婚約解消の相手をお間違えです――役立たずの食客令嬢は三枚の原本で王弟殿下の誤断を訂正させる
「婚約を解消する」
ギヨームの声が祝宴の広間を割った、その直後だった。
「その前に、雉が一羽足りません」
金糸のドレスを着た令嬢が、目の前の皿を見たまま言った。
「……何?」
「八十人へ一切れずつ配るのでしたら、どう切っても足りませんわ。雉は一羽から八切れ。十羽必要ですのに、あちらの大皿まで数えて九羽しかございません」
婚約を断たれた令嬢の返事ではない。
人生を左右する宣告より、焼いた雉の頭数を優先された。王弟の威厳が、たった一羽に負けた。
「貴女は、ご自分の浪費について何か申し開きはないのか」
「ございます。まず、わたくしはエルヴィラ様ではございません」
笑いが起きた。
それまで口元を扇で隠していた客たちが、いっせいに隠すのをやめたせいで、広間の温度が三度ほど上がった気がした。
ギヨームは側近を振り返った。
議事録を取っていたオーブリーは、無表情のまま紙面を指した。
「こちらのご令嬢はブリジット嬢です」
「なぜエルヴィラ嬢の席にいる」
「配席係の記録では、ニコラ家令の指示です」
オーブリーは一枚目の議事録へ目を落とした。
「殿下が人違いまで記録へ残せと仰いましたので、消せません」
一言の毒が、恐ろしく事務的だった。
ギヨームは改めてブリジットを見た。
没落した男爵家の令嬢。職を失い、親類である領主家の食卓に置かれている食客。役にも立たないくせに厨房へ入り込み、料理ばかり眺めている——ニコラ家令の報告書には、そうあった。
ならば、エルヴィラの席へ座らせた者がいる。
広間の端で、灰色の外套を着せられた令嬢が立っていた。あちらがエルヴィラらしい。背後の窓からは、玄関前に停められた馬車が見えた。婚約を解消されたあと、そのまま領外へ送るための馬車だ。
座る場所さえ、すでに奪われていた。
「殿下」
ニコラ家令が膝を折り、資料を両手で差し出した。
「ブリジット嬢が勝手に席を移ったのでございましょう。食卓へ置いていただくだけでは飽き足らず、銀器や料理にも手を出す。先ほどの雉も、この者が厨房から盗んだ可能性がございます」
客たちの笑いが、今度はブリジットへ向いた。
ニコラはそれを待ってから、厨房使用人たちへ指を向けた。
「聞かれたことに答えろ。余計な口を挟むな」
使用人たちはうつむいた。ニコラの隣にいた会計係と目が合い、ほんのわずかに口元を緩めた者もいる。
領主家の信用を守るための、よく訓練された沈黙らしい。
「雉一羽の代金で、小麦袋が三つ買えます」
ブリジットが言った。
「今、それを言うのか」
「なくなった物の値段は、大切でございましょう?」
この令嬢は、料理を見ると費用へ換算しなければ息ができないらしい。
「もし雉を盗んだのが貴女なら、窃盗として裁く」
「承知いたしました」
「エルヴィラ嬢の浪費が事実なら、婚約解消と追放も予定どおり執行する」
「そちらも、記録してくださいませ」
ブリジットはオーブリーを見た。
本人へ婚約解消を言い渡す前に、別人から記録の注文を受けている。ギヨームは正しい裁定を下しに来たはずだった。
今のところ、雉より軽い。
* * *
「銀皿をお出しなさい!」
厨房口では、ニコラの声が広間にいたときより二倍ほど大きかった。
ブリジットの椅子だけが壁際から運ばれ、証言用に置かれている。エルヴィラには椅子もない。ニコラは二人の退路を塞ぐように立ち、指先で床を示した。
「そこから動くな。銀皿をどこへ隠した」
「存じません。それより、その鐘を止めてくださいませ」
「何を——」
真鍮の配膳鐘が鳴った。
高く一度。低く二度。また高く一度。
ブリジットは銀皿の山には触れず、鐘を打とうとしていた厨房番の手首をそっと下ろさせた。
「その順でしたら、魚料理のあとに果物を出して、肉料理を客室へ運ぶことになります。古い王宮式では、高二回、低一回です」
厨房番が青くなった。
奥では、果物の盆を抱えた者と肉皿を持った者が、互いの行き先を見失っている。
「銀皿より、その鐘を止めてくださいませ。次の料理が先に出ます」
「なぜ厨房の合図を知っている」
ギヨームが問うと、ブリジットは傾いた肉皿を元へ戻した。
「昔、帳面のそばで働いておりましたので」
王宮厨房にも出入りしたことのある下働き、というところか。
食べるだけの食客から、料理の数量だけは異様に速い元下働きへ。大出世である。王弟の頭の中にある人物評としては、情けないほど低い階段だったが。
そこへ王宮の使者が駆け込んできた。
使者はブリジットを見つけた途端、右手を胸へ当て、深く頭を下げた。
「支出監——」
使者の肩が跳ねた。
すぐに姿勢を直し、何事もなかった顔でギヨームへ封書を差し出す。
「王妃陛下より、調査の立会人を任ずる書状でございます」
ギヨームは封を切った。使者を立会人とする一文だけが記されていた。今の礼を見なかったことにはできなかった。オーブリーの筆が紙を走っている。あれも記録された。消せない。
「ブリジット嬢。銀皿について弁明があるなら聞く」
「口頭の弁明は、銀皿より軽うございます」
彼女はオーブリーの前へ進んだ。
「雉の不足、銀皿の窃盗疑惑、エルヴィラ様の浪費について、正式な異議として受理してくださいませ。献立原本、納品票、商人帳の三点を別々の保管先から回収し、ニコラ家令ご自身に受取証との照合結果を作成して、確認署名までいただきます」
「受理します」
オーブリーが即答し、日付と時刻を記した。
ニコラの大きかった声が、王宮使者の前ではきれいに痩せていた。
* * *
三点の原本を同じ卓へ集めるまで、半日もかからなかった。
ニコラ自身が献立原本を文書庫から、納品票を厨房の受領箱から、商人帳を納入商エミールの店から回収した。各保管責任者に封印の無傷を確認させ、オーブリーが時刻を記録する。
原本を抱えて戻ったニコラは、ギヨームの前では膝を折った。
「すべて相違ございません。私が責任を持って確認いたしました」
確認者欄にも、ためらいなく署名した。
その直後、椅子のないエルヴィラへ顔を向ける。
「待て。食客の数字遊びで婚約は戻らない。馬車の用意は済んでいる」
エルヴィラは追放用の外套の留め金を、両手で握った。喉元まで締められている。祝宴の席にふさわしい装いが、その下にあるかどうかすら見えない。
ギヨームは護衛長を呼んだ。
「ブリジット嬢の周囲へ六名置け。原本へ近づく者も、彼女を連れ出そうとする者も止めろ」
「一名で結構です」
「危険がある」
「六名分の日当があれば、厨房使用人八人へ祝宴手当を払えます」
また換算した。
しかも、今度は誰も笑わなかった。
厨房使用人のうち三人が顔を上げたからだ。
「二名だ」
「一名です」
「では最も腕の立つ者を一名。これは譲らない」
守るためなら人数は多いほどいい。そう思った途端、ブリジットはギヨームの勝手に積み上がる護衛を、指一本で一名まで減らした。
妙に腹が立つ。
同じくらい、目が離せない。
「かしこまりました、ギヨーム殿下」
勝ったのはこちらのはずなのに、許可をいただいた響きがしなかった。
* * *
「では、ブリジット嬢による横領の調査を始めます」
翌日、祝宴の卓は証言卓へ変えられた。
料理は下げられ、中央に三枚の原本が置かれている。向かいには領主家の者、厨房使用人、招待客、商人エミール。王宮使者が中立の立会人として、オーブリーが議事録係として席についた。
ブリジットの椅子だけが、ニコラの指示で証言卓の中央へ移されていた。
「エルヴィラ嬢にも椅子を」
ギヨームが言うと、ニコラは腰を折った。
「浪費の責任を問われる者に席は不要かと」
「置け」
「しかし」
「私の命令は、女性にだけ聞こえにくくなるのか?」
ニコラは使用人を睨んだ。使用人へ向ける指は鋭いのに、ギヨームへ戻る手は資料を捧げる形になる。
椅子は置かれた。それでもエルヴィラは座らなかった。外套を着たまま、その背へ手を添えている。
ニコラは証言卓へ立った。
「献立を増やしたのはエルヴィラ嬢であり、増量分を厨房から持ち出したのはブリジット嬢です。領主家の信用を守るため、両名をただちに退去させるべきと考えます」
「確認いたします」
ブリジットの声は柔らかかった。
「献立原本を開いてくださいませ。増量を承認した署名は、どなたのものですか」
ニコラが象牙色の厚紙を開く。
「エルヴィラ嬢です」
「数量もお読みください」
「雉、二十羽。牛肉、百六十人分。小麦粉、四十袋——」
「署名の日付は?」
「収穫祭の三十日前」
「数量が書き直された日付は?」
ニコラの指が止まった。
献立原本には、もとの数量を削った跡が残っていた。雉十羽の上から二十羽。牛肉八十人分の上から百六十人分。小麦粉二十袋の上から四十袋。書き換え欄には、エルヴィラの署名より五日遅い日付がある。
「二十五日前です」
「書き換えの確認者は?」
「私です」
客席から笑いは起きなかった。
先ほどまでブリジットを眺めていた顔が、一枚目の原本へ集まっている。
「エルヴィラ様」
ブリジットが呼んだ。
「はい」
「二十羽へ増やすよう命じましたか」
「いいえ。わたくしが署名した時点では十羽でした。八十名へ一切れずつ、それで足りますから」
「一羽で八切れになることを、ご存じでしたのね」
「料理長へ確認しました」
エルヴィラは言葉を切り、ニコラを見た。
「祝宴は小さくしたいと、三度申し上げました」
ニコラはすぐに言葉をかぶせた。
「署名後の管理を怠ったのも浪費でございます。家令へ任せたから責任がないとは——」
「では、管理を任された家令の確認署名を、責任のない飾りとして扱いますか?」
オーブリーが尋ねた。
ニコラの口が閉じた。
ギヨームは献立原本の書き換え跡を見た。
自分は、この紙の最終数量だけを読んだ。整った報告書と、家令の断定。速く裁くことを公正だと思っていた。
速い刃ほど、相手を確かめずによく切れる。
「二枚目を」
ブリジットが言った。
ニコラは青い納品票を開いた。
「雉二十羽、牛肉百六十人分、小麦粉四十袋。領主館厨房にて、全量を受領済み」
「受領印は?」
「家令印です」
「受領確認者は?」
紙の端が、ニコラの指の下でわずかに曲がった。
「私です」
二枚目にも、同じ名があった。
自分が数量を増やし、自分が全量を受け取ったことにした。それでも告発する相手は、署名欄に一度も現れないブリジットである。
窃盗という罪名は、投げた側へ戻る途中だった。まだ名指しするには早い。それがかえって、ギヨームにはよく見えた。
「ブリジット嬢は、納品の日に厨房へいましたか」
ギヨームが問う。
厨房使用人たちが互いを見た。
ニコラも彼らを見た。視線だけで答えを選ばせようとする。その沈黙まで、オーブリーの議事録では別の欄へ載る。
やがて一人が首を横に振った。
「おりません。ブリジット様がこちらへ来られたのは、収穫祭の七日前です」
「納品は?」
「二十日前です」
「では、この納品分を彼女が盗んだという告発は成立しない」
「後から持ち出した可能性がございます!」
反撃しない使用人へ向けるときの声が戻った。
ニコラは証言卓を叩き、ブリジットを指した。
「厨房へ出入りし、銀皿の場所も知っていた! 食客の分際で献立へ口を出し、今もこうして領主家を混乱させている!」
「銀皿は見つかっております。雉の十羽目も、配膳前の保温庫にありました」
オーブリーが紙面をめくった。
「銀皿は別棟の洗浄台です。移動を命じたのはニコラ家令。こちらも署名があります」
「それは——祝宴準備の一環で!」
「ブリジット嬢の椅子を証言卓へ移した命令にも、署名があります」
「何の関係がある!」
「移した物を盗難と呼ぶなら、どちらも同じかと」
オーブリーは羽根ペンへインクを足した。
ギヨームにだけ向ける毒は、今日もよく切れる。こちらにも刺さるので喜べない。
「三枚目をお願いします」
商人エミールが帳面を卓上へ置いた。
ニコラが目で制しても、エミールは帳面を閉じなかった。
「日付と数字だけ、宣誓のうえでお答えします」
「お願いいたします。実際に納めた数は?」
「二十日前。雉十羽、牛肉八十人分、小麦粉二十袋」
「納品票の半分ですわね」
「はい」
「代金は、納品票どおり受け取りましたか」
「はい。二十羽、百六十人分、四十袋の額です」
「差額は?」
「領主館の指定に従い、現金で返しました」
ニコラが立ち上がった。
「数量差は確定した! 十分でございましょう。祝宴準備の混乱による記載違いです。これ以上は領主家の信用を損ないます。調査を打ち切ってください!」
「誰へ返したかは、商人帳だけで分かりますか」
ブリジットがエミールへ尋ねた。
「いいえ。帳面には『領主館指定の受領者』とだけ。受取証の照合は、領主家の調査役に任せました」
「では、三枚の原本だけで受領者を名指しすることはできません」
ブリジットはそう認めた。
ニコラの頬へ血が戻った。
「お聞きになりましたか、殿下。この女は犯人を示せない! 原本を騒ぎ立て、祝宴を壊しただけです。拘束を。エルヴィラの馬車も出せ!」
広間の外で、馬車の車輪が鳴った。
エルヴィラの指が外套の留め金から離れた。扉の向こうで御者が鞭を持ち上げる。
ニコラは出口を塞ぎ、使用人へ命じた。
「ブリジットを押さえろ!」
ギヨームは三枚の原本を見た。
差額はある。だが受領者は確定していない。王弟として、証明できない名を犯人にはできない。
そして彼は、もう一度、決断を急いだ。
「調査終了まで、ブリジット嬢を拘束する。馬車は——」
「お待ちください」
王宮使者が立ち上がった。
使者はギヨームへ届けた封書ではなく、胸元から別の書状を取り出した。紫の封蝋。王妃の印章。
ブリジットが初めて、証言卓の椅子から立つ。
使者は今度こそ姿勢を直さなかった。右手を胸へ、深い礼を取る。
「王妃直属支出確認役、ブリジット様。領主館収穫祭費の調査任命状を、立会人一同の前で開示いたします」
封が切られた。
任命の日付は、ブリジットが領主館へ来る十二日前。
失職中の食客ではない。
王妃の署名によって、この祝宴の支出を調べるために来た現役の確認役。
王宮厨房の古い鐘。使者が飲み込んだ呼びかけ。
ギヨームの中で、別々に置かれていたものが音を立てて揃った。
調べられていたのは、彼女ではない。
ニコラだけでもない。
整った報告を信じ、人違いで婚約解消を宣告し、たった今、正規の調査役へ拘束を命じた自分もだ。
「拘束命令を撤回する」
ギヨームは立ち上がった。
「オーブリー。今の命令も、撤回も、両方残せ」
「すでに」
まったく頼もしく、まったく腹立たしい。
ギヨームは証言卓の前へ出た。王弟の席ではなく、調べられる側の床へ立つ。
「私は本件の調査役を辞する。ブリジット嬢とエルヴィラ嬢への誤断を公表し、発生した損害は領主家に加えて私の私財から賠償する」
客席がざわめいた。
ニコラが何か言おうとしたが、ギヨームは見なかった。
「それで許されるとは思わない」
ブリジットは任命状を受け取り、端を揃えた。
「はい。謝罪は記録になっても、境界にはなりませんもの」
「調査後も、貴女へ求愛を続けたい」
今ここで言うことか、とギヨーム自身も思った。
だが、これ以上勝手に先を決めれば三度目である。人違い、拘束、囲い込み。失敗の献立を倍量にする趣味はない。
「条件がございます」
ブリジットは三本の指を立てた。
「護衛は一名。無断で訪問しないこと。婚姻後も、わたくしが帳面を持つ権利を妨げないこと」
「署名する」
「まだ紙を読んでおりませんわ」
「読んでから署名する」
危ない。敬意を抱いたと思ったら、もう手元へ置きたい。ギヨームの保護欲は鎧を着るのが速すぎる。本人に脱がされるまでが一組らしい。
オーブリーが三条件を記し、ギヨームは一条ずつ読み上げた。署名し、王弟印を押す。
ペン先が紙を擦るたび、自分の過保護へ杭が一本ずつ打ち込まれた。
悪くない。むしろ必要だ。
「誤断の公式訂正が完了した後、求愛状を一通ずつ受理いたします」
一通ずつ。
大量に送る予定まで見抜かれている。
恋愛の勝敗は、ひとまず棚へ上げられた。今は帳面の勝敗だ。
ブリジットはニコラへ向き直った。
「では家令。あなたが調べ、あなたが署名した結果を、あなたの声でお読みください」
ニコラの顔から、戻ったばかりの血の気が引いた。
「調査役の立場を隠して私を陥れたのか」
「わたくしの職責と、あなたが原本へ記した数字は関係ございません」
「この調査結果には不備が——」
「確認者欄の署名は、あなたのものですか」
「……そうです」
「王宮使者、商人エミール、オーブリーが立ち会っています。お読みください」
逃げ道が一つずつ閉じる。
いい。ギヨームも先ほど閉じられたばかりだ。責任とは、閉じた扉の前で自分の名を読むことなのだろう。
ニコラは自分で作った調査結果を開いた。
一枚目。
「献立原本の数量変更は、エルヴィラ嬢の署名後に行われた。変更指示者、家令ニコラ」
二枚目。
「納品票の受領数量は、実納品数の二倍。受領確認者、家令ニコラ」
三枚目。
声が細くなった。
「商人から返還された差額は、領主館の受取証と照合し……」
紙が鳴る。
「続けてくださいませ」
「読み直しを求める」
喉の奥で、ごくりと音がした。
「どの文字を?」
「受取人の名だ。これは、筆跡が——」
「受取証を集めたのはあなたです。照合したのも、確認署名をしたのもあなたです」
ニコラの視線がギヨームへ走った。
いつもなら膝を折り、資料を両手で差し出せば、王弟が結論を与えた。
今日は与えない。
ニコラは紙へ目を戻した。
「差額受領者は……ニコラ」
自分の名が、本人の口から広間へ落ちた。
ニコラの隣にいた会計係が一歩離れた。
厨房使用人たちも一人、二人と距離を取る。
ブリジットを笑っていた客たちの顔が、いっせいにニコラから外れた。視線を置く場所すら与えない。王弟の断罪より静かで、ずっと逃げにくい。
「もう一度、最後の行を」
オーブリーが言った。
ニコラの唇が震えた。
「確認者、家令ニコラ。以上の調査結果に相違なし」
「署名は?」
「……私のものだ」
そこで初めて、ブリジットは席へ戻った。
卓上には果物を飾った砂糖菓子が残っていた。彼女は一瞥し、静かに言う。
「あちら一台で、未払いの祝宴手当が十二人分になりますわね」
今度は厨房の奥から、短い笑いが上がった。
* * *
ギヨームは公衆の前で、最初の議事録から読み直した。
「私が婚約解消を宣告した相手は、エルヴィラ嬢ではなくブリジット嬢だった。人違いであり、その場で両名の異議を確認せず、ニコラ家令の報告を優先した。裁定を撤回し、公式に訂正する」
次に、エルヴィラへ向いた。
「祝宴の浪費は貴女の指示ではなかった。婚約解消と追放命令を撤回する。失われた名誉、支度費、滞在費を賠償する」
エルヴィラは自分の手で追放用の外套を外した。
その下には、祝宴のために仕立てた淡い青のドレスがあった。
誰にも促されず、彼女は婚約者の隣席へ歩き、自分で椅子を引いて座る。
厨房使用人たちは、その椅子が卓から離れすぎていることに気づいた。二人がかりで持ち上げ、正しい位置へ戻した。
「ニコラ」
ギヨームは家令章を外させた。
「本日をもって家令職を解く。領外追放にはしない」
ニコラが、ほんの一瞬だけ息をついた。
「中立監督者の下、賠償係へ役割を変更する。抜き取った差額、削った使用人の祝宴手当、エルヴィラ嬢に負わせた追放費用を記録し、完済までこの領主家に残れ。支払いのたび、自分で受領簿へ記入しろ」
息はそこで止まった。
不足分は領主家とギヨームの私財から先に支払う。ブリジットの報酬や資産からは一枚たりとも出さない。ニコラが返す金は、被害を受けた者へ戻す。
赦しを求める欄は、どの帳面にもなかった。
* * *
翌朝、訂正文は領内の広場で読み上げられた。
ブリジットは監督者の席にいた。指定どおり、護衛は一名だけ。その後ろへギヨームは立つ。
勝手に隣へ椅子を置かせたい。
ついでに屋根も壁も増やし、王宮の一室ごと運び込みたい。
三条件の二つ目が、早くもよく働いている。
ギヨームは温かい丸パンを一つ差し出した。
「朝食を取っていないと聞いた。これは訪問に入るだろうか」
「公務の同席ですので、無断訪問には数えません」
「隣へ座っても?」
「護衛の後ろでしたら」
ギヨームは一脚分離れた場所へ、自分で椅子を運んだ。
訂正文の前では、ニコラが最後の署名を求められていた。
監督者が読み上げる。
「ブリジット嬢を『役立たずの食客』とした記録は、ニコラ元家令の虚偽報告に基づく。ブリジット嬢は王妃直属支出確認役として正当に職務を遂行し、祝宴費の不正と、エルヴィラ嬢への誤評価を訂正した」
ニコラはペンを持った。
広場には領主家の者、商人、厨房使用人、昨夜の招待客がいる。昨日はブリジットを笑った者も、今日は訂正文の証人欄へ名を連ねていた。
「署名を」
ニコラが自分の名を書く。
受領署名と同じ筆跡だった。
最後の一画が紙へ残る。
その瞬間、役立たずの食客は、誰かの好意的な評判になったのではない。
領内の公式記録から消えた。
ブリジットは温かいパンを二つに割り、片方をギヨームへ渡した。
「これは?」
「雉一羽より、ずっと安うございます」
訂正文には、王弟の誤断も、家令の虚偽も、ブリジットの職責も残っている。
そして一番下には、それを否定できない男自身の署名があった。




