第十話 おかえり
写真の中の僕は、得意げに胸を張っていた。隣のワンダより背が低いのが、よほど不満だったのかもしれない。少し顎を上げ、せめて態度だけでも大きく見せようとしている。
今の僕が忠告できるなら、無駄な努力はやめておけと言うだろう。十四歳になれば追い抜く。そして、その何年か後には、彼をまた見上げることになる。人生というのは、なかなか落ち着かないものだ。
僕は写真の端を指で支えた。ワンダに、本当のことを話そう。ふと、そう思った。昨日までは、この姿になったことをあまり知られたくなかった。それが今は、話してしまいたい。我ながら、心変わりが早すぎる。写真一枚で判断を変えるなんて、世界を救った勇者として、もう少し慎重になったほうがいいのではないか。
いや、考えてみれば理由はある。僕には、聞きたいことが山ほどあるのだ。僕が死んだあと、どうなったのか。魔王がいなくなった世界は、どう変わったのか。エステルやミレーヌは、今どこで暮らしているのか。ほかの恋人たちは、どうしているのか。
記憶喪失の少女を演じながら、勇者の元恋人の消息ばかり尋ねて回る。……どう考えても、不審だ。「何も覚えていません。ただし勇者の女性関係には詳しいです」では、記憶の失い方が都合よすぎる。それなら、ワンダに全部話してしまったほうが早い。
そうだ。効率の問題である。僕は写真を封筒へ戻そうとして、もう一度だけ二人を見た。この写真の何が、そんなに気持ちを変えたのか。うまく言えなかった。ただ、これを見たあとで、また知らない少女のふりをするのは、何となく嫌だった。
僕は封筒を閉じ、元の場所へ丁寧にしまった。持ち上げた袋も戻し、荷物の留め具を閉じる。そこで、ひとつ問題に気づいた。正体を明かす前に、勝手に荷物を漁ったことを謝るべきだろうか。いや、正体を明かしてから謝ったほうが、まだ話が通じるかもしれない。知らない少女に荷物を漁られたのと、腐れ縁の幼馴染に漁られたのでは、受け取り方も――。
……どちらもよくないな。話す順番は、慎重に考えよう。
僕は立ち上がり、窓辺へ向かった。朝日が、町を照らしていた。まだ通りを歩く人は少ない。それでも、店先の戸を開ける人や、荷車を押していく人が見える。遠くで誰かが挨拶を交わし、石畳を踏む足音が、少しずつ増えていく。町が目を覚まし始めている。
一年。僕が死んでから、一年だ。長いのか、短いのか、よく分からなかった。僕にとっては、橋が崩れたのも、ワンダたちと旅をしていたのも、つい先日のように思える。けれど、彼らはその間も生きていた。僕のいない朝を、何度も迎えていたのだ。
浴室の扉が開いた。振り返ると、着替えを済ませたワンダが出てきた。小ぎれいな服に身を包み、髪の水気を布で拭いている。眠気が残っているのか、顔はいつも以上にぼんやりしていた。こちらが重要な決心をしていたことなど、何も知らない顔だ。
「宿代に朝食も含まれている。それが乾いたら、食べに行くぞ」
彼は窓辺の衣服を指した。
この男は、朝から服と食事の心配ばかりしている。それなのに、荷物の中には、あんな古い写真が入っていた。そう思うと、いつもの無愛想な顔が少しだけ愛おしく見えた。ほんの、少しだけだ。
「ちょっと待って、ワンダ」
「何だ?」
「大事な話がある」
ワンダは髪を拭く手を止めた。
「今か?」
「今」
「朝食のあとでは駄目なのか」
「食事が先だと、僕の決心が鈍るかもしれない」
「決心?」
「とにかく、座ってくれ」
僕はソファを示した。
ワンダは一度こちらの顔を見てから、素直に腰を下ろした。僕も正面の椅子へ座る。風呂上がりの彼から、石鹸のいい香りがした。汗臭いなどと言ったのは、もうずいぶん前のことのように思えた。
「何の話だ」
「単刀直入に言おう。ワンダ」
「ああ」
僕は息を吸った。そして、黙った。
意外と勇気がいる。考えている間は、もっと簡単に言えると思っていた。僕は僕だ、と説明するだけなのだから、難しいことではないはずだ。それなのに、実際に向かい合うと、喉の奥で言葉が止まる。
「……どうした?」
「少し待って。単刀直入に言うための準備をしている」
「そうか」
ワンダは急かさなかった。その落ち着きに、少しだけ助けられる。
大丈夫だ。ワンダなら、大丈夫。この男に打ち明けたからといって、僕が不利になることはない。彼が僕を笑いものにしたり、誰かへ売り渡したりするはずがない。僕は、彼を知っている。
「僕はレインだ」
言った。
部屋の中に、自分の声が残った。ワンダは僕を見ていた。そして、いつもと同じ調子で答えた。
「そうか」
……そうか?
僕は彼の顔を見つめた。表情は変わらない。立ち上がりもしない。椅子から転げ落ちたり、聞き返したりもしない。なんなんだ、こいつは。僕の決死の告白に、返事がそれだけか。
「な、何だよ。その反応」
「いや、驚いている」
どこがだよ。
「驚いている顔には見えないけれど」
「そう言われてもな」
「普通、もっと何かあるだろう。まさか、とか、そんなはずはない、とか」
「疑ってほしいのか?」
「そういう話じゃないよ」
何だろう。この、用意してきた剣を抜く前に試合が終わったような気分は。僕は膝の上で手を握った。
「……僕とワンダしか知らない思い出を話そうか。信じてもらえるように」
「いや、信じているよ」
本当かよ。
「まだ何も説明していないけれど」
「お前がレインだと聞いた」
「その説明だけでいいのかい?」
「足りない話は、あとで聞けばいいだろう」
淡々としている。本当に、どこまでも淡々としている。
僕は頭の中で、思い出話をいくつも選んでいた。孤児院でのこと、剣の修行のこと、旅立った日のこと。どれから話せば信じてもらえるかと考えていた。それが全部、出番をなくした。ああ、むかつく。だからモテないんだ、こいつは。
愛の告白を受けても、こんな調子では、普段の暮らしも味気ないに決まっている。記念日にも「そうか」と言い、褒めても「そうか」と答えるのだろう。こんな男を好きになるなんて、相当な変わり者だ。ニアは、一体どこを気に入ったんだ。そもそも、ワンダは――。
「おかえり、レイン」
思考が止まった。
ワンダが、まっすぐ僕を見ていた。さっきから変わらない、その瞳で。僕のことを、本当に信じているのだ。証拠を待っているわけではない。思い出話を聞いて、正しい答えか確かめようとしているのでもない。僕がレインで、彼がワンダなら、二人だけの思い出を知っているのは当たり前だ。彼はもう、そのつもりで僕と話していた。
口を開いた。何か返そうと思った。うまく声が出なかった。視界が、ぼやける。僕は瞬きをした。それでも戻らなかった。頬に何かが触れ、指先で拭って、初めて涙が出ていると気づいた。
「……あれ」
小さな声が漏れた。
どうして泣くのだろう。怖い思いをしたときも、力が出なくて地面に転がされたときも、泣かなかったのに。
ワンダは何も聞かなかった。棚へ手を伸ばし、清潔な布を差し出してくれる。僕はそれを受け取った。言葉にしようとすると、どれも少し違う気がした。嬉しいのか。安心したのか。懐かしいのか。そんなことを考えている間にも、涙は止まらなかった。
窓の向こうでは、町がいつもどおりの朝を始めていた。僕は布を握り、目の前の幼馴染を見た。驚かせてやろうと思っていたのは、僕のほうだったのに。




