第7話 良い事づくめの一日
窓辺から差し込む朝日。晩秋の寒さ厳しい朝。凛と冷えた空気が大気を満たす。この時期の美しい斜光は、何よりの目覚ましだ。
キアは顔を洗い、簡単な朝食を取る。硬くなったパンに齧りつき、香りの感じられない珈琲を流し込む。歯を磨いて身なりを整え、颯爽と街へ出た。
「ヤナ=エーデルツヴィッカー」
やはりどこかで聞いたことのある名前だった。だが、どこで聞いたのかを思い出せない。
今日の講義の内容を確認しながら、アカデミーへと足を進める。しかし、後ろ髪を強くひかれている。昨日の店「猫の大食亭」に置いて来たヤナのことである。
「ちぇっ。しょうがない、早めに切り上げて夕方にでも寄ってやるか」
研究半分、ヤナの事が半分。キアの心は分裂していた。
ほどなくしてアカデミーに着くと、クラスメイト達が自分の方を見て、ヒソヒソ話をしている。教科書を読むふりをして、聞き耳を立ててみる。
「おいアイツ、魔術にするらしいぞ」
「本当かよ、頭おかしいんじゃねぇ?」
そんな声がそこかしこから聞こえて来た。昨日友達に言った話が、こんなにも早く噂になるとは。いずれバレることなので、さして気にも留めなかった。要は成果を上げればよいだけだ。自分は一人でもやり抜いてみせる。
午後。寒々しい昼下がりの中、キアは学院長に呼び出されていた。研究テーマを決めるためだ。
学院長は技術アカデミーの創設者であり、王都一の知識人だ。その知識を買われ、貴族や王族の教師役に任命されているほどだ。
”学院長が知らないことは、この世にないのではないか”そんな冗談まである。
「それでキア。君はあえて魔術を選ぶのだね?」
長く白い顎鬚を蓄えた学院長が問う。
「ハイ。決心は揺るぎません」
「しかしどうやって研究するのかね? 古典を収集するだけでは、ただの歴史研究だよ」
「研究方針はまだありません。でも絶対にやりたいんです」
「君はなぜ魔術にそんなに拘るのかね? 火薬や蒸気機関を研究した方が、よっぽど成功する可能性はあるのだよ」
学院長の専門分野は蒸気機関。そちらを薦めるのは自然な流れだ。
「・・・学院長、決して笑いませんか?」
「どんなものであっても、生徒の決心を笑う教師はいない」
キアはカバンから何百枚にも及ぶ厚いレポートを出して、机の上にドスンと置いた。
「幼い頃から神話や伝説が好きで、毎日読み耽っていました。街の吟遊詩人たちが唄っている物語。教会で説いている教え。王都の古い建物にあるレリーフや文字。すべて調べました。これら全部が魔術の実在を示しています」
ほほう、と学院長が興味深そうに眼鏡を上げる。
「そして公国連盟と神聖帝国の国境付近にある大陸最古の教会。そこの説法だけは他と違う神話を語ります。あの教会の神話の神は、なぜか魔術を使う人間なのです」
ふむふむとさらに身を乗り出してくる学院長。
「極め付けは教会近くの平原にある、伝説の破壊神が封印された祠です。祠に彫られている文字はこれです」
ペラペラとレポートをめくり、スケッチした祠と文字の写しを示す。
「解読は教会の司教と協力して行いました。その結果、魔術を使う人間の様子が克明に記録されているものとわかりました。実際に見た者でないと書けないほどの詳細さです。これで魔術の存在を確信したのです」
学院長は驚いた顔でマジマジとキアの顔を見つめていた。そして突然豪快に笑いだした。
「学院長。笑わないと言ったのに・・・」
「すまんすまん。決して君を馬鹿にして笑ったわけではないのだ。許してくれ」
学院長が重厚な椅子から老人とは思えぬ勢いで、ぴょんと立ち上がる。そそくさと院長室の金庫を開け、書類の束をキアに差し出した。
表題はこうだった。
【魔術の存在とその解明】
「実は私も魔術の研究者だ。そして君と同じ結論に達したよ」
「えっ! でも学院長の専門は蒸気機関じゃあ・・・」
「ははは、それは表向きだ。本当は魔術の研究がしたくてな。でも私には君のような勇気がなかった。だからこの年になって、ようやくこっそり研究を始めたんだよ」
「まさか。学院長が先輩だったなんて」
「というわけだ。私は君の研究を応援する。頑張りたまえ。そして研究が進んだら私にも教えてくれ。君は私と同じ学徒ということだ」
朝まで意気消沈していたキアの足取りは軽かった。学院長と裏で同じ研究ができる!嬉しかった。
だかもっと嬉しかったのは、自分と同じ結論に達した人が居たことだった。
魔術は実在する。相変わらず霞を掴むような話だ。存在は確信できるが、どうしたら使えるのか、その原理はどうなっているのか。手がかりの尻尾すら見えてこない。
アカデミーでの最後の授業が終わると、放課後はそれぞれの研究に打ち込むための自由時間となる。キアも早速研究に打ち込みたかったが、ヤナが気になって仕方がなかった。雑念が募る前に早めに切り上げて、猫の大食亭に向かうことにした。
小走りで店のドアを開ける。カランカラーン。ドア上に括りつけられたベルが派手に鳴る。
「いらっしゃいませ! 猫の大食亭にようこそ!」
聞き覚えのある声が元気に飛んでくる。
キアは自分の目を疑った。なんとそこには、店のエプロンをつけたメイド姿のヤナがいた。客の注文を取ったり水や食事を運んだり、大忙しだった。
「て、店長、これは?」
「坊ちゃん!いやね、ヤナが一宿一飯の恩義だとか言いだしやしてねぇ。じゃあ店でちょっくら働いてみるか? って軽い気持ちで勧めたんですがこの通り・・・半日でもうすっかり看板娘です」
夕食前のこの時間は、客も少なくいつも閑散としている。しかし今、店は座れない者が出るほど混雑している。昼食時の最も忙しい時間帯でもこうはならない。
「ヤナが朝、店の前に立ってちょっと宣伝をしてメニューのデザインを
変えたりしただけなんです。ところが昼にはもう客が押し寄せて戦場のようになっちまいまして。こんなこと、店始まって以来です」
ヤナは、手際良くウエイトレスとしての仕事をこなしていく。何もできない箱入り娘だと思っていたのだが、どうやらそうではなさそうだ。
しばらくしてキアに気付いたヤナ。近づいて来てニッコリと笑う。昨日の煤けた姿とはまったく違う。綺麗なメイドスタイルのウエイトレス姿だ。
キアは思わずドキドキしてしまった。
「キアー! 来てくれたんだー! ありがとう」
勢いよく抱きつくヤナ。
「お、おう。暑いからくっつくなよ」
照れ隠しで言う。
「え? 今日は寒いから温まった方がいいよ。外は寒かったでしょ?」
さらに強くくっ付いてくるヤナ。何なんだこの人懐っこさは。心の境界を軽く超えて奥深くへ踏み込んで来る。でもそれが自然で心地良い。こちらも素直になってしまう。
しかし・・・
「あ、あのーヤナさん?」
「なに?キア」
「おっぱい、当たってます」
くっ付きすぎたせいで、ヤナの胸がキアの腕に思い切り押し付けられ大きく変形していた。
柔らかい。もうちょっと堪能したい。
この後は、当然怒られるんだろうなと思っていた。しかし反応は意外だった。
「だから何?」
ヤナは恥ずかしがる風もなくきょとんとしていた。やはりどこか天然というか世間知らずというか、そんな感じなのだろうか。無防備すぎる。
「あのね、ヤナ。女の子は、普通そういう時は恥ずかしがるものなのよ」
店長の娘がいつの間にか隣に立っていた。
「恥ずかしがった方が男子は喜ぶのかなぁ?」
「ええ、そうよ」
なんという会話しているのだ。店長の娘とヤナは古くからの親友のようにポンポンと会話が弾んでいた。
「おーい! ウエイトレスさーん、注文まだー?」
「はーい、だたいま参ります」
次々と声を掛けられ、戦場状態の客席へと消えていった。キアは思わずその後ろ姿に見とれていた。
「あの、、、坊ちゃん、ヤナはもしかしたら訳アリの娘なのかもしれません。ですが、うちの店にしばらく居てもらいたいんです。いいですか?」
「俺はあいつの保護者じゃないよ。自由にさせればいいと思う」
「ありがとうごぜぇます! 今日は坊ちゃんもゆっくりしてってくだせぇ」
「いや、今日はもう帰るよ。アカデミーの課題も残っているしね」
本当はヤナを独占して話をしたかった。だから客にちょっとだけ嫉妬していた。
その機嫌の変化を店長は微妙に感じとっていた。キアが子供の頃から面倒を見て来たのだ。そういう事は察しが早い。
「じゃあ夕食をヤナに届けさせます。ちょっと遅くなっちまうかもしれませんが」
「それは、ありがたい」
「ここだけの話ですが、ヤナの奴、料理がめちゃくちゃ上手いんですよ。あっしらが知らない不思議なメニューや調理法をたくさん知っていて、うちのコックも舌を巻いていました。特製の料理を持っていかせます」
「楽しみに待ってるよ」
キアは自室に着くと着替えを済ませて机に向かい本を開いた。アカデミーの図書館で見繕っておいた魔術の伝説に関する本だ。それと教会や大陸全土の歴史書を加えると、借りているものだけでも100冊を軽く超える。この中から研究のヒントを掴んでやる。強い意欲で読み始める。
本をただ読むだけじゃダメだ。歴史、宗教、伝説、神話、唄、それらを魔術や魔法使いという視点で横串を刺し、横断的な仮説を立てて検証する。
焦ってはだめだ。先は長い。キアは腰を据え、本を夢中で読み進めていた。
トントン。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どなたー?」
「ボクだよー」
ヤナの声だ。思わず小躍りしたくなるほど嬉しかった。直ぐにドアを開け、あの綺麗な顔を見たかった。キアは鏡を見て髪を整えた。ほんの少しだけでも身だしなみを気にしてしまう。柄にもなく緊張している。
「キアー、早く開けてー、荷物が重いよぉ」
「わ、わかった。今開けるよ」
ガチャリとドアを開けると、そこには大きなパンと肉の塊があった。
いや、正確には自分の顔が見えなくなるくらい大きなパンと巨大な肉を持ったヤナが立っていた。
「・・・何だその量は?」
圧倒されて二の句が次げないキア。ヤナは構わず食材を持って入って来た。
「重かったぁ。店長がね、キアが特別メニューを注文してたっていうから」
「え? 特別メニューって???」
「そう、特別だから今からここで作るのです」
「ええぇー!」
そうか、店長が少し遅くなると言っていたのは、このことか。
「ちょっとキッチン借りるね」
「お、おぅ。一通り調理器具は揃ってるよ。俺はほとんど料理しないから使ったことはないけど」
「わかった。出来るまでちょっと待っててね」
ヤナは颯爽とエプロンをつけキッチンに立つ。綺麗だった。メイドとは違う気品があった。これではまるで若妻ではないか、とキアは思った。ぶんぶんと頭をフリ、邪念を払う。机に向かって研究の続きをやろう。
キッチンからは、ヤナの鼻歌と食材を切ったり焼いたりする音が響いて来た。そんな調理の音が心地良い。キアは幼かった頃、母が台所に立つ様子を思い出していた。
そういえば店長が、「ヤナは変わった料理を作る」と言っていたのを思い出した。少し心配になって覗きに行く。キッチンではエプロン姿のヤナが、ご機嫌で動き回っていた。
「あ、ごめん。もうちょっとで出来るからね」
年の頃は自分とほぼ同じ、いや見た目から判断すると少し年下だろうか。そんな年端の娘に、なぜか安らぎと絶対的な信頼感のような母性を感じてしまう。自分はおかしいのだろうか? そんな事を思いながら、ぼーっとヤナに見とれていた。
ヤナがそれに気付いてニコッと笑う。それだけでも正直嬉しかった。理由はわからないが心躍るのだ。
ヤナが皿に料理を盛り付けするとエプロンを外して叫んだ。
「ジャーン! 完成です。ヤナ特製、王都風鶏肉と豚肉の生姜野菜炒め。そして、これがメインのラーメンです」
「ラーメン? 何それ?」
深めの器にスープが入っていて、そこに金色に光るヌードルが浸かっていた。スープパスタのようでもあったがどうやらまったく違う料理らしい。
「さぁさぁ、食べればわかるよ。冷めないうちに食べよ」
「ってお前の分も入ってるのかよ!」
なるほど。食材の量がとんでもなかったのは、こいつのせいか。この大食娘。
「だって食べる時は大勢の方が美味しいよ。本当は店長も店長娘も一緒だとよかったかな」
2人は食卓に着き、食べる準備をする。キアは手をつける前に、祈りの言葉を口に出した。
「創造の女神様、感謝いたします。貴方様のおかげで今日も温かい食事が頂けます」
創造神を信仰する者なら、習慣になっている行為だ。地方によって差異はあるものの、皆似たような言葉を口する。もちろん、祈ることそのものを忘れてしまったりすることはあるが。
ヤナはどういう反応をするだろう。実はそれが知りたかった。信仰する神によって、何者か判別する手がかりになる。
ふと目を隣にやると、既に猛烈な勢いで食べ始めていた。この分では、キアの祈りの言葉にすら気が付いていないだろう。
作戦はまんまと失敗した。はぁ、ダメだったか。
「早く食べないとボクが貰っちゃうよ」
「こっ、こら俺の皿に手を出すな!」
ヤナの料理はどれも絶品だった。これまで食べたどの料理より旨かった。味付けが絶妙なのだ。塩加減を心得ている。そして火の通し具合が格段に上手い。貴族の一流店でもこれほどの品はなかなかないだろう。
そして極め付けは、ヤナが「ラーメン」と呼んでいたヌードルである。スープがとんでもなく美味しい。黄金色に澄んだスープ。鳥と魚の合わせダシ、なんてヤナは言ってるけどよくわからない。でも旨い。いくらでも腹に入りそうだった。
そして隣を見れば、屈託なく話ができるとびきりの美少女が居る。こんな幸せがあっていいのだろうか。キアは昨日までの自分の不遇が、ちっぽけな物に思えて来た。だが気になるのは、やはりヤナの正体だ。
「ヤナ、聞いていいか」
「ん~、何?どしたの?」
「お前は何者なんだ?」
しばらくヤナが考え込む。下を向いたまま動かない。
キアは少し後悔した。知りたいという欲が先だって露骨過ぎたかもしれない。
「それ、言わなきゃダメかな? 異国から来た家出娘ってことにしておいてくれると嬉しいな」
「いいんだ、別に無理に聞こうとはしてない。ちょっと気になったんでね」
「そうだよね・・・。素性のわからない女が居たら迷惑だよね」
俺は馬鹿だ。キアは強く思った。素性が明かせないから、こうしてここにいるんじゃないか。明かせるくらいなら、俺が聞かなくてもヤナから話してくれるだろうに。キアの悔悟の念は頂点に達していた。
「ご、ごめん、気を悪くしないでくれ。俺が悪かった。もう聞かないよ。いつまでも居てくれいいんだ、本当に」
「ありがとう」
にんまりと笑顔を浮かべた。キアもつられて思わず微笑んでしまう。
出会って僅か1日半。それでもキアには心を安心して開ける貴重な友人になっていたのだ。
「ふぅ、お腹いっぱい。キア、美味しかった?」
「正直驚いた。こんなに美味い夕食は、初めてかもしれない」
ヤナは嬉しそうに微笑む。
「美味しい食事は生きるための貴重なもの。大地の恵みとそれを作る人への感謝。神様なんかに感謝するんじゃなくて、大自然と魂持つ農民や漁師さんに感謝なんだよ」
食材への感謝といえば創造神への感謝以外にはない。それを堂々と「人間に感謝」とはどういう事だろうか。異教徒、あるいは創造神の教えも広まらないような僻地の出身なのかもしれない。
食べ終わって居間へ戻る。ヤナが淹れた紅茶を飲む。これがまた格段に美味い。茶葉はいつも自分が飲んでいるものだ。それがどうだ。まるで別物だ。昔、貴族から貰った高級茶葉で淹れた紅茶より美味い。品のある香りの中に芳醇な甘み。頭のてっぺんからつま先までうっとりする。
ヤナは料理の天才なんだと思った。
暖炉に火を入れると、直ぐに微睡の時間に突入していた。
「キア、じゃあボクから質問ね」
椅子を立ってなぜかキアの方に近づいて来た。
「ハイハイ、何でしょう?」
「ねぇ、男の人ってこういうのが好きなの?」
両の胸を自分で掴み、グイッと寄せてはキアの方へ思い切り近づいた。
「ブハっ」
思わず紅茶を噴き出しそうになった。
「あっはははは、やっぱりそうなった。店長娘がキアにやったら絶対に紅茶噴き出すって言ってたんだー」
「コイツ!」
ヤナの額を思い切り指先で弾く。
「あ、痛-い!」
「人をからかった罰だ」
和やかな時間が過ぎて行った。夜は更け、2人とも睡魔に襲われ始める。
それでも話は尽きなかった。
キアの瞼がほとんど閉じつつあった。息遣いが限りなく寝息に近くなる。
「ねぇ、キアは何を研究しているの?」
既に返事はない。ヤナは机の上の本を見た。
「神々の物語。破壊神と創造神」
ふーん。と声を出す。
その時キアが少しだけ目を覚ました。机に向かっているヤナの横顔が見えた。冬の満月を逆光に、美しきシルエット。窓から入る青白い月光が、ヤナの雪肌を染め上げる。神秘を感じるほどの秀麗な一枚の絵に見えた。
しかし、その表情は酷く寂しそうだった。キアはそれに気が付いて声をかけるのを躊躇った。いや、これほどの絵を壊すのが、勿体無かったのかもしれない。再び眼を閉じて睡魔に精神を預けた。
どうしてそこまで寂しい顔をするのだろうか。詳しく聞きたかったが、触れてはいけない気がした。今日は良い事づくめの一日。このまま寝入るとしよう。