2.動かない身体
「お嬢様、お召し替えを致しますね」
穏やかな声で、マリアが言う。
侍女のマリアは、私が生まれたときからお世話をしてくれている。
屋敷の中で一番信頼できると言っても過言ではない相手だ。
回復の見込みのない私を献身的に支えてくれているのは、彼女と新米メイドのロザリーの二人だけだ。
まだ屋敷に不慣れな中、私の世話を命じられたロザリーには申し訳ないと思っている。
それでもありがたいことに、二人とも私を粗雑に扱ったり、放置したりすることはない。
もちろん女性二人という肉体的問題で手の行き届かないところはあるが、それでも私は二人に感謝している。
心の底から。
両親は、私が起き上がれなくなったころから滅多に部屋を訪れなくなった。
最後に顔を見たのがいつなのかも、もう思い出せない。
「今日もよいお天気ですよ」
窓から差し込む日差しは柔らかい。
顔を動かせないから、外の景色は見えないけれど、きっとマリアの言う通り、空には澄み渡るような青空が広がっているのだろう。
もう一度、陽だまりの中を歩けたらいいのに。
叶わない願いは、沈黙の中に溶けて消えていった。
※
私が死人のような生活を始めて、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ベッドの上から微塵も動けない私は、とうの昔に時間の感覚を失っていた。
ぼんやりと瞼を持ち上げたときの明るさで、昼なのか夜なのか予想することしかできない。
一週間か、一ヶ月か、それとも一年か。
久しぶりに両親がそろって私の部屋を訪れた。
視界の端にうつる両親の表情は、角度が悪くてよく見えない。
もっと近くに来てくれたらいいのにと思いつつも、この距離が彼らと私の間にある分厚い壁のように感じられた。
「お前の婚約は解消することになった。その状態で、務めを果たすことは叶わないだろう」
前置きもなく、お父様が言う。
厳しくも優しかった両親はもういないのだと思い知らされるような、冷たい声だった。
婚約解消。
当然のことだと理解できる。
寝たきりの状態では夫を支えることはおろか、子を成すことさえできない。
いつかこの日が来るだろうと覚悟を決めてはいたが、それでも胸が引き裂かれるように痛んだ。
家同士のつながりのため、物心つく前に結ばれた婚約だ。
それでも、幼いころから交流を重ねてきた彼に、私は確かに恋をしていた。
ふわふわと跳ねる癖毛。
幼さの残る顔立ちに反比例する、鍛えられた体躯。
彼の深い漆黒の瞳に見据えられるのが好きだった。
いつかあの長い腕に包まれたなら。
そう思うと胸が高鳴った。
ダンスでの触れあいはあっても、男女としての接触はまだだったから。
こんなことなら、手を繋いでみればよかった。
あの柔らかそうな髪に触れてみればよかった。
「彼にはイレーヌと婚約してもらう。家同士のつながりは必要だからな」
お父様の言葉に、胸の中をぐるぐると仄暗い感情が渦巻く。
罪悪感と絶望、悲しみ……そしてこれはきっと、嫉妬だ。
5つ下の妹であるイレーヌに、まだ婚約者はいない。
私よりも3つ年上の彼との歳の差は8歳。
政略結婚においては、珍しくもない。
それでも私には、彼と妹が夫婦として並ぶ姿は想像もできなかった。
可愛い妹に対して浅ましく嫉妬するなんて、自分が情けなくて泣きたくなる。
それなのに、涙の一粒もこぼせない自分の身体が憎い。
「……早く死んでしまえばいいのに」
ポツリとお母様が呟いた。
お父様はそれを咎めない。
悲しくて、申し訳なくて、腹立たしかった。
ごめんなさいと一言発することさえできない自分のことが、たまらなく嫌だった。
それでもこの身体では、自ら命を絶つことさえもできない。
せめてまだ口が動いていた頃に、舌を噛み切っておくべきだった。
残酷な運命を与えた神を、この日以上に恨んだことはない。




