61.策略
終業の鐘が鳴ってすぐ、俺は立ち上がった。
上司が何やら話しかけてきたが「定時なので」の一言で黙らせた。
物言いたげな顔をしていたが、こうなった俺が話を聞かないのは了承しているのだろう。
諦めたように「また明日」と送り出してくれる。
魔法省を出る俺を、当たり前のように見張りが追ってくる。
まずはコイツをどうにかしなくては。
門を出る寸前、俺はポケットからハンカチを取り出し、魔力を込めた。
「 添付 」
小さな声で呪文を唱えると、ふわりと舞い上がったハンカチが見張りの顔に張り付いた。
いきなり視界を塞がれて慌てる見張りを尻目に、俺は全速力で馬を走らせた。
あのハンカチにはさほど魔力は込めていないが、しばらくはあの男の顔からは離れてくれないだろう。
早く、早く、とにかく早く。
逸る気持ちを押さえつけながら、俺はまっすぐ子爵家を目指す。
しばらく走り、子爵家が近づいてきたころ、また呪文を唱える。
「 隠密 」
姿を透明にすることはできないけれど、この魔法を使うことで存在感を限りなく薄くすることができる。
潜入捜査なんかによく使われる魔法だ。
そして屋敷から少し離れたところに馬を繋ぎ、塀まで向かう。
いくら存在感を薄くしていても、正面突破はリスクが高い。
「 飛翔 」
そう唱えて、地面を蹴った。
ふわりと浮き上がった体は軽々と塀を乗り越え、着地する。
アメリアと何度かともに歩いた子爵家の庭園。
さほど広くはないが、丁寧に手入れされた花々は鮮やかで、アメリアによく似合っていた。
たしかアメリアの部屋は、庭園から見えるあの部屋だったはず。
部屋の真下まで来てから、もう一度「 飛翔 」と唱えた。
すとっと降り立ったバルコニーから室内を覗くと、誰かがベッドに横たわっているのがわかった。
ただし角度が悪くて、眠っている人物の顔は見えない。
「 開錠 」
そう唱えると、カチャリとテラスドアの鍵が開いた。
ドアノブに手をかけて、ゆっくりと室内へ足を踏み入れる。
嘘みたいに早く心臓が脈打っていた。
ベッドの中にいる人物に近づくたび、手の震えが増していく。
「……あぁ」
そこには恋焦がれた相手が、人形のようにきれいな顔で横たわっていた。
「久しぶり……」
やっと顔を見られた。
しかしそんな感動とは裏腹に、うっすらと瞳を開けたまま微動だにしない彼女を見ていると、本当に彼女が存在しているのか不安に駆られる。
そのぬくもりを確かめたくなって、俺は陶器のような頬にそっと手を伸ばした。
「なかなか来られなくてごめん。君に会う許可をもらえなくて……。本当は今日もだめだって言われたんだけどね」
言い訳がましいことを言って、微笑んで見せる。
今すぐに縋りついて泣き出してしまいたいのに、俺はいつだって、アメリアの前では格好つけていたいのだ。
「アメリア……会いたかった」
そう囁いても、アメリアは返事を返してくれない。
それが寂しくて、切なくて、指先を首筋まで滑らせる。
顎の下あたりに触れると、頸動脈が確かに脈打っているのがわかった。
生きている。
そう実感しながら、さらに手を下の方へと動かす。
心臓の鼓動を感じたい。
より強く、彼女の生きている証を実感したい。
その一心だった。
ふにゅり。
柔らかな感触に、思わず手が止まる。
女性特有の感触に、全身の血液が沸騰していく感覚に陥った。
そんなつもりがなかったとはいえ、意識がない彼女の胸部に触れるなど、紳士として許されない行動だ。
すぐに手を放して謝罪するべきだ。
頭の中で俺の理性が叫んでいる。
しかしそれと同時に、正論を口にする理性の口を塞いで、俺の本能が叫んでいた。
いまがチャンスだ。
これを機に既成事実を作ってしまえ。
そうすれば、子爵も金輪際、婚約解消などというバカなことは言えなくなるはずだ。
そこまで思い至ったとき、すでに俺の本能は理性を制圧していた。
いや、本心では―――ただただ、アメリアのその柔らかな身体に触れたい。
それだけだったのかもしれない。
しばらく胸元を堪能してから、俺はまた手を移動させた。
みぞおち、お腹、そして―――
興奮で鼻血が出そうだ。
ロマンチックな初夜を思い描いてはきたが、それはそれで、またアメリアの意識が戻ってからやればいい。
今は何より、誰にもアメリアを奪われないことが大切だ。
その瞬間だった。
どこからともなく強い風が吹きつけ、俺の身体は勢いよく壁に叩きつけられた。
「いてて……なにこれ、誰の仕業?」
気分が高揚していたとはいえ、周囲への警戒は怠っていなかったはずだ。
それが、魔法をぶつけられるまで気配に気づくことすらできなかった。
相手はおそらく、相当な実力のある魔法使いだろう。
そんなやつがどうしてここに―――まさか、アメリアを狙って?
俺は急いでベッドの傍に戻って、周囲へ探知魔法を張り巡らせる。
しかしこの部屋のなかにあるのは、俺とアメリアの魔力だけ。
屋敷内にも使用人や家人の気配はあるが、高い魔力は感知できない。
――くそっ。
襲撃は今日が初めてか?
もしかして、俺の知らない間にも?
そう考えると、背筋がゾッとする。
アメリアの健康状態を確認しなくてはならない。
いや、そもそも屋敷の警備が甘すぎる。




