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婚約解消の相手をお間違えです――役立たずの食客令嬢は三枚の原本で王弟殿下の誤断を訂正させる

作者: 花房 ゆり
掲載日:2026/08/22

「婚約を解消する」


ギヨームの声が祝宴の広間を割った、その直後だった。


「その前に、雉が一羽足りません」


金糸のドレスを着た令嬢が、目の前の皿を見たまま言った。


「……何?」


「八十人へ一切れずつ配るのでしたら、どう切っても足りませんわ。雉は一羽から八切れ。十羽必要ですのに、あちらの大皿まで数えて九羽しかございません」


婚約を断たれた令嬢の返事ではない。


人生を左右する宣告より、焼いた雉の頭数を優先された。王弟の威厳が、たった一羽に負けた。


「貴女は、ご自分の浪費について何か申し開きはないのか」


「ございます。まず、わたくしはエルヴィラ様ではございません」


笑いが起きた。


それまで口元を扇で隠していた客たちが、いっせいに隠すのをやめたせいで、広間の温度が三度ほど上がった気がした。


ギヨームは側近を振り返った。


議事録を取っていたオーブリーは、無表情のまま紙面を指した。


「こちらのご令嬢はブリジット嬢です」


「なぜエルヴィラ嬢の席にいる」


「配席係の記録では、ニコラ家令の指示です」


オーブリーは一枚目の議事録へ目を落とした。


「殿下が人違いまで記録へ残せと仰いましたので、消せません」


一言の毒が、恐ろしく事務的だった。


ギヨームは改めてブリジットを見た。


没落した男爵家の令嬢。職を失い、親類である領主家の食卓に置かれている食客。役にも立たないくせに厨房へ入り込み、料理ばかり眺めている——ニコラ家令の報告書には、そうあった。


ならば、エルヴィラの席へ座らせた者がいる。


広間の端で、灰色の外套を着せられた令嬢が立っていた。あちらがエルヴィラらしい。背後の窓からは、玄関前に停められた馬車が見えた。婚約を解消されたあと、そのまま領外へ送るための馬車だ。


座る場所さえ、すでに奪われていた。


「殿下」


ニコラ家令が膝を折り、資料を両手で差し出した。


「ブリジット嬢が勝手に席を移ったのでございましょう。食卓へ置いていただくだけでは飽き足らず、銀器や料理にも手を出す。先ほどの雉も、この者が厨房から盗んだ可能性がございます」


客たちの笑いが、今度はブリジットへ向いた。


ニコラはそれを待ってから、厨房使用人たちへ指を向けた。


「聞かれたことに答えろ。余計な口を挟むな」


使用人たちはうつむいた。ニコラの隣にいた会計係と目が合い、ほんのわずかに口元を緩めた者もいる。


領主家の信用を守るための、よく訓練された沈黙らしい。


「雉一羽の代金で、小麦袋が三つ買えます」


ブリジットが言った。


「今、それを言うのか」


「なくなった物の値段は、大切でございましょう?」


この令嬢は、料理を見ると費用へ換算しなければ息ができないらしい。


「もし雉を盗んだのが貴女なら、窃盗として裁く」


「承知いたしました」


「エルヴィラ嬢の浪費が事実なら、婚約解消と追放も予定どおり執行する」


「そちらも、記録してくださいませ」


ブリジットはオーブリーを見た。


本人へ婚約解消を言い渡す前に、別人から記録の注文を受けている。ギヨームは正しい裁定を下しに来たはずだった。


今のところ、雉より軽い。


    *    *    *


「銀皿をお出しなさい!」


厨房口では、ニコラの声が広間にいたときより二倍ほど大きかった。


ブリジットの椅子だけが壁際から運ばれ、証言用に置かれている。エルヴィラには椅子もない。ニコラは二人の退路を塞ぐように立ち、指先で床を示した。


「そこから動くな。銀皿をどこへ隠した」


「存じません。それより、その鐘を止めてくださいませ」


「何を——」


真鍮の配膳鐘が鳴った。


高く一度。低く二度。また高く一度。


ブリジットは銀皿の山には触れず、鐘を打とうとしていた厨房番の手首をそっと下ろさせた。


「その順でしたら、魚料理のあとに果物を出して、肉料理を客室へ運ぶことになります。古い王宮式では、高二回、低一回です」


厨房番が青くなった。


奥では、果物の盆を抱えた者と肉皿を持った者が、互いの行き先を見失っている。


「銀皿より、その鐘を止めてくださいませ。次の料理が先に出ます」


「なぜ厨房の合図を知っている」


ギヨームが問うと、ブリジットは傾いた肉皿を元へ戻した。


「昔、帳面のそばで働いておりましたので」


王宮厨房にも出入りしたことのある下働き、というところか。


食べるだけの食客から、料理の数量だけは異様に速い元下働きへ。大出世である。王弟の頭の中にある人物評としては、情けないほど低い階段だったが。


そこへ王宮の使者が駆け込んできた。


使者はブリジットを見つけた途端、右手を胸へ当て、深く頭を下げた。


「支出監——」


使者の肩が跳ねた。


すぐに姿勢を直し、何事もなかった顔でギヨームへ封書を差し出す。


「王妃陛下より、調査の立会人を任ずる書状でございます」


ギヨームは封を切った。使者を立会人とする一文だけが記されていた。今の礼を見なかったことにはできなかった。オーブリーの筆が紙を走っている。あれも記録された。消せない。


「ブリジット嬢。銀皿について弁明があるなら聞く」


「口頭の弁明は、銀皿より軽うございます」


彼女はオーブリーの前へ進んだ。


「雉の不足、銀皿の窃盗疑惑、エルヴィラ様の浪費について、正式な異議として受理してくださいませ。献立原本、納品票、商人帳の三点を別々の保管先から回収し、ニコラ家令ご自身に受取証との照合結果を作成して、確認署名までいただきます」


「受理します」


オーブリーが即答し、日付と時刻を記した。


ニコラの大きかった声が、王宮使者の前ではきれいに痩せていた。


    *    *    *


三点の原本を同じ卓へ集めるまで、半日もかからなかった。


ニコラ自身が献立原本を文書庫から、納品票を厨房の受領箱から、商人帳を納入商エミールの店から回収した。各保管責任者に封印の無傷を確認させ、オーブリーが時刻を記録する。


原本を抱えて戻ったニコラは、ギヨームの前では膝を折った。


「すべて相違ございません。私が責任を持って確認いたしました」


確認者欄にも、ためらいなく署名した。


その直後、椅子のないエルヴィラへ顔を向ける。


「待て。食客の数字遊びで婚約は戻らない。馬車の用意は済んでいる」


エルヴィラは追放用の外套の留め金を、両手で握った。喉元まで締められている。祝宴の席にふさわしい装いが、その下にあるかどうかすら見えない。


ギヨームは護衛長を呼んだ。


「ブリジット嬢の周囲へ六名置け。原本へ近づく者も、彼女を連れ出そうとする者も止めろ」


「一名で結構です」


「危険がある」


「六名分の日当があれば、厨房使用人八人へ祝宴手当を払えます」


また換算した。


しかも、今度は誰も笑わなかった。


厨房使用人のうち三人が顔を上げたからだ。


「二名だ」


「一名です」


「では最も腕の立つ者を一名。これは譲らない」


守るためなら人数は多いほどいい。そう思った途端、ブリジットはギヨームの勝手に積み上がる護衛を、指一本で一名まで減らした。


妙に腹が立つ。


同じくらい、目が離せない。


「かしこまりました、ギヨーム殿下」


勝ったのはこちらのはずなのに、許可をいただいた響きがしなかった。


    *    *    *


「では、ブリジット嬢による横領の調査を始めます」


翌日、祝宴の卓は証言卓へ変えられた。


料理は下げられ、中央に三枚の原本が置かれている。向かいには領主家の者、厨房使用人、招待客、商人エミール。王宮使者が中立の立会人として、オーブリーが議事録係として席についた。


ブリジットの椅子だけが、ニコラの指示で証言卓の中央へ移されていた。


「エルヴィラ嬢にも椅子を」


ギヨームが言うと、ニコラは腰を折った。


「浪費の責任を問われる者に席は不要かと」


「置け」


「しかし」


「私の命令は、女性にだけ聞こえにくくなるのか?」


ニコラは使用人を睨んだ。使用人へ向ける指は鋭いのに、ギヨームへ戻る手は資料を捧げる形になる。


椅子は置かれた。それでもエルヴィラは座らなかった。外套を着たまま、その背へ手を添えている。


ニコラは証言卓へ立った。


「献立を増やしたのはエルヴィラ嬢であり、増量分を厨房から持ち出したのはブリジット嬢です。領主家の信用を守るため、両名をただちに退去させるべきと考えます」


「確認いたします」


ブリジットの声は柔らかかった。


「献立原本を開いてくださいませ。増量を承認した署名は、どなたのものですか」


ニコラが象牙色の厚紙を開く。


「エルヴィラ嬢です」


「数量もお読みください」


「雉、二十羽。牛肉、百六十人分。小麦粉、四十袋——」


「署名の日付は?」


「収穫祭の三十日前」


「数量が書き直された日付は?」


ニコラの指が止まった。


献立原本には、もとの数量を削った跡が残っていた。雉十羽の上から二十羽。牛肉八十人分の上から百六十人分。小麦粉二十袋の上から四十袋。書き換え欄には、エルヴィラの署名より五日遅い日付がある。


「二十五日前です」


「書き換えの確認者は?」


「私です」


客席から笑いは起きなかった。


先ほどまでブリジットを眺めていた顔が、一枚目の原本へ集まっている。


「エルヴィラ様」


ブリジットが呼んだ。


「はい」


「二十羽へ増やすよう命じましたか」


「いいえ。わたくしが署名した時点では十羽でした。八十名へ一切れずつ、それで足りますから」


「一羽で八切れになることを、ご存じでしたのね」


「料理長へ確認しました」


エルヴィラは言葉を切り、ニコラを見た。


「祝宴は小さくしたいと、三度申し上げました」


ニコラはすぐに言葉をかぶせた。


「署名後の管理を怠ったのも浪費でございます。家令へ任せたから責任がないとは——」


「では、管理を任された家令の確認署名を、責任のない飾りとして扱いますか?」


オーブリーが尋ねた。


ニコラの口が閉じた。


ギヨームは献立原本の書き換え跡を見た。


自分は、この紙の最終数量だけを読んだ。整った報告書と、家令の断定。速く裁くことを公正だと思っていた。


速い刃ほど、相手を確かめずによく切れる。


「二枚目を」


ブリジットが言った。


ニコラは青い納品票を開いた。


「雉二十羽、牛肉百六十人分、小麦粉四十袋。領主館厨房にて、全量を受領済み」


「受領印は?」


「家令印です」


「受領確認者は?」


紙の端が、ニコラの指の下でわずかに曲がった。


「私です」


二枚目にも、同じ名があった。


自分が数量を増やし、自分が全量を受け取ったことにした。それでも告発する相手は、署名欄に一度も現れないブリジットである。


窃盗という罪名は、投げた側へ戻る途中だった。まだ名指しするには早い。それがかえって、ギヨームにはよく見えた。


「ブリジット嬢は、納品の日に厨房へいましたか」


ギヨームが問う。


厨房使用人たちが互いを見た。


ニコラも彼らを見た。視線だけで答えを選ばせようとする。その沈黙まで、オーブリーの議事録では別の欄へ載る。


やがて一人が首を横に振った。


「おりません。ブリジット様がこちらへ来られたのは、収穫祭の七日前です」


「納品は?」


「二十日前です」


「では、この納品分を彼女が盗んだという告発は成立しない」


「後から持ち出した可能性がございます!」


反撃しない使用人へ向けるときの声が戻った。


ニコラは証言卓を叩き、ブリジットを指した。


「厨房へ出入りし、銀皿の場所も知っていた! 食客の分際で献立へ口を出し、今もこうして領主家を混乱させている!」


「銀皿は見つかっております。雉の十羽目も、配膳前の保温庫にありました」


オーブリーが紙面をめくった。


「銀皿は別棟の洗浄台です。移動を命じたのはニコラ家令。こちらも署名があります」


「それは——祝宴準備の一環で!」


「ブリジット嬢の椅子を証言卓へ移した命令にも、署名があります」


「何の関係がある!」


「移した物を盗難と呼ぶなら、どちらも同じかと」


オーブリーは羽根ペンへインクを足した。


ギヨームにだけ向ける毒は、今日もよく切れる。こちらにも刺さるので喜べない。


「三枚目をお願いします」


商人エミールが帳面を卓上へ置いた。


ニコラが目で制しても、エミールは帳面を閉じなかった。


「日付と数字だけ、宣誓のうえでお答えします」


「お願いいたします。実際に納めた数は?」


「二十日前。雉十羽、牛肉八十人分、小麦粉二十袋」


「納品票の半分ですわね」


「はい」


「代金は、納品票どおり受け取りましたか」


「はい。二十羽、百六十人分、四十袋の額です」


「差額は?」


「領主館の指定に従い、現金で返しました」


ニコラが立ち上がった。


「数量差は確定した! 十分でございましょう。祝宴準備の混乱による記載違いです。これ以上は領主家の信用を損ないます。調査を打ち切ってください!」


「誰へ返したかは、商人帳だけで分かりますか」


ブリジットがエミールへ尋ねた。


「いいえ。帳面には『領主館指定の受領者』とだけ。受取証の照合は、領主家の調査役に任せました」


「では、三枚の原本だけで受領者を名指しすることはできません」


ブリジットはそう認めた。


ニコラの頬へ血が戻った。


「お聞きになりましたか、殿下。この女は犯人を示せない! 原本を騒ぎ立て、祝宴を壊しただけです。拘束を。エルヴィラの馬車も出せ!」


広間の外で、馬車の車輪が鳴った。


エルヴィラの指が外套の留め金から離れた。扉の向こうで御者が鞭を持ち上げる。


ニコラは出口を塞ぎ、使用人へ命じた。


「ブリジットを押さえろ!」


ギヨームは三枚の原本を見た。


差額はある。だが受領者は確定していない。王弟として、証明できない名を犯人にはできない。


そして彼は、もう一度、決断を急いだ。


「調査終了まで、ブリジット嬢を拘束する。馬車は——」


「お待ちください」


王宮使者が立ち上がった。


使者はギヨームへ届けた封書ではなく、胸元から別の書状を取り出した。紫の封蝋。王妃の印章。


ブリジットが初めて、証言卓の椅子から立つ。


使者は今度こそ姿勢を直さなかった。右手を胸へ、深い礼を取る。


「王妃直属支出確認役、ブリジット様。領主館収穫祭費の調査任命状を、立会人一同の前で開示いたします」


封が切られた。


任命の日付は、ブリジットが領主館へ来る十二日前。


失職中の食客ではない。


王妃の署名によって、この祝宴の支出を調べるために来た現役の確認役。


王宮厨房の古い鐘。使者が飲み込んだ呼びかけ。


ギヨームの中で、別々に置かれていたものが音を立てて揃った。


調べられていたのは、彼女ではない。


ニコラだけでもない。


整った報告を信じ、人違いで婚約解消を宣告し、たった今、正規の調査役へ拘束を命じた自分もだ。


「拘束命令を撤回する」


ギヨームは立ち上がった。


「オーブリー。今の命令も、撤回も、両方残せ」


「すでに」


まったく頼もしく、まったく腹立たしい。


ギヨームは証言卓の前へ出た。王弟の席ではなく、調べられる側の床へ立つ。


「私は本件の調査役を辞する。ブリジット嬢とエルヴィラ嬢への誤断を公表し、発生した損害は領主家に加えて私の私財から賠償する」


客席がざわめいた。


ニコラが何か言おうとしたが、ギヨームは見なかった。


「それで許されるとは思わない」


ブリジットは任命状を受け取り、端を揃えた。


「はい。謝罪は記録になっても、境界にはなりませんもの」


「調査後も、貴女へ求愛を続けたい」


今ここで言うことか、とギヨーム自身も思った。


だが、これ以上勝手に先を決めれば三度目である。人違い、拘束、囲い込み。失敗の献立を倍量にする趣味はない。


「条件がございます」


ブリジットは三本の指を立てた。


「護衛は一名。無断で訪問しないこと。婚姻後も、わたくしが帳面を持つ権利を妨げないこと」


「署名する」


「まだ紙を読んでおりませんわ」


「読んでから署名する」


危ない。敬意を抱いたと思ったら、もう手元へ置きたい。ギヨームの保護欲は鎧を着るのが速すぎる。本人に脱がされるまでが一組らしい。


オーブリーが三条件を記し、ギヨームは一条ずつ読み上げた。署名し、王弟印を押す。


ペン先が紙を擦るたび、自分の過保護へ杭が一本ずつ打ち込まれた。


悪くない。むしろ必要だ。


「誤断の公式訂正が完了した後、求愛状を一通ずつ受理いたします」


一通ずつ。


大量に送る予定まで見抜かれている。


恋愛の勝敗は、ひとまず棚へ上げられた。今は帳面の勝敗だ。


ブリジットはニコラへ向き直った。


「では家令。あなたが調べ、あなたが署名した結果を、あなたの声でお読みください」


ニコラの顔から、戻ったばかりの血の気が引いた。


「調査役の立場を隠して私を陥れたのか」


「わたくしの職責と、あなたが原本へ記した数字は関係ございません」


「この調査結果には不備が——」


「確認者欄の署名は、あなたのものですか」


「……そうです」


「王宮使者、商人エミール、オーブリーが立ち会っています。お読みください」


逃げ道が一つずつ閉じる。


いい。ギヨームも先ほど閉じられたばかりだ。責任とは、閉じた扉の前で自分の名を読むことなのだろう。


ニコラは自分で作った調査結果を開いた。


一枚目。


「献立原本の数量変更は、エルヴィラ嬢の署名後に行われた。変更指示者、家令ニコラ」


二枚目。


「納品票の受領数量は、実納品数の二倍。受領確認者、家令ニコラ」


三枚目。


声が細くなった。


「商人から返還された差額は、領主館の受取証と照合し……」


紙が鳴る。


「続けてくださいませ」


「読み直しを求める」


喉の奥で、ごくりと音がした。


「どの文字を?」


「受取人の名だ。これは、筆跡が——」


「受取証を集めたのはあなたです。照合したのも、確認署名をしたのもあなたです」


ニコラの視線がギヨームへ走った。


いつもなら膝を折り、資料を両手で差し出せば、王弟が結論を与えた。


今日は与えない。


ニコラは紙へ目を戻した。


「差額受領者は……ニコラ」


自分の名が、本人の口から広間へ落ちた。


ニコラの隣にいた会計係が一歩離れた。


厨房使用人たちも一人、二人と距離を取る。


ブリジットを笑っていた客たちの顔が、いっせいにニコラから外れた。視線を置く場所すら与えない。王弟の断罪より静かで、ずっと逃げにくい。


「もう一度、最後の行を」


オーブリーが言った。


ニコラの唇が震えた。


「確認者、家令ニコラ。以上の調査結果に相違なし」


「署名は?」


「……私のものだ」


そこで初めて、ブリジットは席へ戻った。


卓上には果物を飾った砂糖菓子が残っていた。彼女は一瞥し、静かに言う。


「あちら一台で、未払いの祝宴手当が十二人分になりますわね」


今度は厨房の奥から、短い笑いが上がった。


    *    *    *


ギヨームは公衆の前で、最初の議事録から読み直した。


「私が婚約解消を宣告した相手は、エルヴィラ嬢ではなくブリジット嬢だった。人違いであり、その場で両名の異議を確認せず、ニコラ家令の報告を優先した。裁定を撤回し、公式に訂正する」


次に、エルヴィラへ向いた。


「祝宴の浪費は貴女の指示ではなかった。婚約解消と追放命令を撤回する。失われた名誉、支度費、滞在費を賠償する」


エルヴィラは自分の手で追放用の外套を外した。


その下には、祝宴のために仕立てた淡い青のドレスがあった。


誰にも促されず、彼女は婚約者の隣席へ歩き、自分で椅子を引いて座る。


厨房使用人たちは、その椅子が卓から離れすぎていることに気づいた。二人がかりで持ち上げ、正しい位置へ戻した。


「ニコラ」


ギヨームは家令章を外させた。


「本日をもって家令職を解く。領外追放にはしない」


ニコラが、ほんの一瞬だけ息をついた。


「中立監督者の下、賠償係へ役割を変更する。抜き取った差額、削った使用人の祝宴手当、エルヴィラ嬢に負わせた追放費用を記録し、完済までこの領主家に残れ。支払いのたび、自分で受領簿へ記入しろ」


息はそこで止まった。


不足分は領主家とギヨームの私財から先に支払う。ブリジットの報酬や資産からは一枚たりとも出さない。ニコラが返す金は、被害を受けた者へ戻す。


赦しを求める欄は、どの帳面にもなかった。


    *    *    *


翌朝、訂正文は領内の広場で読み上げられた。


ブリジットは監督者の席にいた。指定どおり、護衛は一名だけ。その後ろへギヨームは立つ。


勝手に隣へ椅子を置かせたい。


ついでに屋根も壁も増やし、王宮の一室ごと運び込みたい。


三条件の二つ目が、早くもよく働いている。


ギヨームは温かい丸パンを一つ差し出した。


「朝食を取っていないと聞いた。これは訪問に入るだろうか」


「公務の同席ですので、無断訪問には数えません」


「隣へ座っても?」


「護衛の後ろでしたら」


ギヨームは一脚分離れた場所へ、自分で椅子を運んだ。


訂正文の前では、ニコラが最後の署名を求められていた。


監督者が読み上げる。


「ブリジット嬢を『役立たずの食客』とした記録は、ニコラ元家令の虚偽報告に基づく。ブリジット嬢は王妃直属支出確認役として正当に職務を遂行し、祝宴費の不正と、エルヴィラ嬢への誤評価を訂正した」


ニコラはペンを持った。


広場には領主家の者、商人、厨房使用人、昨夜の招待客がいる。昨日はブリジットを笑った者も、今日は訂正文の証人欄へ名を連ねていた。


「署名を」


ニコラが自分の名を書く。


受領署名と同じ筆跡だった。


最後の一画が紙へ残る。


その瞬間、役立たずの食客は、誰かの好意的な評判になったのではない。


領内の公式記録から消えた。


ブリジットは温かいパンを二つに割り、片方をギヨームへ渡した。


「これは?」


「雉一羽より、ずっと安うございます」


訂正文には、王弟の誤断も、家令の虚偽も、ブリジットの職責も残っている。


そして一番下には、それを否定できない男自身の署名があった。

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― 新着の感想 ―
ごめんなさい、訳が解らなくなってしまいました。 結局、婚約破棄はどうなったのか? 話の途中で急に求愛されて結果どうなったのか? 席を代わっていたからといって婚約者の顔を知っていれば気付いたのでは? 最…
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