僕らはみんな宇宙飛行士だった。
頬をなでる風は晩秋の豊かさと薫りをとうに失い、ただ鋭さと冷たさを増していた。過剰な暖房のきいた車内から放り出された身を縮こませ--これは12月だというのにワイシャツ一枚という無謀ともいえる軽装が故の当然の生理反応でもあったのだが--空を見上げた。
おもむろ、という気障ったらしい表現でなく、寧ろ、空の観察を生業にしている者のような義務的な仕草で、ふいと頭を天空へと向けた。
乾いた、師走のはしりの寒さは未明の漆黒の半球にさらなる深みと瞬きを与えてくれた。
ああ、
南東の空に、ひと際明るい星が見える。アークトゥルスだ。
低高度ではあるが雄々しく黄金色に輝くその姿を捉えると同時に、儚く消え去った少年の夢がちくりと胸の内に起き上がった。
3年前、だったと思う。
ちょっと調べれば分かることなのだが…たまには記憶のみを頼りに書いてみよう。
3年前の夏、たまたま訪れたプラネタリウム。程よい空調と暗さが故に幾度となく襲ってくる睡魔と闘いながら眺めていた父の隣で、小2男子の瞳は爛爛と輝いていた。
プラネタリウムは、ある彗星を特集していた。数カ月後、つまりその年の初冬に地球に最接近する大彗星で世界中の天文学者も注目しているなどと煽られれば、ニワカ天文好き男子の好奇心が掻き立てられない方が不思議だろう。
この目で、世紀の大彗星を見たい。
つぶらを脱皮して目力が増し始めた瞳で夏から秋の間、キラキラギラギラと迫られ続けた父はとうとう観念した。いや、純なる好奇心の光にあてられて、ニワカ天文好き男子「第二号」が誕生しただけだったのだが。
実家から懐かしの望遠鏡を取り寄せた。40年前、コツコツためたお年玉をすべて叩いて買い求めたケンコーの屈折式望遠鏡なのだが……果たして宇宙を見ることができるのだろうか?
ギシギシときしむ木製の三脚を組み立て、傷だらけの鏡筒をマウントする。恐る恐るマウスピースを覗き込むと……テスト運用として向けた先の月面の凹凸が、際立ったエッジを描いて静かに目の前に広がっていた。
宇宙は、静謐である。
天体望遠鏡を通して星や月を見ていると、なぜか音を一切感じない。底のない空間に放り出されたかのような、漆黒の狭間に無限に吸い込まれていくような感覚。それを静謐というのが適切かどうか分からないが、ただ光ありき音なき世界に心と身体が放り出される。
数十年の時が捩れ、少年時代に見た世界を静かに遊泳する。
神無月も終わりに近い未明、少年と父と少年の頃の父の夢の代名詞の望遠鏡を乗せたワンボックスカーが、芯から冷え切った街の空気を切り裂き走ってゆく。
太陽が昇る前に、彼の彗星を見なければならぬ。
彗星は太陽に近づくにつれ、その尾が長く伸びてゆく。太陽に最も近づいたときこそ、最大の見せ場--彼女(なぜか彗星を女性だと思っている)自身にとっては修羅場ではあるが--なのだが、残念ながら太陽がまぶしすぎて、通常は見ることができない。そんな理由から、太陽に近づきすぎない程度の時期の、日の出前が観測のベストとなるようだ。
ワンボックスカーを飛ばし、郊外の高台にやってきた。視界は良好。若干、薄い雲が低い位置にたなびいているが、澄み切っている。事前の調べでは、彗星は南東の空の地平線近くに位置しているはずだ。
はて、南東? まったく土地勘のない場所で、コンパスも持たず。おまけに星座表も用意していなかった。頼みの綱は、国立天文台のホームページをプリントアウトした一枚の紙切れのみ。
えっと、土星を目印にして…? って土星てどれだ?
「まだ見えないの?」
怒声ではないが、あからさまに落胆した少年の声色が、車外の冷気に当てられた両手のみならず胸の内をも凍らせる。
目標とする南東の空と思しき位置に、ひと際明るく輝く星が見えた。
きっとあれが、土星のはず。いや、土星なのだ。そう言い聞かせたがとにかく時間がない。急いで三脚を立て、望遠鏡をセットする。が、そうこうしている内に無常にも空が白み始めた。
こうなっては、もう観察できない。ぶっつけ本番の素人にとっては数分ごとに条件が悪化してゆくのをただうな垂れて見守るしかなかった。
少年は無言となった。
しかし、父はあきらめない。三脚にデジカメをセットし、南東の空に向け、弱気の広角気味でシャッターを切った。何度も切った。
せめて、何か写っていていてくれ。
きっと、写っているよ。
少年の頬がほんのり紅くなったのは、登り来る朝日を映しただけではないだろう。そう信じたい。
その日は学校がある日だった。帰りがけ、早朝のコンビニで一緒に飲んだ缶入りコーンスープは妙に濃い味を二人に残した。
さて、結論から言おう。
あれは、土星ではなかった。スピカとともに春を代表する星、アークトゥルスだった。祈るようなシャッターを切った写真には、ただアークトゥルスが燦然と輝いていた。その下の雲間に小さな光点が写っていたが……きっと、その光こそ彼女の姿なのだと今も信じている。
そして、この日が彗星を観察できる最後の日となってしまった。
彗星の名は、アイソン彗星。
世紀の大彗星と言われながら、太陽に接近しすぎて崩壊した儚き彗星。本来なら、太陽を通り越した後に、再び観察できるはずだったのだが……少年と大きな少年の想いは、彼女とももに砕け散ってしまったのだった。
師走の寒風に肩をすぼませながら、南東の空をもう一度だけ見た。
アークトゥルスは、やはり、雄々しく輝いていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
秋口から、仕事環境が変わり、私事でも色々あったりして、執筆が覚束ない状況でした。
ようやく再スタートを切れそうなので、勢いで一作書いてみました。
某作者さまの温かく美しい作品に感化され、日本酒を飲みながらの執筆です。
「おいしいパン」も近いうちに更新、完結いたします。
パン大好き