。
私は小さい頃から結婚というものに憧れていて、「大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるー!」なんて言っていたこともあった。
今はこんな態度をとっている可愛げのない妹だけど、ミライのことは大好きだし、たった一人の大切な家族だと思っている。
「おーい、ニヤニヤしてないで時計見て動けよー」
ミライの声で我に返り、時計を見ると時刻は午前6時20分。家を出るまであと10分といったところだ。ミライはとっくに食べ終えていて、慣れた手つきで食器を重ねて台所へ運んでいる。
「やばっ! お兄ちゃん、片付けお願い!」
皿の上のものを全て口の中に放り込むと、私は慌てて自分の部屋へ戻った。
ミライはせっかくの鮭をもっと味わって食えとでも言いたげな表情だったが、相手をする余裕はない。
前ボタンを留めたままパジャマを上から脱いでベッドの上に投げ捨てると、山積みになった洗濯済み衣類のなかからスポーツインナーと練習用ウェアを引っ張り出してせっせと着替え、背中に大きく"HIDERA HIGH SCHOOL"と書かれた黒いジャージを羽織った。
前日の夜にまとめておいた荷物を抱えて部屋を飛び出すと、ミライがキッチンの方から見送りにやってきた。
「おいおいまたジャージか!? 制服で登校して部室で着替えるってのが決まりだろ」
「部室で着替えてたら練習に遅れちゃうもん」
「早起きさせても結局これだ……ほらよ」
ミライは私の前にバンダナで丁寧に包まれた手のひらサイズの箱を差し出した。
「うわあー! お弁当作ってくれたの!?」
「引退試合近いんだろ? しっかり食わねぇとな」
「ありがとー! お兄ちゃん大好き!!」
両手に持っていた荷物を手放してミライにハグ。ミライは中身が崩れないよう、弁当箱を上に上げてよろめいた。
「おっとと……! ああ、知ってるよ。ほら早くしな。6時半過ぎたぞ」
「うん! 今日も頑張るね!」
ミライから弁当箱を受け取って鞄に詰め込むと、履き慣れたスニーカーに足を入れ、つま先で地面を叩きながら玄関のドアに手をかけた。
「カコ、いつも言ってるが——」
「分かってる! "あれ"は使わないよ!」
「……そっか。ならいい。いってらっしゃい」
ミライに微笑んでみせたあと、私は玄関を飛び出して自宅の駐輪場に駆け込み、解錠した自転車にまたがってペダルを踏み込んだ。
真横から私を照らす温かい朝日と吹き抜ける涼しい風が絶妙にかみ合っている。初夏の朝は実に心地よいものだ。
しばらく進んで信号待ちで停まった時、朝練に間に合うか不安になって左手首を覗いてみた。
今の時刻は————
「ああああっ!! 腕時計忘れたああぁ!!」
信号が青になると同時に180度方向転換。私は自宅に向かって再び走り出したのである。
我ながらとんだおっちょこちょい。
家に到着するや否や自転車を駐輪場に押し込んだ。玄関を開けるとスニーカーを履いたまま膝歩きで自分の部屋へと向かった。玄関のドアの音でミライも私に気づいたようで、リビングからこちらを覗いている。
「どうした? 忘れ物か?」
「んー! 腕時計ー!! あった!」
目当てのものは机の上に置いてあった。薄桃色に塗装された金属製の腕時計。フェイスは円形、日付がデジタル式で時刻がアナログ式のハイブリッド型。サイドにはお洒落な筆記体で小さく"M&K"と刻まれている。
「なんだ、ビックリしたな。学校にも時計あんだから、腕時計くらい無くても別に——」
「これだけは無いと嫌なの!」
「——!?」
暫しの沈黙。
ふとリビングの方を見やるとミライが私を驚いた様子で立ち尽くしていた。
「……あれ、何か変なこと言った?」
「ああいや、その……大事にしてくれてんだな、それ」
ミライは少し照れ臭そうに頭を掻いた。その後、「ちょっと待ってろ」と言い残して家の奥に引っ込むと、少し厚手のジャケットを着込み、私にヘルメットを優しく投げてきた。
「自転車じゃもう間に合わねえだろ? 送ってやる」
胸が熱くなり、気分が高揚した。軽くガッツポーズをすると、まだ家の中だというのに受け取ったヘルメットを被った。本当は飛び跳ねて喜びたいところだけれど、膝立ちの状態ではさすがに無理だった。
ミライが手袋をつけながら玄関へ歩いて来たため、私は先に駐輪場へ行き黒い二人乗りバイクの後部に座った。
引退試合が近づくにつれて部活の練習も増え、ミライと出かける回数は減っていたのもあって、乗せてもらうのは随分と久しぶりに感じる。
少し遅れてやってきたミライがバイクに跨り、キーを回すと派手なエンジン音が鳴り響いた。私がミライの腰に手を回し、しっかりつかまったのを確認すると、ミライの愛車は勢いよく自宅から飛び出した。
ミライの背中にしがみつきながら風を感じる。あらゆるものが一瞬で真横を通り過ぎる。私はこの感覚が大好きだ。
私は元々走るのが好きだった。小さい頃からどこでも勝手に走り回ってよくミライに怒られたものだ。高校で陸上部に入ったのもそれが理由である。とにかく速く走る快感、自分の体で空気をかき分けて進む快感を覚えてしまった私は、他の競技には目もくれず短距離走に没頭したのである。
でも今この瞬間の風を切る感覚は、ただ走るのが好き、速いのが好きというそれとは違う。どう違うのかと聞かれると自分でもよく分からない。なんとなく、このまま学校に着かないで、永遠に走り続けてくれたら、なんて思ってしまうのだ。この気持ちは一体何なのだろうか——
「よし、着いたぞ」
校門の前でバイクを停め、ヘルメットのシールド部分を持ち上げた。もう降りなくてはならないと思うと、胸にポッカリと穴が空いてしまうような気分になる。
降り際によろめくふりをして、一度ぎゅっと抱き締めてからミライの背中を離れた。ここまで一緒だったミライは、もう帰ってしまうのだ。私とミライの間を抜ける風が冷たく感じた。
「帰りはいつもと同じくらいか? 自転車ねえから迎えに来てやるよ」
「——! うん! お願い!」
その一言で寂しさが一気に吹き飛んだ。部活が終わればまた来てくれる。またバイクの後ろに乗せてもらえる。その言葉だけで今日が輝くような素晴らしい日のように思えた。
私が被っていたヘルメットをシートの下に収納すると、ミライはシールドを下ろして再びバイクに跨った。
「お兄ちゃーん! ありがとー!!」
エンジン音に負けじと大声で叫んだ。ミライの顔はもう見えないけれど、軽く左手をあげてくれた。
左手の手袋と袖の間からチラリと腕時計が顔を出す。私がしているものと同じ、薄桃色の腕時計。
小さくなってゆくミライを見送ると、私は急いでグラウンドへ向かった。
——午前6時52分。朝練開始8分前。