第八話 勝負の相手は夢の中
湯は、腹立たしいくらいに心地よかった。肩に浴びた温かさが、歩き疲れた身体をゆっくりほぐしていく。足元へ流れていく湯を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
使い方はもちろん分かった。湯を出して、身体を洗って、流すだけ。獣にできるかどうかは知らないが、世界を救った勇者には十分可能な作業だった。あの説明は、最初から最後まで必要なかった。
いや、僕が分からないと言ったのだけれど。そういう細かい話は、今はいい。
「ワンダのくせに……」
独り言が浴室に響いた。
考えてみれば、僕は今まで、ワンダに負けたことがなかった。
剣を握った頃から、模擬戦ではずっと僕が勝っていた。彼が新しい技を覚えて挑んできても、僕はそれを上回った。小さい頃は身長だけ負けていたが、それだって十四歳で追い抜いた。
追い抜いた日のことは、よく覚えている。同じ場所に立たせて何度も背を比べ、ようやく認めさせたのだ。ワンダは「そうか」としか言わなかった。昔からあいつは、もっと悔しそうな顔をするべきだったと思う。
それが今はどうだ。腕力では負ける。守られる。世話を焼かれる。しかも、こちらが何を仕掛けても涼しい顔をしている。
「ワンダのくせに!」
声がさっきより大きくなった。
何に負けたと言われれば、説明は難しい。そもそも、ワンダは勝負をしているつもりさえないだろう。それがまた、面白くない。僕がひとりで勝負を始め、ひとりで負けた気分になっているとしたら、あまりに不公平じゃないか。……不公平なのは誰のせいだろう。
僕は湯を止めた。この問いに答えると、少々都合が悪そうだった。
壁の鏡が湯気で曇っている。端に置かれた布で表面を拭くと、灰色の髪を濡らした少女が現れた。僕だった。いや、分かっている。ほかの誰かが浴室にいたら、それこそ大騒ぎだ。それでも、不思議な気持ちになる。女性になっている。この顔も、声も、以前よりずっと低くなった目線も、今はすべて僕のものなのだ。
「……可愛いな」
これはナルシストというわけではない。
元は男だった僕が、女性を見る目を活かして、公平に評価しているだけである。評価する側とされる側が同じ人間なのは、偶然だ。転生の石に文句を言ってほしい。
鏡の中の少女が、僕と同じように首を傾けた。以前の僕なら、こんな女性に出会ったら迷わず声をかけただろう。会話のきっかけを探し、食事に誘い、どうすれば笑ってもらえるか考えたはずだ。そのくらい好みの姿なのに。鏡に映る、何も身につけていない自分を見ても、驚くほど平静だった。
可愛いとは思う。けれど、それだけだ。自分だから当然なのかもしれない。鏡の相手へ食事をおごったところで、財布が軽くなるのも僕なのだから。いや、今は財布の話ではない。僕は女好きだ。
自分で言うのもなんだけれど、その点に関してだけは、誰からも異論が出ない自信がある。その僕が、こうして自分の姿を当たり前のように眺めている。何かが変わったのだろうか。
記憶はある。幼い頃からの出来事も、魔王と戦ったことも、崩れた橋のことも。僕がレインだという自覚は、少しも揺らいでいない。転生の石によって、新しい身体で生まれ変わった。
では、生まれ変わったのは、身体だけなのだろうか。魂に性別はあるのだろうか。もし魂に性別がなくて、今の僕がこの身体で生きているのだとしたら――。
「……うん。後日検討しよう」
僕は鏡から目をそらした。
急いで結論を出すことではない。世界の賢者たちが何十年も悩みそうな問題を、入浴中の僕ひとりに任せないでほしい。今は、もっと身近で重要な問題がある。
ワンダだ。あいつは、僕に汗臭いと言った。
なんて、ひどい男だろう。僕が女性をエスコートする立場なら、絶対にそんな言い方はしない。もっと柔らかく、相手の気持ちを考えて――。
『足の傷は強くこするな』
さっきの声が、ふと頭に浮かんだ。
僕は足元を見た。ワンダが作ってくれた足当ては、脱いだ靴と一緒に外してある。あれがなければ、町まで歩くのも、もっと大変だっただろう。
山賊から救ってくれた。服代を出してくれた。食事も、宿も。……僕はそもそも、助けられている側では? 懲らしめるようなことを、何かされたか?
「関係ない!」
二度目の検討は、即座に打ち切った。
恩を感じていないわけではない。礼だって言った。そのうえで、自分だけが敗北感を味わうのはしゃくだという話だ。感謝と勝敗は別件である。
よし。理屈は整った。作戦を練り直そう。一緒に入浴する誘いは、断られた。甘えた声も、恥ずかしそうな仕草も通じなかった。ならば、今度は言葉ではない。僕は鏡を見た。そして、ひとつの名案を思いついた。
「……ふふふ」
服は洗濯中ということにする。身体を拭いたら、何もまとわずに部屋へ戻る。さすがのワンダも、それなら慌てるはずだ。目をそらしたり、何をしているんだと声を上げたり、少なくとも今までと同じ顔ではいられないだろう。
そこで僕は、余裕たっぷりに微笑むのだ。おや、照れているのかい、と。彼が十分に狼狽したところで、正体を明かす。
完璧だ。少し考えただけで、完全な作戦ができてしまった。僕の才能は剣だけではなかったらしい。……服を洗濯に出したあと、何を着るかは後で考えよう。
今は勝利が先だ。そうと決まれば、長湯は禁物である。
僕は残っていた泡を流し、足の傷をこすらないように気をつけながら、手早く身体を拭いた。衣服は軽く畳んで、浴室の隅に寄せる。準備は整った。
扉の前で、僕は一度だけ深呼吸した。慌てるのは向こうだ。僕は堂々としていればいい。
「お待たせ、ワンダ――」
何もまとわないまま、勢いよく浴室を出る。
部屋は静かだった。ワンダはソファに沈み込んでいた。腕を組み、背もたれに頭を預け、目を閉じている。
「……ワンダ?」
返事はない。
代わりに、規則正しい寝息が聞こえた。僕は立ち止まった。しばらく、その顔を見つめる。ワンダは起きない。照れもしない。慌てもしない。僕が何を着ているのか――着ていないのか――確かめようともしない。眠っているからだ。『さっさと風呂に入って寝たい』あの言葉が、頭の中で再生された。
本当に、風呂に入って寝たかっただけなのか。余裕を装っていたわけでも、僕の誘いを見抜いて駆け引きしていたわけでもなく。単に、眠かったのか。
僕は、わなわなと両手を震わせた。勝負を挑む前に、相手が寝てしまった。これでは勝つことも負けることもできない。審判に訴えようにも、そもそも審判などいない。
豪華な部屋の真ん中で、全裸の僕ひとりが作戦を実行している。ワンダは気持ちよさそうに眠っている。
「だから、モテないんだ、こいつは!」




